流星は還らない   作:lourou

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第1章 天の口(3)

 ミオが寮を抜け出したのは、消灯の鐘が鳴って、ずいぶんたってからだった。

 

 汀原学舎(みぎわらがくしゃ)の寮は古い。廊下の板は踏むたびにきしむし、勝手口の戸は開けるとき必ず一度、ひっかかる。ミオはそれを全部知っていた。どの板を踏めば鳴らないか。戸をどの角度で持ち上げれば音がしないか。寮で暮らしはじめてから、何度もこうして夜に抜け出してきたからだ。

 

 外套の内ポケットには、手紙が入っていた。

 

 姉からの手紙だ。

 

 三日前に届いた。まだ一度も開けていなかった。

 

 寮の部屋では読みたくなかった。同室のコハルは寝つきがいいけれど、ときどき寝言で起きる。それに、読んだあと、自分がどんな顔をするのかわからなかった。

 

 丘を下りる小道は、真っ暗だった。

 

 ミオは手提げの中の温かい殻を軽く振った。殻の奥がぼうっと橙色に灯り、足もとを照らす。

 

 丘のふもとに、平らな岩がある。墜星原(ついせいげん)との境目だ。その先は、もう学園の土地ではない。鎮め杭(しずめぐい)の内側と外側の、ちょうど境目。

 

 ミオはそこに座り、温かい殻を膝に乗せた。

 

 それから、振り返って丘の上を見上げた。

 

 黒い空を背に、巨大な皿のシルエットが立っている。

 

 学園の、錆びたアンテナ。

 

 その皿の真ん中あたりに、小さな灯がひとつ、ともっていた。

 

 ああ、今夜も登ってる、とミオは思った。

 

 トキ先生だ。

 

 学園でただ一人の教官で、ただ一人の殻守(からもり)。七十八歳。腰は曲がって、片足を引きずっていて、口が悪い。その人が、毎晩、あのアンテナの上まで登っていく。百二十七段の梯子を、一人で。

 

 何をしているのかは、誰も知らない。訊いても、怒鳴られるだけだ。

 

 ミオは手紙に視線を戻した。

 

 封を切る。

 

 姉の、少し右に傾いた字。

 

『ミオへ。元気にしてる? こっちは相変わらず。工房の仕事にもだいぶ慣れました。もう空を見上げることも、あんまりなくなったよ。』

 

 ミオは、そこで一度、手紙を下ろした。

 

 去年まで、姉は汀原学舎のエースだった。誰よりも高く飛んだ。ミオは、いつも姉の後ろを追いかけていた。

 

 十九の春に、姉に凪(なぎ)が来た。

 

 共鳴が薄れて、艇の声が聞こえなくなる。乗り手としての終わり。誰にでもいつかは来るものだと、わかってはいた。

 

 姉は、泣かなかった。

 

 凪の儀式の日、自分の艇に最後の歌を聞かせて、次の乗り手に譲った。それから荷物をまとめて、町を出ていった。

 

 見送りに行ったミオに、姉は笑って言った。

 

 ――ミオは、まだ飛べるから、いいね。

 

 その顔を、ミオはいまでも忘れられない。

 

 手紙を、もう一度持ち上げる。

 

 続きを読もうとした。

 

 そのとき、空が光った。

 

 墜星原のほうだった。ずっと遠く、地平線に近いあたり。帳(とばり)の一か所が、灰色に濁っていた。渦を巻いている。そこから、細い糸のようなものが、地面へ向かって垂れている。

 

 降帳(こうちょう)だ。

 

 ミオは息をのんだ。

 

 ここからは、遠い。音も、振動も届かない。それでもミオの奥歯は、かすかにしびれた。

 

 灰色の糸は、しばらく地面に触れたまま揺れていた。それから、ゆっくりと縮んで、渦の中へ引き戻されていった。渦はほどけ、夜空にはまた、いつもの淡い光の幕だけが残った。

 

 誰かが、呑まれたのかもしれない。

 

 墜星原には、拾い子が住んでいると聞く。学園にも町にも属さない、名前のない子どもたち。

 

 ミオは、手紙を握りしめたまま、しばらく動けなかった。

 

 丘の上のアンテナでは、小さな灯がまだともっていた。

 

◇

 

 最初は、流れ星かと思った。

 

 帳の膜の、ずっと高いところ。そこに、針で突いたような白い点がひとつ、ぽつりと生まれた。

 

 点は、震えながら大きくなった。

 

 落ちてくる。

 

 こっちへ。

 

 ミオは立ち上がった。手紙が膝から落ちた。

 

 光は、尾を引いていなかった。流れ星なら、尾を引く。これは、ただまっすぐに、迷いなく、丘のほうへ落ちてくる。まるで、何かに引っぱられているみたいに。

 

 近づくにつれて、光の中に形が見えた。

 

 細長い、骨ばった影。

 

 艇だ。

 

 ミオがそう気づいた瞬間、光は丘のふもとの砂地に落ちた。

 

 音は、なかった。

 

 ほんの一瞬、あたりの空気がしんと冷えた。それから、ふわりと、あたたかい風が吹いた。

 

 ミオは走った。

 

 温かい殻を拾い上げて、砂地を蹴る。岩をよけ、鎮め杭の際を越える。

 

 落ちた場所の砂が、光っていた。

 

 小さな、浅い窪み。その底の砂が、溶けて、ガラスになっている。光の加減で緑や薄紫に移ろう、薄いガラス。墜星原の帳痕(ちょうこん)と同じものだと、教本の挿絵で見たことがあった。

 

 そのガラスの上に、艇が一艇、横たわっていた。

 

 細い艇だった。鳥の骨を引き伸ばしたような背骨に、継ぎはぎだらけの膜が張ってある。膜はところどころ裂けていて、裂け目から、しゅう、しゅう、と細い息が漏れていた。

 

 膜の一部が、夜空の帳と同じ色に光っていた。

 

 緑から薄紫へ、ゆっくり移ろう、オーロラの色に。

 

 艇の胚室(はいしつ)から、人がひとり、半分投げ出されていた。

 

 小柄な体だった。外套を着ている。外套というより、ぼろ布を何十枚も継ぎ合わせたようなものだ。いや、布ではない。光を透かしている。半透明の、薄い膜。翅のような細い脈が、網の目に走っている。

 

 艇の膜だ、とミオは気づいた。

 

 死んだ艇の膜を継いで、外套にしている。

 

 短い髪は、錆びたような赤茶色だった。自分で切ったのか、毛先がばらばらに不揃いだ。

 

 女の子だった。

 

 ミオと同じくらいの歳の。

 

「……ねえ」

 

 ミオは膝をついた。

 

 温かい殻をかざす。橙色の光が、その子の顔を照らした。

 

 頬に、煤がついていた。唇が青い。首から細い紐で、小さな巻貝のような殻を下げている。殻の表面に、真新しいひびが一本、走っていた。

 

「ねえ、聞こえる?」

 

 肩に触れると、氷のように冷たかった。

 

 息は、している。

 

 ミオがほっとした、そのとき。

 

 その子のまぶたが、震えた。

 

 薄く、目が開いた。

 

 右の目は、琥珀色だった。

 

 左の目は、違った。

 

 虹彩が、光っていた。

 

 淡い、淡い、オーロラのような色に。緑から薄紫へ、それからほのかな薔薇色へ。頭の上の夜空にかかる帳と、まったく同じ色に。光は、ゆっくりと揺れていた。帳がうねるのと同じ速さで。

 

 ミオは、動けなくなった。

 

 知っている、と思った。

 

 小さいころ、祖母から聞いたおとぎ話。空に呑まれて、それでも帰ってきた人の話。帰ってきた人は、年を取らなくなる。目に、帳の色を宿す。そして、いつかまた、空へ還っていく。

 

 ――還らない流星。

 

 祖母は、そう言っていた。

 

 子どもを怖がらせるための、ただの昔話だと思っていた。

 

 帳の色の目は、ミオを見ていなかった。焦点が合っていない。何かを探すように揺れて、それから、ふっと閉じた。

 

◇

 

 背負ってみると、思っていたより軽かった。

 

 軽すぎる、とミオは思った。骨と皮ばかりの体だ。外套の膜が、ミオの首筋でかさかさ鳴った。

 

 艇は、置いていくしかなかった。ミオの力では、とても運べない。

 

「すぐ、誰か呼んでくるから」

 

 ミオは艇に向かって言った。

 

 艇は答えなかった。膜の裂け目から漏れる息が、少しだけゆっくりになった気がした。

 

 丘の小道を登りはじめる。

 

 一段ごとに、背中の子が重くなっていく。足もとの石が転がる。温かい殻を口にくわえて、両手で子の足を抱え直す。

 

 半分ほど登ったところで、上から明かりが下りてきた。

 

 揺れる灯。それから、杖が石を突く音。

 

「誰だ」

 

 しわがれた声だった。

 

 ミオは殻を口から離した。

 

「ミオです。トキ先生」

 

「……錆浜(さびはま)の娘か。こんな夜中に、何を」

 

 トキ先生は言いかけて、口を閉じた。

 

 灯が、ミオの背中の子を照らしていた。

 

 継ぎはぎの膜の外套。拾い子の格好だ。

 

「拾いか」

 

 トキ先生が、短く言った。

 

「下に落ちてきたんです。空から。艇ごと。それで、目が――」

 

 ミオが言い終わる前に、トキ先生はミオの横に回りこんだ。灯を掲げ、背中の子の顔をのぞきこむ。節くれだった指で、そっと、子の左のまぶたを持ち上げる。

 

 淡い緑と薄紫の光が、灯の中で揺れた。

 

 トキ先生の顔が、変わった。

 

 ミオは、その顔から目を離せなかった。

 

 怒っているのでも、驚いているのでもなかった。何か、ひどく古い傷を、いきなり素手でつかまれたような顔だった。

 

 ほんの一瞬のことだった。

 

 トキ先生はまぶたから指を離し、ふいと顔をそむけた。

 

「医務室へ運べ。湯を沸かせ。毛布をありったけ持ってこい」

 

「は、はい」

 

「艇は」

 

「下の、砂地に。置いてきました」

 

「わしが見る。おまえは、その子を連れていけ」

 

 トキ先生は、杖をついて坂を下りはじめた。足を引きずりながら、驚くほど速く。

 

 ミオは、その小さな背中を見送った。

 

 それから、丘の上を見上げた。

 

 アンテナの真ん中の灯は、消えていた。

 

◇

 

 医務室の窓が白みはじめたころ、その子は目を覚ました。

 

 ミオは一晩じゅう、寝台の横の椅子に座っていた。湯たんぽを替え、毛布をかけ直し、ときどき息を確かめた。夜中に一度、コハルが寝ぼけまなこで様子を見にきて、また寝床へ戻っていった。

 

 トキ先生は、明け方近くに一度だけ顔を出した。艇は生きている、厩舎に入れた、とだけ言って、すぐに出ていった。

 

 その子が身じろぎしたのは、窓の外で最初の鳥が鳴いたときだった。

 

 まぶたが、ゆっくりと開いた。

 

 琥珀色の右目と、帳の色の左目が、天井を見つめた。

 

 しばらく、そうしていた。

 

 それから、ゆっくりと、首だけを動かして、ミオのほうを見た。

 

 焦点が、合った。

 

 今度は、ちゃんとミオを見ていた。

 

「……ここ、どこ」

 

 かすれた声だった。

 

「汀原学舎の、医務室」

 

 ミオは答えた。自分の声も、少しかすれていた。

 

「あなた、空から落ちてきたの。丘の下に。艇ごと。……覚えてる?」

 

 その子は答えなかった。

 

 ゆっくりと、自分の手を持ち上げる。指を開いて、閉じる。それから、その手を首もとへやった。

 

 巻貝の殻に、指が触れた。

 

 ひびの入った、小さな殻。

 

 その子は、しばらく殻を握っていた。

 

 何かを、思い出そうとしているような顔だった。

 

 それから、またミオを見た。

 

 帳の色をした左目が、ミオの顔を、まっすぐに映していた。

 

「ねえ」

 

「なに?」

 

「なんで、あたしを拾ったの?」

 

 ミオは、すぐには答えられなかった。

 

 窓の外で、鳥がもう一度鳴いた。

 

 答えなんて、なかった。拾おうと思って拾ったわけじゃない。目の前に落ちてきたから。冷たかったから。息をしていたから。ほかに、どうすればよかったのか、わからない。

 

 なのに、その子は本当に不思議そうな顔をしていた。

 

 なんで、と。

 

 自分を拾う理由なんて、この世界のどこにもないはずなのに、と。

 

 ミオは、膝の上で手を握った。

 

 握った手のひらに、まだ姉の手紙のくしゃくしゃの感触が残っていた。最後まで読めなかった、あの手紙の。

 

「……落ちてきたから」

 

 やっと、それだけ言えた。

 

 その子は、まばたきをした。

 

 オーロラの色の光が、まぶたの陰で、ゆっくりと揺れた。

 

 夜空の帳と、同じ速さで。

 

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