瀞霊廷、十番隊隊舎。
「――冬華隊長!」
「はい?」
隊長室で書類を整理していた日番谷冬華は、聞き慣れた声に顔を上げた。
そこには、腰に手を当てた松本乱菊が立っていた。
「明日から三日間、お休みを取ってください!」
「……はい?」
冬華は、きょとんと首を傾げた。
「お休み、ですか?」
「そう! お休み!」
「でも、まだお仕事が……」
「もうほとんど終わってるじゃない!」
「……あっ、確かに!」
机の上に視線を落とす。
積み上がっていた書類は、すっかり片づいていた。
「最近、隊務が終わったら修行ばっかりでしょ? たまにはゆっくりしないと!」
「えへへ……! でも、修行も楽しいですよ?」
「そういう問題じゃないの!」
乱菊は呆れたようにため息をついた。
「せっかくなんだから、現世にでも遊びに行ってきたら?」
「……現世!」
冬華の翡翠色の瞳が、ぱっと輝いた。
「いいですね!」
「でしょう?」
「現世のお菓子も食べたいですし、お洋服も見てみたいです!」
「ふふっ。そうこなくっちゃ!」
乱菊は満足そうに頷いた。
「隊のことは私に任せて、楽しんできなさい!」
「はい! ありがとうございます、松本さん!」
冬華は嬉しそうに微笑んだ。
◇◆◇
翌日。
現世、空座町。
「――わあっ!」
賑やかな商店街に、冬華の弾んだ声が響いた。
今日は死覇装ではない。
義骸に入り、白いブラウスと淡い水色のスカートを身につけている。
銀白色の髪は普段どおり肩にかかり、翡翠色の瞳が楽しそうに街並みを映していた。
「ふふっ! やっぱり現世は面白いですね!」
行き交う自動車。
色とりどりの看板。
店先に並ぶ洋服や雑貨。
尸魂界では見られないものばかりだ。
(……そういえば、転生前はこういう景色が当たり前だったんですよね)
懐かしさを覚えながら、冬華は商店街を歩いていく。
途中で見つけた洋菓子店では、ショートケーキを一つ購入した。
「……んんっ!」
一口食べた瞬間、冬華の表情が輝いた。
「おいしいです……!」
ふわふわのスポンジ。
甘い生クリーム。
そして、瑞々しい苺。
「……ふふっ!」
思わず頬が緩む。
(……松本さんにも買って帰りたいですね!)
もっとも、尸魂界へ持ち帰るには少々面倒な手続きが必要になる。
冬華は少し残念そうにしながらも、残りのケーキを美味しくいただいた。
その後も、洋服を眺めたり、本屋に立ち寄ったり。
久しぶりの休日を満喫していた。
やがて。
「……あれ?」
空を見上げる。
先ほどまで晴れていた空に、灰色の雲が広がっていた。
「……雨が降りそうですね」
ぽつり。
頬に冷たい雫が落ちた。
「……あっ!」
続いて、ぽつぽつと雨粒が降り始める。
「傘、買っておけばよかったです……!」
冬華は苦笑しながら、近くの軒下へ駆け込んだ。
雨脚は、少しずつ強くなっていく。
「……うーん」
冬華は空を見上げた。
(……六月の雨、ですか)
ふと。
頭の片隅に、一つの記憶が浮かんだ。
(……そういえば)
黒崎真咲。
黒崎一護の母親。
原作では、六月十七日に死亡した人物。
(……確か、命日は六月十七日でしたよね)
冬華は少し考え込んだ。
(……でも、何年の出来事だったでしょうか?)
尸魂界で長い年月を過ごしてきたこともあり、現世の西暦については曖昧な部分がある。
黒崎一護が九歳の頃だったことは覚えている。
しかし、現在の一護が何歳なのかまでは把握していない。
(……場所も、確か川の近くだったような……)
冬華は小さく首を傾げた。
「……うーん。さすがに、そこまでは覚えていませんね」
原作の出来事をすべて正確に覚えているわけではない。
それに、今いる場所が事件現場に近いとも限らない。
「……さて!」
冬華は気持ちを切り替えた。
「せっかくのお休みですし、もう少し散策しましょうか!」
◇◆◇
それから、しばらくして。
――ザアアアアッ!
雨は、ますます激しくなっていた。
「……結構降りますね」
冬華は商店街で購入した傘を差しながら、住宅街を歩いていた。
足元には小さな水たまりができ、道路を流れる雨水が細い筋を描いている。
「……ふふっ!」
それでも、冬華の機嫌は悪くなかった。
雨に濡れた街並みも、どこか懐かしい。
そんなことを考えながら、川沿いの道へ差しかかった時だった。
「――あっ!」
少し離れた場所から、少年の声が聞こえた。
「……?」
冬華は何気なく顔を向けた。
そこに、一人の少年が立っていた。
橙色の髪。
まだ幼さの残る顔立ち。
そして、少年の視線の先には。
川辺に立つ、小さな少女の姿。
「…………」
冬華の足が止まった。
(……え?)
橙色の髪の少年。
川辺の少女。
雨の日。
その光景が、記憶の奥にある一場面と重なった。
「――危ねえ!」
少年が、突然走り出した。
その瞬間。
冬華の翡翠色の瞳が、大きく見開かれた。
(――黒崎一護!?)
そして。
(……まさか、今日!?)
――バサッ!
冬華は、持っていた傘を投げ捨てた。
「――待ってください!!」
雨の中へ、全力で駆け出す。
義骸に入っているため、瞬歩は使えない。
それでも。
幼い頃から鍛え続けてきた身体の動かし方。
相手の動きを捉える観察力。
そして、迷いのない一歩。
冬華は濡れた地面を蹴り、一気に少年との距離を詰めた。
「――っ!」
伸ばした両腕が、少年の身体を捉える。
――ぎゅっ!
「うわっ!?」
冬華は一護を背後から抱き止め、そのまま足を踏ん張った。
「……はぁっ!」
勢いを殺し、しっかりと立ち止まる。
雨が、銀白色の髪を濡らしていく。
(……間に合った!)
「な、何すんだよ!?」
一護が驚いたように振り返った。
「危ないですよ!」
「でも! あそこに女の子が!」
「……!」
冬華は一護を抱き止めたまま、川辺へ視線を向けた。
しかし。
「…………」
少女の姿は、すでに消えていた。
そして。
その背後に潜んでいたはずの虚の気配も、遠ざかっている。
(……グランドフィッシャー)
冬華は目を細めた。
(……逃げたんですか?)
疑似餌を使い、人間を誘い寄せる虚。
原作では、多くの死神から逃げ延びてきた狡猾な存在だった。
冬華は、先ほどの自分の行動を思い返す。
普通の人間なら、あの距離から走り出した一護を止めるのは難しかっただろう。
しかも、自分は疑似餌の少女には目もくれず、一護だけを止めた。
(……警戒されたのでしょうか?)
理由は分からない。
ただ、グランドフィッシャーが襲撃を諦めたことだけは確かだった。
(……追いかけたいところですが)
冬華は腕の中の少年へ視線を落とした。
今は、こちらが先だ。
「……お姉ちゃん?」
「あっ、はい!」
冬華は一護へ視線を戻した。
「もう大丈夫ですよ!」
「……でも、女の子が……」
「……いなくなっちゃいましたね」
「…………」
一護は不安そうに川辺を見つめた。
冬華は、その頭を優しく撫でた。
「でも、危ないところでしたよ? あんなに急に走り出したら、怪我をしてしまいます!」
「……うん」
「ふふっ! 分かってくれたならいいんです!」
冬華はにっこりと微笑んだ。
その時だった。
「――一護!!」
「……!」
女性の声が響いた。
振り返ると、一人の女性が雨の中を駆け寄ってきていた。
長い橙色の髪。
優しそうな顔立ち。
そして、息子を心配する表情。
(……黒崎真咲さん!)
「一護! 大丈夫!?」
「母ちゃん!」
真咲は一護の前に膝をつき、その身体を抱き締めた。
「もう! 急に走り出したら危ないでしょう!」
「……ごめん」
「怪我はない?」
「うん!」
真咲はほっと息を吐いた。
そして、冬華へ視線を向ける。
「あの……もしかして、この子を止めてくださったんですか?」
「はい!」
冬華は明るく頷いた。
「川の方へ走っていったので、危ないと思いまして!」
「……そうだったんですね」
真咲は深く頭を下げた。
「本当にありがとうございます!」
「いえいえ! 怪我がなくてよかったです!」
冬華は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見て、真咲も安心したように笑った。
「ほら、一護もお礼を言いなさい」
「……うん」
一護は冬華を見上げた。
「……ありがとな、お姉ちゃん」
「……ふふっ!」
冬華は、ぱっと笑顔になった。
「どういたしまして!」
そして、もう一度一護の頭を撫でた。
(……よかった)
黒崎真咲。
本来なら、この日に命を落としていたはずの女性。
その人が、今。
目の前で笑っている。
(……間に合いました!)
冬華の胸に、温かな喜びが広がった。
「……あら?」
真咲が、冬華の濡れた髪に気づいた。
「あなた、びしょ濡れじゃない!」
「あっ、えへへ……!」
冬華は少し照れたように笑った。
「急いでいたので、傘を置いてきちゃいました!」
「まあ! それなら、なおさらお礼をしなくちゃ!」
真咲は優しく微笑んだ。
「よかったら、うちに来ない? タオルも貸せるし、温かいものでも飲んでいって!」
「……えっ?」
冬華は一瞬、目を丸くした。
そして。
「……それじゃあ、お言葉に甘えちゃいます!」
嬉しそうに頷いた。
◇◆◇
「――それにしても、本当に助かりました!」
「えへへ! そんなにお礼を言われると照れちゃいます!」
雨が弱まり始めた住宅街。
冬華は真咲と一護に付き添い、黒崎家へ向かっていた。
「お姉ちゃん、名前は?」
「私ですか?」
「うん!」
「日番谷冬華です!」
「とうか?」
「はい! 冬華ですよ!」
「ふーん!」
一護は興味深そうに冬華を見つめた。
「その髪、すげえな!」
「……髪ですか?」
「うん! 真っ白!」
「えへへ! 綺麗でしょう?」
「うん!」
「ふふっ! ありがとうございます!」
冬華は嬉しそうに笑った。
真咲も微笑ましそうに二人を見ている。
「冬華ちゃんって、とっても可愛いわね!」
「……えっ!」
冬華は少し頬を赤らめた。
「えへへ……! ありがとうございます!」
そんな会話を交わしているうちに、一軒の建物が見えてきた。
黒崎医院。
「ここが、私たちのお家よ!」
「……!」
冬華は、その看板を見上げた。
(……黒崎医院)
そして。
(……ということは)
玄関の扉が開いた。
「――おおっ! おかえり、真咲!」
中から、一人の男性が顔を出した。
黒い髪。
無精髭。
そして、どこか見覚えのある豪快な笑顔。
「一護も帰ってきたか! よーし! 父ちゃんの愛を受け止めろー!」
「うわっ! やめろよ親父!」
「ぐはあっ!?」
一護の蹴りが、一心の腹に突き刺さった。
「……あはは!」
真咲が楽しそうに笑う。
冬華も、思わず笑いそうになった。
しかし。
「……ん?」
一心が、冬華へ視線を向けた。
「……お?」
「…………」
二人の視線が合う。
一瞬。
一心の表情が固まった。
「…………」
「…………」
そして。
「……えへへ!」
冬華は、満面の笑みを浮かべた。
「お久しぶりです、隊長さん!」
「――ぶほっ!?」
一心が盛大にむせた。
「な、ななな、何のことだ!?」
「……ふふっ!」
「お、俺は黒崎一心! しがない町医者だぞ!?」
「はい! そうなんですね!」
「そ、そうだ!」
「でも、隊長さんですよね?」
「違うわ!!」
即答だった。
冬華は楽しそうに笑った。
「えへへ! 分かりました!」
「……本当か?」
「はい! そういうことにしておきますね!」
「全然分かってねえだろ!?」
そんな二人を、真咲が不思議そうに見つめていた。
「……一心?」
「……お、おう!」
「冬華ちゃんと知り合いなの?」
「いや! 初対面だ!」
「……そうなの?」
「はい!」
冬華はにっこりと微笑んだ。
「私の知り合いに、そっくりな方がいるんです!」
「……そ、そういうことだ!」
一心は何度も頷いた。
その様子を見て、真咲はくすくすと笑った。
「ふふっ! なんだか面白いわね!」
「……ははは!」
一心は乾いた笑い声を上げた。
冬華は、そんな姿を見て嬉しそうに微笑んでいた。
(……隊長さん)
かつての十番隊隊長。
志波一心。
豪快で、少し大雑把で。
けれど、部下のことを大切にしてくれた人。
その人が今、こうして家族と笑っている。
(……よかったです)
冬華は、そっと胸を撫で下ろした。
◇◆◇
「――それじゃあ、そろそろ失礼しますね!」
「あら、もう帰っちゃうの?」
「はい! 今日はありがとうございました!」
黒崎家の玄関。
借りたタオルで髪を乾かした冬華は、真咲たちへ深く頭を下げた。
「こちらこそ、本当にありがとう!」
真咲は優しく微笑んだ。
「またいつでも遊びに来てね!」
「はい!」
「冬華姉ちゃん!」
「……はい?」
一護が、冬華の服の裾を引っ張った。
「また来る?」
「……ふふっ!」
冬華はしゃがみ込み、一護と目線を合わせた。
「もちろんです!」
「本当か?」
「はい! 約束ですよ!」
「……うん!」
一護は嬉しそうに笑った。
冬華も笑顔で頷いた。
そして。
「……冬華ちゃん」
「はい?」
一心が、少し真面目な表情で声をかけてきた。
「……今日は、本当にありがとな」
「……!」
冬華は、一心を見上げた。
その言葉には、先ほどまでのふざけた調子はなかった。
「一護を助けてくれたんだろ?」
「……はい!」
「……そうか」
一心は静かに頷いた。
「……ありがとう」
冬華は、少しだけ目を細めた。
そして。
「……ふふっ!」
いつものように微笑んだ。
「どういたしまして、隊長さん!」
「……だから、違うっての!」
「えへへ!」
一心は呆れたように頭を掻いた。
けれど、その口元には笑みが浮かんでいた。
「……まったく。変わらねえなあ」
「……!」
冬華は、その言葉に嬉しそうに笑った。
「隊長さんも、変わっていませんね!」
「……おいおい」
二人は顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく笑った。
◇◆◇
夕暮れ。
空座町の街並みが、茜色に染まっていた。
「……ふふっ!」
冬華は、軽い足取りで歩いていた。
(……今日は、本当にいい日でした!)
現世のお菓子。
久しぶりの街並み。
そして。
(……黒崎真咲さん)
原作では、幼い一護を守るために命を落とした女性。
しかし、今日は違った。
真咲は生きている。
一護も無事だった。
そして、一心も家族と幸せそうに暮らしていた。
(……未来は、変えられるんですね)
冬華は、そっと空を見上げた。
原作の知識があるからといって、すべてが思いどおりになるわけではない。
それでも。
今日、自分が行動したことで、一つの悲劇を防ぐことができた。
「……よし!」
冬華は小さく拳を握った。
「これからも、頑張りましょう!」
藍染惣右介。
鏡花水月。
そして、これから訪れる数々の事件。
まだまだ不安なことは多い。
けれど。
(……きっと、大丈夫です!)
冬華は、明るく微笑んだ。
そして、尸魂界へ戻るため、歩き出した。
◇◆◇
その頃。
黒崎家。
「――真咲ー!」
「はいはい、どうしたの?」
「今日の晩飯は何だ!?」
「ふふっ! 今日はカレーよ!」
「おおっ! 最高じゃねえか!」
賑やかな声が、家の中に響いていた。
一護も、妹たちも。
いつもどおりの、温かな日常。
そんな中。
「……あれ?」
台所に立っていた真咲が、ふと手を止めた。
胸の奥に、奇妙な違和感があった。
痛みではない。
息苦しさでもない。
ただ。
身体の奥にあった何かが、すっぽりと抜け落ちてしまったような。
「…………」
真咲は、そっと胸元へ手を当てた。
「……気のせい、かしら?」
「真咲ー! まだかー!?」
「もう! 今作ってるところよ!」
真咲は、いつものように明るく答えた。
そして、再び料理を始める。
先ほどの違和感も、すぐに忘れてしまった。
今日も、黒崎家には笑い声が響いている。
――第21話『現世の休日』・完。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
引き続きよろしくお願いします!