瀞霊廷、十番隊隊舎。
日番谷冬華が十番隊隊長に就任してから、数年の月日が流れた。
かつて二本の氷輪丸を融合させ、瀞霊廷全域に雪を降らせた少女は、今も変わらず修行に励んでいた。
「――卍解!」
――ゴオオオオオッ!!
「大紅蓮氷輪丸!!」
凄まじい冷気が、訓練場に吹き荒れた。
二本の氷輪丸が重なり合い、一本の刀へと変化する。
背中から巨大な氷の翼が広がり、長い氷の尾が伸びた。
手足を覆う氷。
そして、背後に浮かぶ十二枚の氷華。
融合した大紅蓮氷輪丸。
しかし、その力は数年前とは大きく異なっていた。
「……よし!」
冬華は満足そうに微笑んだ。
以前は卍解を発動するだけで、瀞霊廷全域に雪が降ってしまった。
だが、今は違う。
膨大な氷雪の力を、自分の意思で制御できるようになっていた。
周囲に漏れ出す冷気は最小限。
訓練場の外には、霜一つ広がっていない。
(……うん。随分と安定しましたね)
冬華は氷輪丸を構えた。
「――氷竜旋尾!」
――ゴオオオッ!!
巨大な氷竜が生まれた。
その巨体が訓練場の上空を駆け抜ける。
冬華は刀を振るい、氷竜の軌道を変化させた。
右へ。
左へ。
そして、急上昇。
氷竜は空中で大きく旋回すると、無数の氷の結晶となって消えていった。
「……ふふっ!」
冬華は嬉しそうに笑った。
(……いい感じです!)
数年間の修行によって、融合卍解の霊圧消費は大幅に改善されていた。
以前なら、これほどの氷雪を操ればすぐに維持が難しくなっていただろう。
しかし、今はまだ余裕がある。
そして。
――パキッ。
背後の氷華が、一枚砕けた。
「……!」
冬華は振り返った。
残り十一枚。
さらに時間が経過する。
――パキッ。
十枚。
九枚。
八枚。
冬華は呼吸を整えながら、霊圧を循環させ続けた。
(……まだ、いけます!)
背中の氷の翼が大きく広がる。
全身を流れる霊圧を調整し、卍解の維持に集中する。
やがて。
――パキッ。
残り三枚。
二枚。
そして。
――パキンッ!
「……っ!」
最後の一枚。
冬華の翡翠色の瞳が、鋭く細められた。
(……あと、一枚!)
原作では、この氷華がすべて散った時、大紅蓮氷輪丸は完成する。
しかし、今の自分が使っているのは、二本の氷輪丸が融合した卍解。
同じ変化が起こる保証はない。
(……それでも!)
冬華は霊圧を集中させた。
――ゴウンッ!!
氷の翼が震える。
身体の奥から、強い負担が押し寄せた。
「……くっ!」
冬華は歯を食いしばった。
あと少し。
もう少しで、最後の氷華が散る。
しかし。
――ピシッ。
氷の翼に亀裂が走った。
(……駄目ですね)
冬華は、すぐに判断した。
ここで無理に霊圧を注ぎ込めば、制御を失う可能性がある。
隊長として、周囲へ被害を出すわけにはいかない。
「……今日は、ここまでです!」
冬華は静かに刀を下ろした。
――パァァァッ!!
氷の翼が砕け散る。
氷の尾も、手足を覆っていた氷も消えていった。
一本になっていた氷輪丸が、再び二本へと分かれる。
「……ふうっ!」
冬華は大きく息を吐いた。
「……惜しかったですねえ」
少し残念そうに呟く。
けれど、その表情は明るかった。
「でも、前よりずっと長く維持できました!」
冬華は二本の氷輪丸を見つめた。
「ありがとうございます、氷輪丸!」
そして、嬉しそうに微笑んだ。
◇◆◇
「――冬華隊長ー!」
「あっ、松本さん!」
訓練場の入口から、松本乱菊が歩いてきた。
「もう! また修行してたの?」
「はい!」
「……本当に好きねえ」
「えへへ!」
冬華は笑いながら二本の氷輪丸を背中へ戻した。
白い隊長羽織が、ふわりと揺れる。
数年の間に、冬華の背丈も随分と伸びていた。
今では百四十五センチほど。
もっとも、乱菊と並べば、まだまだ小柄だったが。
「それで、今日はどうだったの?」
「聞いてください! 氷華が残り一枚になるまで卍解を維持できたんです!」
「あら、すごいじゃない!」
「はい!」
冬華は満面の笑みを浮かべた。
「あと少しで、もっと強くなれそうなんです!」
「……冬華ちゃんって、本当に修行の話になると嬉しそうよね」
「だって、強くなれるのは楽しいですから!」
「ふふっ。そういうところは昔から変わらないわね」
乱菊は楽しそうに笑った。
そして、ふと思い出したように手を叩く。
「あっ、そうそう!」
「はい?」
「五番隊からお誘いが来てるわよ」
「……五番隊?」
「ええ。藍染隊長から、冬華隊長宛てに」
「…………」
冬華の笑顔が、一瞬だけ止まりかけた。
しかし、すぐに首を傾げる。
「藍染隊長から、ですか?」
「そう。なんでも、斬魄刀の始解を披露する会を開くんですって」
「……始解の?」
「ええ。五番隊の隊士たちにも見せるらしくて、冬華隊長もよかったらどうかって」
「…………」
冬華は、静かに瞬きをした。
(……来ましたか)
鏡花水月。
藍染惣右介の斬魄刀。
表向きは、霧と水流を操る流水系の能力。
しかし、その本当の力は。
(……完全催眠)
一度でも始解の解放を見た者を、五感すべてにわたって欺く恐るべき能力。
原作では、多くの隊長たちがその術中に陥っていた。
冬華は、その事実を知っている。
(……まさか、直接招待されるとは思いませんでしたね)
「冬華ちゃん?」
「……あっ、はい!」
「どうする?」
冬華は少し考える素振りを見せた。
断ることはできる。
しかし、藍染から直接招待された以上、不自然に避け続けるのも得策ではない。
それに。
(……準備は、してありますから)
冬華はにっこりと微笑んだ。
「ぜひ、参加させていただきます!」
◇◆◇
瀞霊廷、五番隊隊舎。
「冬華ちゃーん!」
「あっ! 桃ちゃん!」
五番隊の廊下を歩いていた冬華へ、雛森桃が嬉しそうに駆け寄ってきた。
「来てくれたんだね!」
「はい! お誘いいただきましたから!」
「えへへ! 嬉しいなあ!」
桃は満面の笑みを浮かべた。
二人は幼い頃からの友人だ。
冬華が死神になってからも、時間を見つけては一緒に食事をしたり、近況を話したりしている。
その関係は、今も変わっていなかった。
「それにしても、冬華ちゃん」
「はい?」
「隊長羽織、すっかり似合うようになったね!」
「えへへ! ありがとうございます!」
冬華は嬉しそうに笑った。
「桃ちゃんも、副隊長のお仕事は順調ですか?」
「うん! 藍染隊長がいつも丁寧に教えてくださるから!」
「……そうなんですね」
「本当にすごい方なんだよ! 隊士のこともよく見てくださるし、いつも優しくて……!」
藍染の話をする桃の表情は、とても明るかった。
冬華は、その姿を静かに見つめた。
(……桃ちゃん)
原作の雛森桃。
藍染惣右介を心から尊敬し、その裏切りによって深く傷ついた少女。
目の前の幼馴染は、まだ何も知らない。
自分が信じている隊長の、本当の姿を。
「……冬華ちゃん?」
「……あっ!」
冬華は微笑んだ。
「桃ちゃん、本当に藍染隊長のことを尊敬しているんですね!」
「うん!」
桃は嬉しそうに頷いた。
「私も、いつか藍染隊長みたいに立派な死神になりたいな!」
「……ふふっ」
冬華は優しく笑った。
「桃ちゃんは、もう十分立派な死神ですよ!」
「ええっ!? そ、そんなことないよ!」
「そんなことあります!」
「もう、冬華ちゃんったら!」
二人は顔を見合わせて笑った。
その時だった。
「――楽しそうだね、二人とも」
「……!」
穏やかな声が、廊下に響いた。
振り返ると、そこには一人の男性が立っていた。
眼鏡をかけた、柔和な表情の死神。
五番隊隊長。
藍染惣右介。
「あっ! 藍染隊長!」
桃が嬉しそうに声を上げた。
冬華も、自然に微笑む。
「こんにちは、藍染隊長!」
「こんにちは、日番谷隊長」
藍染は穏やかに笑った。
「今日は来てくれてありがとう」
「いえ! こちらこそ、お招きいただきありがとうございます!」
「君のような若い隊長に見てもらえるのは、私としても嬉しいよ」
「えへへ……!」
冬華は少し照れたように笑った。
藍染とは、これまでにも隊首会や隊長同士の会合で何度か顔を合わせている。
いつも物腰が柔らかく、誰に対しても丁寧な人物。
少なくとも、表面上は。
「そういえば、日番谷隊長」
「はい?」
「君の氷輪丸については、以前から興味があったんだ」
「……私の氷輪丸、ですか?」
「ああ。二振りの同じ斬魄刀を持ち、卍解では一つの力になる。実に珍しい現象だからね」
藍染は穏やかに微笑んだ。
「数年前には、瀞霊廷全域に雪を降らせたこともあったそうじゃないか」
「……うっ!」
冬華は思わず肩を震わせた。
「そ、それは……まだ制御が未熟だった頃の話でして……!」
「ははは。責めているわけじゃないよ」
「そ、そうですか……!」
冬華はほっと胸を撫で下ろした。
桃がくすくすと笑う。
「冬華ちゃん、あの時は大変だったんだよね?」
「もう! 桃ちゃんまで!」
三人の間に、穏やかな笑い声が響いた。
しかし。
(……やっぱり、気にしているんですね)
冬華は笑顔のまま考えていた。
藍染が二本の氷輪丸に関心を持つこと自体は、不思議ではない。
けれど、この人物の興味を、単なる好奇心として受け取るわけにはいかなかった。
「さて」
藍染が静かに口を開いた。
「そろそろ始めようか」
◇◆◇
五番隊、訓練場。
そこには、多くの隊士たちが集まっていた。
中央には藍染惣右介。
その周囲に、五番隊の隊士たちが並んでいる。
冬華は桃とともに、少し離れた場所に立っていた。
「楽しみだね、冬華ちゃん!」
「はい!」
冬華は元気よく頷いた。
しかし、その内心は穏やかではなかった。
(……さて)
藍染の腰には、一振りの斬魄刀。
鏡花水月。
冬華は、そっと呼吸を整えた。
(……準備しましょうか)
数年前から、密かに研究を続けてきたものがある。
氷輪丸の氷雪能力。
そして、幼少期から磨き続けてきた精密な霊圧操作。
その二つを組み合わせ、冬華は極めて薄い氷の膜を作り出せるようになっていた。
透明で、柔軟性を持ち、瞳の表面に沿うほど薄い氷膜。
いわば、氷のコンタクトレンズ。
普段は透明なまま視界を確保できる。
しかし、霊圧をわずかに変化させれば、瞬時に光を遮断できる。
鏡花水月への対策として、冬華が準備してきたものだった。
(……これなら)
目を閉じる必要はない。
顔を背ける必要もない。
ただ、解放を見なければいい。
冬華は、誰にも気づかれないように両目を覆う氷膜を形成した。
冷たさは、ほとんど感じない。
視界も普段と変わらなかった。
「――それでは、始めよう」
藍染の声が響いた。
隊士たちが、一斉に姿勢を正す。
「私の斬魄刀、鏡花水月は流水系の能力を持っている」
藍染は静かに説明を始めた。
「霧と水流による光の乱反射を利用し、敵の視覚を惑わせることができるんだ」
隊士たちから、感心したような声が漏れる。
桃も熱心に耳を傾けていた。
冬華は、その横顔をちらりと見た。
(……桃ちゃん)
そして、正面へ視線を戻す。
(……大丈夫です)
(私が、ちゃんと覚えていますから)
藍染が、ゆっくりと斬魄刀を抜いた。
――シャキン。
澄んだ金属音が響く。
冬華の心臓が、わずかに高鳴った。
(……来ます)
藍染が刀を掲げる。
その瞬間。
冬華は、氷膜へ流す霊圧を変化させた。
――すっ。
視界が、白く染まった。
何も見えない。
藍染の姿も。
斬魄刀も。
周囲の隊士たちも。
しかし、冬華は表情を変えなかった。
長年磨いてきた霊圧感知によって、周囲の気配は把握できている。
そして。
「――砕けろ、鏡花水月」
藍染の声が響いた。
――キィィィン。
澄んだ音が、訓練場に広がる。
「……おおっ!」
「すごい……!」
隊士たちから感嘆の声が上がった。
「冬華ちゃん! 見て見て!」
隣で桃が嬉しそうに声を上げる。
「……はい! すごいですね!」
冬華は笑顔で答えた。
もちろん、何も見えていない。
(……落ち着いて)
(まだ、戻してはいけません)
冬華は氷膜を維持したまま、周囲の声に耳を傾けた。
隊士たちは、藍染の始解によって生み出された光景に驚いているようだった。
霧。
水流。
光の揺らめき。
しかし、それらが本当に存在しているとは限らない。
(……完全催眠)
冬華は、改めてその恐ろしさを実感した。
一度でも解放を見れば、五感すべてを欺かれる。
たとえ相手の能力を知っていても、見せられているものが真実かどうか判断できなくなる。
それが、鏡花水月。
やがて。
「――以上が、私の斬魄刀の能力だよ」
藍染の声が響いた。
続いて、刀を鞘へ納める音。
冬華は、さらに数拍待った。
周囲の霊圧に大きな変化がないことを確認し、氷膜をゆっくりと透明へ戻していく。
視界が開けた。
目の前には、穏やかに微笑む藍染がいた。
周囲の隊士たちは、興奮した様子で感想を語り合っている。
桃も嬉しそうだった。
「すごかったね、冬華ちゃん!」
「はい! さすが藍染隊長ですね!」
冬華は自然に笑った。
しかし。
(……本当に、回避できたんでしょうか)
胸の奥には、わずかな不安が残っていた。
原作知識では、解放を見なければ完全催眠にはかからないはず。
自分の目で、あの瞬間を見ていないことも確かだ。
けれど。
(……相手は、藍染惣右介ですからね)
油断するつもりはなかった。
◇◆◇
「――日番谷隊長」
「……はい!」
披露会が終わり、隊士たちが解散し始めた頃。
藍染が冬華へ声をかけた。
「今日はどうだったかな?」
冬華は、にっこりと微笑んだ。
「とても勉強になりました!」
「それはよかった」
藍染も穏やかに笑った。
「君の氷輪丸とは、また違った性質の斬魄刀だからね」
「はい! 斬魄刀には本当に色々な能力があるんですね!」
「そうだね」
藍染は静かに頷いた。
「だからこそ、私は斬魄刀というものに興味が尽きないんだ」
「……なるほど!」
冬華は感心したように頷いた。
藍染は、しばらく冬華を見つめていた。
「……ところで、日番谷隊長」
「はい?」
「君は、随分と霊圧の制御が上手くなったようだね」
「……!」
冬華の胸が、一瞬だけ跳ねた。
しかし、表情は変えない。
「えへへ! ありがとうございます!」
「以前よりも、霊圧の揺らぎが少ない。日頃から相当な修行を積んでいるんだろう?」
「はい! 毎日頑張っています!」
「素晴らしいことだ」
藍染は穏やかに微笑んだ。
「君がこれからどこまで成長するのか、楽しみにしているよ」
「ありがとうございます、藍染隊長!」
冬華は深く頭を下げた。
その姿を、藍染は静かに見つめていた。
やがて。
「それでは、また隊首会で」
「はい! 失礼します!」
冬華は明るく挨拶をして、その場を後にした。
◇◆◇
夕暮れ。
五番隊隊舎から十番隊へ続く道。
「今日は楽しかったね、冬華ちゃん!」
「はい!」
冬華は隣を歩く桃へ笑顔を向けた。
「桃ちゃんとも、たくさんお話しできましたし!」
「えへへ! 私も!」
桃は嬉しそうに笑った。
「また今度、一緒にお茶しようね!」
「もちろんです!」
「約束だよ?」
「はい! 約束です!」
二人は笑い合った。
やがて、分かれ道へ差しかかる。
「それじゃあ、冬華ちゃん!」
「はい! また会いましょう、桃ちゃん!」
桃は元気よく手を振り、五番隊隊舎へ戻っていった。
冬華も手を振り返す。
そして。
「…………」
一人になった冬華は、静かに息を吐いた。
(……鏡花水月)
藍染の始解。
完全催眠。
その恐ろしさは、原作知識として理解していた。
しかし、実際に目の前で解放されると、想像以上の緊張感があった。
(……氷のコンタクトレンズは、上手く機能しました)
少なくとも、自分の視界を遮断することには成功した。
藍染の解放も、直接見てはいない。
だが。
(……完全催眠にかかっていないと、証明できたわけではありません)
冬華は、そっと目を伏せた。
そして、先ほどの藍染の言葉を思い出す。
『君は、随分と霊圧の制御が上手くなったようだね』
「…………」
単なる褒め言葉だったのか。
それとも、何かに気づいていたのか。
冬華には分からない。
(……やっぱり、怖い人ですね)
思わず苦笑する。
けれど。
「……ふふっ!」
冬華は、すぐに顔を上げた。
(……でも)
(何もしないまま、原作と同じ未来を迎えるつもりはありません!)
背中には、二本の氷輪丸。
草冠宗次郎から託された刀。
そして、自分自身の刀。
これまで積み重ねてきた修行。
京楽春水から学んだ二刀流。
志波一心から教わった戦い方。
多くの人たちに支えられながら、冬華はここまで強くなった。
(……桃ちゃんも)
(松本さんも)
(みんな、守りたいですからね)
冬華は、そっと背中の氷輪丸へ触れた。
藍染惣右介。
原作で、尸魂界を大きく揺るがした男。
その計画が、いつ本格的に動き始めるのか。
冬華は、おおよその流れを知っている。
しかし、今の世界が原作と同じ未来へ進む保証はない。
だからこそ。
「……これからも、頑張りましょうね!」
冬華は二本の氷輪丸へ、明るく語りかけた。
夕日に照らされた白い隊長羽織が、風に揺れる。
その翡翠色の瞳には、確かな決意が宿っていた。
藍染惣右介との、静かな駆け引き。
それはまだ、始まったばかりだった。
――第19話「鏡花水月」・完。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
引き続きよろしくお願いします!