流星は還らない   作:lourou

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序章 六十年後の大潮

 その夜、町には灯がひとつもなかった。

 

 大潮の夜はいつもそうだ。昼のうちに鐘が三度鳴らされ、人々は天井戸(てんせい)のほうの安全圏へ避難していく。荷車を引く殻獣の列、背負われた子どもたち、戸口に打ちつけられた板。空っぽになった坂道を、老いた女は一人で上っていた。

 

 杖の先が、凍りかけた砂利を噛む。

 

 一歩ごとに膝が鳴った。若いころは、この坂を三段飛ばしで駆けのぼったものだ。いまは途中で二度、息を整えなければならない。

 

「先生、やっぱり台車を出しますから」

 

 後ろから追いついてきた少女が、心配そうに言った。汀原学舎(みぎわらがくしゃ)の乗り手の制服に、藍染めの襟巻き。十五になったばかりの、今年の歌い手だ。

 

「いいの。自分の足で登りたいのよ」

 

「でも」

 

「あなたは、あなたの子の機嫌を見ていてちょうだい。今夜はずっと歌ってもらうんだから」

 

 少女は唇を結んで、丘の上の厩舎のほうを振り返った。そこでは彼女の艇が、膜を細かく震わせて待っている。骨と殻と、薄い翅のような膜でできた、生きた舟。主人の不安が伝わるのか、低く、短く、喉を鳴らすような音を立てていた。

 

 丘の上に着くと、風が変わった。

 

 見上げれば、空がある。

 

 星のない、深い藍色の夜空。

 

 その高いところに、淡い光の幕がかかっている。緑から薄紫へ、裾のほうだけほのかに薔薇色を帯びて、ゆっくりと波打ち、ほどけ、また重なる。

 

 帳(とばり)だ。

 

 昼のあいだは青空に溶けて、ほとんど見えない。夕暮れになると幾筋かの光の帯になって浮かび上がり、夜にはこうして、空いっぱいに静かに揺れる。生まれたときからずっと頭の上にあって、この世界の誰もが、きれいだと思って見上げてきたもの。その向こうに本物の星空があることを知っている人間は、もうほとんどいない。

 

 帳は今夜、いつになく濃く、そして薄かった。光の幕がいつもより鮮やかに揺れる一方で、ところどころ、幕の継ぎ目のような場所がほつれて、見たことのない星の並びが透けている。

 

 老いた女は、丘のてっぺんに立つ巨大な皿を見上げた。

 

 錆びたパラボラアンテナ。航星時代の、深宇宙通信局。古い記録にだけ残るその名前で呼ぶ者は、もういない。町の人間は「灯台」と呼ぶ。学園の生徒たちは「先生の皿」と呼ぶ。

 

 骨組みには、六十年分の継ぎ当てがあった。溶接の跡。ボルト。替えた板。そのひとつひとつを、いつ、誰と、どうやって直したのか、彼女は全部覚えている。

 

「先生」

 

 少女がまた言った。今度は、声が少し震えていた。

 

「……呼び座に座るのは、やっぱり先生じゃないとだめなんですか」

 

「だめなの」

 

 老いた女は笑った。

 

「名前を呼ぶのは、その子のことをいちばんよく知っている人じゃないといけないの。あの子のことをいちばんよく知っているのは、もう、わたししかいないのよ」

 

 少女はそれ以上なにも言わず、厩舎へ走っていった。

 

 アンテナの脚には、鉄の梯子がついている。百二十七段。老いた女は杖を背中にくくりつけ、手袋をはめ直した。厚い革の手袋だ。手のひらはとうに擦り切れて、何度も継ぎ当てをしてある。

 

 一段。また一段。

 

 途中で一度だけ、下を見た。厩舎の前で、少女の艇がゆっくりと首をもたげるのが見えた。

 

 百二十七段目の先に、皿の焦点がある。

 

 骨組みの中心に吊るされた、小さな鉄の座席。〈呼び座〉。人がひとり、膝を抱えてやっと座れるほどの大きさしかない。

 

 彼女はそこに腰を下ろし、首の襟巻きを巻き直した。

 

 藍染めに、細い星の縞。学園の乗り手が代々巻いてきた柄だ。けれど彼女の襟巻きは、色がすっかり抜けて、灰色に近い。もともとは、彼女のものではなかった。ある人から受け継いだものだ。その人も、そのまた前の誰かから、それを受け継いだのかもしれない。

 

 膝の上で、組んだ指をほどく。

 

 腰に下げていた革の手帳を、両手で持った。

 

 表紙には、古い羅針の紋が型押しされている。方位を示す針と、円。この世界で羅針を使う者はいない。空の上の帳の中には方向というものがないのだと、子どもでも知っている。だからこれは、役に立たない昔の飾りだ。

 

 ずっと、そう思われてきた。

 

 手帳の角は丸くすり減り、綴じ糸は三度替えた。中の紙は、潮の湿り気を吸っては乾き、また吸っては乾いて、波打っている。

 

 足もとの鉄骨が、震えはじめた。

 

 少女の艇が、歌いはじめたのだ。その歌は、もう、彼女の耳には届かない。凪(なぎ)を迎えてから、ずいぶんになる。それでも、わかる。最初は細く、ためらうように。やがて、骨の奥まで響く低いうねりになって、アンテナの鉄骨を伝ってのぼってくる。皿がわずかに震え、錆の粉が、ぱらぱらと落ちた。

 

 歌が、皿に集まる。

 

 集まった歌が、空へ放たれていく。

 

 老いた女は目を閉じた。

 

 それから、名前を呼んだ。

 

 若いころとは違う、しわがれた声で。それでも、六十年前と同じ響きで。何度も、何度も。空のどこかで、帳に引かれ、方向を失って漂っているはずの、十六歳のままの誰かの名前を。

 

 ――帰っておいで。

 

 ――ちゃんと、帰っておいで。

 

 どれくらい呼んだだろう。

 

 膝の上で、手帳の頁が風にめくられた。

 

 目を開けると、最初の頁が開いていた。

 

 まだ若く、角ばった、少し力の入りすぎた文字。インクは褪せて、茶色くなっている。

 

 『汀原学舎 潮の日誌 一冊目』

 

 その下に、小さく。

 

 『ちゃんと書いておくこと』

 

 老いた女は、ふっと笑った。こんなことを書いていたのだ、あのころの自分は。何を、誰のために、ちゃんと書いておくつもりだったのかも、まだわからないくせに。

 

 頭の上で、帳がかすかに鳴った。

 

 耳では聞こえない、骨に響く低い唸り。歯の根が、しん、と冷える。

 

 来るかもしれない。来ないかもしれない。

 

 どちらでもいい、と彼女は思った。歌い手の少女には、何があっても歌をやめずに、すぐ厩舎の陰へ退くように言ってある。そういうことは、ちゃんと教えた。教わった通りに。

 

 白くなった長い三つ編みが、肩から胸のほうへ滑り落ちた。

 

 それを指で払って、彼女は日誌の次の頁をめくった。

 

 あの年のことを、ちゃんと思い出しておかなくちゃ、と思った。

 

 あの子が帰ってきたら、話して聞かせてあげられるように。

 

 六十年前の、早春の夜のことを。

 

 空から、星がひとつ、落ちてきた夜のことを。

 

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