流星は還らない   作:lourou

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第1章 天の口(2)

 最初に気づいたのは、メジロの連れていた殻獣だった。

 

 荷車を引くための、ずんぐりした小さな殻獣だ。それが突然、四本の脚を折って、地面に腹ばいになった。鼻先を砂にこすりつけ、膜の耳をぺたりと伏せる。

 

「どうしたの、ポポ」

 

 メジロが首をかしげた。

 

 次に、歯が鳴った。

 

 ヒバリの歯だ。奥歯の根っこが、じん、としびれる。耳では何も聞こえないのに、骨の内側が震えている。

 

 帳鳴り。

 

「――伏せろ」

 

 モズの声が、ひどく低かった。

 

 五人は同時に空を見上げた。

 

 夕方の、まだ明るい空だった。

 

 その真上にだけ、帳(とばり)が浮かび上がっていた。昼には見えないはずの光の幕が、ありえないほど濃く、緑と薄紫に揺れている。

 

 その一か所から、色が抜けていく。絞った布から水が抜けるみたいに、幕の真ん中から色が流れ出して、灰色の渦になっていく。渦はゆっくり回りながら、少しずつ大きくなる。

 

 渦の奥に、何かが透けた。

 

 点だ。

 

 白い、小さな点が、いくつも。見たことのない並び方で。

 

 星だ、とヒバリは思った。帳の向こうの、本物の星。

 

 目が、離せない。

 

「見るな!」

 

 ツグミがヒバリの頭を押さえつけた。ヒバリは砂に顔を打ちつけて、やっと渦から目を離した。

 

 寒い。

 

 急に、真冬の夜みたいに寒くなった。吐いた息が白くなる。手もとの小刀の刃に、みるみる霜が降りていく。耳が詰まって、自分の鼓動ばかりがやけに大きく聞こえた。

 

 髪が、逆立った。

 

 自分の髪が、頭の上へ、ふわりと浮く。

 

 顔のすぐ横で、砂粒が浮き上がった。

 

 ひとつ。ふたつ。それから、いっせいに。

 

 錆の砂が、小石が、鉄くずが、地面からはがれるように浮かんでいく。浮かんで、渦を巻いて、ゆっくりと空へ昇っていく。逆さまの雨だ。墜星原(ついせいげん)じゅうの錆が、灰色の渦に向かって吸いあげられていく。

 

「歌うな、呼ぶな、駆けるな」

 

 チドリが、震える声でつぶやいた。

 

 拾い子の掟だ。墜星原の子どもが、最初に覚える言葉。帳鳴りが来たら、艇の歌を殺せ。心を鎮めろ。動くな。伏せていろ。そうすれば、空に見つからないことがある。

 

 ヒバリはヨダカの首を抱えこみ、心核(しんかく)に手を当てた。

 

 ――静かに。静かに。

 

 ヨダカの喉の奥で、歌がくすぶっている。怖がっている。ヒバリの怖さが伝わって、もっと怖がる。

 

 ――あたしは怖くない。だから、静かに。

 

 嘘だった。

 

 そのとき、声が聞こえた。

 

 耳ではない。帳鳴りと同じ、骨の内側で。

 

 最初は、雑音のようだった。たくさんの人が、遠くで一度にしゃべっているような。それがだんだん、言葉になる。

 

 名前だ。

 

 誰かが、誰かの名前を呼んでいる。何百、何千という声が、それぞれ違う名前を。

 

 その中に、知っている声があった。

 

「……おかあさん?」

 

 メジロだった。

 

 九つの小さな体が、ゆっくりと起き上がっていた。顔が、笑っている。泣きそうな、うれしそうな顔で、空を見上げている。

 

「おかあさんの声がする。メジロって、呼んでる」

 

「メジロ、伏せて!」

 

 ツグミが叫んだ。

 

 メジロは聞いていなかった。灰色の渦の真下へ向かって、一歩、踏み出した。もう一歩。

 

 メジロの母親は、三年前に、空に呑まれた。

 

 ツグミが飛びかかった。メジロの体を抱きすくめて、砂の上に押し倒す。メジロは暴れた。「おかあさん、おかあさん」と、渦に向かって手を伸ばす。ツグミはその手を自分の手で包みこんで、離さなかった。

 

 どん、と地面が鳴った。

 

 拍動だ。

 

 地面の底から、巨大な心臓が一度だけ打ったような。腹の底に響く、重い震え。

 

「数えろ」とモズが言った。「七つだ」

 

 どん。

 

 ――二つ。

 

 ヒバリは数えながら、まわりを見た。

 

 墜星原。隠れ家まではまだ遠い。走っても、間に合わない。拾い子の艇は、天井戸(てんせい)のない場所では、地面すれすれしか飛べない。渦はちょうど、五人の真上にある。

 

 どん。

 

 ――三つ。

 

 灰色の渦の中心が、たわんだ。

 

 下へ。

 

 膜が、垂れてくる。

 

◇

 

 それは、巨大な管だった。

 

 光の幕と同じ色をかすかに残した、ぬめる膜でできた管が、渦の中心から、ゆっくりと地面へ向かって降りてくる。竜巻を逆さまにしたような形。太さは、さっきまでいた宇宙船の残骸と同じくらいあった。

 

 どん。

 

 ――四つ。

 

 管の表面は、ぬめるように光っていた。ときどき、その内側から、何かが膜を押し上げる。でこぼこと、手のひらの形に。顔の形に。浮かんでは、すぐに消える。

 

 ヒバリは歯を食いしばった。

 

 どん。

 

 ――五つ。

 

 管の先端が、口を開けはじめた。

 

 輪だ。

 

 膜のひだが、何重もの輪になっている。いちばん外の輪と、その内側の輪とが、互いに逆向きに、ゆっくり回っている。

 

 輪の縁に、何かが並んでいた。

 

 牙だ。

 

 いや、牙ではない。宇宙船の破片だ。折れた鉄骨だ。艇の骨だ。白くて細長い、あれは人の骨だ。これまで呑みこんできたものが、透きとおった結晶にくるまれて、輪の縁にびっしりと埋まっている。それが回る。噛み合うように、すり合うように。

 

 口の奥は、真っ黒だった。

 

 星も、何もない。底のない、黒。

 

 どん。

 

 ――六つ。

 

 口は、五人の真上にあった。

 

 ツグミはメジロを抱えたまま動けない。モズとチドリは、艇の首にしがみついて震えている。

 

 間に合わない。

 

 ヒバリは、そう思った。

 

 思ったときには、もう体が動いていた。

 

 ヨダカの背に飛び乗る。胚室(はいしつ)に体を沈め、心核を両手でつかむ。

 

「ヒバリ!?」

 

 ツグミの叫び声が聞こえた。

 

 ――歌って。

 

 ヒバリは、ヨダカの中に呼びかけた。

 

 ――全部で。ありったけで。歌って、ヨダカ。

 

 掟を、全部破る。

 

 ヨダカの喉が、開いた。

 

 低く、かすれた、ひどく大きな声だった。骨の奥から絞りだすような、みっともない、それでも遠くまで届く歌。ヨダカは地面を蹴って、跳んだ。地面すれすれを、真横へ。五人のいる場所から、全速で離れていく。

 

 口が、こちらを向いた。

 

 巨大な管が、首をひねるように曲がった。灰色の渦ごと、空がヒバリのほうへ傾いてくる。逆さ雨がうねり、錆の砂が、ヒバリを追って流れてくる。

 

 ――そうだ。こっちだ。

 

 ヒバリは振り返らなかった。

 

 ――こっちへ来い。あたしのほうが、うるさいでしょ。

 

 ヨダカが歌う。帳痕(ちょうこん)のガラスを飛び越え、残骸の影をくぐり、ひたすら真横へ。後ろで、ツグミが何か叫んでいる。モズが、チドリが叫んでいる。聞こえない。ヨダカの歌がうるさすぎて。

 

 どん。

 

 ――七つ。

 

 影が、ヒバリの上に落ちた。

 

 その瞬間、音が消えた。

 

 ヨダカの歌も、風も、仲間の叫び声も、自分の鼓動も。

 

 何もかもが、一度に消えた。

 

 完全な無音の中で、ヒバリの体が、浮いた。

 

 ヨダカごと。地面ごと。

 

 見上げると、黒い口が、目の前にあった。牙の輪が回っている。逆向きに、ゆっくりと、音もなく。

 

 膜の内側に、顔が浮かんだ。

 

 笑っていた。

 

 知らない顔だった。

 

 ヒバリは、目を閉じなかった。

 

 ――みんなは、逃げられたかな。

 

 最後に、それだけ思った。

 

◇

 

 方向がなかった。

 

 上も、下もなかった。前も後ろもない。手を伸ばしても、伸ばした先がどっちなのかわからない。

 

 暗くはなかった。明るくもなかった。

 

 声があった。

 

 声しか、なかった。

 

 何千、何万という声が、ヒバリのまわりを流れていく。

 

 名前を呼んでいる。

 

 知らない名前ばかりだった。男の声。女の声。子どもの声。年寄りの声。泣きながら。笑いながら。怒鳴りながら。ささやきながら。みんな、誰かの名前を呼んでいる。呼んで、呼んで、呼びつづけて、その声に、誰も答えない。

 

 ――誰?

 

 ヒバリは訊こうとした。声が出なかった。口がどこにあるのかもわからない。

 

 知らない記憶が、流れこんでくる。

 

 見たこともない部屋。知らない誰かの手。焼けた菓子の匂い。窓の外の、本物の青い空。誰かの泣き顔。星のあいだを渡っていく、巨大な船の腹。

 

 それが、ヒバリの記憶と混ざっていく。

 

 ヨダカの種を拾った日。ツグミの指の傷。焦げた芋の味。

 

 どれが自分のものなのか、わからなくなっていく。

 

 ――あたしは、

 

 自分の名前を、思い出そうとした。

 

 ――あたしは、誰だっけ。

 

 声が、ヒバリをくるみこむ。やわらかく。あたたかく。こっちへおいで、と呼んでいる。もう名前なんかいらない。みんなと一緒になればいい。そうすれば、もう誰も、ひとりで呼ばなくていい。

 

 それは、とても、楽そうだった。

 

 ヒバリは、溶けかけていた。

 

 そのとき。

 

 細い、細い、糸のようなものが、声の流れの中を通りすぎた。

 

 歌だった。

 

 艇の歌だ。

 

 ひとつではない。いくつかの艇が、声を合わせて歌っている。下手くそで、ばらばらで、途中で途切れそうになりながら、それでもやめずに。

 

 その歌い方を、ヒバリは知っていた。

 

 知っている気がした。

 

 どこで聞いたのか、思い出せない。誰の艇なのかも、わからない。ただ、その歌が通りすぎていった方向だけが、ほんの少しだけ、ほかとは違う感じがした。

 

 ヒバリは、そっちへ手を伸ばした。

 

 伸ばした、つもりだった。

 

 歌は細くなり、途切れかけ、また聞こえ、また途切れた。

 

 そのかわりに、別の声が聞こえた。

 

 しわがれた、年寄りの女の声だった。

 

 ひとつの名前を、呼んでいた。知らない名前だった。何度も。何度も。もう何年も、何十年も、そうやって呼びつづけてきたような声で。

 

 その声は、とても強かった。

 

 ヒバリは、その声の流れに、体ごと引っぱられた。

 

 落ちていく。

 

 初めて、方向というものが生まれた。

 

 下だ。

 

 ヒバリは、落ちていった。

 

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