その夜、町には灯がひとつもなかった。
大潮の夜はいつもそうだ。昼のうちに鐘が三度鳴らされ、人々は
杖の先が、凍りかけた砂利を噛む。
一歩ごとに膝が鳴った。若いころは、この坂を三段飛ばしで駆けのぼったものだ。いまは途中で二度、息を整えなければならない。
「先生、やっぱり台車を出しますから」
後ろから追いついてきた少女が、心配そうに言った。
「いいの。自分の足で登りたいのよ」
「でも」
「あなたは、あなたの子の機嫌を見ていてちょうだい。今夜はずっと歌ってもらうんだから」
少女は唇を結んで、丘の上の厩舎のほうを振り返った。そこでは彼女の艇が、膜を細かく震わせて待っている。骨と殻と、薄い翅のような膜でできた、生きた舟。主人の不安が伝わるのか、低く、短く、喉を鳴らすような音を立てていた。
丘の上に着くと、風が変わった。
見上げれば、空がある。
星のない、深い藍色の夜空。
その高いところに、淡い光の幕がかかっている。緑から薄紫へ、裾のほうだけほのかに薔薇色を帯びて、ゆっくりと波打ち、ほどけ、また重なる。
昼のあいだは青空に溶けて、ほとんど見えない。夕暮れになると幾筋かの光の帯になって浮かび上がり、夜にはこうして、空いっぱいに静かに揺れる。生まれたときからずっと頭の上にあって、この世界の誰もが、きれいだと思って見上げてきたもの。その向こうに本物の星空があることを知っている人間は、もうほとんどいない。
帳は今夜、いつになく濃く、そして薄かった。光の幕がいつもより鮮やかに揺れる一方で、ところどころ、幕の継ぎ目のような場所がほつれて、見たことのない星の並びが透けている。
老いた女は、丘のてっぺんに立つ巨大な皿を見上げた。
錆びたパラボラアンテナ。航星時代の、深宇宙通信局。古い記録にだけ残るその名前で呼ぶ者は、もういない。町の人間は「灯台」と呼ぶ。学園の生徒たちは「先生の皿」と呼ぶ。
骨組みには、六十年分の継ぎ当てがあった。溶接の跡。ボルト。替えた板。そのひとつひとつを、いつ、誰と、どうやって直したのか、彼女は全部覚えている。
「先生」
少女がまた言った。今度は、声が少し震えていた。
「……呼び座に座るのは、やっぱり先生じゃないとだめなんですか」
「だめなの」
老いた女は笑った。
「名前を呼ぶのは、その子のことをいちばんよく知っている人じゃないといけないの。あの子のことをいちばんよく知っているのは、もう、わたししかいないのよ」
少女はそれ以上なにも言わず、厩舎へ走っていった。
アンテナの脚には、鉄の梯子がついている。百二十七段。老いた女は杖を背中にくくりつけ、手袋をはめ直した。厚い革の手袋だ。手のひらはとうに擦り切れて、何度も継ぎ当てをしてある。
一段。また一段。
途中で一度だけ、下を見た。厩舎の前で、少女の艇がゆっくりと首をもたげるのが見えた。
百二十七段目の先に、皿の焦点がある。
骨組みの中心に吊るされた、小さな鉄の座席。〈呼び座〉。人がひとり、膝を抱えてやっと座れるほどの大きさしかない。
彼女はそこに腰を下ろし、首の襟巻きを巻き直した。
藍染めに、細い星の縞。学園の乗り手が代々巻いてきた柄だ。けれど彼女の襟巻きは、色がすっかり抜けて、灰色に近い。もともとは、彼女のものではなかった。ある人から受け継いだものだ。その人も、そのまた前の誰かから、それを受け継いだのかもしれない。
膝の上で、組んだ指をほどく。
腰に下げていた革の手帳を、両手で持った。
表紙には、古い羅針の紋が型押しされている。方位を示す針と、円。この世界で羅針を使う者はいない。空の上の帳の中には方向というものがないのだと、子どもでも知っている。だからこれは、役に立たない昔の飾りだ。
ずっと、そう思われてきた。
手帳の角は丸くすり減り、綴じ糸は三度替えた。中の紙は、潮の湿り気を吸っては乾き、また吸っては乾いて、波打っている。
足もとの鉄骨が、震えはじめた。
少女の艇が、歌いはじめたのだ。その歌は、もう、彼女の耳には届かない。
歌が、皿に集まる。
集まった歌が、空へ放たれていく。
老いた女は目を閉じた。
それから、名前を呼んだ。
若いころとは違う、しわがれた声で。それでも、六十年前と同じ響きで。何度も、何度も。空のどこかで、帳に引かれ、方向を失って漂っているはずの、十六歳のままの誰かの名前を。
――帰っておいで。
――ちゃんと、帰っておいで。
どれくらい呼んだだろう。
膝の上で、手帳の頁が風にめくられた。
目を開けると、最初の頁が開いていた。
まだ若く、角ばった、少し力の入りすぎた文字。インクは褪せて、茶色くなっている。
『汀原学舎 潮の日誌 一冊目』
その下に、小さく。
『ちゃんと書いておくこと』
老いた女は、ふっと笑った。こんなことを書いていたのだ、あのころの自分は。何を、誰のために、ちゃんと書いておくつもりだったのかも、まだわからないくせに。
頭の上で、帳がかすかに鳴った。
耳では聞こえない、骨に響く低い唸り。歯の根が、しん、と冷える。
来るかもしれない。来ないかもしれない。
どちらでもいい、と彼女は思った。歌い手の少女には、何があっても歌をやめずに、すぐ厩舎の陰へ退くように言ってある。そういうことは、ちゃんと教えた。教わった通りに。
白くなった長い三つ編みが、肩から胸のほうへ滑り落ちた。
それを指で払って、彼女は日誌の次の頁をめくった。
あの年のことを、ちゃんと思い出しておかなくちゃ、と思った。
あの子が帰ってきたら、話して聞かせてあげられるように。
六十年前の、早春の夜のことを。
空から、星がひとつ、落ちてきた夜のことを。