最初に気づいたのは、メジロの連れていた殻獣だった。
荷車を引くための、ずんぐりした小さな殻獣だ。それが突然、四本の脚を折って、地面に腹ばいになった。鼻先を砂にこすりつけ、膜の耳をぺたりと伏せる。
「どうしたの、ポポ」
メジロが首をかしげた。
次に、歯が鳴った。
ヒバリの歯だ。奥歯の根っこが、じん、としびれる。耳では何も聞こえないのに、骨の内側が震えている。
帳鳴り。
「――伏せろ」
モズの声が、ひどく低かった。
五人は同時に空を見上げた。
夕方の、まだ明るい空だった。
その真上にだけ、
その一か所から、色が抜けていく。絞った布から水が抜けるみたいに、幕の真ん中から色が流れ出して、灰色の渦になっていく。渦はゆっくり回りながら、少しずつ大きくなる。
渦の奥に、何かが透けた。
点だ。
白い、小さな点が、いくつも。見たことのない並び方で。
星だ、とヒバリは思った。帳の向こうの、本物の星。
目が、離せない。
「見るな!」
ツグミがヒバリの頭を押さえつけた。ヒバリは砂に顔を打ちつけて、やっと渦から目を離した。
寒い。
急に、真冬の夜みたいに寒くなった。吐いた息が白くなる。手もとの小刀の刃に、みるみる霜が降りていく。耳が詰まって、自分の鼓動ばかりがやけに大きく聞こえた。
髪が、逆立った。
自分の髪が、頭の上へ、ふわりと浮く。
顔のすぐ横で、砂粒が浮き上がった。
ひとつ。ふたつ。それから、いっせいに。
錆の砂が、小石が、鉄くずが、地面からはがれるように浮かんでいく。浮かんで、渦を巻いて、ゆっくりと空へ昇っていく。逆さまの雨だ。
「歌うな、呼ぶな、駆けるな」
チドリが、震える声でつぶやいた。
拾い子の掟だ。墜星原の子どもが、最初に覚える言葉。帳鳴りが来たら、艇の歌を殺せ。心を鎮めろ。動くな。伏せていろ。そうすれば、空に見つからないことがある。
ヒバリはヨダカの首を抱えこみ、
――静かに。静かに。
ヨダカの喉の奥で、歌がくすぶっている。怖がっている。ヒバリの怖さが伝わって、もっと怖がる。
――あたしは怖くない。だから、静かに。
嘘だった。
そのとき、声が聞こえた。
耳ではない。帳鳴りと同じ、骨の内側で。
最初は、雑音のようだった。たくさんの人が、遠くで一度にしゃべっているような。それがだんだん、言葉になる。
名前だ。
誰かが、誰かの名前を呼んでいる。何百、何千という声が、それぞれ違う名前を。
その中に、知っている声があった。
「……おかあさん?」
メジロだった。
九つの小さな体が、ゆっくりと起き上がっていた。顔が、笑っている。泣きそうな、うれしそうな顔で、空を見上げている。
「おかあさんの声がする。メジロって、呼んでる」
「メジロ、伏せて!」
ツグミが叫んだ。
メジロは聞いていなかった。灰色の渦の真下へ向かって、一歩、踏み出した。もう一歩。
メジロの母親は、三年前に、空に呑まれた。
ツグミが飛びかかった。メジロの体を抱きすくめて、砂の上に押し倒す。メジロは暴れた。「おかあさん、おかあさん」と、渦に向かって手を伸ばす。ツグミはその手を自分の手で包みこんで、離さなかった。
どん、と地面が鳴った。
拍動だ。
地面の底から、巨大な心臓が一度だけ打ったような。腹の底に響く、重い震え。
「数えろ」とモズが言った。「七つだ」
どん。
――二つ。
ヒバリは数えながら、まわりを見た。
墜星原。隠れ家まではまだ遠い。走っても、間に合わない。拾い子の艇は、
どん。
――三つ。
灰色の渦の中心が、たわんだ。
下へ。
膜が、垂れてくる。
◇
それは、巨大な管だった。
光の幕と同じ色をかすかに残した、ぬめる膜でできた管が、渦の中心から、ゆっくりと地面へ向かって降りてくる。竜巻を逆さまにしたような形。太さは、さっきまでいた宇宙船の残骸と同じくらいあった。
どん。
――四つ。
管の表面は、ぬめるように光っていた。ときどき、その内側から、何かが膜を押し上げる。でこぼこと、手のひらの形に。顔の形に。浮かんでは、すぐに消える。
ヒバリは歯を食いしばった。
どん。
――五つ。
管の先端が、口を開けはじめた。
輪だ。
膜のひだが、何重もの輪になっている。いちばん外の輪と、その内側の輪とが、互いに逆向きに、ゆっくり回っている。
輪の縁に、何かが並んでいた。
牙だ。
いや、牙ではない。宇宙船の破片だ。折れた鉄骨だ。艇の骨だ。白くて細長い、あれは人の骨だ。これまで呑みこんできたものが、透きとおった結晶にくるまれて、輪の縁にびっしりと埋まっている。それが回る。噛み合うように、すり合うように。
口の奥は、真っ黒だった。
星も、何もない。底のない、黒。
どん。
――六つ。
口は、五人の真上にあった。
ツグミはメジロを抱えたまま動けない。モズとチドリは、艇の首にしがみついて震えている。
間に合わない。
ヒバリは、そう思った。
思ったときには、もう体が動いていた。
ヨダカの背に飛び乗る。
「ヒバリ!?」
ツグミの叫び声が聞こえた。
――歌って。
ヒバリは、ヨダカの中に呼びかけた。
――全部で。ありったけで。歌って、ヨダカ。
掟を、全部破る。
ヨダカの喉が、開いた。
低く、かすれた、ひどく大きな声だった。骨の奥から絞りだすような、みっともない、それでも遠くまで届く歌。ヨダカは地面を蹴って、跳んだ。地面すれすれを、真横へ。五人のいる場所から、全速で離れていく。
口が、こちらを向いた。
巨大な管が、首をひねるように曲がった。灰色の渦ごと、空がヒバリのほうへ傾いてくる。逆さ雨がうねり、錆の砂が、ヒバリを追って流れてくる。
――そうだ。こっちだ。
ヒバリは振り返らなかった。
――こっちへ来い。あたしのほうが、うるさいでしょ。
ヨダカが歌う。
どん。
――七つ。
影が、ヒバリの上に落ちた。
その瞬間、音が消えた。
ヨダカの歌も、風も、仲間の叫び声も、自分の鼓動も。
何もかもが、一度に消えた。
完全な無音の中で、ヒバリの体が、浮いた。
ヨダカごと。地面ごと。
見上げると、黒い口が、目の前にあった。牙の輪が回っている。逆向きに、ゆっくりと、音もなく。
膜の内側に、顔が浮かんだ。
笑っていた。
知らない顔だった。
ヒバリは、目を閉じなかった。
――みんなは、逃げられたかな。
最後に、それだけ思った。
◇
方向がなかった。
上も、下もなかった。前も後ろもない。手を伸ばしても、伸ばした先がどっちなのかわからない。
暗くはなかった。明るくもなかった。
声があった。
声しか、なかった。
何千、何万という声が、ヒバリのまわりを流れていく。
名前を呼んでいる。
知らない名前ばかりだった。男の声。女の声。子どもの声。年寄りの声。泣きながら。笑いながら。怒鳴りながら。ささやきながら。みんな、誰かの名前を呼んでいる。呼んで、呼んで、呼びつづけて、その声に、誰も答えない。
――誰?
ヒバリは訊こうとした。声が出なかった。口がどこにあるのかもわからない。
知らない記憶が、流れこんでくる。
見たこともない部屋。知らない誰かの手。焼けた菓子の匂い。窓の外の、本物の青い空。誰かの泣き顔。星のあいだを渡っていく、巨大な船の腹。
それが、ヒバリの記憶と混ざっていく。
ヨダカの種を拾った日。ツグミの指の傷。焦げた芋の味。
どれが自分のものなのか、わからなくなっていく。
――あたしは、
自分の名前を、思い出そうとした。
――あたしは、誰だっけ。
声が、ヒバリをくるみこむ。やわらかく。あたたかく。こっちへおいで、と呼んでいる。もう名前なんかいらない。みんなと一緒になればいい。そうすれば、もう誰も、ひとりで呼ばなくていい。
それは、とても、楽そうだった。
ヒバリは、溶けかけていた。
そのとき。
細い、細い、糸のようなものが、声の流れの中を通りすぎた。
歌だった。
艇の歌だ。
ひとつではない。いくつかの艇が、声を合わせて歌っている。下手くそで、ばらばらで、途中で途切れそうになりながら、それでもやめずに。
その歌い方を、ヒバリは知っていた。
知っている気がした。
どこで聞いたのか、思い出せない。誰の艇なのかも、わからない。ただ、その歌が通りすぎていった方向だけが、ほんの少しだけ、ほかとは違う感じがした。
ヒバリは、そっちへ手を伸ばした。
伸ばした、つもりだった。
歌は細くなり、途切れかけ、また聞こえ、また途切れた。
そのかわりに、別の声が聞こえた。
しわがれた、年寄りの女の声だった。
ひとつの名前を、呼んでいた。知らない名前だった。何度も。何度も。もう何年も、何十年も、そうやって呼びつづけてきたような声で。
その声は、とても強かった。
ヒバリは、その声の流れに、体ごと引っぱられた。
落ちていく。
初めて、方向というものが生まれた。
下だ。
ヒバリは、落ちていった。