『奇跡の回復術師』——その正体や、いつどこで生まれた存在なのかを正確に知る者は誰もいない。
北の寒村では、生まれつき目が見えぬ娘の瞳に光を取り戻したのだと語られ、南の港町では、腐り落ちかけて骨の透けた片脚を一瞬で元通りの肉体へと戻してみせたのだと囁かれる。あるいは、何年も前に命を落としたはずの男を、墓の中から泥まみれで呼び戻したなどという根も葉もない噂まであるほどだった。
雪のように白い髪。
透き通るような肌と、一切の感情を削ぎ落とした静謐な瞳。
十五、六に見える少女の姿をしたその存在は、実体を知らぬ者たちによって、童話や都市伝説として語り継がれるばかりであった。
病に伏せる親を持つ者は夜毎その名を呼んで天に祈り、戦場で手足を失った兵士はその影を求めて酒場で噂を買い漁る。権力者は己の寿命を伸ばす秘宝として彼女を執拗に捜索させ、野心ある宗教者は自らの権威を証明するための「聖女」としてその身を縛り付けようと企む。
だが、当の白髪の少女——リヴにとっては、それらはすべて失笑すら浮かばない無価値な喧騒に過ぎなかった。
「……また、余計な尾ひれがついていますね」
旅人の行き交う石造りの街道。灰色の分厚いローブを目深にかぶった少女は、羊毛のフードの隙間から、遠くに見える街の重々しい大門を静かに見上げていた。
風に乗って漂ってくるのは、焼き立てのパンの匂いと、馬糞と、大勢の人間がひしめき合う生活の臭気。そして、どこからか流れてくる旅芸人の歌声だった。歌われているのは、まさに『奇跡の回復術師』を称える大袈裟な英雄譚であった。
人々は奇跡を好む。
己の不摂生や不注意で壊した体を、あるいは避けられぬ老いと死を、たった一瞬の光で無かったことにしてくれる都合の良い神様を渇望している。
だが、世界はそんな風にはできていない。
傷つき、痛みに耐え、時間をかけて細胞が傷を塞ぎ、やがて寿命を迎えて土へと還る。それこそが、この世界に生きるあらゆる命に等しく与えられた、絶対にして不可侵の理であった。
「買い出しは、手早く済ませましょう」
リヴは肩にかけた革の鞄の紐を締め直すと、感情のない瞳のまま、賑わう街の門へと足を踏み入れた。
* * *
買い出しをするために辿り着いた街の中央広場は、凄まじい熱気に包まれていた。
普段の市場以上の混雑。数百人の町民たちが、露店街の一角を取り囲むように集まり、口々に歓声を上げている。
「さあさあ!お立ち会い!遠く東の果てからやってきた、伝説の秘薬だよ!」
人混みの中心、売り台の脇に置かれた木箱の上に立ち、ひときわ甲高い声を張り上げている女がいた。
派手な塗りを施した安っぽい衣装を身に纏い、不自然な白髪を揺らしている中年の女性。その手には、怪しげな液体が入った小瓶が握られている。
「どんな重病も、腐りかけた傷も、この薬を飲ませれば一瞬で治っちまう!そう、このアタシこそが世に名高い『奇跡の回復術師』リヴその人さ!」
女が声高らかに胸を張って宣言すると、広場を包んでいた喧噪が一瞬にして途切れた。
直後、群衆の間に波を打つような不穏なざわめきが広がっていく。
道行く人々が足を止め、互いに顔を見合わせながら、露台の女を食い入るように見つめた。
「おい、冗談だろ……?まさか、あの『奇跡の回復術師』様なのか!?」
「噂には聞いてたが、こんな田舎街に……本当にか!?」
「でも、あの噂の術師様がこんな場所で怪しげな薬を売るか……?」
驚き、困惑、そしてかすかな期待が交錯し、広場全体が熱を帯びた大きなどよめきに包まれていく。
「奇跡の回復術師」の異様なまでの影響力に、群衆は不気味なほどの動揺を見せていた。
当の本人リヴは人混みの端で足を止め、冷ややかな目でその光景を見つめている。
(……また、これですか)
旅をしていれば、こうした「偽者」に遭遇することは珍しくない。
リヴの名声を利用し、ただの小麦粉や香草を混ぜた水、あるいは一時的に痛みを麻痺させるだけの粗悪な薬を「奇跡の薬」と称して高値で売りつける詐欺師たちだ。
女は群衆の中から「長年苦しんでいる」という男を売り台の前へ招き上げていた。
男は「ゴホゴホ!ゲホッ!」と酷い咳き込みを見せていたが、女が小瓶の薬を飲ませ、大袈裟な所作で胸に触れると、途端に「おお……!咳が止まった!胸の痛みが嘘のように消えたぞ!」と叫び出す。
分かりやすいほどのサクラである。
(関わるだけ時間の無駄ですね。さっさと買い物を済ませて立ち去りましょう)
呆れ果てたリヴは、人混みを押し分けてその場を離れようと踵を返す。
だが、運命の悪戯は、密かな逃亡を許してはくれなかった。
「ちょっと待ちな!そこのローブのお嬢さん!」
甲高い女の声が人混みを通り抜けて響いた。
ぴたりと足を止めるリヴ。
群衆の視線が一斉にリヴへと向けられ、まるで波が引くように人混みが割れていった。木箱の上の偽リヴが、不機嫌そうに眉をひそめ、人差し指でまっすぐにリヴを指差している。
「アタシと同じ白髪に、灰色のコート……なんだいお前、アタシの真似をして客の気を引こうってのかい?営業妨害だよ!」
偽リヴは懐から古びた羊皮紙を取り出すと、それを大袈裟に広げて見せた。そこには、客を信用させるハッタリのために自ら書き殴ったであろう、拙い人相書きが描かれていた。
その人相書きは偽リヴ自身にはそっくりだったが、どう見てもリヴとは似ても似つかない代物である。
「手配書そっくりの格好をしやがって!アタシに対するあてつけかい?偽者が本物の前に顔を出すなんて、いい度胸じゃないか!」
偽リヴは、目の前に立ち尽くす少女こそが本物のリヴであるとは夢にも思わず、苛立ちを露わにして詰め寄ってくる。
リヴは深く溜め息をつくと、顔を伏せたまま淡々と応じた。
「……人違いです。失礼します」
関わりたくない一心で、静かにその場を立ち去ろうと足を踏み出す。
「待ちな!逃がさないよ!」
偽リヴが木箱から飛び降り、リヴの袖を掴もうと掴みかかってきた、その時だった。
「そこまでだ!!」
人混みをかき分け、怒号とともに数名の武装した警備兵たちが突如として露店の目前へと躍り出てきた。
「ここに『奇跡の回復術師』がいると聞いたが、本当か!」
「け、警備兵!?」
威圧的に言い放つ兵士の姿に、サクラの男と偽リヴが同時に顔を蒼白にする。
事態を呑み込めていない周囲の客たちが、おそるおそる偽リヴを指差し、口々に声を上げた。
「あの人が……!あの人が噂の『奇跡の回復術師』リヴ様ですよ!」
隊長と思われる鎧を着た男が、偽リヴへ冷ややかな視線を向け、懐から取り出した羊皮紙と見比べる。そして、一刀両断のもとに言い捨てた。
「……ふざけた真似を。手配書とはまるで人相が違うではないか。あれは偽者だ!」
「なっ……!?な、なに失礼なこと言ってんだい!アタシは本物だよ!」
「黙れ!奇跡の回復術師を騙る偽者め!怪しげな薬を売りつけているという話も届いている。詰め所で話を聞かせてもらうぞ、取り押さえろ!」
兵士たちが一斉に押し寄せ、男と偽リヴを取り押さえにかかる。
「離しな!なんでアタシが捕まらなきゃいけないのさ!」
偽リヴは金切り声を上げ、身を捩って激しく暴れ出した。兵士の手を振り払おうと乱暴に振り回した腕が、すぐ隣に立っていたリヴの肩を激しく突く。
——バサリ。
引っかかった手払いの勢いで、リヴが深く被っていた灰色のフードが大きく押しのけられた。
陽光の下に露わになる、雪のように純白な髪。そして、どこまでも冷ややかに澄み渡った無表情な素顔。
「っ……!?」
隊長は息を呑み、目を見開いた。
手元にある『本物の人相書き』と少女の顔を重ね合わせる。紛れもなく、そこに描かれた本人だった。
『奇跡の回復術師を見かけたら、直ちに報告せよ』——町長からそう言い含められていたまさにその人物が、目の前に立っている。
「間違いない……本物だ!おい、すぐに町長へ知らせろ!」
隊長は部下に素早く指示を飛ばすと、失礼のないよう慎重に言葉を選びリヴに声をかけた。
「……失礼しました。町長があなた様をお探しです。どうか少し、お時間を——」
「だから本物はアタシだって言ってるでしょーが!」
縄をかけられそうになっていた偽リヴが、けたたましい金切り声を上げて隊長の袖にすがりつくように割り込んできた。
「なんだい!そのスカした小娘は!アタシが!本物の『奇跡の回復術師』リヴ様だよ!」
「うるさい離れろ!偽者はお呼びじゃない!」
「アタシを偽者扱いするんじゃないよーっ!」
リヴは胸中で小さく溜息をつくと、深くフードをかぶり直した。
全員の視線が暴れる偽者へ注がれたその一瞬の死角を突いて、背を向ける。人混みの隙間を滑るように通り抜け、何事もなかったかのように雑踏の影へと姿を消した。
* * *
大混乱に陥る広場を背に、人混みの死角を縫って細い裏通りへと滑り込んだ。
追っ手の気配がないことを確認し、そのまま街道へと抜けようと歩を進めていたリヴの耳に、子どもの泣き声が届いた。
「う……っ、うぐ……ふぇ……っ」
視線を向けると、通り沿いに立つ大きな樹木の根本で、一人の少年が地面にうずくまって足を抱えている。
そのすぐ近くには、折れたばかりであろう太い木の枝が転がっていた。
(木に登っていて、足場の枝が折れて落下した……といったところでしょうか)
リヴは少年に近づくと、静かに膝をついた。
少年は涙と汗で顔をぐしゃぐしゃにし、痛みに耐えかねて全身を震わせている。
「……足が痛むのですか?」
感情の起伏がない声をかけながら、リヴは少年の折れた右脚の周りを丁寧な手つきで触診していく。
ズボンの上からでも分かるほど、脛のあたりが不自然な角度に歪んでおり、骨折しているのはあきらかだった。
リヴは肩にかけた革鞄を下ろすと、中から平らな木片と清潔な麻の包帯を取り出した。
手慣れた手つきで折れた脛に木片を当てがい、軸がブレないよう素早く丁寧に包帯を巻きあげて固定していく。
「あ……が……痛い……っ」
「じっとしていなさい。もうすぐ終わります」
きっちりと包帯の結び目を整え終えると、リヴは緩やかに立ち上がり、ローブの汚れを軽く払った。
「ちゃんと医師にも見てもらうのですよ。栄養をとって安静にしていれば、元通り歩けるようになります。それまでは無理に動かしてはいけませんよ」
「う……うん……!ありがとう……お姉ちゃん……っ」
少年は袖で溢れ出る涙を拭い、痛みの和らいだ脚をさすりながら、掠れた声でお礼を言った。
その様子を見つめながら、リヴは語りかけた。
「……人の骨は一度折れた場所を治そうとするとき、以前よりも太く、頑丈に繋がろうとする性質があります」
「え……?」
「人間も同じです。辛く苦しくても、正しい処置をして、時間をかけることで前よりも強い人間になれます。大事なのは自分の足で立ち上がることですよ」
言葉を終えると、リヴは通りの先へと視線を向け、感情を交えずに続けた。
「申し訳ありませんが、私は急いでいる身なのでこれで失礼します。近くの人を呼んできますから、その人に家まで送ってもらいなさい」
「うん……わかった……!」
少年がしっかりと頷いたのを見届けると、リヴは少年に背を向け、フードを深くかぶりなおすと裏通りの奥へと素早く歩き出した。
表通りへと抜ける角の近くで通りがかった近所の住人に声をかけ、「あちらで木から落ちて脚を痛めたお子さんがいます」と短く伝えると、住人が驚いて少年の方へ駆け出していくのを確認し、そのまま雑踏の中に姿を消した。
石畳の路地に届く人々の話し声や馬車の車輪音を背景に、リヴはフードの影で目元を隠したまま、残りの買い出しを済ませるべく商店へと足を向ける。
先ほどの手当ての手触りが、まだリヴの指先に微かに残っていた。
世間が求める「回復術」と、目の前の患者に必要な「手当て」。その隔たりを思う。
本来、医療とは知識と経験に基づき、患者の病巣や患部を正しく診察・治療する行為そのものを指す。
対して『回復術』とは、人間が本来持っている自然治癒力を一時的に引き上げ、促進させる補助技術に過ぎない。
効果の大きさや治癒の速度は術者の素養によって大きく左右されるが、先程のような骨折を一瞬で治せるような高位の回復術者など、この世界には滅多に存在しないのが現実だった。
(……これでいいのです。傷つき、痛みを知り、手当てを受け、時間をかけて治していく。それが、人の正しい姿なのですから)
過剰な奇跡など、誰の助けにもならない。
手当てを受けた少年が、自分の足で立ち上がること。それこそ人としての正しい摂理なのだと自分に言い聞かせながら、リヴは歩を進めた。
* * *
無事に買い出しを終えたリヴは雑踏を抜け、街の外れにある目立たない宿屋へと辿り着いた。
受付の主人に提示された言値の銀貨を支払うと、古びた二階の部屋へと入る。
鍵をかけ、購入した資材が入った革鞄を粗末な木机の上に置くと、深く被っていたフードをようやく脱ぎ捨てた。
純白の髪が肩に零れ落ち、静寂が部屋を満たす。
薄暗い室内に差し込む西日を受けながら、リヴはベッドの縁に腰を下ろし、今日買い揃えた包帯や最小限の資材を検品していく。
(……昼の騒動といい、広場で顔を見られてしまった以上、余計な噂が広まるのも時間の問題ですね)
この街に留まる理由がない以上、長居は無用だ。
(明日の早朝、この街を去ることにしましょう)
方針を定め、明日以降の行程を思考し始めたその時だった。
控えめなノックの音が部屋に響き渡る。
「……どなたですか」
リヴは立ち上がらず、静かに声をかけた。
扉越しに、低く落ち着いた男の声が返ってくる。
「お休みのところ恐れ入ります。町長バルト様にお仕えしております、従者の者でございます」
「その町長の従者様が、ただの旅人に何の用でしょうか」
「実は、先ほど広場にて警備兵の隊長が拝見した『奇跡の回復術師』様に酷似したお姿の方が、こちらにお泊まりだと宿の主人より伺いまして……」
「人違いです。お引き取りを」
短く拒絶するリヴに対し、扉の向こうの男は声のトーンを崩さず、困惑したように言葉を続けた。
「私どもといたしましても、人違いの可能性は重々承知しております。ですが……仮にここで私が引き下がったとしても、バルト様は納得しないでしょう。たとえ人違いだとしてもご自分の目で確かめたいと言って聞かないのです。どうか夕食の間だけでもバルト様とお会いしていただけないでしょうか。直接お話しいただければ、バルト様も納得するはずですので」
従者の言葉は、丁寧でこそあるが逃げ道をそっと塞ぐ老練さが滲み出ていた。
(……やれやれ)
扉の向こうの気配から、この従者が要求を受け入れるまでここを動くつもりがないことをリヴは察した。
このまま問答を続ければ、また昼間のような無用な騒動が起きかねない。
これ以上無駄な騒ぎが広がるのを嫌ったリヴは、胸中で小さく溜息をつくと、木机の上の革鞄を持ち上げ、再び灰色のフードを目深にかぶった。
「……分かりました。夕食の間だけですね」
「ご理解に感謝いたします。馬車をご用意しておりますので、こちらへどうぞ」
鍵を開け、扉の向こうに立つ身なりの良い男の案内に従って階段を下り、宿の外へ出る。
傾いた太陽が街道の石畳に長い影を落とすなか、横づけされた馬車へと乗り込むと、車窓から差し込む夕光に身を委ねるように深く腰掛けた。
車輪の軋む音とともに馬車が動き出し、リヴは静かに揺られながらバルトの館へと向かった。