ミオが寮を抜け出したのは、消灯の鐘が鳴って、ずいぶんたってからだった。
外套の内ポケットには、手紙が入っていた。
姉からの手紙だ。
三日前に届いた。まだ一度も開けていなかった。
寮の部屋では読みたくなかった。同室のコハルは寝つきがいいけれど、ときどき寝言で起きる。それに、読んだあと、自分がどんな顔をするのかわからなかった。
丘を下りる小道は、真っ暗だった。
ミオは手提げの中の温かい殻を軽く振った。殻の奥がぼうっと橙色に灯り、足もとを照らす。
丘のふもとに、平らな岩がある。
ミオはそこに座り、温かい殻を膝に乗せた。
それから、振り返って丘の上を見上げた。
黒い空を背に、巨大な皿のシルエットが立っている。
学園の、錆びたアンテナ。
その皿の真ん中あたりに、小さな灯がひとつ、ともっていた。
ああ、今夜も登ってる、とミオは思った。
トキ先生だ。
学園でただ一人の教官で、ただ一人の
何をしているのかは、誰も知らない。訊いても、怒鳴られるだけだ。
ミオは手紙に視線を戻した。
封を切る。
姉の、少し右に傾いた字。
『ミオへ。元気にしてる? こっちは相変わらず。工房の仕事にもだいぶ慣れました。もう空を見上げることも、あんまりなくなったよ。』
ミオは、そこで一度、手紙を下ろした。
去年まで、姉は汀原学舎のエースだった。誰よりも高く飛んだ。ミオは、いつも姉の後ろを追いかけていた。
十九の春に、姉に
共鳴が薄れて、艇の声が聞こえなくなる。乗り手としての終わり。誰にでもいつかは来るものだと、わかってはいた。
姉は、泣かなかった。
凪の儀式の日、自分の艇に最後の歌を聞かせて、次の乗り手に譲った。それから荷物をまとめて、町を出ていった。
見送りに行ったミオに、姉は笑って言った。
――ミオは、まだ飛べるから、いいね。
その顔を、ミオはいまでも忘れられない。
手紙を、もう一度持ち上げる。
続きを読もうとした。
そのとき、空が光った。
墜星原のほうだった。ずっと遠く、地平線に近いあたり。
ミオは息をのんだ。
ここからは、遠い。音も、振動も届かない。それでもミオの奥歯は、かすかにしびれた。
灰色の糸は、しばらく地面に触れたまま揺れていた。それから、ゆっくりと縮んで、渦の中へ引き戻されていった。渦はほどけ、夜空にはまた、いつもの淡い光の幕だけが残った。
誰かが、呑まれたのかもしれない。
墜星原には、拾い子が住んでいると聞く。学園にも町にも属さない、名前のない子どもたち。
ミオは、手紙を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
丘の上のアンテナでは、小さな灯がまだともっていた。
◇
最初は、流れ星かと思った。
帳の膜の、ずっと高いところ。そこに、針で突いたような白い点がひとつ、ぽつりと生まれた。
点は、震えながら大きくなった。
落ちてくる。
こっちへ。
ミオは立ち上がった。手紙が膝から落ちた。
光は、尾を引いていなかった。流れ星なら、尾を引く。これは、ただまっすぐに、迷いなく、丘のほうへ落ちてくる。まるで、何かに引っぱられているみたいに。
近づくにつれて、光の中に形が見えた。
細長い、骨ばった影。
艇だ。
ミオがそう気づいた瞬間、光は丘のふもとの砂地に落ちた。
音は、なかった。
ほんの一瞬、あたりの空気がしんと冷えた。それから、ふわりと、あたたかい風が吹いた。
ミオは走った。
温かい殻を拾い上げて、砂地を蹴る。岩をよけ、鎮め杭の際を越える。
落ちた場所の砂が、光っていた。
小さな、浅い窪み。その底の砂が、溶けて、ガラスになっている。光の加減で緑や薄紫に移ろう、薄いガラス。墜星原の
そのガラスの上に、艇が一艇、横たわっていた。
細い艇だった。鳥の骨を引き伸ばしたような背骨に、継ぎはぎだらけの膜が張ってある。膜はところどころ裂けていて、裂け目から、しゅう、しゅう、と細い息が漏れていた。
膜の一部が、夜空の帳と同じ色に光っていた。
緑から薄紫へ、ゆっくり移ろう、オーロラの色に。
艇の
小柄な体だった。外套を着ている。外套というより、ぼろ布を何十枚も継ぎ合わせたようなものだ。いや、布ではない。光を透かしている。半透明の、薄い膜。翅のような細い脈が、網の目に走っている。
艇の膜だ、とミオは気づいた。
死んだ艇の膜を継いで、外套にしている。
短い髪は、錆びたような赤茶色だった。自分で切ったのか、毛先がばらばらに不揃いだ。
女の子だった。
ミオと同じくらいの歳の。
「……ねえ」
ミオは膝をついた。
温かい殻をかざす。橙色の光が、その子の顔を照らした。
頬に、煤がついていた。唇が青い。首から細い紐で、小さな巻貝のような殻を下げている。殻の表面に、真新しいひびが一本、走っていた。
「ねえ、聞こえる?」
肩に触れると、氷のように冷たかった。
息は、している。
ミオがほっとした、そのとき。
その子のまぶたが、震えた。
薄く、目が開いた。
右の目は、琥珀色だった。
左の目は、違った。
虹彩が、光っていた。
淡い、淡い、オーロラのような色に。緑から薄紫へ、それからほのかな薔薇色へ。頭の上の夜空にかかる帳と、まったく同じ色に。光は、ゆっくりと揺れていた。帳がうねるのと同じ速さで。
ミオは、動けなくなった。
知っている、と思った。
小さいころ、祖母から聞いたおとぎ話。空に呑まれて、それでも帰ってきた人の話。帰ってきた人は、年を取らなくなる。目に、帳の色を宿す。そして、いつかまた、空へ還っていく。
――還らない流星。
祖母は、そう言っていた。
子どもを怖がらせるための、ただの昔話だと思っていた。
帳の色の目は、ミオを見ていなかった。焦点が合っていない。何かを探すように揺れて、それから、ふっと閉じた。
◇
背負ってみると、思っていたより軽かった。
軽すぎる、とミオは思った。骨と皮ばかりの体だ。外套の膜が、ミオの首筋でかさかさ鳴った。
艇は、置いていくしかなかった。ミオの力では、とても運べない。
「すぐ、誰か呼んでくるから」
ミオは艇に向かって言った。
艇は答えなかった。膜の裂け目から漏れる息が、少しだけゆっくりになった気がした。
丘の小道を登りはじめる。
一段ごとに、背中の子が重くなっていく。足もとの石が転がる。温かい殻を口にくわえて、両手で子の足を抱え直す。
半分ほど登ったところで、上から明かりが下りてきた。
揺れる灯。それから、杖が石を突く音。
「誰だ」
しわがれた声だった。
ミオは殻を口から離した。
「ミオです。トキ先生」
「……
トキ先生は言いかけて、口を閉じた。
灯が、ミオの背中の子を照らしていた。
継ぎはぎの膜の外套。拾い子の格好だ。
「拾いか」
トキ先生が、短く言った。
「下に落ちてきたんです。空から。艇ごと。それで、目が――」
ミオが言い終わる前に、トキ先生はミオの横に回りこんだ。灯を掲げ、背中の子の顔をのぞきこむ。節くれだった指で、そっと、子の左のまぶたを持ち上げる。
淡い緑と薄紫の光が、灯の中で揺れた。
トキ先生の顔が、変わった。
ミオは、その顔から目を離せなかった。
怒っているのでも、驚いているのでもなかった。何か、ひどく古い傷を、いきなり素手でつかまれたような顔だった。
ほんの一瞬のことだった。
トキ先生はまぶたから指を離し、ふいと顔をそむけた。
「医務室へ運べ。湯を沸かせ。毛布をありったけ持ってこい」
「は、はい」
「艇は」
「下の、砂地に。置いてきました」
「わしが見る。おまえは、その子を連れていけ」
トキ先生は、杖をついて坂を下りはじめた。足を引きずりながら、驚くほど速く。
ミオは、その小さな背中を見送った。
それから、丘の上を見上げた。
アンテナの真ん中の灯は、消えていた。
◇
医務室の窓が白みはじめたころ、その子は目を覚ました。
ミオは一晩じゅう、寝台の横の椅子に座っていた。湯たんぽを替え、毛布をかけ直し、ときどき息を確かめた。夜中に一度、コハルが寝ぼけまなこで様子を見にきて、また寝床へ戻っていった。
トキ先生は、明け方近くに一度だけ顔を出した。艇は生きている、厩舎に入れた、とだけ言って、すぐに出ていった。
その子が身じろぎしたのは、窓の外で最初の鳥が鳴いたときだった。
まぶたが、ゆっくりと開いた。
琥珀色の右目と、帳の色の左目が、天井を見つめた。
しばらく、そうしていた。
それから、ゆっくりと、首だけを動かして、ミオのほうを見た。
焦点が、合った。
今度は、ちゃんとミオを見ていた。
「……ここ、どこ」
かすれた声だった。
「汀原学舎の、医務室」
ミオは答えた。自分の声も、少しかすれていた。
「あなた、空から落ちてきたの。丘の下に。艇ごと。……覚えてる?」
その子は答えなかった。
ゆっくりと、自分の手を持ち上げる。指を開いて、閉じる。それから、その手を首もとへやった。
巻貝の殻に、指が触れた。
ひびの入った、小さな殻。
その子は、しばらく殻を握っていた。
何かを、思い出そうとしているような顔だった。
それから、またミオを見た。
帳の色をした左目が、ミオの顔を、まっすぐに映していた。
「ねえ」
「なに?」
「なんで、あたしを拾ったの?」
ミオは、すぐには答えられなかった。
窓の外で、鳥がもう一度鳴いた。
答えなんて、なかった。拾おうと思って拾ったわけじゃない。目の前に落ちてきたから。冷たかったから。息をしていたから。ほかに、どうすればよかったのか、わからない。
なのに、その子は本当に不思議そうな顔をしていた。
なんで、と。
自分を拾う理由なんて、この世界のどこにもないはずなのに、と。
ミオは、膝の上で手を握った。
握った手のひらに、まだ姉の手紙のくしゃくしゃの感触が残っていた。最後まで読めなかった、あの手紙の。
「……落ちてきたから」
やっと、それだけ言えた。
その子は、まばたきをした。
オーロラの色の光が、まぶたの陰で、ゆっくりと揺れた。
夜空の帳と、同じ速さで。