4月も終わりに近づくと、教室の崩れ方にもだいたいの形ができあがっていた。
眠る者は決まった席で眠る。スマートフォンをいじる者はもう机の下に隠そうともしない。始業のチャイムのあとに入ってくる顔ぶれも、ほとんど毎日同じだった。崩れるところまで崩れて、教室はかえって落ち着いてしまったようにさえ見える。
持ち物もこの三週間ですっかり様変わりした。新しいヘッドホンを首にかけたまま授業を受ける者がいる。ブランドものの財布をわざわざ机の上に出しておく者もいる。休み時間の話題は、何を買ったかから何を買えなかったかへと、少しずつ移り始めていた。
浦原は廊下側の後ろから二番目の席で、その様子を眺めていた。
教室全体を見渡せる席だ。この三週間近く、浦原はここから四十人の一日を見続けてきた。
頭の中では四十人がいくつかの組に分けてある。崩れていく者と、崩れない者。周りに流される者と、周りを流す者。そして、どの組にも収まりきらない、ほんのひと握りの者たち。組分けは毎日少しずつ書き換わったが、最後の組の顔ぶれだけは入学初日からほとんど変わっていなかった。
この一週間ほどで、池たちの昼食はコンビニの弁当から菓子パンに変わった。財布の中身ではなく、残高の数字が彼らの昼を決めている。
シンシーの工作員と思える者はまだ見つかっていない。疑わしい者なら、何人かいる。だが、疑わしいことと、工作員であることは違う。
(学校の仕組みに気づいている者は、まだいないか。……気づいていて、黙っている者がいるのかもしれないが)
その朝、茶柱はいつもより少し厚い紙の束を抱えて教室に入ってきた。
「今日は、小テストを行う」
教室じゅうから不満の声が上がった。「聞いてないって」「マジかよ」という声にも、茶柱は眉ひとつ動かさない。
「安心しろ。このテストは、成績には反映しない。今の実力を確かめるだけのものだ」
その一言で、教室の空気はあっさりと緩んだ。成績に関係ないのなら、真面目に解く理由もない。何人かはもう頬杖をついている。
(成績には、反映しない。……成績には、か)
浦原は前から回ってきた問題用紙を、表に返す前に指先で軽く押さえた。
この学校が意味のないことをするとは思えない。茶柱が「成績には」と言ったのなら、成績ではない何かには反映されるのかもしれない。
問題は、国語、数学、英語、社会、理科の五科目から、四問ずつ。全部で二十問、一問5点の100点満点だった。
ざっと目を通して、浦原は少し拍子抜けした。どれも入学試験より易しい。中学の教科書をひととおりさらっていれば、ほとんど解ける程度の問題だ。
点数は前もって決めてあった。
(英語は、全部取る。ほかは、六割と少し。合わせて70点)
浦原大輔は英語が得意で、国語と数学がやや苦手な帰国子女だ。その設定どおりの答案を一枚作ればいい。英語の満点はむしろ取らなければ不自然になる。英語の授業で拍手まで浴びた生徒が、英語でつまずくはずはないのだから。
英語の四問は問題文を読み終える前に答えが分かった。それでも浦原はほかの科目と同じくらいの時間をかけて、ゆっくりと答えを書いた。一人だけ英語を早く解き終えれば、それはそれで目立つ。
難しいのは、どこで間違えるかだった。
国語では、漢字の書き取りを一問、わざと間違えた。正しい字から点をひとつだけ落とす。いかにも帰国子女がやりそうな間違いだ。数学では計算の途中で符号を取り違えた。考え方は合っているのに、最後で答えがずれる。平田が見たら、また親切に教えてくれそうな間違い方だった。社会では年号をひとつだけずらした。
間違える場所を選ぶのは、正解を書くよりずっと神経を使った。同じ科目ばかりで間違えれば、癖として目につく。易しすぎる問題で間違えれば、わざとらしい。一問ごとに、浦原大輔ならここでつまずくかどうかを考え、鉛筆の動きを決めていく。
答案というのは、書いた人間の履歴書のようなものだ。どこで迷い、どこでつまずいたのか。読む者が読めば、それだけで多くのことが分かる。だからこそ浦原は、一枚の答案をひとつの経歴として作り上げていった。
そうして十七問目まで進んだところで、浦原の手が止まった。
(……何だ、これは)
十八問目から、問題の顔つきががらりと変わっていた。
それまでの問題が中学の教科書の延長だとすれば、最後の三問はまるで別の試験から紛れ込んできたようだった。高校1年の4月に出す問題ではない。高校3年でも、解ける者はそう多くないだろう。とりわけ最後の一問、数学の問題は、大学の入試でも難しいほうに入るはずだ。
問題文はそれまでの倍ほどの長さがあった。習っていないことを、習っている前提で聞いてくる。教科書をどれだけ読み込んでも、答えにたどり着く道筋そのものが見えない。最後の数学はいくつもの段階を踏んで式を組み立て、ようやく答えに届く類の問題だった。途中のどこか一か所でも考え違いをすれば、それで終わりだ。
浦原は問題用紙の上で、しばらく鉛筆を止めていた。
解けない問題ではない。時間をかければ、三問のうち二問まではおそらく手が届く。最後の一問も白紙で出すほどの問題ではなかった。
だが、15歳の帰国子女に、これが解けるはずはない。
(成績に関係のない小テストに、ほとんど誰にも解けない問題を混ぜる。……何のためだ)
差をつけたいだけなら、ここまで難しくする必要はない。生徒の実力を測りたいのなら、なおさらだ。解けない問題からは、解けないということしか分からない。
だとすれば、この三問は解かせるための問題ではないのかもしれない。
別班に入る前の訓練で、似たような試験を受けたことがある。答えの出ない問題を渡され、制限時間だけを告げられた。あとで分かったことだが、教官たちが見ていたのは答案ではなかった。答えが出ないと分かったとき、誰が投げ出し、誰が最後まで粘るのか。それを見ていたのだ。
解けない問題を前にして、生徒が何をするのか。諦めるのか。粘るのか。それとも――。
そこから先はまだ形にならなかった。浦原はその引っかかりを頭の奥にしまった。
(白紙でいい。この三問を前に、浦原大輔にできることは何もない)
三問とも空欄のまま、浦原は鉛筆を置いた。
残りの時間、浦原は答案を見直すふりをしながら、教室を眺めた。
須藤は何問か書いたところで力尽きたらしく、問題用紙を枕にして眠っていた。池は頭を抱え、ときどき天井を見上げてはため息をついている。教室のあちこちでもう鉛筆の音が途切れていた。
前の席の松下は時間いっぱいかけて、静かに答案を見直していた。
窓際の最後列では、堀北が最後の問題に向かってまだ鉛筆を動かしていた。眉間にかすかな皺を寄せ、何度も消しゴムを使っている。解けないと分かっていても、手を止めることができない。そういう性分なのだろう。
その隣で、綾小路はとうに鉛筆を置いていた。
机の上に答案を伏せ、窓の外を眺めている。焦っている様子も、退屈している様子もない。テストが終わるのをただ待っている顔だった。
(早いな。……解き終えたのか、それとも、最初から解く気がないのか)
どちらとも取れる。この男はいつもそうだ。
高円寺は鼻歌まじりで鉛筆を走らせていた。最後の問題まで書き終えると、満足そうに椅子の背にもたれ、自分の爪の具合を確かめ始める。あれはあれで、隠す気がないぶん分かりやすい。
平田は最後の三問にも、途中まで答えを書きかけていた。解けないと分かったところで、きれいに手を止めている。
チャイムが鳴り、茶柱が答案を集めて回った。
茶柱は集めた答案の束をそろえながら、教室を一度だけ見渡した。日本史の授業のときに見た、あの数えた目だった。
そして、何も言わずに教室を出ていった。
――――――――――
その夜、浦原は寮の部屋で、初めての報告を書いた。
入学してから浦原は一度もメモを取っていない。紙に書けば、それはいつか誰かに読まれる。書くのは、報告として書くその日だけ。そう決めていた。
入学して三週間近くになる。報告できるだけの材料はもうそろっていた。
机に向かう前に、浦原はもう一度部屋の中を確かめた。カメラも、盗聴器もない。入学初日に調べたとおりだ。それでも、窓のカーテンは閉めておく。
用意したのは、寮の近くのコンビニで買った、ありふれた便箋だった。
表題は「帰国してからの学校生活について」。帰国生の手続きのために理事長に出す作文――ということにしてある。万が一、誰かの目に触れても、帰国子女が慣れない日本語で書いた、たどたどしい作文にしか見えないはずだ。
だが、その文章には決められた言い回しがいくつも混ぜてある。別班の人間が読めば、まったく別の意味が浮かび上がる。
便箋の下には何も敷かない。机に直接置いて書けば、筆圧の跡が下の紙に残ることもない。書き損じの紙も出さない。一度で書き上げられるよう、文面はすべて頭の中で組み立ててあった。
浦原はわざと少しだけ崩した字で、ゆっくりと書き始めた。
――クラスには、だれとでもすぐに仲良くなれる女の子がいます。もう、ほかのクラスにも友だちがたくさんいるそうです。ぼくは、話し方に「ちょっと間がある」と言われました。よく見ているなと思いました。
櫛田桔梗。人の輪の真ん中にいて、浦原の作った間にまで気づいた生徒。
――部活動の紹介がありました。生徒会長の人がとてもかっこよくて、ほかのクラスにも、生徒会に入りたそうな人が何人かいました。
役員の募集に身を乗り出していた、ほかのクラスの生徒たち。名前が分かったのはまだ何人かだけだ。残りは顔と特徴を、決められた書き方で添えておく。
生徒会長、堀北学のこともこの一文に含めてある。疑う相手ではない。だが、この学校に警戒すべき相手が少なくとも一人いることは、伝えておくべきだった。
――水泳の授業では、となりのレーンの人と同じくらいの速さでした。その人も、泳ぐのはふつうだと言っていました。
綾小路清隆。本気で泳がなかった、もう一人の男。この短い数行で、読む者には十分に伝わる。浦原と同じように、力を隠している者がいる、と。
書かなかった名前も、いくつかある。
高円寺六助。力を隠すという発想そのものがない男だ。須藤健。思ったことがそのまま顔と拳に出る。平田洋介。あの親切に、裏があるとは思えない。堀北鈴音も書くのはやめておいた。兄のことで何かを抱えているのは確かだが、それは工作員の抱えるものとは種類が違う。
疑う相手を増やすのは簡単だ。だが、報告に名前を書けば、読む側はその名前に時間を割く。外していい者を外しておくのも、現場にいる者の仕事だった。
ひらがなの多い、少し幼い文章を書くのは、思っていたより骨が折れた。25歳の頭で組み立てた文を、15歳の言葉に崩していく。漢字で書ける字をわざとひらがなに開く。そのたびに、手が一瞬だけ止まった。
書き終えた便箋を、浦原は頭から読み返した。漢字の間違いがふたつ。助詞の使い方がおかしいところが、ひとつ。どれも、わざと残したものだ。
(……作文の点数としては、60点といったところか)
今日の小テストと似たようなものだ。浦原は小さく苦笑して、便箋を三つに折り、封筒に入れた。
――――――――――
翌日の昼休み、浦原は学校のメールを開いた。
宛先は理事長。本文は一行だけだ。
『書類のことで相談があります』
返事は10分もしないうちに届いた。本日の放課後、理事長室へ。それだけだった。
放課後、浦原は渡り廊下を抜けて、理事長室のある校舎へ向かった。
生徒の行き来する校舎とは違い、こちらの廊下は人けがなく、足音がやけに響く。天井のカメラもここではまばらだった。
角を曲がったところで、浦原は足を止めかけた。
廊下の向こうから、茶柱が歩いてきたのだ。手には薄いファイルを一冊抱えている。
(……ここで、か)
引き返せば、かえって目立つ。浦原は少し戸惑ったような顔を作って、軽く頭を下げた。
すれ違いざま、茶柱が足を止めた。
「浦原か」
「……あ、はい」
「この先には、理事長室くらいしかないぞ」
問いかける口調ではなかった。事実をただ口にしただけのような声だ。
「……帰国生の、書類のことで。まだ、いくつか残ってるみたいで」
「帰国生の手続きか」
茶柱は浦原の顔を一瞥した。教室で、眠る須藤や私語をする生徒たちに向けたのと同じ、ほんの一拍だけとどまる視線だった。
「入学式の日にも、呼ばれていたな」
「……はい」
「そうか。書類が多いのは、大変だな」
それだけ言うと、茶柱はまた歩き出した。振り返りもしない。靴音が人けのない廊下を遠ざかっていく。
靴音が角の向こうに消えるまで、浦原は振り返らなかった。
(……よく見ている)
入学式の日に一度。そして今日で、二度目。帰国生の手続きという名目は、一度や二度なら誰も疑わない。だが、三度、四度と重なれば、話は別だ。この学校には、生徒をよく見ている人間がいる。
手段が単純なほど、綻びは少なくなる。入学式の日、浦原はそう考えた。だが、単純な手段には、単純な弱点もある。同じ道を、同じ名目で、何度も通らなければならないということだ。
(次からは、間を空けるか。……急ぎでない限りは)
浦原は理事長室の扉を叩いた。
「どうぞ」
理事長室は相変わらず静かだった。窓から差し込む午後の光が、本棚と壁に掛けられた額の書を、やわらかく照らしている。前に来たときと何ひとつ変わっていない。
この部屋にはカメラがないという。前に来たときは、その言葉をそのまま信じはしなかった。今日、天井の隅と照明のまわりを目だけで確かめて、浦原はようやくそれを本当だと認めた。
坂柳理事長はあの日と同じ穏やかな顔で浦原を迎えた。
「帰国生の手続きの件、でしたね。どうぞ、座ってください」
扉が閉まりきる前に、理事長は表向きの用件をごく自然に口にした。廊下の誰かに聞かれても、何の不思議もない言葉だ。
扉が閉まったのを確かめてから、浦原は封筒を差し出した。
「作文です。帰国してからの学校生活について」
「確かに、お預かりします。もちろん、中は見ません」
理事長は封筒の表と裏を一度ずつ確かめただけで、机の引き出しにしまった。小さな鍵をかける音がした。
「外からは、まだ何も届いていません」
「分かりました」
入学してから、別班からの連絡は一度もない。それは裏を返せば、外では何も起きていないということだ。少なくとも、浦原が知るべきことは。
用件はそれで済んだ。だが、理事長はすぐには浦原を帰そうとしなかった。
「学校には、もう慣れましたか」
ありふれた問いだった。帰国生の面談なら、真っ先に聞かれることだろう。
「ええ。おかげさまで。……思っていたより、にぎやかな学校です」
「そうですか。授業は、どうですか。帰国生の方は、国語で苦労されることが多いと聞きますが」
「……国語は、少し。英語は、楽です」
答えてから、浦原は内心で苦笑した。カメラのない部屋で、扉も閉まっている。それでも口をついて出たのは、浦原大輔の答えだった。毎日演じ続けていれば、こういうこともある。
理事長はほんの少しだけ目を細めた。何がおかしかったのかは、言わなかった。
それきり、理事長は学校のことを何も口にしなかった。教室が崩れていることも、ポイントのことも、昨日の小テストのことも、話には出てこない。知らないはずはない。だが、口にする気はないのだ。特別な扱いはできない――三週間前に、この部屋で理事長自身がそう言ったとおりに。
浦原も何も聞かなかった。聞いたところで、答えは返ってこない。聞いたという事実が残るだけだ。
席を立とうとしたところで、理事長が静かに言った。
「浦原くん。この学校の生徒を、傷つけてはいませんね」
入学式の日にこの部屋で理事長が求めた約束だった。
浦原は理事長の目をまっすぐに見返した。
「はい。誰ひとり」
嘘ではなかった。少なくとも、今のところは。
理事長は小さく頷いた。その顔に浮かんだのが安堵なのか、それとも別の何かなのか、浦原には読み切れなかった。
(……この人も、底を見せないな)
この学校は生徒だけでなく、大人のほうも一筋縄ではいかない。浦原は一礼して、理事長室をあとにした。
――――――――――
4月30日の夜、寮の廊下はいつになく騒がしかった。
あちこちの部屋の扉が開け放たれ、笑い声とゲームの効果音が漏れてくる。廊下の向こうからは、池の大きな声が聞こえた。
「明日だぞ、明日! 10万入ったら、まず何買う?」
「俺、新しいスニーカー。もう決めてんだ」
「いいなあ。俺、今月使いすぎて、もうほとんど残ってねえんだよ」
「マジで? どうすんだよ、今日の晩飯」
「明日まで我慢すりゃいいんだって。明日になれば、また10万だろ」
笑い声がまた廊下に響く。
浦原は自分の部屋のベッドに腰かけたまま、その声を聞いていた。
スマートフォンでポイントの残高を確かめる。入学の日に振り込まれた10万ポイントはまだ半分以上残っていた。使った額は計算どおり、クラスの真ん中より少し下あたりのはずだ。
(明日、10万が入るかどうか)
全額は入らないだろう、と浦原は考えていた。どれだけ減るのかまでは、分からない。
無料の棚。山菜定食を黙々と食べる上級生たち。教室の違反を一人ずつ数えていった茶柱の目。そして、成績には反映しないと言って配られた、解けない三問。
この三週間で見てきたものは、どれも同じことを示している。この学校は生徒を黙って測っている。そして、気づかないまま過ごした時間の分だけ、何かを引いていく。
(……明日になれば、答え合わせだ)
浦原はふと思い立って上着を羽織った。
答え合わせの前に、もうひとつだけ確かめておきたいことがあった。無料の棚だ。月の終わりの夜に、あの棚がどうなっているのか。それを見れば、ここで1年以上を過ごした上級生たちが、明日をどう迎えるつもりなのかが分かる。
夜のコンビニは昼間よりも少しだけ静かだった。
レジの前には明日の振り込みを待ちきれない新入生たちが、菓子やジュースを抱えて並んでいる。浦原はその列を横目に、日用品の棚の奥へ向かった。
無料の棚は目に見えて減っていた。
入学初日には隙間なく並んでいた歯ブラシや石けんが、ところどころ歯の抜けたようになくなっている。持っていったのが誰なのかは、考えるまでもなかった。新入生たちはまだこの棚の前で足を止めない。
(上級生は、明日を待たずに備えている、か)
そう考えたとき、棚の反対側の端に人影があることに気づいた。
綾小路だった。
手には無料の札が貼られた石けんがひとつ。ほかには何も持っていない。棚の残りを眺める目にはいつもと同じように、何の色も浮かんでいなかった。
綾小路のほうも浦原に気づいたらしい。ほんの一瞬、二人の視線が棚越しに重なった。
どちらも、何も言わなかった。
綾小路が小さく会釈をする。浦原も同じくらい小さく頭を下げた。それだけだった。綾小路は石けんを手にしたままレジの列に並び、やがて自動ドアの向こうへ消えていった。
(……明日を、見越しているのか)
月の最後の夜に、無料の棚の前に立つ新入生。普通の15歳なら、明日にはまた10万が入ると信じている夜だ。わざわざ無料の石けんを取りに来る理由はない。
節約が好きなだけ、という可能性もある。だが、浦原はもうその可能性をあまり信じていなかった。
(あいつも、気づいている。……少なくとも、俺と同じくらいには)
浦原は棚に残っていた歯ブラシを一本だけ手に取った。入学初日と同じものだ。浦原大輔は、ただでもらえるものはありがたくもらっておく性格なのだから。
寮へ戻る途中、浦原は一度だけ振り返った。コンビニの明かりの中では、新入生たちがまだ楽しそうに列を作っている。
部屋に戻っても、廊下の騒がしさは続いていた。明日の買い物の話はまだ終わりそうにない。
教えてやるべきか、と考えたのは、二週間ほど前のことだ。結局、浦原は何も言わなかった。今さら言うつもりもない。
それでも、扉の向こうの楽しげな声は少しだけ耳に痛かった。
浦原は部屋の明かりを消し、ベッドに横になった。
カーテンの隙間から、並木道の街灯が見えた。その上で、黒いレンズが今夜も寮の窓を見下ろしている。
明日は、5月1日だ。