瀞霊廷。
藍染惣右介が市丸ギン、東仙要とともに虚圏へ去ってから、数日が経過した。
あれほど騒がしかった瀞霊廷にも、少しずつ日常が戻り始めている。
もっとも、すべてが元通りになったわけではない。
中央四十六室の全滅。
三人の隊長の離反。
そして、鏡花水月による長年の欺瞞。
護廷十三隊が受けた傷は、決して小さなものではなかった。
「……ふう」
四番隊隊舎。
日番谷冬華は、一つの病室の前で足を止めた。
銀白色の髪が、廊下を吹き抜ける風に揺れる。
その手には、小さな包み。
中身は、桃の好きな甘い菓子だった。
「……よし」
冬華は小さく頷くと、扉を叩いた。
「桃ちゃん、入ってもいいですか?」
返事はない。
少し待ってから、もう一度声をかける。
「……冬華です」
すると。
「…………うん」
かすかな声が聞こえた。
冬華は、そっと扉を開いた。
◇
病室の中。
窓際の寝台に、雛森桃が座っていた。
白い寝間着に身を包み、膝の上には一冊の本。
けれど、その本は開かれていない。
桃は窓の外を見つめたまま、ぼんやりとしていた。
「……桃ちゃん」
冬華が声をかける。
桃はゆっくりと振り返った。
「……冬華ちゃん」
「はい!」
冬華は、できるだけ明るく微笑んだ。
「お見舞いに来ました!」
「…………」
「桃ちゃんの好きなお菓子も持ってきましたよ」
冬華は包みを持ち上げる。
しかし、桃は小さく目を伏せた。
「……ありがとう」
「いえいえ!」
冬華は寝台の横にある椅子へ腰を下ろした。
そして、包みを小さな机の上に置く。
「……身体の調子はどうですか?」
「……大丈夫」
「そうですか」
「…………」
「…………」
沈黙が落ちた。
以前なら、こんなことはなかった。
桃はいつも楽しそうに話しかけてくれた。
冬華も、それに笑顔で答えていた。
幼い頃から、ずっとそうだった。
けれど。
今の桃は、何を話せばいいのか分からないようだった。
「……冬華ちゃん」
「はい?」
「……私」
桃の声が震える。
「……ごめんね」
「……!」
冬華は目を見開いた。
桃は俯いたまま、続ける。
「……ひどいこと、言った」
「…………」
「冬華ちゃんのこと……何も信じないで……」
その小さな手が、膝の上でぎゅっと握られた。
「……大嫌いなんて……」
冬華は静かに首を振った。
「……気にしていませんよ」
「……でも」
「本当です」
冬華は優しく微笑んだ。
「桃ちゃんが、どれだけ藍染隊長のことを大切に思っていたか……私は知っていますから」
「…………っ」
藍染の名前が出た瞬間。
桃の肩が、小さく震えた。
冬華は、それ以上何も言わなかった。
桃はしばらく俯いていた。
そして。
「……分からないの」
ぽつりと呟いた。
「……何が、本当だったのか」
「…………」
「藍染隊長は……いつも優しくて……」
声が震える。
「私が失敗しても、怒らないで……」
「…………」
「頑張ったら、褒めてくれて……」
桃の瞳に、涙が浮かんだ。
「……全部、嘘だったのかな……」
冬華は答えられなかった。
藍染が桃に向けていた優しさ。
その裏にあった、残酷な目的。
冬華は知っている。
けれど。
今、それを桃に突きつけることに意味があるとは思えなかった。
「……桃ちゃん」
冬華は、そっと手を伸ばした。
そして、桃の手を握る。
「……今は、無理に答えを出さなくてもいいと思います」
「……冬華ちゃん……」
「ゆっくりでいいんです」
冬華は微笑んだ。
「悲しいときは、泣いてもいいんですよ」
「…………」
「私でよければ、いつでもお話を聞きますから」
桃の瞳から、一粒の涙がこぼれた。
「……っ」
続けて、もう一粒。
「……う……」
桃は俯いた。
小さな肩が、震え始める。
「……冬華ちゃん……」
「……はい」
「……ごめん……なさい……」
冬華は椅子から立ち上がった。
そして、そっと桃を抱きしめた。
「……大丈夫ですよ」
「……っ……!」
「私は、ここにいますから」
桃は冬華の胸元に顔を埋めた。
やがて。
小さな嗚咽が、病室に響き始めた。
冬華は何も言わず、その背中を優しく撫で続けた。
今は、それだけでいい。
桃が少しでも安心できるなら。
何度でも、こうして傍にいよう。
◇
しばらくして。
桃は泣き疲れたのか、寝台の上で眠っていた。
冬華はそっと毛布をかけ直す。
「……おやすみなさい、桃ちゃん」
小さく呟いて、椅子から立ち上がった。
そのとき。
「……冬華ちゃん」
「……!」
冬華が振り返る。
桃は目を閉じたまま、小さく呟いた。
「……また……来てね……」
冬華は、ふわりと微笑んだ。
「……もちろんです!」
桃の表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
冬華は静かに扉を閉めた。
廊下へ出ると、壁に背中を預けて小さく息を吐く。
「……ふう」
桃は、まだ立ち直れていない。
きっと、これからも長い時間が必要になるだろう。
けれど。
少なくとも、今日は泣くことができた。
冬華は、それだけでも少し安心していた。
「……さて!」
気持ちを切り替えるように、軽く頬を叩く。
「次は、お仕事ですね!」
今日は、護廷十三隊の隊長会議が予定されていた。
◇
瀞霊廷、一番隊隊舎。
広間には、護廷十三隊の隊長たちが集まっていた。
もっとも、その人数は以前より少ない。
五番隊隊長、藍染惣右介。
三番隊隊長、市丸ギン。
九番隊隊長、東仙要。
三人が離反したことで、護廷十三隊には大きな空席が生まれていた。
「……全員、揃ったようじゃな」
山本元柳斎重國の声が響く。
隊長たちは、一斉に姿勢を正した。
「此度の騒動について、改めて報告を行う」
山本は静かに目を開いた。
「まず、藍染惣右介の件じゃ」
広間の空気が引き締まる。
「奴は中央四十六室を殺害し、その権限を利用して瀞霊廷を混乱させた」
「…………」
「さらに、朽木ルキアの魂魄に隠されていた崩玉を奪い、虚圏へ逃亡した」
冬華は静かに耳を傾けていた。
すべて、知っていることだった。
けれど。
改めて言葉にされると、事件の大きさを実感する。
「今後、藍染惣右介、市丸ギン、東仙要の三名を、護廷十三隊の敵として扱う」
山本の言葉に、誰も異議を唱えなかった。
「……続いて」
山本の視線が、冬華へ向けられた。
「十番隊隊長、日番谷冬華」
「……はい!」
冬華は一歩前へ出た。
「お主は、藍染と直接交戦したそうじゃな」
「はい」
「その経緯を報告せよ」
「分かりました!」
冬華は、中央四十六室での戦闘について説明した。
二本の氷輪丸による攻撃。
霊圧の多層防御。
そして、双竜氷獄。
藍染を一時的に氷の牢獄へ封じ込めたものの、圧倒的な霊圧によって突破されたこと。
冬華は、包み隠さず報告した。
「……以上です」
「……ふむ」
山本は小さく頷いた。
すると。
「いやぁ、相変わらず大したもんだねぇ」
京楽春水が、のんびりと口を開いた。
「藍染君を氷漬けにするなんて、なかなかできることじゃないよ」
「……京楽さん」
冬華は少し困ったように笑った。
「結局、破られてしまいましたけどね」
「それでもさ」
京楽は肩をすくめた。
「二本の氷輪丸を、あそこまで使いこなすとはねぇ」
「私も驚いたよ」
隣にいた浮竹十四郎が微笑んだ。
「冬華は、本当に強くなったな」
「……ありがとうございます!」
冬華は嬉しそうに頭を下げた。
しかし。
「――浮かれるでない」
山本の声が響いた。
「……はい!」
冬華は慌てて姿勢を正す。
「藍染を一時的に封じたことと、奴を討ち取れることは別じゃ」
「……はい」
「奴の実力は、未だ底が知れぬ」
冬華は真剣な表情で頷いた。
「……承知しています」
あの戦闘で、痛いほど思い知らされた。
藍染の恐ろしさを。
そして、自分に足りないものを。
「……今後も、鍛錬を怠りません!」
「うむ」
山本は静かに頷いた。
そのとき。
「……一つ、よろしいでしょうか」
卯ノ花が口を開いた。
「日番谷隊長」
「……はい?」
「あなたは、藍染隊長の鏡花水月による完全催眠を受けていなかったのですね?」
「……はい」
冬華は頷いた。
広間の視線が、一斉に集まる。
「……それは、どういうことだ?」
浮竹が不思議そうに尋ねた。
「鏡花水月の始解を見た者は、完全催眠にかかると聞いているが……」
「……ええと」
冬華は少し考えた。
そして。
「……実は、鏡花水月のお披露目のとき、私は始解の瞬間を見ていないんです」
「……ほう?」
京楽が興味深そうに目を細めた。
「どうしてだい?」
「……藍染隊長が、胡散臭かったので」
「…………」
広間に、沈黙が落ちた。
次の瞬間。
「……ぶっ!」
京楽が吹き出した。
「はははっ! そりゃまた、ずいぶんな理由だねぇ!」
「……京楽さん!」
冬華は少し頬を膨らませた。
「笑わないでください!」
「いやぁ、ごめんごめん!」
京楽は笑いながら手を振った。
浮竹も、困ったように微笑んでいる。
「……それで、具体的にはどうやって?」
卯ノ花が静かに尋ねた。
「……はい」
冬華は頷いた。
「鏡花水月の始解を直接見ないように、あらかじめ視界を遮る仕掛けを用意していました」
「……なるほど」
卯ノ花は小さく頷いた。
「つまり、完全催眠そのものを解除したわけではないのですね」
「はい」
冬華は真剣な表情になった。
「一度でも始解の瞬間を見てしまえば、私も完全催眠にかかると思います」
「……そうですか」
卯ノ花は静かに目を伏せた。
「非常に重要な情報ですね」
山本も頷く。
「今後、鏡花水月への対策を検討する必要があるじゃろう」
「……はい!」
冬華は力強く返事をした。
こうして。
護廷十三隊の戦後報告は、しばらく続いた。
◇
数日後。
瀞霊廷の空は、雲一つない快晴だった。
「……いい天気ですねぇ」
冬華は空を見上げながら、のんびりと歩いていた。
隣には、松本乱菊。
「そうねぇ」
乱菊は小さく伸びをした。
「こんな日は、お酒でも飲みたいわね」
「……松本さん」
冬華は呆れたように笑った。
「まだお昼ですよ?」
「いいじゃない! 今日はお休みなんだから!」
「……もう」
冬華は小さくため息をついた。
けれど。
その表情は、どこか嬉しそうだった。
藍染の離反以来、乱菊は少し元気がなかった。
だからこそ。
こうして、いつもの調子で話してくれることが嬉しかった。
「……あっ!」
冬華が声を上げた。
「見えてきました!」
視線の先。
そこには、黒崎一護たちの姿があった。
今日は、現世組が尸魂界を離れる日だった。
「……冬華姉ちゃん!」
一護が冬華に気づき、大きく手を振った。
「……一護さん!」
冬華も嬉しそうに手を振り返す。
そして、小走りで駆け寄った。
「お待たせしました!」
「いや、別に待ってねえよ」
一護は少し照れくさそうに笑った。
「……そっか」
冬華は微笑んだ。
「今日、帰っちゃうんですね」
「ああ」
一護は頷いた。
「学校もあるしな」
「……そうですよね」
冬華は少し寂しそうに笑った。
すると。
「あっ! 冬華さん!」
井上織姫が元気よく声を上げた。
「……織姫さん!」
「お見送りに来てくれたんですか?」
「はい!」
冬華は嬉しそうに頷いた。
「皆さんには、お世話になりましたから!」
「そんな!」
織姫は慌てて手を振った。
「こちらこそ、いっぱい助けてもらいました!」
「……ふふっ」
冬華は小さく笑った。
その隣では、石田雨竜が眼鏡を押し上げていた。
「……ところで、日番谷隊長」
「はい?」
「以前から気になっていたんですが、黒崎とはいつからの知り合いなんです?」
「……ああ! 一護さんとは、昔、現世でお会いしたことがあるんです」
「……なるほど」
石田は納得したように頷いた。
「それに、一護さんはとってもいい人ですから!」
「……っ!」
一護が思わず顔を赤くした。
「お、おい! 急に何言ってんだよ!」
「……え?」
冬華は不思議そうに瞬いた。
「本当のことですよ?」
「……だからって!」
その様子を見て。
「……ふふっ」
織姫が楽しそうに笑った。
「黒崎くん、照れてる!」
「照れてねえ!」
「……そうかな?」
茶渡泰虎が静かに呟いた。
「……照れているように見える」
「チャドまで!?」
冬華は思わず笑ってしまった。
「……ふふふっ!」
久しぶりに、心から笑えた気がした。
◇
やがて。
別れの時間が近づいてきた。
「……それじゃ、そろそろ行くか」
一護が呟いた。
冬華は小さく頷く。
「……はい」
そして、一護たちを順番に見渡した。
「皆さん」
「……?」
「本当に、ありがとうございました!」
冬華は深く頭を下げた。
「皆さんが来てくれなかったら、今回の事件はもっと大変なことになっていたと思います」
「……冬華姉ちゃん」
「だから……」
冬華は顔を上げた。
その翡翠色の瞳が、優しく細められる。
「また、会いましょうね!」
「……ああ!」
一護は力強く頷いた。
「もちろんだ!」
「私も、また会いたいです!」
織姫も嬉しそうに笑う。
石田は小さく頷き、茶渡も静かに微笑んだ。
「……じゃあな、冬華姉ちゃん!」
「はい!」
冬華は大きく手を振った。
「一護さんも、お元気で!」
現世組が、ゆっくりと歩き出す。
その背中を、冬華はいつまでも見送っていた。
「……行っちゃったわね」
隣で、乱菊が呟いた。
「……はい」
冬華は小さく頷いた。
少し寂しい。
けれど。
不思議と、悲しくはなかった。
きっと、また会える。
そんな気がしたから。
「……さて!」
冬華はくるりと振り返った。
「松本さん!」
「なぁに?」
「私たちも、帰りましょう!」
「……そうね!」
乱菊は微笑んだ。
「帰ったら、お茶でも飲みましょっか!」
「はい!」
冬華は嬉しそうに頷いた。
そして。
二人は並んで歩き始めた。
瀞霊廷の空には、柔らかな陽光が降り注いでいる。
多くのものが変わってしまった。
失ったものも、決して少なくない。
けれど。
守りたいものは、まだここにある。
大切な友達。
信頼できる仲間。
そして、帰るべき場所。
冬華は、そっと空を見上げた。
「……よし!」
小さく拳を握る。
これから先、どんな戦いが待っているのか。
それは、まだ分からない。
けれど。
今度こそ、大切な人たちを守れるように。
もっと強くなろう。
そう、心に誓いながら。
冬華は乱菊とともに、十番隊隊舎へと帰っていった。
――閑話『戦いのあと』・完。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
引き続きよろしくお願いします!