こちらの世界に来てから、俺は一つの重大な事実に気づいてしまった。
それは――。
「……俺、前の世界より働いてない?」
朝。
フレイヤ・ファミリアの本拠地、フォールクヴァング。
与えられた自室のベッドに寝転がりながら、俺こと佐藤和真は天井を見上げていた。
この世界に来てからというもの、朝は金髪鬼畜エルフによる地獄の訓練。
昼はダンジョンで命懸けの金策。
夜は疲れ果てて寝るだけ。
……おかしい。
俺は魔王を倒したんだぞ?
何でまた冒険者なんてやってるんだ?
「……帰りたい…」
思わず呟いた。
いや、帰ったところでアクアやめぐみんに振り回される未来しか見えないんだけど。
それでも、少なくとも毎朝木剣を持ったエルフに追いかけ回されるよりはマシなはずだ。
……たぶん。
コンコン。
「カズマ。起きているか」
扉の向こうから、聞き慣れた声がした。
「……寝てます」
「そうか。ならば扉を開けるぞ」
「おい待て!そこは普通諦めるところだろ!?」
慌てて飛び起きる。
扉を開けると、そこには案の定、鬼畜エルフが立っていた。
ヘディン・セルランド。
フレイヤ・ファミリアの幹部にして、レベル六の第一級冒険者。
そして現在、俺の平穏な生活を脅かす最大の敵である。
「支度をしろ。訓練の時間だ」
「……あの、ヘディンさん」
「何だ」
「昨日、俺ダンジョンに潜ったんですよ?」
「報告は受けている」
「しかも、怪我した冒険者まで助けたんですよ?」
「それも聞いている。適切な判断だった」
「おっ」
珍しく褒められた。
「だから今日は休みに――」
「それと訓練は別だ」
「ですよねー!」
ちくしょう、こいつ嫌いだ!!
◇
それから一時間半後。
「……もう、もう無理」
俺は訓練場の隅で地面に転がり惨めに蹲っていた。
全身が痛い。
特に腰。
昨日のダンジョンでコボルトの攻撃を避けたとき、変な体勢になったのがいけなかったらしい。
いや、正直に言えば、昨日はそこまで痛くなかった。
今朝の訓練で悪化した気がする。
「カズマ。立て」
「無理です。俺は今、地面と一体化しています」
「くだらんことを言う余裕があるなら続けられるな」
「人の心とかないんですか!?」
ヘディンは無表情で俺を見下ろしていた。
……いや、待てよ。
ここで無理に続けても、俺に何の得がある?
ない。
一つもない。
「……ヘディンさん」
「何だ」
「実は昨日から腰に違和感がありまして」
「腰?」
「ええ。魔物の攻撃を避けたときに、ちょっと」
俺は腰を押さえた。
多少大げさではあるが、嘘ではない。
こういうのは、事実を上手く利用するのが大切なのだ。
「……ふむ」
ヘディンが俺を観察する。
「動けないほどか?」
「いや、そこまでじゃないですけど。無理して悪化したら大変じゃないですか」
「……ふむ」
おっ。
「医務室で診てもらえ」
「ありがとうございます!」
「診察結果は私にも報告させる」
「…………」
喜びは一瞬だった。
……まあいい。
とりあえず、訓練場からは脱出できた。
◇
医務室の扉を開けると、薬草の落ち着いた香りが漂ってきた。
「失礼しまーす」
「あら?」
部屋の奥から、柔らかな声が聞こえた。
顔を上げたのは、淡い色の髪をした美しい女性。
ヘイズ・ベルベットさんだ。
昨日、俺の手当てをしてくれた治療師である。
「あら、カズマさん。こんにちは」
「どうも。昨日ぶりです」
「ふふっ。そうですね」
ヘイズさんは穏やかに微笑んだ。
……ああ。
癒やされる。
このファミリアに来てから、こんなに安心できる笑顔を見たことがあっただろうか。
フレイヤ様はいつも微笑んでいるが、あの人の笑顔は何だか心臓に悪い。
アレンとかいう猫人はいつも怒っているし。
ヘディンのやつは笑わないどころかすぐ舌打ちする始末。
ヘグニは……何かを呟いているところを見かけるが、何を考えているのか分からない。
オッタルさんに至っては、立っているだけでも怖い。
そんな中で、この人だけは普通に優しい。
貴重だ。
実に貴重な存在だ。
「今日はどうなさいました?」
「腰を少し痛めまして」
「まあ。昨日のダンジョンで?」
「ええ。ちょっと無理な体勢になっちゃって」
「そうでしたか。では、こちらへどうぞ」
ヘイズさんに勧められ、俺は診察用の寝台に腰掛けた。
「失礼しますね」
彼女が患部を確認する。
腰に触れる指先は丁寧で、無理に力を加えない。
「……確かに、少し筋肉が張っていますね」
「やっぱり!」
「ただ、大きな怪我ではなさそうです」
「……あ、そうですか」
「軽い回復魔法と休息で十分でしょう」
ヘイズさんは手をかざし、静かに魔法を使った。
温かな光が腰を包み込む。
じんわりと痛みが引いていく。
「……おお」
すごい。
俺も《ヒール》を使えるが、こうして治療してもらうと、やっぱり専門家は違うな。
「どうですか?」
「だいぶ楽になりました」
「それはよかったです」
ヘイズさんは微笑んだ。
そして、少し首を傾げる。
「……ところで、カズマさん」
「はい?」
「今朝はヘディン様と訓練をされていたんですよね?」
「…………」
俺の背筋に冷たいものが走った。
「……はい」
「そうですか」
ヘイズさんは、にっこりと笑った。
「もしかして、訓練を少しお休みしたかったのでしょうか?」
「…………」
何で分かるの!?
いや、待て。
ここは誤魔化すべきか?
しかし、この人の前で下手な嘘をつくのも気が引ける。
「……まあ、ちょっとだけ」
俺は観念して答えた。
「……ふふっ」
ヘイズさんが小さく笑った。
「正直ですね」
「いや、これでも本当に痛かったんですよ?」
「ええ。それは分かっています」
彼女は俺の肩に軽く手を置いた。
「疲労も溜まっているようですし、少し休んでいかれますか?」
「……いいんですか!?」
「はい。今は急ぎの患者さんもいませんから」
天使だ。
この人は天使に違いない。
「ヘイズさん……!」
「はい?」
「あなたがこのファミリアにいてくれて、本当によかった……!」
「……ふふっ。大げさですよ」
いや、大げさじゃない。
俺にとっては切実な問題なのである。
◇
医務室の隅にある椅子に腰掛け、俺は温かいお茶をいただいていた。
「……うまい」
「よかったです。薬草茶なんですよ」
「へえ。もっと苦いものかと思ってました」
「苦味の少ないものを選んでいますから」
ヘイズさんは薬品棚の整理をしながら答えた。
……いいなあ。
静かな部屋。
温かいお茶。
優しいお姉さん。
ここだけ別世界みたいだ。
「……このファミリアって、変な人が多くないですか?」
俺が何気なく言うと、ヘイズさんの手が止まった。
「……変な人、ですか?」
「だって、みんな戦うことばっかり考えてるじゃないですか」
「……まあ」
「それから、ヘディンさんは鬼教官だし、アレンさんはいつも怒ってるし、ヘグニさん?は何言ってるか分からないし」
「……ふふっ」
「オッタルさんなんか、目が合っただけで寿命が縮みそうですよ」
「……っ、ふふふっ」
ヘイズさんが口元を押さえた。
「すみません。皆さんのことを、そ、そんな風に言える方はあまりいないとので…っ…!」
「いや、悪口じゃないですよ? 事実を述べてるだけで」
「それが余計におかしくてっ……」
とうとう、ヘイズさんは声を上げて笑い始めた。
……おや?
この人、意外とよく笑うな。
昨日会ったときは、もっと落ち着いたお姉さんだと思っていたのだが。
だが、そんなところも良いじゃないか。こんな殺伐としたファミリアにいるせいもあるのだろうが、このお姉さん可愛すぎる。
「……ああ、すみません」
しばらくして、ヘイズさんは目元を拭った。
「こんなに笑ったのは久しぶりかもしれません」
「えっ、そんなに?」
「ええ。皆さん、普段は真剣ですから」
「……でしょうねえ」
俺は深く頷いた。
何しろ、あのファミリアだ。
口を開けば戦闘訓練とダンジョンのことばかり。
「でも、皆さんはフレイヤ様のために、一生懸命なのですよ」
ヘイズさんは少しだけ表情を和らげた。
「もちろん、私も同じです」
そこで、彼女の声がわずかに変わった。
「私は、フレイヤ様のお役に立つためにここにいます。あの方が私を必要としてくださるのなら、それ以上の幸福はありません」
「……なるほど」
「傷ついた眷族を癒やすことも、あの方のためにできる大切な務めですから」
ヘイズさんは胸元に手を添えた。
その瞳には、先ほどまでの穏やかさとは違う、熱のようなものが宿っていた。
「フレイヤ様が望まれるのなら、私はどれほどの傷でも癒やしてみせます。あの方の眷族を、一人でも多く戦場へ送り返せるように」
「…………」
……あれ?
何だろう。
急に雰囲気が変わったぞ。
笑顔は変わらない。
声も優しい。
なのに、何かこう……重い。
俺は悟った。
この人も、やっぱりフレイヤ・ファミリアの一員なんだな。
「……カズマさん?」
「あっ、いえ! 立派だなあと思いまして!」
「ふふっ。ありがとうございます」
ヘイズさんは嬉しそうに微笑んだ。
……うん。
このファミリアに普通の人なんていないのかもしれない。
「カズマさんは、少し違うようですね」
「……まあ、そうですね」
俺はお茶を一口飲んだ。
「俺は別に、強くなりたいわけじゃないんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。できれば働かずに暮らしたいです」
「……ふふっ」
「美味い飯を食って、昼寝して、たまに遊んで……そんな生活が理想ですね」
「それは、少し贅沢かもしれませんね」
「夢くらい見させてくださいよ!」
ヘイズさんは、また小さく笑った。
そして、ふと何かを思いついたように尋ねてきた。
「……カズマさんの故郷では、どんな生活をされていたんですか?」
「え?」
「異世界からいらしたと聞きましたので。少し気になってしまって」
「……ああ」
俺は少し考えた。
元の世界の話を、どこまでしていいものか。
日本での生活は…
テレビ。
ゲーム。
パソコン。
こっちの世界には存在しないものばかりだ。
「……まあ、色々ありましたよ」
「色々、ですか?」
「ええ。仲間と一緒に冒険したり、魔物と戦ったり」
「まあ」
「借金を背負ったり、屋敷が爆発しかけたり、街が大変なことになったり」
「…………」
ヘイズさんの笑顔が、少し固まった。
「……それは、大変でしたね」
「いや、ほんとですよ!」
俺は遠い目をした。
思い返せば、ろくなことがなかった。
アクアは問題を起こしては泣きついてくる。
めぐみんは爆裂魔法をぽんぽん考えなしに撃ちたがる。
ダクネスは……ド変態だし。
……よく俺、あんな連中と一緒に魔王を倒せたな?
「……でも」
ヘイズさんが、静かに言った。
「少し、楽しそうにも聞こえますね」
「……え?」
「お仲間のことを話すとき、カズマさん、少し表情が柔らかくなりますから」
「…………」
俺は思わず口を閉じた。
……そうか?
そんなことないと思うけど。
「……いや、あいつらは本当に大変だったんですよ」
「ふふっ。そうなんですね」
「特に一人、どうしようもない駄女神がいましてね」
「……女神様、ですか?」
「あっ」
しまった。
思わず口が滑った。
「……いや、まあ。そういうあだ名の仲間がいたんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。ものすごく手のかかるやつで」
ヘイズさんは不思議そうに首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。
……危ない危ない。
この世界の人たちに、別世界の駄女神の話をするのは面倒なことになりそうだ。
◇
「そういえば、カズマさん」
「はい?」
「昨日、ダンジョンで冒険者の方を助けたそうですね」
「……ああ」
俺は頷いた。
「大したことじゃないですよ。コボルトに襲われてたんで、ちょっと助けただけです」
「その方、ギルドを通じてお礼を伝えていらしたそうですよ」
「へえ」
それは知らなかった。
「フレイヤ・ファミリアの新人冒険者に助けられた、と」
「……げ…」
「どうかなさいました?」
「いや、あんまり広められると困るなって」
「困るんですか?」
「だって、俺が親切な人間だと思われたら、次から次へと面倒事を持ち込まれそうじゃないですか」
「…………」
ヘイズさんが瞬きをした。
そして、ゆっくりと微笑む。
「……でも、助けたんですよね?」
「そりゃまあ、目の前で死なれたら寝覚めが悪いですし」
「ふふっ」
「……何です?」
「いえ。カズマさんらしいなと思いまして」
「昨日会ったばっかりなのに、今回はたまたま助けただけで、我が身可愛さに他の冒険者なんて平気で見捨てるやつかもしれませんよ?」
ヘイズさんはふふっと少し笑ったあと穏やかに答えた。
「口では色々とおっしゃいますけれど、困っている方を放っておけないんですね」
「……いやいや」
俺は慌てて手を振った。
「そんな立派な人間じゃありませんよ。危なかったら普通に逃げますし」
「そうですか?」
「そうですとも」
そこは断言できる。
俺は命が惜しい。
英雄なんて柄じゃないし、誰かのために命を捨てるなんて真っ平ごめんだ。冗談じゃない。
……まあ。
逃げられない状況になったら、何とかするしかないけど。
「……それでも、助けてもらった方は嬉しかったと思いますよ」
ヘイズさんが言った。
「きっと、カズマさんに感謝しているはずです」
「…………」
俺は少しだけ頬を掻いた。
「……まあ、そうならいいですけど」
何だか、妙に照れくさい。
こういうのは苦手だ。
◇
その後、ヘイズさんは棚からいくつかの薬瓶を取り出し、机の上に並べ始めた。
「……それ、何です?」
「中層へ向かう冒険者のための薬品です」
「中層?」
「はい。最近、探索を予定している団員が何人かいますので」
へえ。
中層か。
昨日の探索で、俺も少し気になっていた場所だ。
「……ちなみに、中層って儲かるんですか?」
「……儲かる、ですか?」
「ええ。上層の魔石って、思ったより安かったんですよ」
俺は昨日の収入を思い出して、ため息をついた。
「命懸けでゴブリン倒して、あれだけって……割に合わないですよ」
「ふふっ。カズマさんらしいですね」
ヘイズさんは薬瓶を並べながら答えた。
「中層では、上層よりも価値の高い魔石が手に入りますよ」
「おおっ!」
「ただし、魔物も強くなりますし、地形も複雑になります」
「……なるほど」
「特に単独での探索は、十分に注意してくださいね」
「……あれ?」
俺は首を傾げた。
「俺が一人で潜るって、よく分かりましたね」
「昨日もお一人だったのでしょう?」
「……まあ、そうですけど」
「それに、カズマさんなら、きっと一人で行こうとされると思いました」
「…………」
……何だろう。
この人、意外と鋭いな。
「……まあ、無茶はしませんよ」
「本当ですか?」
「ええ。危なくなったら即撤退です」
俺は胸を張った。
「俺のモットーは、安全第一ですから!」
「……ふふっ」
ヘイズさんは、少し安心したように微笑んだ。
「それなら、よかったです」
……いや。
そんなに信用されると、逆に困るんだけど。
俺、結構な頻度で面倒事に巻き込まれるし。
しかも大抵、俺の意思とは無関係に。
◇
しばらくして、医務室の扉が開いた。
「おい、ヘイズ、いるか」
入ってきたのは、見覚えのある猫人の男。
アレン・フローメルだった。
……げっ。
面倒くさい人が来た。
「はい。どうなさいました、アレン様?」
「訓練中に馬鹿が足を折った、すぐ来い」
「分かりました。今向かいます」
ヘイズさんは慣れた様子で立ち上がった。
……足を折った?
何それ怖い。
「……あ?」
アレンが俺に気づいた。
「てめえ、何でここにいる」
「……いや、ちょっと腰を」
「腰?」
「はい」
アレンは俺を上から下まで眺めた。
「……見たところ、元気そうじゃねえか」
「…………」
まずい。
「おい。まさか訓練サボってんじゃねえだろうな」
「い、いやいや! そんなことあるわけないじゃないですか!」
「だったら何でこんなところで茶飲んでんだよ」
「……それは、その」
俺が言い淀んでいると。
「アレン様」
ヘイズさんが静かに声をかけた。
「カズマさんは、昨日の探索と今朝の訓練で疲労が溜まっているようです」
「あ?」
「少し休ませて差し上げてもよろしいでしょうか?」
「…………」
アレンは面倒くさそうに舌打ちした。
「……勝手にしやがれ、俺の知ったことか」
そう言い残し、さっさと出ていった。
「…………」
俺はしばらく扉を見つめた。
そして。
「……ヘイズさん」
「はい?」
「ありがとうございます……!」
「ふふっ。どういたしまして」
俺は思わず両手を合わせた。
神様。
いや、目の前にいるのは神様じゃないけど。
この人、本当にいい人だ。
「……ただし、カズマさん」
「はい?」
「怪我をしていないのに、毎日医務室に来るのは駄目ですよ?」
「…………」
ぎくっ。
「適度な休息は大切ですけれど、訓練も必要ですから」
「……はい」
ヘイズさんはにっこりと微笑んだ。
……あれ?
この人、優しいけど意外と厳しい?
「では、私は負傷者の治療に行ってきますね」
「あ、はい。ありがとうございました」
「どういたしまして。カズマさんも、無理はなさらないでくださいね」
そう言って、ヘイズさんは医務室を出ていった。
俺は一人、椅子に腰掛けたまま天井を見上げる。
「……いい人だなあ」
心からそう思った。
あんな人がいるなら、このファミリアも捨てたものじゃないかもしれない。
……まあ、ほかの連中が怖いことに変わりはないけど。
◇
一方、その頃。
負傷者の治療を終えたヘイズは、医務室へ戻る途中、ふと足を止めていた。
「……ふふっ」
思い出したのは、先ほどの新人冒険者の姿だった。
サトウ・カズマ。
フレイヤ様が特別に迎え入れた、異世界から来たという青年。
最初は、どれほど優秀な冒険者なのだろうと思っていた。
けれど実際に話してみると、彼は少し変わっていた。
強くなることよりも、楽をすることを望む。
名声よりも、平穏な生活を求める。
それでいて、困っている人を見つけると、結局は手を差し伸べてしまう。
「……不思議な方ですね」
ヘイズは小さく呟いた。
彼女にとって、フレイヤ様は何よりも尊い存在だった。
あの方に必要とされたい。
あの美しい瞳に、自分を映していただきたい。
その願いは、いつだって胸の奥にある。
治療師として傷ついた眷族を癒やすことも、フレイヤ様のお役に立つためだ。
あの方の望みを叶えるために、戦う者たちを支える。
そのためなら、どれほどの苦労も厭わない。
自分の働きによってファミリアが確固たる地位を維持し、勝利し続けることでフレイヤ様が喜んでくださるのなら。
それ以上に望むことなど、あるはずがなかった。
だからこそ。
「……今日は、よく笑いましたね」
ヘイズは自分でも少し意外に思った。
カズマとの会話には、何か特別な目的があったわけではない。
フレイヤ様への奉仕でも、治療のための問診でもない。
ただ、くだらない話をしていただけ。
美味しい食事。
昼寝。
働きたくないという愚痴。
そんな話を聞いて、思わず笑ってしまった。
治療師として、患者を安心させることには慣れている。
けれど、患者との会話で自分の方が笑わせてもらうことは、そう多くない。
「……また、お話しできるでしょうか」
そう呟いてから、ヘイズは小さく首を振った。
「いえ。毎回怪我をして来られては困りますね」
彼女は苦笑した。
できれば次は、怪我をしていないときに話せればいい。
もちろん、フレイヤ様から与えられた務めが何よりも優先される。
それは、これからも変わらない。
ただ、仕事の合間に少しくらい、あの変わった青年と話す時間があってもいいだろう。
そんな、ささやかなことを考えながら。
ヘイズは再び、仕事へと戻っていった。
◇
その日の夕方。
俺は食堂で、一人遅めの昼食を取っていた。
「……うまい」
温かいスープを飲みながら、ほっと息をつく。
結局、午後の訓練は免除された。
ヘディンには多少疑われたが、ヘイズさんが疲労を確認してくれたおかげで、何とか休みを確保できたのだ。
……いやあ。
持つべきものは、優しい治療師のお姉さんだな。
俺はスープをもう一口飲んだ。
そういえば、ヘイズさんは中層の話をしていた。
上層よりも価値の高い魔石。
強い魔物。
複雑な地形。
……危険は増えるが、収入も増える。
「……そろそろ、もう少し下に行ってみるか」
もちろん、無茶はしない。
俺は慎重な男だ。
危なくなったら逃げる。
勝てない敵とは戦わない。
面倒事には関わらない。
……まあ、最後のやつは今まで一度も上手くいった試しがないけど。
「……よし」
俺はスープを飲み干した。
明日は街で装備や道具を見て回ろう。
それから、ダンジョン探索の準備だ。
せっかく異世界に来たんだから、今度こそ楽して稼げる方法を見つけてやる。
……そして。
「……ヘイズさんにも、何かお礼しないとな」
ふと、そんなことを思った。
今日の治療と、お茶。
それに、アレンさんから庇ってくれたこと。
何かお礼をしたい。
……そうだ。
今度、料理でも作ってみるか。
これでも俺、料理にはそこそこ自信がある。
異世界の料理なら、ヘイズさんも喜んでくれるかもしれない。
「……よし。決まりだな」
俺は小さく頷いた。
美味い飯を食って、金を稼いで、平穏に暮らす。
それが俺の理想だ。
そして、できれば。
あの優しいお姉さんと、またのんびり話ができたらいいなと。
そんなことを考えながら、俺は食堂を後にした。
明日は、久しぶりに街へ出よう。
美味い飯でも探しながら、のんびり買い物をするのも悪くない。
……まあ。
この街で、俺が本当にのんびりできるかどうかは、また別の話なのだが。