バルトの腕の中には、松葉杖の少年が捕らえられていた。肥満した腕で後ろから固く首を抱え込まれ、突きつけられたナイフの刃先が首元に刺さらんばかりに押し当てられている。少年は全身をガタガタと震わせ、恐怖のあまり声も出せないでいた。
「あなたという人は……」
「黙れ!黙れ黙れぇっ!」
バルトは額に大量の汗をかき、血走った目でリヴを睨みつけた。激昂と恐怖で顔を醜く歪ませ、ナイフを持つ手を激しく震わせている。
「お、大人しく私に従ってもらおうか……!奇跡の回復術師様が、目の前の子供を見殺しにはできまい!?私のもとで永久にその力を使ってもらうぞ……!」
我が子の首元に容赦なくナイフの刃が食い込んでいるのを目にし、父親は蒼白な顔でバルトへすがりついた。震える手を必死に伸ばし、狂った町長をなだめようと懇願する。
「や、やめてくれ!その子を離してくれ……っ!お願いだ町長……!」
「寄るな虫ケラがっ!」
バルトはすがりついてくる父親を鬱陶しそうに足蹴にすると、少年の首をさらにきつく絞め上げ、ナイフを握る手に一層の力を込める。
だが——リヴの返答は、一筋の迷いすら含まれていなかった。
「何度言われてもお断りです」
「なっ……!?このガキの命がどうなってもいいのか!?」
予想だにしなかった即答に、バルトの顔が引きつる。
その狼狽えるバルトの言葉を遮るように、リヴは静かに言葉を重ねた。
「それと」
無表情なリヴの顔に、ごくわずかな——だが氷よりも冷たい怒りの色が宿っていた。
「二度と私の前に現れないでくださいね、と伝えたはずです」
——
それは到底、華奢な少女の姿から放たれたものとは思えぬ、圧倒的で濃密な威圧感。
周囲の空気が瞬時に凍りつき、背筋を悪寒が走ったバルトは、思わず息を呑んで後ずさる。
その、バルトの意識がわずかに逸れた一瞬の隙であった。
「うわあああっ!」
父親は捨て身でバルトに飛びかかった。我が子を床へ叩きつけるように突き飛ばして逃がすと、必死の力でナイフの刃を押さえ込み、もみ合いになる。
「ええい邪魔だ!離せ、離せぇっ!」
「行かせるか……っ!あの子には指一本触れさせんぞっ……!」
狂気じみた怒声と悲壮な絶叫が静まり返った部屋に交錯する。
バルトの醜悪な巨体と、我が子を護ろうとする父親の執念がもつれ合い、激しい音を立てて床へ転がる両者。
そして——ドスッ——と鈍い肉の音が響いた。
「ぐ……あっ……!」
時間が止まったかのような静寂。
父親の口から、重く短い苦悶の吐息が漏れる。
バルトの手に握られた鋭いナイフの刃が、父親の左腹部へと、柄の根元まで深く刺さっていた。
「あ……が……っ」
刺し貫かれた傷口から、生温かい鮮血が大量に飛散し、石畳を赤く染めていく。父親は力なく膝をつき、そのまま血溜まりの中へと崩れ落ちた。
「お……お父さん……?お父さんっ!?」
逃げ延びた少年が、足を引きずりながら倒れた父親のもとへ歩み寄ると、血に濡れた体を叫びながら揺する。
「ひっ……ひえええっ!わ、私は悪くないぞ!こいつが……こいつが向かってきたからだっ!」
己が犯した事態の重さ、そして手のひらに残る人を刺した生々しい感触に、バルトは完全にパニックを起こす。頭を抱えて後ずさり、脱兎のごとく闇の中へ一目散に逃げ去っていった。
石畳の上に広がる鮮血の海。その中央で横たわる父親の息は浅く、皮膚は急速に血の気を失って死人のような蒼白さに染まりつつある。
「お父さん……!お父さんっ……!!」
泣き叫ぶ少年が、父親の肩を必死に揺する。
リヴは迷うことなく父親の傍らへ膝をつくと、黒いマントの裾が血を吸うのも気にせず、傷口の確認を行う。
刺されたのは左下腹部。刺さったナイフの隙間から、どくどくと鮮血が溢れ出ていた。
「泣いている暇はありません。よく聞いてください」
リヴは少年の肩を掴み、その目をまっすぐに見つめた。
「今すぐ診療所へ行ってお医者さんに『お父さんが刺されて酷い血が出ている。運ぶための大きな板を持ってすぐに来てほしい』と伝えるのです。足が痛いでしょうけど、できるだけ急いでください」
「わっ……わかったっ!」
少年は涙を拭うと、痛む足を不器用に引きずりながら、必死の思いで夜の路地を駆け診療所へと向かって行く。
少年に指示を出した直後、リヴは素早く革鞄を開き、一巻の清潔なガーゼを取り出した。
そのままナイフを慎重に引き抜くと、開いた傷口へ向けて布端を直接深く押し込んでいく。ぬめり気のある肉の感触と生温かい血液が手指を包み込むが、リヴの手に迷いはない。出血源である奥の損傷部位へ届かせるように布を隙間なく詰め込み、その上から体重を乗せて傷口を力強く圧迫した。
「……ぐ、あ……っ」
激痛を伴う処置にもリヴは圧力を一切緩めることなく、血が布を染め上げていくのを抑え込みながら、医者が到着するまでの数分間、ただひたすら溢れ出る血を押し留め続けた。
* * *
やがて石畳を叩く足音とともに、老医師と助手たちが駆けつける。
「これは……ひどい……!君、手を離すなよ!」
そこからの流れは迅速だった。
医師たちは手際よく父親の身体を戸板の上へと滑り込ませると、傷口を手で押さえたままのリヴと共に、一刻を争う速さで診療所へと運び込んだ。
カンテラの明かりが照らす処置室へ担ぎ込まれ、台の上に乗せられたその時、リヴの顔を正面から見た老医師が、はっと目を見開いた。
「あんた……『奇跡の回復術師』じゃないか!なぜこんなところに……いや、好都合だ!あんたの力なら、この傷を塞げるだろう!頼む、力を貸してくれ!」
「……っ」
リヴは一瞬、苦々しく唇を強く噛み締めた。その瞳には、焦燥と葛藤の影が濃く揺らめいている。
「お断りします。回復術は……使いません」
絞り出すかのような返答こそ静穏だったが、そこには揺るぎない拒絶と、消し去れぬ悔恨が滲んでいた。
「な……っ!?そんな……どうして……っ!?」
信じられないとばかりに老医師の顔が歪む。だが、その惑いもほんの一瞬のことだった。
息も絶え絶えな患者の胸の上下を見つめると、老医師はすぐさま首を振り、首筋の汗を拭いながら意識を現実へと引き戻す。そんな無駄な疑問を口にしている時間すら、この患者には残されていないのだ。
「……くそっ!助手、消毒液と針、糸だ!急いで傷口を縫うぞ!」
リヴが止血をしている間に、老医師は手早くてきぱきと傷口を縫い合わせていく。一刻を争う現場で、流れる血を拭いながら、最善のスピードで傷を塞いでいく。
ほどなくして、すべての縫合が終わった。だが——失われた血液の量は、すでに致命的だった。
「傷は塞いだ……頼む……!」
必死の叫びも虚しく、指先に触れていた微かな脈動が、砂時計の最後の砂が落ちるように……ひとつ、またひとつと遠ざかっていく。
掠れた小さな吐息がひとつ、男の唇からこぼれ落ちた。それを最後に、胸の上下は二度と戻らなかった。
「……ダメか」
老医師が力なく手を下ろし、血塗られた腕で顔を覆った。処置室の扉の隙間から覗いていた少年が、ガタガタと震えながらその場に崩れ落ちる。
「お父さん……?お父さんっ!目を開けてよぉっ……!!」
少年の悲痛な慟哭が、冷たい壁に虚しく反響する。
老医師は血で汚れたシートを父親の顔まで引き上げると、胸の前で厳かに手を合わせた。リヴもまたその横で、失われた1つの生命という現象に対し、無言で深く頭を垂れた。
「すまない。わしの腕では……救ってやれなかった……」
リヴは老医師の掠れた呟きに何も答えることができない。
血のついた手を水で洗い流すと、そのまま夜の静寂の中へ立ち去った。
* * *
眩いばかりの光の中に、かつての光景が浮かび上がる。
「奇跡の回復術師」と持て囃され、多くの民衆から聖女のように仰がれていた頃の記憶だ。
怪我や病に苦しむ人々へ手を差し伸べ、数え切れない命を救ってきた日々。
だが——光に満ちた光景の背後には、常に色濃い影が張り付いていた。
過ぎたる奇跡を巡る争いに巻き込まれた者、奇跡を盲信して命を落とした者、彼女に関わったばかりに命を落とした者。
どれほど手を尽くそうと、奇跡の回復術師として生きる限り、彼女の足元には救えた命よりも遥かに多くの死が積み重なっていった。
静寂の中、ぬるりと足元を濡らす冷たい血の感触。
暗がりの中から伸びる幾多の影の先に、腹から溢れ出る血を押さえ、虚ろな目で彼女を見つめる男の姿があった。
——昨夜、手遅れになり救えなかった少年の父親。
『なぜ救ってくれなかった』
『お前が奇跡の術師などと噂されなければ』
『お前さえこの街に来なければ』
彼女に関わり、散っていった者たちの泥のような怨嗟の叫びが一斉に押し寄せ、リヴの視界を黒く塗り潰していく。
「…………」
暗闇から弾き出されるように、リヴは目を覚ます。
「……何度見ても、慣れないものですね」
ぽつりと呟き、軋むベッドから起き上がると、リヴは淡々と身支度を整えた。
そして静かに胸の前で手を合わせ、日課である朝の祈りを捧げる。
だが、その静寂は扉を激しく叩く音によって破られた。
ドンドン!と扉が壊れんばかりに鳴らされ、続いて階下や廊下を埋め尽くす不穏な喧騒と、民衆の切迫した叫びが一斉に押し寄せてくる。
「奇跡の回復術師様がいるというのは本当か!?」
「頼む、うちの娘の病気を治してくれ!」
「足を痛めて働けないんだ!術を使ってくれ!」
「バカ野郎俺が先だ!金なら出す!助けてくれ、奇跡の回復術師様!」
「お願いします!うちの亭主を救ってください!」
怒号、悲鳴、懇願。
昨夜、錯乱した町長バルトが「あの宿屋に奇跡の回復術師がいる」と街中に触れ回った結果だった。
己さえ救われればいいと他人を押しのける者、ただ必死にすがりつく者たちの混沌とした気配が、扉一枚を隔てたすぐ向こうまで押し寄せていた。
リヴは立ち上がると、鍵を外して隙間から自身の身体が収まる程度に、わずかだけ扉を開けた。
押し寄せた群衆の熱気と狂気じみた視線が、隙間に立つ少女へと突き刺さる。
溢れんばかりの人波を冷ややかに見つめながら、リヴは表情ひとつ変えず、口を開いた。
「皆さん」
ただ一言、感情の籠もらない透き通った声。
その一声で、群衆は息を呑み、次の『奇跡の言葉』を期待してピタリと静まり返った。
誰もが希望に目を輝かせる中、リヴは淡々と言い放つ。
「私は誰を治すこともいたしません。お祈り中ですので失礼します」
バタン、と素っ気なく扉が閉じられ、鍵がかけられる。
一瞬の静寂ののち——宿屋全体が揺れるほどの激しい怒号と、悲痛な叫び声が沸き立った。
「な、何を言ってるんだ!?ふざけるな!」
「待ってくれ!娘が、うちの幼い娘がもう長くないんだよ!」
「頼む、頼むから見殺しにしないでくれ!一目でいいから診てくれ!」
「扉を開けろ!開けてくれ!奇跡を見せてくれよ!」
怒りと絶望、そして狂おしいほどの哀願が入り混じる廊下の喧騒。
リヴは小さくため息をつくと、部屋の窓枠に手をかける。これ以上騒動が大きくなる前に、朝靄の残る裏路地へと窓から身を躍らせ、逃げるように宿を脱出した。
* * *
朝日が眩しく差し込み始めた街の門。
追手や群衆の目を眩まし、ようやく街の外へと踏み出そうとしたその時。
——コツン
後頭部に硬い衝撃が走り、リヴは足を止める。
足元に転がったのは、小さな石ころだった。
「はぁ……はぁ……っ!」
振り返ると、そこには息を荒らげた昨夜の少年が立っていた。
脇に差した松葉杖をがたがたと震わせながら、地面の石を拾い上げ、狂おしいほどの憎悪を込めてリヴへと投げつける。
「お前のせいだ!」
ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら、少年は石を投げることをやめない。
「人殺し!お前が父さんを殺したんだ!!」
小石がリヴの肩や胸を叩くが、リヴは避けることもせず、黙ってそれを受け止める。
父親を失った絶望と、何もしてくれなかった『奇跡の回復術師』への激しい呪詛。
リヴは投げつけられる石を受け止めながら、少年の足元へ視線を落とした。
怒りと悲しみに震えながらも、少年は逃げるリヴを追いかけ、松葉杖にすがりながらも踏ん張って立っている。
それはまぎれもなく、リヴが思い描く人の生きる姿そのものだった。
リヴの唇から、かすかな呟きが漏れる。
「お大事に」
それは、患者に向けた素っ気ない言葉。
今を生きる人間に向けて放つ唯一のメッセージ。
少年が次の石を振り上げるのを気にもとめず、リヴは背を向ける。
朝靄が晴れていく街道の先へ、
不治の回復術師をここまで読んでいただきありがとうございます。
ほぼ処女作かつ初のファンタジー作品ですが、楽しんでいただけたら幸いです。
そして作者となったことで、小説家たちの偉大さを改めて思い知りました。
リヴの物語を作っている途中は終始フリーレンやキノがずっと頭の中でグルグルと渦巻いており、オリジナル作品の難しさというものを痛感しているところです。
感想などいただければ今後の創作活動の励みになりますので、どんな感想でもいただければと思います。