――バキバキバキッ!!
幾重にも重ねられた霊圧の膜が、次々と砕け散っていく。
「……くっ!」
中央四十六室。
日番谷冬華は、雛森桃を抱きしめたまま歯を食いしばっていた。
目の前には、鏡花水月を振り下ろす藍染惣右介。
その刃に込められた霊圧が、冬華の防御を容赦なく削り取っていく。
(……まだ!)
冬華は全身の霊圧を集中させた。
砕かれた膜を補うように、新たな層を形成する。
しかし。
――パキィンッ!
最後の一層が、砕け散った。
「……っ!」
迫る刃。
桃を抱えたままでは、回避が間に合わない。
その瞬間。
――キィィンッ!!
「……!」
鋭い金属音が響いた。
冬華の眼前で、藍染の刀が止まっている。
その刃を受け止めていたのは、一振りの斬魄刀。
「……卯ノ花さん!」
「日番谷隊長」
卯ノ花烈は、いつもと変わらない穏やかな表情を浮かべていた。
「今のうちに、雛森副隊長を」
「……はい!」
冬華は即座に床を蹴った。
――ドンッ!
桃を抱えたまま瞬歩で後退する。
その直後。
――ギィンッ!
卯ノ花と藍染の刀が離れた。
「……おや」
藍染は小さく微笑んだ。
「卯ノ花隊長まで、私の相手をしてくださるのですか?」
「いいえ」
卯ノ花は静かに答えた。
「私は、これ以上の犠牲を出したくないだけです」
「……なるほど」
藍染は鏡花水月を下ろした。
「相変わらず、お優しい方だ」
卯ノ花は答えなかった。
ただ、その瞳は藍染から離れない。
◇
「……勇音さん!」
「は、はい!」
冬華は少し離れた場所へ着地すると、桃をそっと床へ下ろした。
「桃ちゃんをお願いします!」
「分かりました!」
勇音が駆け寄る。
しかし。
「……桃ちゃん?」
冬華は思わず、その顔を覗き込んだ。
「…………」
返事はない。
桃は虚ろな瞳で、ただ前方を見つめていた。
まるで、周囲の音が何も聞こえていないかのようだった。
「……桃ちゃん」
冬華は小さく呼びかける。
それでも、反応はなかった。
(……藍染……!)
胸の奥に、怒りが込み上げる。
けれど。
冬華はその感情を押し殺した。
今、感情に任せて動けば、藍染の思うつぼだ。
「……勇音さん」
「はい」
「桃ちゃんを、安全な場所へ連れていってください」
「……日番谷隊長は?」
冬華は立ち上がった。
そして、振り返る。
「……まだ、やることがありますから」
その翡翠色の瞳には、静かな決意が宿っていた。
「……お気をつけて」
「はい!」
冬華は小さく微笑んだ。
それから、床に置いていた二本の氷輪丸へ手を伸ばす。
右手に、自分自身の氷輪丸。
左手に、草冠宗次郎から託された氷輪丸。
二本の刀を握り直す。
――ヒュウウッ。
冷たい風が、足元を吹き抜けた。
「……さて」
冬華はゆっくりと歩き出した。
「お待たせしました、藍染隊長」
藍染が振り返る。
「……もういいのかい?」
「はい」
冬華は二本の氷輪丸を構えた。
「桃ちゃんは、もう傷つけさせません」
「……そうか」
藍染は穏やかに微笑んだ。
「では、続きを始めようか」
「……望むところです!」
――ドンッ!!
二人の姿が、同時に掻き消えた。
◇
――キィンッ!!
凄まじい金属音が響く。
冬華の右手の氷輪丸と、藍染の鏡花水月が激突した。
続けて左手。
――ギィンッ!
藍染は身体をひねってかわす。
しかし、冬華は止まらない。
「……はあっ!」
――ゴオオオッ!!
左手の氷輪丸から、巨大な氷竜が飛び出した。
藍染が瞬歩で回避する。
その着地点。
――バキバキバキッ!
床から無数の氷柱が突き出した。
「……!」
藍染は即座に跳躍する。
しかし。
すでに冬華は、その頭上へ回り込んでいた。
――キィィンッ!!
二本の氷輪丸が、交差するように振り下ろされる。
藍染は鏡花水月を横に構え、その一撃を受け止めた。
――ドォンッ!
凄まじい衝撃。
藍染の足元に亀裂が走る。
「……なるほど」
藍染が小さく呟いた。
「先ほどより、動きが鋭くなっているね」
「……そうですか?」
「ああ」
藍染は薄く微笑む。
「怒りに任せて攻撃してくるかと思ったが、むしろ冷静になっている」
「……当然です」
冬華は刀を押し込みながら答えた。
「怒ったところで、あなたに勝てるわけではありませんから!」
――ギィンッ!
二人の刀が弾かれる。
冬華は即座に後退した。
その直後。
――ゴオオオッ!!
二匹の氷竜が、左右から藍染へ襲いかかる。
藍染は瞬歩で距離を取った。
しかし。
(……そこです!)
冬華の翡翠色の瞳が、鋭く輝いた。
藍染の足元。
そこには、先ほどから広がり続けていた氷がある。
冬華は二本の氷輪丸を左右へ広げた。
「……藍染隊長」
「……?」
「私の氷輪丸は、二本あります」
「知っているよ」
藍染は微笑んだ。
「実に興味深いことだ」
「……では」
冬華は小さく息を吸った。
「二本だからこそできることも、お見せしましょう!」
――ゴオオオオオッ!!
凄まじい冷気が、中央四十六室を満たした。
床を覆っていた氷が、一斉に隆起する。
「……!」
藍染の周囲。
前後左右。
そして、頭上。
無数の巨大な氷柱が、次々と突き出した。
――バキバキバキバキッ!!
床。
壁。
天井。
あらゆる方向から氷が伸び、藍染の退路を塞いでいく。
「……ほう」
藍染が目を細めた。
その瞬間。
冬華の右手の氷輪丸から、一匹の巨大な氷竜が姿を現した。
続けて左手。
もう一匹の氷竜が、咆哮を上げる。
――ゴオオオオッ!!
二匹の氷竜が、冬華の周囲を旋回する。
その巨体は、先ほどまでのものとは比較にならないほど巨大だった。
氷の鱗が光を反射し、鋭い牙が冷気を纏う。
冬華は二本の氷輪丸を交差させた。
「――双竜氷獄!!」
――ドォォォォンッ!!
二匹の巨大な氷竜が、左右から藍染へ殺到した。
藍染が瞬歩で回避しようとする。
しかし。
――バキィンッ!
進路を塞ぐ氷柱。
上空へ逃れようにも、天井から無数の氷槍が突き出している。
藍染は鏡花水月を振るい、迫る氷を斬り裂いた。
だが。
その瞬間には、二匹の氷竜が目前へ迫っていた。
「……!」
――ドゴォォォォンッ!!
凄まじい轟音。
二匹の氷竜が、藍染を挟み込むように激突した。
同時に、周囲の氷柱が一斉に収束する。
――バキバキバキバキッ!!
巨大な氷の牢獄が形成されていく。
床から天井まで。
中央四十六室の一角が、完全に氷に覆われた。
やがて。
――ゴゴゴゴ……。
激しい振動が収まった。
「…………」
冬華は二本の氷輪丸を構えたまま、静かに息を吐いた。
「……ふう」
目の前には、巨大な氷塊。
藍染の姿は、完全にその内部へ閉じ込められている。
(……どうですか?)
冬華は警戒を解かなかった。
あの藍染が、これだけで倒れるとは思えない。
それでも。
少なくとも、確実に捉えた。
「……すごい……」
離れた場所で、勇音が呆然と呟いた。
「これが……日番谷隊長の……」
卯ノ花も、静かに氷塊を見つめていた。
「……見事な技ですね」
しかし。
その表情が、わずかに険しくなる。
「……ですが」
――ピシッ。
小さな音が響いた。
「……!」
冬華の瞳が鋭くなる。
巨大な氷塊の表面。
そこに、一本の亀裂が走っていた。
――ピシピシッ!
亀裂が広がる。
さらに。
――ゴゴゴゴゴ……!
氷塊の内部から、凄まじい霊圧が溢れ始めた。
(……やっぱり!)
冬華は二本の氷輪丸を構え直した。
次の瞬間。
――ドォォォォンッ!!
巨大な氷の牢獄が、内側から吹き飛んだ。
無数の氷片が、室内へ飛び散る。
冬華は咄嗟に刀を振るい、こちらへ飛んできた氷片を砕いた。
そして。
白い冷気の向こう。
一人の男が、悠然と立っていた。
「……実に素晴らしい」
藍染惣右介。
その身体には、目立った傷一つない。
ただ、眼鏡の奥の瞳が、わずかに楽しげに細められていた。
「始解だけで、これほどの氷雪を操るとはね」
「……っ!」
冬華は小さく息を呑んだ。
(……やっぱり、化け物ですね)
あれだけの攻撃を受けて、ほとんど無傷。
しかも、卍解すら使用していない。
改めて思い知らされる。
藍染惣右介という男の、底知れない実力を。
「……双竜氷獄、か」
藍染は静かに呟いた。
「二本の氷輪丸を持つ君だからこそ、成立する技なのだろうね」
「……そうですね」
冬華は呼吸を整えた。
「ですが、まだ終わっていませんよ!」
「……そうだね」
藍染は穏やかに微笑んだ。
「私としても、もう少し君の力を見てみたいところだが……」
そこで。
藍染は、ふと視線を動かした。
「……残念ながら、時間切れのようだ」
「……時間切れ?」
冬華が眉をひそめる。
藍染は鏡花水月をゆっくりと下ろした。
「私には、まだ果たすべき目的があるのでね」
「……!」
冬華の脳裏に、一人の少女の姿が浮かんだ。
(……ルキアさん!)
崩玉。
藍染が本当に求めているもの。
それは、朽木ルキアの魂魄の中に隠されている。
「……行かせません!」
冬華が床を蹴る。
しかし。
――ヒュッ!
藍染の姿が、瞬歩によって掻き消えた。
「……っ!」
冬華は即座に周囲を見渡す。
そのとき。
「……いやぁ、えらい派手な戦いやったなぁ」
聞き覚えのある声が響いた。
「……市丸隊長!」
崩れた壁の向こう。
そこに、市丸ギンが立っていた。
いつものように、細い目をさらに細めて笑っている。
「いやぁ、驚いたわぁ。まさか藍染隊長を氷漬けにしてまうとはなぁ」
「……市丸隊長」
「ほんま、恐ろしいお人やねぇ。日番谷隊長は」
ギンは楽しそうに笑った。
しかし、その視線は冬華の二本の氷輪丸へ向けられている。
「……市丸隊長」
冬華は静かに問いかけた。
「あなたも、藍染隊長についていくんですか?」
「……さあ?」
ギンは肩をすくめた。
「どないやろなぁ」
「…………」
「ほな、またな。日番谷隊長」
その言葉を残し、ギンの姿も掻き消えた。
「……っ!」
冬華は追おうとした。
だが、その足が止まる。
「…………」
振り返った先には、勇音に支えられている桃の姿があった。
虚ろな瞳。
青ざめた顔。
そして、何も映していないかのような表情。
「……桃ちゃん」
冬華は二本の氷輪丸を下ろした。
藍染を追わなければならない。
それは分かっている。
けれど。
今、この子を置いていっていいのだろうか。
冬華は迷わず、桃のもとへ駆け寄った。
「……勇音さん!」
「日番谷隊長!」
「桃ちゃんは……大丈夫ですか?」
勇音は困ったように眉を寄せた。
「外傷はありません。ですが……」
「……はい」
冬華は小さく頷いた。
身体に傷がなくても、心が無事とは限らない。
むしろ。
今の桃にとっては、身体の傷よりも深いものが残されている。
「……桃ちゃん」
冬華は片膝をついた。
そして、そっと桃の手を握った。
「…………」
反応はない。
「……私ですよ」
冬華は、できるだけ優しく声をかけた。
「冬華です」
「…………」
「……もう、大丈夫ですからね」
それでも、桃は何も答えなかった。
冬華は唇を噛んだ。
そのとき。
「――日番谷隊長」
卯ノ花の声が響いた。
「……卯ノ花さん」
冬華が顔を上げる。
卯ノ花は静かに微笑んだ。
「雛森副隊長のことは、私たちに任せてください」
「……ですが」
「今の彼女には、静かに休める場所が必要です」
「…………」
「私たちが、責任を持って保護します」
冬華は桃を見つめた。
幼い頃から、ずっと一緒だった友人。
笑い合った日々。
共に死神を目指した日々。
そして、三日前に向けられた言葉。
――冬華ちゃんなんて、大嫌い。
冬華は小さく首を振った。
そんなことは、もうどうでもいい。
今はただ。
桃に、元気になってほしかった。
「……卯ノ花さん」
「はい」
「桃ちゃんを……お願いします」
「ええ」
卯ノ花は穏やかに頷いた。
「安心してください」
冬華は、もう一度桃の手を握った。
「……桃ちゃん」
小さく微笑む。
「また、会いに来ますからね」
「…………」
返事はなかった。
けれど。
冬華はそっと手を離した。
そして、立ち上がる。
「……行ってきます!」
卯ノ花が静かに頷く。
「お気をつけて」
「はい!」
冬華は二本の氷輪丸を背中へ納めた。
そして。
――ドンッ!
瞬歩で中央四十六室を飛び出した。
◇
瀞霊廷。
双殛の丘。
冬華は、凄まじい速度で屋根の上を駆け抜けていた。
(……急がないと!)
藍染の目的は、崩玉。
そして、その崩玉は朽木ルキアの魂魄の中に隠されている。
冬華は歯を食いしばった。
桃のことが心配で、追跡が遅れてしまった。
だが、後悔はしていない。
あの状態の桃を、何も言わずに置いていくことなどできなかった。
(……お願いです!)
冬華はさらに速度を上げた。
(……まだ、間に合ってください!)
――ドンッ!
最後の屋根を蹴る。
視界が開けた。
双殛の丘。
そこには、すでに多くの死神たちが集まっていた。
「……っ!」
冬華は瞬歩で丘へ降り立った。
そして。
目に飛び込んできたのは、朽木ルキアの姿。
その傍らには、黒崎一護と阿散井恋次。
さらに、護廷十三隊の隊長たち。
そして。
少し離れた場所に、藍染惣右介が立っていた。
その手には、小さな球体。
崩玉。
すでに、取り出されていた。
けれど、冬華の目はその球体には向かなかった。
見つめているのは、ただ一人。
藍染惣右介。
桃が、誰よりも信じていた男だった。
「……藍染隊長!」
冬華は背中から二本の氷輪丸を抜き放った。
その翡翠色の瞳には、明確な怒りが宿っていた。
「……桃ちゃんは、あなたのことを本当に信じていたんですよ」
藍染は静かに冬華を見下ろした。
「……そうだね」
「それなのに……!」
冬華は二本の氷輪丸を強く握りしめた。
「……絶対に、許しません!」
藍染は、その言葉を聞いても表情を変えなかった。
「……君は随分と、雛森君を大切にしているようだね」
「……当たり前です!」
冬華は即座に答えた。
「私の、大切な友達なんですから!」
その瞬間だった。
――ゴオオオオオッ!!
「……!?」
空が、裂けた。
冬華は思わず顔を上げた。
青空の向こう。
巨大な亀裂が生まれている。
その奥から現れたのは、無数の巨大な虚。
「……大虚!?」
誰かが叫んだ。
そして。
――カッ!!
空から、黄金色の光が降り注いだ。
「……っ!」
冬華は咄嗟に目を細める。
光は藍染を包み込んだ。
さらに、少し離れた場所にいた市丸ギンと東仙要も、同じ光に包まれる。
「……反膜!」
冬華は小さく呟いた。
大虚が仲間を救出する際に使用する光。
その内部は、外界から完全に隔絶される。
原作知識として知っていた。
しかし、実際に目の前で見ると、その異様さは想像以上だった。
「……くっ!」
冬華は氷輪丸を構え直した。
だが。
藍染は、すでにゆっくりと空へ昇り始めていた。
「……おや」
藍染が冬華へ視線を向ける。
「次に会うときは、君の卍解も見せてもらいたいものだね」
「……!」
「もっとも、その機会があるかどうかは分からないが」
冬華は二本の氷輪丸を握りしめた。
「……次に会ったときは」
翡翠色の瞳が、鋭く藍染を捉える。
「絶対に、逃がしません!」
「……そうか」
藍染は穏やかに微笑んだ。
「楽しみにしているよ」
◇
「……市丸隊長!」
冬華は、もう一つの光へ視線を向けた。
そこには、市丸ギンがいた。
いつもの笑みを浮かべたまま、ゆっくりと空へ昇っていく。
「……日番谷隊長」
ギンは少しだけ目を開いた。
「なんや、まだボクに用でもあるん?」
「……!」
冬華は一瞬、言葉に詰まった。
彼が何を考えているのか。
なぜ藍染に従っているのか。
冬華は、その理由をある程度知っている。
だからこそ。
「……市丸隊長!」
冬華は声を張り上げた。
「松本さんが、悲しみますよ!」
「…………」
ギンの笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。
しかし。
すぐに、いつもの表情へ戻る。
「……そうかもしれへんなぁ」
それだけだった。
冬華は唇を噛んだ。
今の自分には、彼を引き止めることができない。
それでも。
(……いつか)
冬華は、空へ昇っていくギンを見つめた。
(……必ず!)
そのとき。
「――ギン!!」
聞き覚えのある声が響いた。
「……!」
冬華が振り返る。
そこには、松本乱菊が立っていた。
乱菊は空を見上げていた。
その瞳に映るのは、遠ざかっていく銀髪の男。
「……ギン……!」
乱菊の声が震える。
ギンは、そんな彼女を見下ろした。
「……乱菊」
小さく呟く。
その声は、地上までは届かなかった。
ただ。
ほんの一瞬。
彼の笑みが、寂しげに見えた。
「……松本さん」
冬華は、そっと乱菊の隣へ立った。
乱菊は何も答えない。
ただ、空を見つめ続けていた。
◇
藍染惣右介。
市丸ギン。
東仙要。
三人の死神が、黄金色の光に包まれながら空へ昇っていく。
その姿を、護廷十三隊の隊長たちが見上げていた。
やがて。
藍染が、ゆっくりと口を開いた。
「……諸君」
その声は、不思議なほど穏やかだった。
「君たちには、感謝しているよ」
「……!」
「長い間、実に有意義な時間を過ごさせてもらった」
藍染は、眼鏡へ手を伸ばした。
そして。
――パキッ。
眼鏡を外し、握り潰した。
整えられていた髪を、ゆっくりとかき上げる。
そこにいたのは、もはや温厚な五番隊隊長ではなかった。
圧倒的な自信。
揺るぎない傲慢さ。
そして、底知れない野心。
藍染惣右介は、地上の死神たちを見下ろした。
「……最初から、誰も天に立ってなどいない」
静かな声。
「君も、私も、神すらも」
冬華は、その姿を見つめていた。
前世で知っていた光景。
けれど。
実際に目の当たりにすると、その存在感はまるで違った。
藍染は、ゆっくりと微笑んだ。
「だが、その天の王座の耐え難い空白も終わる」
そして。
「――これからは、私が天に立つ」
その言葉とともに。
三人の姿は、空の亀裂の向こうへ消えていった。
――ゴゴゴゴ……。
巨大な亀裂が、ゆっくりと閉じていく。
やがて。
空には、何事もなかったかのような青空だけが残された。
「…………」
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
護廷十三隊の隊長たち。
旅禍として瀞霊廷へ侵入した少年たち。
そして、日番谷冬華。
全員が、同じ空を見上げていた。
◇
「……行っちゃいましたね」
冬華が、小さく呟いた。
その隣では、乱菊が俯いていた。
「……ええ」
短い返事。
いつもの明るさは、そこにはなかった。
冬華は少しだけ迷った。
けれど。
そっと、乱菊の手を握った。
「……松本さん」
「……冬華ちゃん?」
乱菊が顔を上げる。
冬華は、静かに微笑んだ。
「……帰りましょう」
「…………」
「十番隊に」
乱菊は、しばらく冬華を見つめていた。
そして。
「……そうね」
小さく頷いた。
冬華は、もう一度空を見上げた。
藍染惣右介。
市丸ギン。
東仙要。
三人は、虚圏へ去った。
崩玉も奪われた。
護廷十三隊にとって、あまりにも大きな敗北だった。
けれど。
すべてが終わったわけではない。
冬華は、背中へ二本の氷輪丸を納めた。
まだ、自分には力が足りない。
あの藍染を相手に、戦い抜くことはできた。
しかし、倒すことはできなかった。
それでも。
冬華は、静かに拳を握った。
(……次は)
翡翠色の瞳が、まっすぐ前を向く。
(……必ず、止めてみせます)
そして。
冬華は乱菊とともに、双殛の丘を後にした。
青空の下。
瀞霊廷には、ようやく静寂が戻り始めていた。
だが、それは決して、すべての戦いが終わったことを意味しない。
むしろ。
これから始まる、さらに大きな戦いの前触れだった。
――第29話『天に立つ』・完。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
引き続きよろしくお願いします!