授業が始まって、一週間が過ぎた。
その朝も、目覚ましが鳴るよりずっと前に目が覚めた。
窓の外はまだ薄暗い。寮の廊下もしんと静まり返っている。長年の任務で染みついた体の時計は、制服を着たくらいでは狂ってくれなかった。
浦原は天井を見上げたまま、しばらく横になっていた。夜明けとともに起き出して体を鍛える高校生も、いないわけではないだろう。だが、浦原大輔はそういう生徒ではない。少なくとも、そういうことにしてある。
(……起きる時間まで、まだだいぶあるな)
結局、浦原は布団の中で、今日の時間割と、クラスの席順と、四十人分の顔と名前を、頭の中でもう一度並べ直した。入学してからの毎朝の日課だった。
始業のチャイムの10分前に教室に着くように、寮を出る。早すぎず、遅すぎず。それもこの一週間で決めたことのひとつだ。
高度育成高等学校の授業は、中身だけを見ればごく普通のものだった。教科書を開き、黒板を写し、ときどき当てられて答える。7年ぶりの授業は、懐かしさよりも退屈との戦いだった。
変わっていったのは、教室のほうだ。
まず変わったのは、持ち物だった。真新しいスマートフォンのケース、ブランドもののペンケース、休み時間ごとに机に広げられる菓子の袋。池は寮の部屋に最新のゲーム機を買い込んだと自慢し、女子たちは放課後にどの店へ行くかで盛り上がっている。前の席の松下もその輪の中で、新しくできたカフェの話に相槌を打っていた。
「なあ浦原、今度、俺の部屋でゲームやろうぜ。アメリカって、ゲームどうなの? 向こうのほうが進んでんの?」
休み時間、池が浦原の机までやって来て話しかけてきた。自己紹介の一件以来、池はなぜか浦原を「面白いやつ」の枠に入れているらしい。
「……どうだろう。友達の家で、少しやったくらい」
「マジか。じゃあ俺が教えてやるよ。対戦しようぜ、対戦」
断る理由を探すより、誘いに乗ってしまうほうが自然だった。浦原が小さく頷くと、池は「決まりな!」と満足そうに笑い、また別の男子の輪へ戻っていった。
(人の懐に入るのは、俺よりあいつのほうがよほど上手いな)
潜入する側として、見習うべきところがある気がした。
浦原もポイントをまったく使わなかったわけではない。服を何着かと、寮で使う細々とした日用品。
潜入の基本だった。周りがみな浮かれているときに、一人だけ財布の紐を固く締めていれば、それだけで目につく。かといって、浮かれすぎるのも浦原大輔らしくない。使った額はクラスの真ん中より少し下あたりになるよう、ざっと計算してある。
もっとも、本音を言えば使ったポイントのことは少しも惜しくなかった。25歳の大人の金銭感覚からすれば、月に10万は大金だが、目の色を変えるほどの額でもない。周りの15歳たちとの一番大きな温度差は、案外そこにあるのかもしれなかった。
そして、教室の空気も変わっていった。
三日目には後ろの席で堂々と眠る生徒が現れた。四日目には、机の下でこっそりいじられていたスマートフォンが机の上に出てきた。私語は日に日に大きくなり、始業のチャイムが鳴ってから悠々と入ってくる者もいる。赤い髪の須藤にいたっては、一時間目から机に突っ伏したまま、昼まで顔を上げない日もあった。
それでも、教師たちは誰ひとり注意しなかった。
眠る生徒の横を素通りし、私語に負けないようにわずかに声を張って、淡々と授業を進めていく。チャイムが鳴れば、何事もなかったかのように教室を出ていく。
一番分かりやすかったのは、茶柱の日本史の授業だった。
その日も須藤は授業が始まってすぐに、腕を枕にして寝息を立て始めた。
茶柱は板書の手を止め、ゆっくりと振り返った。教室の何人かが、叱られるぞ、という顔で須藤のほうを見る。
だが、茶柱は何も言わなかった。
眠る須藤を一瞥し、机の下でスマートフォンを操作している生徒を一瞥し、後ろの席でひそひそ話を続ける女子たちを一瞥する。視線は生徒一人ひとりの上に、ほんの一拍ずつとどまっては離れていった。
そして、そのまま板書の続きに戻った。
「――では、次。縄文時代の暮らしについて」
淡々とした声が私語の中に溶けていく。
浦原は教科書に目を落としたふりをしながら、今の茶柱の目の動きを頭の中で巻き戻していた。
(……今のは、見逃した目じゃない。数えた目だ)
叱るつもりのない人間は、そもそも違反者のほうを見ない。見たとしても、すぐに目をそらす。だが茶柱は、一人ずつ、確かめるように見ていた。帳簿に数字を書き込む前の、確認の目だ。
(注意しない教師には、二種類しかいない。生徒を見放しているか、黙って記録をつけているかだ)
浦原は教室の天井の隅に目をやった。黒いレンズは今日も変わらずそこにある。
どちらなのかは、さっきの茶柱の目を見れば考えるまでもなかった。
(だとすれば、この教室で起きていることは、すべてどこかで点数になっている)
居眠りが一回、遅刻が一回、私語が一回。それが何に響くのかまでは分からない。だが、毎月のポイントが「今月分」でしかないのなら、響く先はおのずと限られてくる。
食堂で聞いた上級生たちの『今月も山菜かよ』という声が、頭の隅でよみがえる。
――教えてやるべきか。
一瞬だけ、そう考えた。
目の前で15歳の子どもたちが崖に向かって歩いていく。25歳の大人として、それを黙って見ているのは気分のいいものではなかった。
(……だが、俺が言えば、なぜ気づいたのかを聞かれる)
物静かで、人付き合いの苦手な帰国子女が、誰も気づいていない学校の仕組みを言い当てる。これほど目立つ真似はない。そして、このクラスのどこかには、そういう目立ち方をする人間を待っている者がいるかもしれないのだ。
それに、ポイントがどう減るのかもまだ推測の域を出ない。根拠のない警告は、ただの不安の種にしかならないだろう。
仮に言ったとして、誰が耳を貸すだろうか。入学して一週間、毎日が楽しくて仕方がないという顔の生徒たちに、「この生活は、いつまでも続かないかもしれない」と告げる。それも、自己紹介で一人称を言い間違えた、冴えない帰国子女が。
笑われて終わるなら、まだいい。最悪なのは、何人かが本気にして、その話の出どころを探り始めることだ。
任務が先だ。浦原は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
守るべきもののために、目の前の何かを見送る。別班にいれば、そういう判断は何度もしてきた。それでも、慣れるものではなかった。
窓際の最後列に目をやると、綾小路は今日も、眠るでもなく、熱心に聞くでもなく、ただ黒板を写していた。隣の堀北は背筋を伸ばして教師の話に耳を傾けている。崩れていく教室の中で、二人の周りだけが入学初日のままだった。
ただ、同じ「崩れていない」でも、二人の様子はまるで違った。
堀北は周りの騒がしさに苛立っているのが、背中からでも分かる。ときおり、私語をする生徒たちに冷ややかな視線を投げては、すぐに黒板へ目を戻す。真面目なのは、誰かに見せるためではなく、本人がそうせずにいられないからだろう。
綾小路のほうは何も感じていないように見えた。騒がしさにも、静けさにも、同じ顔をしている。ノートを取る手は止まらないが、急ぐこともない。周りがどれだけ崩れても、自分だけは目立たない場所に静かに立ち続けている。
(真面目すぎず、崩れすぎず、か。……俺と同じことをしている)
――――――――――
浦原自身にも、悩みの種はあった。授業での演技だ。
国語の時間、教師に当てられて教科書を音読したとき、浦原はわざと二度つかえ、一度だけ読み方を間違えた。「出納」を「しゅつのう」と読んだのだ。
「浦原くん、それは『すいとう』と読みます」
「……あ。すみません。すいとう」
国語の教師が苦笑しながら訂正すると、教室のあちこちからくすくすと笑いが漏れた。
(よし。帰国子女らしい間違え方だ)
漢字の読み間違いは、間違える場所を選ぶのが難しい。簡単すぎる字を間違えれば不自然だし、難しすぎる字をすらすら読めても不自然だ。音では聞いたことがあっても、字で見る機会の少ない言葉。そのあたりを狙うのが、帰国子女らしさというものだった。
前の晩に寮の部屋で教科書をめくりながら、どこで間違えるかを選んでおいたことは、もちろん誰にも言えない。
問題は、その次の英語の時間だった。
当てられて英文を読み上げた瞬間、教室が静まり返った。発音も抑揚も、教科書付属の音声より自然だったらしい。教師までが一瞬だけチョークを持つ手を止めた。
「……Very good. Do you miss America?」
英語の教師が試すように英語で尋ねてきた。
「Sometimes. The food, mostly」
ためらいなく答えてしまってから、浦原は内心で舌打ちをした。今の返事は、あまりにも自然すぎた。慌てて、少しだけ言葉を探すような間を足して、日本語で付け加える。
「……あの、英語は、話すほうが楽で。日本語のほうが、難しい、です」
「……さすが帰国子女」
誰かがつぶやき、小さな拍手まで起こった。池が「すげえ、本物じゃん」と声を上げ、教師は満足そうに頷いて、授業に戻っていった。
(……やりすぎたか。いや、英語が得意なのは設定どおりだ。問題はない。たぶん)
その休み時間、さっそく浦原の席に櫛田がやって来た。
「浦原くん、英語すごかったね! ねえ、連絡先交換しよ? 今度、英語教えてほしいな」
「……あ、うん。俺で、よければ」
スマートフォンを差し出すと、櫛田は慣れた手つきで連絡先を登録した。指の動きに、迷いがまるでない。この一週間で同じことを何十回と繰り返してきたのだろう。
「浦原くんって、話すとき、ちょっと間があるよね。考えてから話す感じ?」
「……日本語、まだ慣れてないから」
「そっか。でも、私そういうの好きだよ。ちゃんと聞いてくれてる感じがするもん」
にっこりと笑う顔に、隙はなかった。言われた側が少しだけ嬉しくなる言葉を、相手ごとに選んで差し出している。
櫛田は「ありがとう!」と笑って、次の席へと移っていった。
ちらりと見えた彼女の画面には、すでに数え切れないほどの名前が並んでいた。この一週間でクラスの外にまで知り合いを増やしているらしい。
(全員と友達に、というのは本気か。……人の輪の真ん中にいる人間は、それだけ多くのことを知る)
工作員にとっては、理想的な立ち位置だ。入学初日に考えたことを、浦原はもう一度頭の中で確かめた。
それに、さっきの一言も気になった。「ちょっと間がある」。浦原がわざと作っている間に、櫛田はたった一週間で気づいたことになる。
ただ人懐っこいだけの生徒に、そこまで見えるものだろうか。
数学の時間には、黒板の問題を解くのにわざと人より少し長く時間をかけた。頭の中では3秒で出ている答えを、30秒かけて、ときどき消しゴムを使いながら書いていく。
席に戻ると、隣の列の平田が小声で話しかけてきた。
「浦原くん、さっきの問題、途中まで合ってたよ。最後のところは、こう考えると楽かも」
平田はノートの端に、丁寧な字で解き方を書いて見せてくれた。浦原が30秒かけて解いてみせた問題を、親切に、最初から。
「……ありがとう。分かりやすい」
「よかった。分からないところがあったら、いつでも聞いてね」
爽やかに笑う平田に、浦原はぎこちなく頭を下げた。
(……知っていることを教わるのは、知らないことを教わるより、ずっと疲れるな)
しかも相手は心の底からの善意で教えてくれているのだ。罪悪感まで乗ってくるぶん、なお始末が悪い。
できないふりは、できるふりよりもずっと難しい。浦原はそれをこの一週間で嫌というほど思い知らされていた。
――――――――――
その週の終わりに、水泳の授業があった。
事件はその日の朝の教室で起きた。
始業前、池たちが教室の後ろに集まって、何やら盛り上がっていた。本人たちは声をひそめているつもりらしいが、教室の端まで丸聞こえだ。
聞こえてきた言葉の端々から、浦原はすぐに事情を察した。今日の水泳の授業で、女子の胸の大きさに順位をつけ、誰が一番かを賭けようという話らしい。ノートの切れ端にはご丁寧に女子の名前と倍率まで書き込まれている。鉛筆を握って倍率を書き込んでいるのは、池といつもつるんでいる山内という男子だった。
(……正気か)
浦原は思わず天井を仰ぎたくなった。25歳の大人として、どこから注意すればいいのかも分からない。もっとも、注意すれば目立つのだから、どのみち黙っているしかないのだが。
それ以上に、別班員として頭が痛かった。標的の目の前で作戦会議を開いているようなものだ。
案の定、教室の前のほうで話していた女子たちの会話が、ぴたりと止まった。冷え切った視線が男子の一団に突き刺さる。池たちはまだ気づいていない。
男子たちは妙に浮き足立っていた。池をはじめとする何人かは、女子たちに聞かれていたことなど知りもせず、着替える前から落ち着きがない。
更衣室では須藤が肩を回しながら、「泳ぎなら負けねえよ」と誰にともなく言っていた。教室で眠っているときとは、まるで別人のように目に力がある。体を動かすことになると、急に生き生きとする類の人間らしい。
(若いな)
思わずそんな感想が浮かび、浦原は小さく首を振った。今の自分はその「若い」側の人間でなければならない。
水着になれば、体は隠せない。浦原は更衣室の鏡で、自分の体をもう一度確かめた。長年の訓練でついた筋肉は、見せるためのものではなく、使うためのものだ。厚みはないが、無駄もない。ぱっと見れば、中学で運動部にいた程度の体に見えるはずだ。
何より、見える場所に傷がひとつもない。司令が言っていたとおりだ。こういうときは、それがありがたい。
もしこれが腕や背中に古傷のひとつでも残っている体だったら、この授業だけで任務が終わっていたかもしれない。15歳の体に残る古傷には、うまい言い訳が見つからない。
プールサイドに出たところで、池たちの浮かれた声が急にしぼんだ。
女子の大半が制服姿のまま、見学用のベンチに並んで座っていたのだ。体調が悪いと申し出た者が、どういうわけか一度に十人以上も出たらしい。水着でプールサイドに出てきた女子は、ほんの数人だった。その中には櫛田と堀北の姿もある。
「な、なんで……」
池が呆然とつぶやく。見学のベンチからは、冷ややかな視線とひそひそ声だけが返ってきた。
(なんでも何も、ないだろう)
あれだけの声で話していれば、聞こえないほうがおかしい。浦原は哀れな同級生たちから、そっと目をそらした。
体育教師はがっしりとした体つきの男性だった。準備運動を終えた生徒たちを前に、よく通る声で告げる。
「泳げるようになっておけば、いざというときに必ず役に立つ。今日は最後に、男子の50メートル自由形でタイムを計る」
そこで教師はにやりと笑った。
「1位になった生徒には、俺から特別に、5000ポイントのボーナスを出そう」
プールサイドがわっと沸いた。須藤が「よっしゃ、もらった」と拳を握り、池は「5000あったら何買える?」と、もう使い道の相談を始めている。
(……教師の一存で、ポイントが動く)
浦原は歓声の中で一人、その言葉を反芻した。5000ポイントは、10万に比べれば小さな額だ。だが、教師が自分の判断で生徒にポイントを与えられるということは、その逆もまたありうるということだ。
(ポイントは、与えられもすれば、取り上げられもする)
そして、何を基準に与えるのかを決めているのは、学校の側だ。泳ぎの速さで与えるのなら、居眠りの数で取り上げることもできる。日本史の授業で茶柱が数えていたものが、浦原の頭の中で少しずつ形を持ち始めていた。
タイムの計測は五人ずつ順番に行われた。
浦原の組には綾小路の姿もあった。
(さて。浦原大輔は、どのくらい泳げることにするか)
走るのは速い、という設定は決めてある。だが、水泳については何も決めていなかった。速すぎれば目立つ。遅すぎれば、走力の設定と釣り合わない。
組の真ん中あたり。速くも遅くもない順位。浦原はそこに入ることに決めた。
スタート台に立ち、同じ組の顔ぶれを横目で確かめる。水泳部に入るつもりだと話していた男子が一人、明らかに水の苦手そうな男子が一人。残りの一人と綾小路は、どちらとも言えない顔をしている。
この顔ぶれなら、水泳部の男子が1位、水の苦手な男子が5位になるだろう。真ん中に入るには、残りの二人と競り合えばいい。
笛が鳴った。
水に飛び込み、浦原は力を抜いて腕を回した。本気で泳げば、この組の誰にも負けない自信がある。だからこそ、周りのレーンの水しぶきを確かめながら、ほんの少しずつ速さを調整していく。
水は冷たく、体がそれに慣れるまでわずかに時間がかかった。息継ぎのたびに、プールサイドの歓声がくぐもった音になって耳に飛び込んでくる。
予想どおり、水泳部の男子が早々に頭ひとつ抜け出した。水の苦手な男子はすでに後ろで派手な水しぶきを上げている。
隣は、綾小路のレーンだった。
気づけば、二人はほとんど並んで泳いでいた。浦原が少し速めれば、隣も少し速くなる。浦原が緩めれば、隣も緩む。偶然とも、そうでないとも言いきれない程度に。
25メートルの壁でターンをした。
水中で体をひねった一瞬、隣のレーンの綾小路の姿が目に入った。壁を蹴る角度にも、蹴り出したあとの姿勢にも、無駄がない。ただ、蹴る力だけが明らかに抜かれていた。
(……わざと、弱く蹴っている)
速く泳げる人間が、速く泳がないようにしている。それは浦原が今やっていることと、まったく同じだった。
残りの25メートル、浦原は一度だけ、試すように速さを上げた。隣の水しぶきもほとんど同時に強くなる。浦原が速さを戻すと、隣もまた何事もなかったように元に戻った。
壁に手をついたのは、ほぼ同時だった。順位は組の3位と4位。タイムの差は0.1秒もなかった。
記録はストップウォッチを持った生徒が読み上げるだけだった。どちらが3位だったのか、浦原には聞き取れなかった。聞き返す気にも、ならなかった。
――――――――――
プールの縁に腰かけて息を整えていると、隣に綾小路が座った。
「……浦原、だったよな」
「……うん」
「泳ぐの、得意なのか」
「……普通。向こうで、少しだけ習ってた」
「そうか。俺も普通だ」
会話はそこで一度途切れた。高校生の男子どうしの、ありふれたぎこちなさだ。少なくとも、外から見ればそうだろう。
水面では次の組の生徒たちが泳ぎ始めていた。水しぶきと歓声が二人のあいだの沈黙を、ちょうどいい具合に埋めてくれる。
浦原はさりげなく綾小路の様子を確かめた。
50メートルを泳いだばかりだというのに、その肩はほとんど上下していない。呼吸はもう落ち着いていた。
(息が、上がっていない。……俺と同じだ)
浦原自身はわざと軽く肩で息をしてみせていた。だが、綾小路にはその演技すらない。疲れて見せる必要を、そもそも感じていないかのように。
ふと、綾小路の視線が自分の肩口のあたりをなぞったような気がした。だが浦原が目を向けたときには、彼はもうプールの水面を眺めていた。
(……今、何を見た?)
肩の筋肉のつき方か。それとも、傷があるかどうかか。どちらにしても、普通の高校生は隣に座った同級生の体をあんなふうには見ない。もっとも、ついさっきまで浦原自身も同じ目で綾小路を見ていたのだが。
「自己紹介のとき、大変だったな」
不意に、綾小路が言った。
「……忘れてほしい」
「たぶん、みんなもう忘れてる」
抑揚のない声だった。慰めているのか、ただ事実を言っているだけなのか、判断がつかない。
(……それは、お前の自己紹介のほうだろう)
数日もすれば、クラスの誰もが名前すら思い出せなくなる。入学初日に浦原が綾小路の自己紹介について考えたことを、そっくりそのまま本人から返されたような気がした。
「アメリカの、どのへんにいたんだ」
何気ない調子の問いだった。だが、自己紹介のあとでこの質問をしてきたのは綾小路が初めてだった。
櫛田も池も、アメリカの話は「すごいね」「いいなあ」で終わった。どこに住んでいたのかまで聞いてきた者は、一人もいない。普通の15歳にとって、アメリカはどこまでいってもアメリカでしかないのだ。
「……西海岸。小さい町だから、言っても分からないと思う」
答えは偽装の経歴に用意してあったものだ。町の名前も、通っていた学校の名前も、聞かれればすぐに出せる。だが、聞かれる前に出せば、それは準備してきた答えに聞こえてしまう。
「そうか」
綾小路はそれ以上は聞いてこなかった。
あっさりと引いたことが、かえって浦原の神経に引っかかった。本当に興味がないなら、最初から聞かない。聞いたのに深追いしないのは、答えの中身よりも、答え方のほうを見ていたからではないのか。
今度は浦原のほうから尋ねてみることにした。
「……綾小路は、中学、どこ」
「普通の中学だ。地方の、どこにでもあるような」
「……そっか」
(「普通の」、か。町の名前も、学校の名前も出てこない)
帰国子女の浦原が地名をぼかすのには、言い訳が立つ。だが、日本の中学を出た人間が、ここまで何も言わないのは珍しい。隠しているのか、言うほどのことがないだけなのか。
どちらとも取れる答え方を、この男はおそらく選んでいる。
(……いや。それとも、俺がそう見たいだけか)
疑いの目で見れば、どんな答えも怪しく見える。工作員を探す側が自分の思い込みに足をすくわれるのは、よくある話だった。浦原は綾小路への疑いを、あくまで「疑い」のまま頭の奥の引き出しに戻した。
プールの向こう側で、ひときわ大きな歓声が上がった。
最後の組で、金髪の男子生徒がほかの生徒を置き去りにして水を切り裂いていく。高円寺だ。力強く、それでいて無駄のないフォームだった。
壁に手をついた瞬間、ストップウォッチを持った生徒が裏返った声を上げた。
「に、23秒台……!」
プールサイドがどよめく。高円寺は悠々と水から上がると、濡れた髪をかき上げ、当然だと言わんばかりに胸を張った。
「ふむ。少々、本気を出しすぎてしまったかな」
体育教師が感心したように記録用紙に何かを書き込み、1位は高円寺だと告げた。5000ポイントの行き先が決まった瞬間、池が「無理だって、あんなの」と大げさに天を仰いだ。須藤は水から上がったばかりの高円寺を、悔しそうににらみつけている。
(あれは、隠す気がまるでないな)
高円寺は良くも悪くも、自分の力を隠すという発想そのものを持っていないのだろう。だからこそ、工作員の候補からは真っ先に外せる。
見せびらかす人間は、扱いやすい。どこに力があるのか、本人が教えてくれるからだ。
問題は、隠している人間のほうだ。
「すごいな」
隣で綾小路がぽつりと言った。言葉とは裏腹に、その声には何の感情もこもっていなかった。
「……うん。すごい」
浦原も同じ調子で答えた。
二人の「普通」の男子生徒は、並んでプールの縁に座ったまま、それ以上は何も話さなかった。
天井の照明が揺れる水面に映って、細かくきらめいている。見学のベンチのほうで女子たちの笑い声が上がり、体育教師の笛が短く鳴った。
どこまでも平和な、高校の授業の風景だった。その真ん中で、二人だけが互いの呼吸の数を数えている。
(シンシーの工作員なら、ここまで自分を消せるものなのか。……いや、だからこそ、か)
隣に座る男が何者なのか、浦原にはまだ分からない。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。この男もまた、今日の50メートルを本気では泳いでいない。
――――――――――
授業が終わり、更衣室へ戻る列の中で、浦原はもう一度だけ後ろを振り返った。
綾小路は池たちの騒がしい輪から少し離れて、一人で歩いていた。濡れた髪をタオルで無造作に拭きながら、その目はどこを見ているのか分からない。
女子たちの列のほうでは、櫛田が堀北に何か話しかけ、短く首を振られているのが見えた。それでも櫛田は笑顔を崩さずに隣を歩いている。
(力を隠す理由は、人の数だけある。目立ちたくない者もいれば、面倒を避けたい者もいる)
だが、隠し方が上手すぎる人間は、たいてい隠すことに慣れている。そして、隠すことに慣れる人生というのは、普通の15歳にはまずありえない。
浦原は自分のことを棚に上げてそう考え、内心で小さく苦笑した。
25歳の自分が、15歳を装っている。隠すことに慣れた人間という意味では、この学年で一番怪しいのは、間違いなく自分自身だった。
(……向こうから見れば、俺も同じように見えているのかもしれないな)
その考えはすぐに頭の隅へ追いやった。
今はまだ、確かめる手段がない。焦って踏み込めば、こちらの正体を先に知られるだけだ。
理事長に連絡を入れるのは、報告できるだけの材料がそろってからでいい。それまでに、報告できるだけの材料を集めておかなければならない。学校の仕組みについては、書くまでもないだろう。司令はとうに知っているはずだ。書くべきなのは、人のことだ。人の輪の真ん中にいて、浦原の作った間にまで気づいた櫛田。部活動紹介で、生徒会の役員募集に身を乗り出していた、ほかのクラスの何人か。そして、本気で泳がなかった、もう一人の男。
書くことは思っていたより多くなりそうだった。
更衣室の扉の前で、浦原は浦原大輔の顔に戻った。少しだけ猫背で、少しだけ眠そうな、どこにでもいる帰国子女の顔に。