瀞霊廷、十番隊隊舎。
藍染惣右介が虚圏へ去ってから、数か月の月日が流れた。
あれほど混乱していた瀞霊廷にも、少しずつ日常が戻り始めている。
もっとも、護廷十三隊を取り巻く状況は、決して穏やかなものではなかった。
三人の隊長の離反。
中央四十六室の壊滅。
そして、藍染が奪い去った崩玉。
いつ新たな事件が起きてもおかしくない。
そんな状況ではあったが。
「……松本さーん?」
「…………」
「松本さーん!」
「……んん?」
十番隊隊長室。
机に向かっていた日番谷冬華は、じとっとした目で隣を見つめていた。
そこには、書類を枕にして気持ちよさそうに眠っている松本乱菊の姿があった。
「……起きてください!」
「……あと五分……」
「もう三回目です!」
「……じゃあ、あと十分……」
「増えてるじゃないですか!」
冬華は思わず声を上げた。
銀白色の髪が、ぴょこんと揺れる。
「まったく……!」
冬華は頬を膨らませた。
「松本さんが寝ている間に、私の仕事がどんどん増えているんですよ?」
「……冬華ちゃんは優秀だから大丈夫よぉ……」
「そういう問題じゃありません!」
冬華が机を軽く叩く。
すると、乱菊はようやく顔を上げた。
「……ふあぁ」
大きな欠伸。
「おはよう、冬華ちゃん」
「……もうお昼ですよ」
「あら、そうだった?」
「そうだった、じゃありません!」
冬華は呆れたようにため息をついた。
けれど、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。
こうして乱菊とくだらないやり取りをしている時間が、今はとても大切に思えた。
「……そういえば」
乱菊が机の上の書類を眺めながら口を開いた。
「今日も雛森のところに行くの?」
「はい!」
冬華は嬉しそうに頷いた。
「仕事が終わったら、お見舞いに行こうと思っています!」
「……そっか」
乱菊は柔らかく微笑んだ。
「少しは元気になった?」
「……そうですね」
冬華は少し考えた。
「まだ以前のようにはいきませんけど……最近は、少しずつ笑ってくれるようになりました」
「……よかったわね」
「はい!」
冬華は小さく微笑んだ。
桃が受けた心の傷は、簡単に癒えるものではない。
それでも、以前より会話が増えた。
お菓子を持っていけば、少しだけ嬉しそうな顔をしてくれる。
そんな小さな変化が、冬華には何より嬉しかった。
「……さて!」
冬華は机に向き直った。
「桃ちゃんのお見舞いに行くためにも、早くお仕事を終わらせましょう!」
「えー……」
「松本さん!」
「はいはい、分かったわよぉ」
乱菊は渋々書類を手に取った。
冬華は満足そうに頷く。
今日も十番隊は、平和だった。
◇
瀞霊廷、一番隊隊舎。
藍染との戦いを終えて以来、冬華は以前にも増して修行に励んでいた。
始解だけで藍染と渡り合い、一時的にその動きを封じることもできた。
だが、倒すことはできなかった。
それどころか、最後には圧倒的な実力差を見せつけられている。
だからこそ、冬華は考えた。
今の自分に足りないものは何なのか。
完成形の卍解を、より実戦的に扱うにはどうすればいいのか。
そして、ある日。
「――無間の使用を許可していただきたいんです!」
冬華は山本元柳斎重國の前で、深々と頭を下げていた。
「……無間、じゃと?」
「はい!」
冬華は顔を上げた。
「完成形の大紅蓮氷輪丸を使った実戦訓練をしたいのですが、通常の訓練場では周囲への影響が大きすぎますので……」
「……ふむ」
山本は静かに目を閉じた。
冬華の卍解。
大紅蓮氷輪丸。
その完成形が持つ力は、山本自身もよく知っている。
以前、模擬戦を行った際には、流刃若火の始解を使用することになったほどだ。
「……藍染との戦いが、理由か」
「……はい」
冬華は真剣な表情で頷いた。
「私は、あの藍染を倒すことができませんでした」
「…………」
「もっと強くなりたいんです。今のままでは、次に戦ったときも勝てるとは思えませんから」
冬華は小さく拳を握った。
山本は、しばらく冬華を見つめていた。
そして。
「……よかろう」
「……!」
冬華の顔がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます!」
「ただし」
「……はい?」
山本は、ゆっくりと目を開いた。
「――儂が相手をしてやろう」
「…………えっ?」
冬華は固まった。
そして。
「……ええっ!? また総隊長がですか!?」
「何じゃ。不満でもあるのか?」
「い、いえ! そういうわけではありませんけど……!」
「ならば決まりじゃ」
「……相変わらず強引ですね!?」
冬華は思わず声を上げた。
山本は、その反応にも動じない。
「以前の模擬戦から、どれほど成長したか。儂が直接確かめてやろう」
「……!」
「支度をせい」
冬華は一瞬、呆然としていた。
けれど、すぐにその翡翠色の瞳を輝かせた。
「……はい!」
勢いよく頭を下げる。
「よろしくお願いします!」
◇
それから冬華は、無間での修行を重ねることになった。
相手を務めるのは、護廷十三隊総隊長、山本元柳斎重國。
しかも、今回は最初から流刃若火を解放しての模擬戦だった。
完成形大紅蓮氷輪丸による氷雪の制御。
霊圧操作を組み合わせた高速戦闘。
そして、強大な炎を相手にした攻防。
冬華は幾度となく敗れながらも、そのたびに課題を見つけ、技を磨いていった。
もちろん、山本が全力を出しているわけではない。
それでも、護廷十三隊最強の死神との鍛錬は、冬華にとって何物にも代えがたい経験となった。
修行は毎日行えるものではなかった。
隊長としての仕事もある。
桃のお見舞いにも行きたい。
それでも、時間を見つけては斬術や瞬歩を鍛え、霊圧操作の精度を高めていった。
山本との模擬戦で見つかった課題を、普段の訓練で一つずつ修正する。
そして、再び無間で試す。
そんな日々が続いた。
ある日の修行後。
「……ふうっ!」
冬華は大きく息を吐いた。
卍解を解除し、額の汗を拭う。
「……今日も負けちゃいましたね」
「当然じゃ」
山本は平然と答えた。
「まだまだ儂には及ばぬ」
「……それは分かっていますけど!」
冬華は少し頬を膨らませた。
すると、山本は静かに目を細めた。
「じゃが、以前よりは遥かに良くなっておる」
「……!」
「力の扱いに無駄が減った。霊圧の制御も、さらに洗練されておる」
冬華の表情が明るくなる。
「……本当ですか!?」
「うむ」
「ありがとうございます!」
冬華は嬉しそうに頭を下げた。
しかし、山本は続ける。
「じゃが、慢心するでないぞ」
「……はい!」
「藍染のような相手には、一瞬の判断が生死を分ける」
冬華は真剣な表情で頷いた。
「……肝に銘じます」
「うむ」
山本は静かに目を閉じた。
「励め、日番谷冬華」
「……はい!」
冬華は深く頭を下げた。
「ありがとうございました!」
こうして、冬華は少しずつ力を磨いていった。
来るべき戦いに備えて。
◇
それから、しばらく後。
瀞霊廷、十番隊隊舎。
「……ふう」
冬華は机に向かい、書類へ目を通していた。
今日も隊長としての仕事は山積みだ。
「……さて、次は……」
冬華が新しい書類へ手を伸ばした、そのとき。
――バンッ!
「――冬華ちゃん!」
「……ひゃっ!?」
突然、隊長室の扉が開いた。
冬華は思わず肩を跳ねさせる。
「ま、松本さん!?」
そこには、珍しく真剣な表情をした乱菊が立っていた。
「大変よ!」
「……どうしたんですか?」
「現世で、異常な霊圧が確認されたの!」
「……!」
冬華の表情が変わった。
「……異常な霊圧?」
「ええ」
乱菊は一枚の報告書を差し出した。
「空座町に、これまで確認されていた虚とは明らかに異なる存在が現れたらしいわ」
「…………」
冬華は報告書へ目を落とした。
そこには、現世で観測された霊圧の情報が記されている。
通常の虚とは比較にならない霊圧。
人間に近い姿。
そして、死神に似た戦闘能力。
(……来ましたか)
冬華は静かに息を吐いた。
破面。
虚が死神の力を手に入れた存在。
そして、その背後にいるのは。
(……藍染惣右介)
冬華は報告書を握り直した。
「……松本さん」
「……なに?」
「現世の被害状況は?」
「詳しい情報はまだ入っていないわ。ただ、黒崎一護たちが交戦したらしいの」
「……一護さんたちが!?」
冬華は思わず立ち上がった。
「皆さんは無事なんですか!?」
「……今のところ、死亡者の報告はないわ」
「……そうですか」
冬華は小さく息を吐いた。
しかし、安心はできない。
破面の戦闘能力は、通常の虚とは比較にならない。
特に、藍染直属の十刃ともなれば、隊長格であっても苦戦する相手だ。
「……冬華ちゃん?」
乱菊が不思議そうに首を傾げた。
「何か、心当たりでもあるの?」
「……いえ」
冬華は小さく首を振った。
「ただ、嫌な予感がするんです」
「……そう」
乱菊も表情を引き締めた。
「実は、もう一つ報告があるの」
「……はい?」
「総隊長から、隊首会の招集がかかったわ」
「……!」
冬華は静かに頷いた。
「……分かりました」
そして、背中の二本の氷輪丸へ手を伸ばす。
「すぐに向かいます!」
◇
瀞霊廷、一番隊隊舎。
広間には、護廷十三隊の隊長たちが集まっていた。
以前と比べ、その人数は少ない。
三番隊。
五番隊。
九番隊。
藍染たちの離反によって生まれた空席は、未だ埋まっていなかった。
「……全員、揃ったようじゃな」
山本元柳斎重國の声が響く。
隊長たちは、一斉に姿勢を正した。
「此度、現世に出現した存在について報告する」
山本は静かに目を開いた。
「空座町に、二体の破面が出現した」
「……破面、ですか」
冬華は小さく呟いた。
「うむ」
山本は続ける。
「奴らは通常の虚とは異なり、死神に近い能力を持っておる」
広間の空気が引き締まる。
「現世では、黒崎一護らと交戦したことも確認されておる」
「…………」
冬華は静かに耳を傾けていた。
その脳裏には、二人の破面の姿が浮かんでいる。
ウルキオラ・シファー。
ヤミー・リヤルゴ。
藍染が送り込んだ、強力な破面たち。
「……藍染が動き始めた、ということか」
浮竹十四郎が静かに呟いた。
「その可能性は高いじゃろう」
山本は頷いた。
「崩玉を奪った奴が、虚圏で何を企んでおるのか。未だ全容は掴めておらぬ」
「……厄介だねぇ」
京楽春水が帽子のつばを指で押さえた。
「隊長格に匹敵する虚が、これから次々と現れるかもしれないってことか」
「うむ」
山本は静かに頷いた。
「故に、現世への戦力増強を決定した」
「……!」
冬華は顔を上げた。
山本の視線が、まっすぐこちらへ向けられる。
「――十番隊隊長、日番谷冬華」
「……はい!」
冬華は一歩前へ出た。
「お主に、現世への先遣隊の指揮を命ずる」
「……!」
「現世における破面の動向を調査し、必要に応じて迎撃せよ」
冬華は背筋を伸ばした。
そして。
「――はい! 承知しました!」
力強く返事をする。
山本は静かに頷いた。
「人員については、各隊より選抜する。詳細は追って通達する」
「はい!」
冬華は深く頭を下げた。
そして、顔を上げる。
その翡翠色の瞳には、静かな決意が宿っていた。
(……一護さん)
現世で待っている、大切な友人たち。
そして、これから始まる破面との戦い。
冬華は、そっと拳を握った。
(……今度は、私も一緒に戦いますからね)
藍染惣右介が虚圏へ去ってから、数か月。
止まっていたかのように見えた運命の歯車が、再び動き始めた。
死神と破面。
そして、崩玉を巡る戦い。
その新たな戦場は、現世。
空座町。
日番谷冬華の、新たな戦いが始まろうとしていた。
――第30話『新たな脅威』・完。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
引き続きよろしくお願いします!