長テーブルの上に並べられたのは、香ばしく焼き上げられた肉料理に、色鮮やかな野菜の煮込み、そして上質なガラス瓶に注がれた深紅のワインであった。
部屋を飾る贅沢な調度品。羊毛の厚手な絨毯に、壁に飾られた繊細な絵画、そして天井から吊り下げられた燭台が、重厚で豪奢な空間を温かく照らしている。
その長テーブルの端で、リヴは出された肉料理を小さなナイフとフォークで切り分け、ゆっくりと口へと運んでいた。
対面に座るのは、肉づきの良い体に上質なシルクの服を纏った、肥満体の中年男——この街を治める町長・バルト
バルトは揉み手をしながら、柔らかで慈愛に満ちた笑みをリヴに向けていた。
「いやあ、素晴らしい。こうして『奇跡の回復術師』様をお迎えできたこと、心から光栄に思いますよ。是非我が街に留まり、病や傷に苦しむ町民たちをどうかそのお力で救ってはいただけないでしょうか。相応の報酬と、地位をお約束いたしますぞ」
リヴは手にしていたフォークを静かに置くと「申し訳ありませんが」と口を開く。
「人違いです。私はただの旅人に過ぎません」
「ハハハ!そう仰るのも無理はない。ですが、私には確信がありましてね」
バルトは懐から一枚の古い羊皮紙を取り出し、長テーブルの向こうにいるリヴへ掲げてみせた。描かれているのは、精密なタッチで仕上げられた一枚の肖像画だ。
「私の父が死ぬ間際まで肌身離さず持っていたものでしてね。若き頃、ある街で目撃したという『奇跡の回復術師』の姿を、お抱えの絵師に描かせた代物です……雪のような白髪に、透き通るような肌。そして、一切の感情を宿さない少女の姿」
バルトは身を乗り出し、興奮冷めやらぬ眼差しでリヴを見つめた。
「長き時を経てもなお、その姿は寸分狂わずそのままにある……間違いようがない。あなたこそが本物の『奇跡の回復術師』だ。お願いです、どうかこの街で我らの希望となってはいただけないでしょうか」
町長の言葉はどこまでも丁寧で、善意に満ちている。
だがその瞳の奥底に渦巻くのは、奇跡の威光にあやかり、己の富と名声を我が物にしようとする権力者特有の醜い執着であることは明らかだった。
リヴは観念したように小さく「はぁ……」と溜め息をつくと
「お断りします」
と感情の籠もらない冷ややかな瞳でバルトに言葉を返す。
「人は傷を負い、その痛みを抱えて生き、やがて死を迎えるもの。それが人間という生き物のあり方です。ご期待に添うつもりはありません」
明確な拒絶。バルトの柔らかな笑みが、ほんのわずかに引きつった。
「……そうですか、それは残念です」
バルトは深々と溜め息をつき、困ったように肩をすくめて見せた。
「ですが、長旅でお疲れでしょう。せめて今夜は我が館で疲れを癒し、ご一泊していかれてはいかがでしょうか?極上のベッドと温かな湯を用意させますよ。明日の朝、気が変わらなければそのままお立ち去りいただいて一向に構いませんのでね」
笑顔を崩さぬまま恭しく言葉を重ねるバルトに対し、リヴは黙ってワインを飲み干した。
布で軽く口元を拭うと、空になったグラスを静かにテーブルへ置く。
「そうですね。では、お言葉に甘えさせていただきましょう」
「おお!ご理解いただけて嬉しい限りだ!ささ、部屋へ案内させましょう!今使用人をお呼びしますので」
バルトは満足気に揉み手をし、満面の笑みを浮かべる。その顔はとても頼みを断られた者の顔とは思えなかった。
リヴは席を立つと、立ち上がり際にバルトの顔を一度だけ見つめ、淡々と言い放つ。
「ちなみに、私に毒物は効きませんよ」
一瞬、豪奢な応接間に凍りつくような沈黙が流れた。
バルトの手からワイングラスが滑り落ち、カシャンと音を立てて砕け散ると、上質な絨毯の上に赤黒いシミを作った。
「な……な、何を仰るのですか!そのような恐ろしいもの、お入れするわけが——」
「おそらく筋肉を麻痺させる類のもののようですが、私の体内で即座に中和、分解されます」
「っ……!?」
柔らかな笑みの仮面が完全に崩れ去った。
企みを完璧に見抜かれていた想定外の事態と動揺に、バルトは顔の筋肉を醜く引きつらせる。
「……チッ」
白々しい言訳すら通用しないと悟ると、舌打ちをひとつ。苦々しい顔で懐に手を忍ばせ、取り出した銀のベルを乱暴に打ち鳴らした。
重々しい扉が叩き開かれ、部屋へとなだれ込んできたのは——物騒な長剣やナイフを手にした、金で雇われたであろう五人のごろつきたちであった。
「小娘が……下手にでていれば、つけあがりおって」
バルトは激昂で顔を真っ赤に染め、血管を浮き上がらせながら吐き捨てた。
その顔も声も先程まで笑顔を貼り付けていた人物と同じとは到底思えぬほどである。
「こいつらは加減というものを知らん。女子供であっても容赦はしない。素直にこの街で、私のために人を治し続けていれば良かったものを……!」
「あいにく己の浅ましかさを他人になすりつけることしかできない方に、お貸しする手などありません」
二度目の拒絶。バルトは怒りで頬をひくつかせ、冷ややかに命じた。
「おい、少し可愛がってやれ。痛い目を見れば考えも変わるだろう」
ごろつきの一人が下劣な笑みを浮かべ、長剣のギラつく刃先をリヴに向けた。
「わりぃなお嬢ちゃん、これも仕事なんだ」
言葉とは裏腹に大して悪いと思ってなさそうな男が長剣を構えリヴに告げる。
「抵抗しなけりゃそこまで酷い目に遭うことはないぜ」
リヴは心底うんざりしたような息を吐き捨てる。
旅の先々で幾度となく繰り返してきた、あまりにも面倒な愚行に付き合わされるのかと思うと、ただただ頭が重い。
「そうですね。ですがお構いなく」
リヴは「やれやれ」と言わんばかりに小さく肩をすくめると、一切の躊躇もなく、剣を構えた男に向かって悠々と歩を進める。
「は……!?おい、止まらな——」
男が制止する間もなく、リヴは相手の持つ長剣を意に介さず、そのまま自らの身体で刃を受け止め、
——ズブリ。
鈍い音を立てて、長剣の刃がリヴの胸を易々と貫通し、背中へと抜け出た。リヴの服に赤黒い染みが広がりボタボタと鮮血が滴り落ちる。だが、リヴは眉1つ動かさず、貫かれた刃を深々と呑み込みながらも歩みを止めない。
「な……なんだこいつ!?刺さってるのに……動いて……っ!?」
あまりに異常過ぎる行動と状況に声を震わせる男。その首元へ、リヴはそっと優しく手を触れる。
途端に男はガクンと意識を失い泥のように昏倒した。
「ば、化け物だ……!殺せ!殺せぇっ!」
パニックを起こした残りのごろつきたちが、狂乱してナイフや長剣を振り下ろしてくる。
だが、リヴは逃げることも身を護ることもしない。襲いかかる凶刃に胸や腹を刺されながらも、触れた者を一人、また一人と昏倒させていった。
静まり返った部屋。
肉を裂き、臓腑もろとも深々と突き刺さっていた幾本もの刃物が、異様な圧力を受けて徐々に外側へと押し出されていく。
——ギチ、ギチギチッ——カラン
不気味な骨肉の蠢く音と共に、突き刺さっていたナイフや長剣がひとりでに抜け落ち、血溜まりのできた床へと空しく転がり落ちた。
傷口は不気味な泡立ちと共に新しい肉芽が爆発的な速度で盛り上がり、合着していく。瞬きをする間に、傷跡ひとつ残らない白く滑らかな肌へと戻っていた。
「ヒッ……ヒィィッ……!」
腰を抜かしたバルトが、肥満した体を震わせながら叫ぶ。
「殺してはいませんよ。血気盛んなようだったので、少し血圧を下げただけです」
しばらくすれば目を覚ますでしょう、と少女の起伏のない声が、静まり返った応接間に響きわたった。
目の前で起きたあまりに異常な光景に、バルトは言葉を失い、ただ歯をガチガチと鳴らす。
リヴは返り血で汚れた衣服を心底鬱陶しそうに見下ろすと、バルトへ冷ややかな視線を向けた。
「……さて。私がなぜ、回復術を使わないのか。その理由をお話ししましょうか」
リヴは足元に転がっていたナイフを拾い上げると、血で濡れた刃先を指先でなぞった。まるで上質な医療器具の具合でも確かめるような、冷淡で無機質な仕草。
「私がどうやって、『奇跡の回復術師』と呼ばれるまでに至ったかをご存知ですか?」
壁際で動けずにいるバルトの前で、リヴは自身の左手小指へ刃を押し当てると、そのまま一気に切断した。
ポトリとまるで木の実が落ちるかのように小指が床に転がる。痛みに顔を歪めることなく、リヴは切り落とされた自身の指を無感情に見つめた。
「昔の私は、回復術を極めることこそが人の幸福のため、ひいては人の世の未来に繋がると信じて修練に励んでいました。」
小指に次いで薬指を切り落とす。
「だから、試したんです。すべてを、自分の身体で」
リヴは止まることなく中指、人差し指、と切断しながら言葉を紡ぐ。
「骨を折り、肉を切り、皮膚を削り、臓器を潰し、炎で燃やし、極寒で凍らせ、毒で腐らせ、病で蝕み、その都度、自分自身に回復術を施しました。高度な回復術の正確な効果と限界を確かめるには、生きている人体で試すのが一番でしたから。他人の体を傷つけるわけにもいきませんしね」
あまりに異様で凄惨な自傷劇の告白。
切り落とされた指の断面から肉と骨が蠢き、一瞬にして元通りに復元されていく
尋常ならざる現象を目の当たりにし、バルトは絶句した。目の前にいるのは人間ではない。自らの肉体を壊し続けた本物の化物なのだと、背筋に冷や汗が吹き出す。
そんなバルトなど意にも介さず、そこで少女はゆるりと首を横に振る。
「ですが……その結果が『これ』です。奇跡に等しい回復術の効果は神が作った摂理を捻じ曲げ、私は人の道から逸れてしまった。かつて死者すら蘇生しようとした医師が、神の逆鱗に触れたように……今の私は、絶対に死なない身体になってしまったのですよ」
抑揚のない声で、リヴはバルトを見下ろす。
「これが、あなたの望む『奇跡』の正体です。傷つくことも、病むことも、老いて死ぬことすら許されない『
リヴは血のついたナイフを、バルトの爪先が触れそうなほどの至近距離の床へと深く突き立てた。
「食事をご馳走していただいたお礼として、危害は加えません」
バルトの耳元で、感情の乗らない氷のような声が落ちる。
「二度と私の前に現れないでくださいね」
冷ややかに言い捨てると、リヴは踵を返し、腰を抜かしたバルトを置き去りにして応接間を後にする。
だが、恐怖に震えるバルトの瞳には、絶望と同時にどす黒い執着が渦巻いていた。
(ば、化け物め……だが、あの力を手に入れれば……!逃がすものか……絶対に逃がすものか……!!)
* * *
町長邸を後にしたリヴは、夜風を受けながら、借りている宿屋へと伸びる静かな路地裏を歩いていた。
先ほどのごろつきたちとの交戦で衣類は穴だらけになり、血で酷く汚れてしまっていたため、館のクローゼットから勝手に拝借した上質な黒いマントを深く羽織っている。
暗い石畳の道を歩いていると、少し前方で不器用に松葉杖をついて歩く小さな影と、その肩を気遣うように支える大人の影が見えた。
関心を向けることもなく、リヴがその横を通り抜けようとしたその時、少年が足を止め、喜びを含めた声を上げる。
「あっ!昼間のお姉ちゃん!」
そこにいたのは昼間に骨折の手当をした少年だった。
足には綺麗な包帯を巻き当て木を添えられているが元気そうに笑っている。
「お父さん、この人がさっき話した、足の手当をしてくれた人!」
少年の隣を歩いていた父親は驚いたように目を見開き、慌てて深く頭を下げた。
「あなたがそうでしたか……!診療所の医師からも『見事な手当だ、このまま安静にしていれば綺麗に治る』と聞きましてね。本当に、なんと感謝を申し上げたらよいか」
「大したことはしていません。折れたばかりですから、むやみに歩き回らせないようにしてください」
柔らかく告げるリヴの言葉に、父親は「はい、もちろんです」と深く頷いた。だが、ふとリヴの顔立ち——深く被ったマントのフードの陰から覗く雪のような白髪と、感情の失われた透き通るような瞳に視線を留めた。
「……?あの、失礼ですが……あなたのお顔、どこかで」
父親が何かに気付き、言葉を紡ぎかけた——まさにその時。
——ガッ!!
背後から放たれた鈍く重い衝撃が、リヴの後頭部を容赦なく襲った。
衝撃に吹き飛ばされ、リヴの身体は冷たい石畳の上を激しく転がる。
世界が歪むような猛烈な眩暈と、頭蓋を揺らす振動。だが——どれほど強烈な打撃を受けようとも、彼女の意識が闇に落ちることはない。
ただ視界だけが激しく揺らぎ、支えを失った身体は、石畳の上でピタリと動きを止めた。
ゆっくりと立ち上がり、視線を巡らせたリヴの目に飛び込んできたのは、醜悪な狂気を撒き散らす肥満した中年男、先ほど別れたばかりの町長バルトだった。