「顔60点、体100点」と評価されている幼馴染と同棲することになった俺。彼女は無防備なうえに甘やかしてくるので、毎日が刺激的すぎるんだが…! 作:白井ムク
律の家は、駅から歩いて十五分ほどの住宅街にある。
どこか懐かしい佇まいを残す古い街並みで、狭い路地の両脇には戸建ての住宅が整然と並んでいる。敷地からはみ出た植木の緑や、夕方になるとどこからともなく漂ってくる夕飯の匂い。子どものころから通い慣れたこの道は、時間の流れすら少し遅く感じられる場所だった。そんな中にある律の家も、ごく普通の一軒家だ。
近所付き合いもそれなりにある地域で、律が歩けば庭木の手入れをする近所の人と自然と目が合い、言葉を交わすこともある。生まれたときから自分を知っている大人たちに囲まれたこの町は、優しくて居心地が良い反面、息苦しさを覚えることもある。
「あ、律くん、今帰り?」
家まであと少しというところで、三軒隣の中村さんの奥さんから声をかけられた。
「こんにちはー」
律は反射的に笑う。いつもと同じように挨拶をしたつもりだったが、中村さんは余計に心配そうに眉を寄せた。
「どうしたの? 顔色悪いわよ」
「え?」
「なにかあった?」
「いえ、べつに」
なんでもない。大丈夫。その二つは、考えるより早く口から出る言葉だ。
「ちょっと暑さにやられただけです」
「本当に? 学校で嫌なことでもあったんじゃない?」
「大丈夫ですって」
「でも……」
心配そうな顔を向けられ、律は迷った。ここで隠し続けても、余計に相手を心配させるだけかもしれない。
「じつは……カノジョにフられたんです」
「あら……律くん、カノジョいたの?」
「そっちに驚くんですね」
「ごめんごめん。でも、そっかぁ」
中村さんは余計な事情を訊かず、少し考えてから言う。
「今は辛いと思うけど、若いんだから次があるわよ」
「あるといいんですけど」
「あるある。人生なんて、案外そういうものよ」
「そういうものですかね」
「そういうもの。だから元気出して」
「はい。ありがとうございます」
律は中村さんに笑って手を振り、その場を静かに離れた。
そこで初めて貼りつけていた笑顔が剥がれ落ちた。
「……はぁ〜〜〜」
肺の中に溜まっていたものを全部吐き出すようなため息だった。
いい人——高校に入ってから、そこだけは一度も落としたことのない点数だ。
中学までの律は、教室の中心で騒ぐようなタイプではなかった。けれど、高校へ入ったら可愛いカノジョがほしい——そんな目標を立て、髪型や服装を整え、人との話し方まで自分なりに研究した。いわゆる「高校デビュー」だった。
努力の甲斐もあって、陽キャになれたわけではないが、周囲から「感じのいいやつ」と思われる程度には変わることができた。
誰かが困っていれば手を貸す。意見がぶつかりそうなら、自分から一歩引く。誘われれば、なるべく断らない。面白くない冗談にも笑い、相手の機嫌が悪ければ、自分に原因がなくても気を遣う。そうしていれば、少なくとも嫌われることはない。もしも点数をつけるなら、自分のいい人は九十点くらい。少なくとも落第点ではないだろう。
だから、陽依と付き合い始めたときも、そのスタンスは崩さなかった。
告白する、付き合う——この時点で及第点は超えている。あとは、百点満点のカレシにはなれなくても、いい人の点数を下げずにキープできればいい。
全校で知らない者はいないほど目立つ女子と付き合うのだ。
周囲から反感を買うかもしれない。だから普段以上に気を配り、誰にも文句を言われない彼氏でいようとした。陽依の隣にいても恥ずかしくない人間になろうとした。
そんな努力を一年以上、ずっと続けていたのだ。
その結果が『すっごくいい人なんだけど……なんか違う』だった。
いい人でいれば上手くいくと思っていた。それなのに、その「いい人」という言葉を添えられてフられてしまったのだから、とてもやるせない。自分がコツコツ積み上げてきたものを全否定されたような気さえして、こうなるともう頭を抱えるしかなかった。
「もう、どうすればいいんだよ……」
誰もいない道で小さく呟く。
傷ついているときくらい露骨に落ち込めばいい。ご近所さんに愛想よく挨拶をする必要もない。けれど、相手から心配そうな顔を向けられれば反射的に笑ってしまう。
最初は、誰かに好かれるために始めた努力だった。相手の反応を見て、喜ばれそうな言葉や行動を選ぶ。それを繰り返すうち、自分がどうしたいかより、相手がなにを望んでいるかを先に考える癖がついた。律自身は、それを無理だとは思っていなかった。むしろ、人付き合いが上手くなった証拠だと思っていた——陽依にフられるまでは。
——もう決めた。
誰かの顔色を窺うのも、自分の気持ちを押し殺して相手へ合わせるのも、嫌われないために笑うのも、全部やめる。今日で俺は、「いい人」をやめる。
そんなことを考えながら、律は逃げ込むように自宅の玄関へ向かい、ドアを開けた。