その子はスープを三杯飲んだ。
芋と藻を煮こんだ、
その子は、それを両手で椀ごと抱えるようにして飲んだ。熱いのも構わず、ほとんど息もつかずに。三杯目を飲み干すと、椀の底に残った藻のかけらまで、指ですくって口に入れた。
「……おいしい?」
鍋を持ったまま、コハルがおそるおそる訊いた。
ミオと同室の十三歳の一年生だ。まだ共鳴に目覚めたばかりで、艇に乗るのは怖いくせに、厨房に立つと誰よりもてきぱき動く。今朝も、昨夜運ばれてきた子のために、まっさきに鍋を抱えてやってきた。
その子は椀から顔を上げた。
琥珀色の右目と、淡い緑と薄紫の光が揺れる左目が、コハルを見た。
「おいしい」
まっすぐな声だった。
コハルの頬がぱっと赤くなった。
「あの、あの、まだありますから。パンも。樹液を塗ったやつ」
「食べる」
コハルは厨房へ駆け出していった。
ミオは寝台の横の椅子に座ったまま、その子を見ていた。
夜明けに一度目を覚まして、「なんで、あたしを拾ったの?」と訊いて、それからまた眠ってしまった。次に起きたのは日が高くなってからだった。起きるなり、最初に口にしたのが「腹へった」で、その次が、
「ヨダカは」
だった。
今もまた、同じことを訊いた。
「ヨダカは、どこ」
「ヨダカって、あなたの艇?」
「うん」
「厩舎だ」
戸口から、しわがれた声がした。
トキ先生が立っていた。油で汚れた作業着の腰に、工具をじゃらじゃら下げている。
「生きてる。膜の裂け目は塞いでおいた。餌も食った。三日は飛ばすな」
「三日」
「三日だ。おまえも、艇もだ」
その子はトキ先生の顔をじっと見た。トキ先生は目を合わせなかった。
「……ありがと」
その子が言うと、トキ先生はふんと鼻を鳴らして、戸口から消えた。
ミオは昨夜のことを思い出していた。丘の坂道で、灯の中にこの子の左目を見たとき、トキ先生がした顔。古い傷を素手でつかまれたような、あの顔。
今のトキ先生はもういつもの不機嫌な先生に戻っていた。
「ねえ」
その子がミオを見た。
「あんた、名前は」
「ミオ。
「さびはま」
「この丘の下の町。……あなたは?」
その子は少し考えるような顔をした。
「ヒバリ」
「ヒバリ、の、前は?」
「前?」
「どこの町のヒバリ、っていう」
「ない」
ヒバリはあっさり言った。
「町、ないから。
◇
昼過ぎに、観測院の監察官がやってきた。
灰色の長い外套を着た、四十すぎの女の人だった。背筋がまっすぐで、歩き方が乗り手のそれだった。たぶん昔はどこかの学園で飛んでいたのだろう。観測院の職員の多くは、
トキ先生が案内してきた。先生は医務室には入らず、戸口の柱に寄りかかって腕を組んだ。コハルは、パンの皿を抱えたまま、部屋の隅で小さくなっていた。
監察官はヒバリの寝台の横に立ち、ヒバリの左目を、小さな拡大鏡でのぞきこんだ。長いこと、のぞいていた。それから帳面に何かを書きつけた。
「名前は」
「ヒバリ」
「年は」
「十六。……たぶん」
「昨夜、墜星原で
「呑まれた」
「
ヒバリは黙った。
監察官は少しだけ待った。それからペンを走らせた。
「答えられなくても構いません。たいていの人は、覚えていませんから」
監察官は帳面を閉じた。
「観測院の規則にしたがって、あなたを〈
部屋の隅で、コハルが息をのむ音がした。
「とどめぼし……って」
コハルの声は裏返っていた。
「あの、おとぎ話の、ですか。空に呑まれて、帰ってきて、年を取らなくなって、いつかまた空へ還っていく……」
「おとぎ話ではありません」
監察官はコハルのほうを見ずに言った。
「観測院の記録では、
「四人……」
「そのうちの一人は、あなたも名前を知っているでしょう」
コハルはこくこくとうなずいた。
「
ミオもその名前は知っていた。錆浜の子どもなら、誰でも知っている。
天輪学院のエース。潮汲みでは、誰もたどりつけない高さまで、たった一人で昇っていく白い艇。ミオの祖母が子どもだったころから、ずっと十六歳の姿のまま飛びつづけている人。町の大人たちは、その名前を口にするとき、いつも少しだけ声を落とした。崇めるように。そして、どこか、気味悪がるように。
――あの人は、わたしたちとは違う時間を生きているんだよ。
祖母はそう言っていた。
「留星は、凪を迎えません」
監察官は、ヒバリに向かって、ゆっくりと話しはじめた。教本を読み上げるような、平らな声だった。
「普通の乗り手は、十九か二十で艇の声が聞こえなくなる。留星は、何十年でも乗りつづけられます。共鳴も、普通の乗り手の何倍も強い。
監察官はそこで言葉を切った。
「だから、あなたはこれから、たくさんの人に欲しがられます。学園にも。町にも。そうでない者たちにも」
ヒバリは黙って聞いていた。わかっているのか、いないのか、ミオには読めなかった。
監察官はペンを帳面の上に置いた。
置いて、しばらく何も言わなかった。
さっきまでの平らな声とは違う間だった。
「それから、もう一つ」
監察官はヒバリの目をまっすぐに見た。
「あなたは、もう年を取りません」
部屋の中が、しんとした。
「体はいまのまま。背も、髪も、爪も、もう伸びません。けがは治りますし、病気にもなる。死なないわけではありません。でも、老いることはない」
監察官は一度だけ目を伏せた。
「……これを伝えるのは、わたしの仕事の中で、いちばん嫌な仕事です」
かつん、と乾いた音がした。
戸口のほうだった。
ミオが振り返ると、トキ先生の杖が床に倒れていた。トキ先生はそれを拾おうとしなかった。腕を組んだまま、どこか遠くを見ていた。それから、黙って杖を拾い上げ、何も言わずに廊下へ出ていった。
足を引きずる音が、遠ざかっていく。
「え、あの」
コハルがパンの皿を胸に抱きしめた。
「ずっと、ですか? ずっと、十六のまま? 大人にも、おばあちゃんにも、ならないんですか?」
「なりません」
「そんな……」
コハルの目にみるみる涙がたまった。自分のことでもないのに。コハルはそういう子だった。
ヒバリは首をかしげた。
「背、もう伸びないの?」
「伸びません」
「腹は減る?」
「減ります」
「眠くなる?」
「なります」
「ふうん」
ヒバリは少し考えるような顔をした。
「じゃあ、いいや。あんまり変わんない」
監察官はヒバリをじっと見つめた。
怒っているのでも、あきれているのでもなかった。ミオには、それが、遠い昔に一度見たものを、もう一度見ているような顔に見えた。
「……今は、そう思えるでしょうね」
監察官はそれだけ言った。
ミオは何も言えずにいた。
年を取らない。
その言葉は耳には入ってきた。意味も、わかった。けれどそれはおとぎ話の中の言葉だった。祖母の膝の上で、眠る前に聞いた話。白夜の女王の噂。遠い、
それが目の前の寝台の上にいる。
スープを三杯飲んで、パンを待っている、この子が。
ミオは気がつくと数えていた。
来年、自分は十七になる。その次の年は十八。ヒバリは十六。
二十歳になるころ、たぶん、自分にも凪が来る。姉と同じように。艇の声が聞こえなくなって、トモシを次の誰かに譲って、乗り手ではなくなる。
そのとき、ヒバリは十六歳でまだ飛んでいる。
ずっと。
――ずるい。
その言葉が、胸の奥からふっと浮かびあがってきて、ミオはぎくりとした。
ずるい、なんて。
空から落ちてきて、何もかもなくして、ぼろぼろで、スープを三杯も飲むくらいお腹をすかせていた子に。
ミオは膝の上で手を握りしめた。
姉の顔が浮かんだ。凪を迎えた日の泣かなかった姉の顔。――ミオは、まだ飛べるから、いいね。
あのとき、姉も、こんな気持ちだったのだろうか。
それから、もう一つ、もっと遠くのことが浮かびかけた。
自分が二十歳になっても、三十になっても、ヒバリは十六歳。
では、自分が、トキ先生くらいの年になったら。
腰が曲がって、杖をついて、白髪になった自分の横に、今と同じ顔のこの子が立っている。
ミオはそこで考えるのをやめた。
怖かったからだ。
何が怖いのかもまだうまく言えないのに。
ミオはヒバリの髪を見た。
錆びたような赤茶色の、自分で切ったらしい、不揃いな短い髪。耳の上の一房だけが、ぴょんと跳ねている。
この跳ねた一房も、もう、ずっとこのままなのだ。
監察官と入れ替わるようにもう一人客が来た。
真っ白な制服を着た、背の高い少女だった。胸に、金の輪の紋章。
天輪学院の生徒だ、とミオにはすぐにわかった。第七井戸のふもとにある、世界でいちばんの名門。大潮汲みで何年も首位を守っている学園。セツナさまのいる学園。
「天輪学院の使いで参りました」
少女はよく通る声で言って、ヒバリに一枚の書状を差し出した。
「留星となられたあなたを、本学院にお迎えしたいと、学院長が申しております。寮も、艇の厩舎も、最上のものをご用意します。もちろん、あなたの艇の治療も。留星をお迎えすることは、本学院だけでなく、第七井戸の町々すべての恵みにつながります」
ヒバリは書状を受け取らなかった。
「いらない」
「……え?」
「あたし、帰るから。墜星原に。仲間、探しに」
使いの少女は困ったようにミオのほうを見た。ミオはどんな顔をしていいかわからなかった。
「三日は飛ぶなと、言われていたはずですが」
「明日には飛ぶ」
ヒバリは寝台から足を下ろした。立ち上がろうとして、膝がかくんと折れた。
ミオはとっさに腕を伸ばして、その体を受け止めた。
軽かった。
昨夜背負ったときと同じくらい軽かった。
この軽さも、もう変わらないのだと、ミオは思った。