流星は還らない   作:lourou

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第2章 汀原のヒバリ(1)

 その子はスープを三杯飲んだ。

 

 芋と藻を煮こんだ、汀原学舎(みぎわらがくしゃ)の朝のスープだ。けっして美味しいものではない。寮生の誰もが毎朝「またこれか」という顔で啜っている。

 

 その子は、それを両手で椀ごと抱えるようにして飲んだ。熱いのも構わず、ほとんど息もつかずに。三杯目を飲み干すと、椀の底に残った藻のかけらまで、指ですくって口に入れた。

 

「……おいしい?」

 

 鍋を持ったまま、コハルがおそるおそる訊いた。

 

 ミオと同室の十三歳の一年生だ。まだ共鳴に目覚めたばかりで、艇に乗るのは怖いくせに、厨房に立つと誰よりもてきぱき動く。今朝も、昨夜運ばれてきた子のために、まっさきに鍋を抱えてやってきた。

 

 その子は椀から顔を上げた。

 

 琥珀色の右目と、淡い緑と薄紫の光が揺れる左目が、コハルを見た。

 

「おいしい」

 

 まっすぐな声だった。

 

 コハルの頬がぱっと赤くなった。

 

「あの、あの、まだありますから。パンも。樹液を塗ったやつ」

 

「食べる」

 

 コハルは厨房へ駆け出していった。

 

 ミオは寝台の横の椅子に座ったまま、その子を見ていた。

 

 夜明けに一度目を覚まして、「なんで、あたしを拾ったの?」と訊いて、それからまた眠ってしまった。次に起きたのは日が高くなってからだった。起きるなり、最初に口にしたのが「腹へった」で、その次が、

 

「ヨダカは」

 

 だった。

 

 今もまた、同じことを訊いた。

 

「ヨダカは、どこ」

 

「ヨダカって、あなたの艇?」

 

「うん」

 

「厩舎だ」

 

 戸口から、しわがれた声がした。

 

 トキ先生が立っていた。油で汚れた作業着の腰に、工具をじゃらじゃら下げている。

 

「生きてる。膜の裂け目は塞いでおいた。餌も食った。三日は飛ばすな」

 

「三日」

 

「三日だ。おまえも、艇もだ」

 

 その子はトキ先生の顔をじっと見た。トキ先生は目を合わせなかった。

 

「……ありがと」

 

 その子が言うと、トキ先生はふんと鼻を鳴らして、戸口から消えた。

 

 ミオは昨夜のことを思い出していた。丘の坂道で、灯の中にこの子の左目を見たとき、トキ先生がした顔。古い傷を素手でつかまれたような、あの顔。

 

 今のトキ先生はもういつもの不機嫌な先生に戻っていた。

 

「ねえ」

 

 その子がミオを見た。

 

「あんた、名前は」

 

「ミオ。錆浜(さびはま)のミオ」

 

「さびはま」

 

「この丘の下の町。……あなたは?」

 

 その子は少し考えるような顔をした。

 

「ヒバリ」

 

「ヒバリ、の、前は?」

 

「前?」

 

「どこの町のヒバリ、っていう」

 

「ない」

 

 ヒバリはあっさり言った。

 

「町、ないから。墜星原(ついせいげん)の、ヒバリ。……ううん。ただの、ヒバリ」

 

◇

 

 昼過ぎに、観測院の監察官がやってきた。

 

 灰色の長い外套を着た、四十すぎの女の人だった。背筋がまっすぐで、歩き方が乗り手のそれだった。たぶん昔はどこかの学園で飛んでいたのだろう。観測院の職員の多くは、凪(なぎ)を迎えて引退した元乗り手だと、ミオは授業で習ったことがある。

 

 トキ先生が案内してきた。先生は医務室には入らず、戸口の柱に寄りかかって腕を組んだ。コハルは、パンの皿を抱えたまま、部屋の隅で小さくなっていた。

 

 監察官はヒバリの寝台の横に立ち、ヒバリの左目を、小さな拡大鏡でのぞきこんだ。長いこと、のぞいていた。それから帳面に何かを書きつけた。

 

「名前は」

 

「ヒバリ」

 

「年は」

 

「十六。……たぶん」

 

「昨夜、墜星原で降帳(こうちょう)に呑まれた。間違いないですね」

 

「呑まれた」

 

「帳(とばり)の深みで、何を見ましたか」

 

 ヒバリは黙った。

 

 監察官は少しだけ待った。それからペンを走らせた。

 

「答えられなくても構いません。たいていの人は、覚えていませんから」

 

 監察官は帳面を閉じた。

 

「観測院の規則にしたがって、あなたを〈留星(とどめぼし)〉として登録します」

 

 部屋の隅で、コハルが息をのむ音がした。

 

「とどめぼし……って」

 

 コハルの声は裏返っていた。

 

「あの、おとぎ話の、ですか。空に呑まれて、帰ってきて、年を取らなくなって、いつかまた空へ還っていく……」

 

「おとぎ話ではありません」

 

 監察官はコハルのほうを見ずに言った。

 

「観測院の記録では、閉天(へいてん)から今日までに、留星は四十一人。いま生きているのは、この子を含めて四人です」

 

「四人……」

 

「そのうちの一人は、あなたも名前を知っているでしょう」

 

 コハルはこくこくとうなずいた。

 

「白夜(びゃくや)の女王さま。天輪学院(てんりんがくいん)の、セツナさま」

 

 ミオもその名前は知っていた。錆浜の子どもなら、誰でも知っている。

 

 天輪学院のエース。潮汲みでは、誰もたどりつけない高さまで、たった一人で昇っていく白い艇。ミオの祖母が子どもだったころから、ずっと十六歳の姿のまま飛びつづけている人。町の大人たちは、その名前を口にするとき、いつも少しだけ声を落とした。崇めるように。そして、どこか、気味悪がるように。

 

 ――あの人は、わたしたちとは違う時間を生きているんだよ。

 

 祖母はそう言っていた。

 

「留星は、凪を迎えません」

 

 監察官は、ヒバリに向かって、ゆっくりと話しはじめた。教本を読み上げるような、平らな声だった。

 

「普通の乗り手は、十九か二十で艇の声が聞こえなくなる。留星は、何十年でも乗りつづけられます。共鳴も、普通の乗り手の何倍も強い。汀(みぎわ)の、ほかの誰も行けない高さまで行ける。重い遺物を引ける。……留星が一人いる町は、潮汲みの取り分が倍になると言われています」

 

 監察官はそこで言葉を切った。

 

「だから、あなたはこれから、たくさんの人に欲しがられます。学園にも。町にも。そうでない者たちにも」

 

 ヒバリは黙って聞いていた。わかっているのか、いないのか、ミオには読めなかった。

 

 監察官はペンを帳面の上に置いた。

 

 置いて、しばらく何も言わなかった。

 

 さっきまでの平らな声とは違う間だった。

 

「それから、もう一つ」

 

 監察官はヒバリの目をまっすぐに見た。

 

「あなたは、もう年を取りません」

 

 部屋の中が、しんとした。

 

「体はいまのまま。背も、髪も、爪も、もう伸びません。けがは治りますし、病気にもなる。死なないわけではありません。でも、老いることはない」

 

 監察官は一度だけ目を伏せた。

 

「……これを伝えるのは、わたしの仕事の中で、いちばん嫌な仕事です」

 

 かつん、と乾いた音がした。

 

 戸口のほうだった。

 

 ミオが振り返ると、トキ先生の杖が床に倒れていた。トキ先生はそれを拾おうとしなかった。腕を組んだまま、どこか遠くを見ていた。それから、黙って杖を拾い上げ、何も言わずに廊下へ出ていった。

 

 足を引きずる音が、遠ざかっていく。

 

「え、あの」

 

 コハルがパンの皿を胸に抱きしめた。

 

「ずっと、ですか? ずっと、十六のまま? 大人にも、おばあちゃんにも、ならないんですか?」

 

「なりません」

 

「そんな……」

 

 コハルの目にみるみる涙がたまった。自分のことでもないのに。コハルはそういう子だった。

 

 ヒバリは首をかしげた。

 

「背、もう伸びないの?」

 

「伸びません」

 

「腹は減る?」

 

「減ります」

 

「眠くなる?」

 

「なります」

 

「ふうん」

 

 ヒバリは少し考えるような顔をした。

 

「じゃあ、いいや。あんまり変わんない」

 

 監察官はヒバリをじっと見つめた。

 

 怒っているのでも、あきれているのでもなかった。ミオには、それが、遠い昔に一度見たものを、もう一度見ているような顔に見えた。

 

「……今は、そう思えるでしょうね」

 

 監察官はそれだけ言った。

 

 ミオは何も言えずにいた。

 

 年を取らない。

 

 その言葉は耳には入ってきた。意味も、わかった。けれどそれはおとぎ話の中の言葉だった。祖母の膝の上で、眠る前に聞いた話。白夜の女王の噂。遠い、天井戸(てんせい)の向こうの、自分とは関係のない世界の話。

 

 それが目の前の寝台の上にいる。

 

 スープを三杯飲んで、パンを待っている、この子が。

 

 ミオは気がつくと数えていた。

 

 来年、自分は十七になる。その次の年は十八。ヒバリは十六。

 

 二十歳になるころ、たぶん、自分にも凪が来る。姉と同じように。艇の声が聞こえなくなって、トモシを次の誰かに譲って、乗り手ではなくなる。

 

 そのとき、ヒバリは十六歳でまだ飛んでいる。

 

 ずっと。

 

 ――ずるい。

 

 その言葉が、胸の奥からふっと浮かびあがってきて、ミオはぎくりとした。

 

 ずるい、なんて。

 

 空から落ちてきて、何もかもなくして、ぼろぼろで、スープを三杯も飲むくらいお腹をすかせていた子に。

 

 ミオは膝の上で手を握りしめた。

 

 姉の顔が浮かんだ。凪を迎えた日の泣かなかった姉の顔。――ミオは、まだ飛べるから、いいね。

 

 あのとき、姉も、こんな気持ちだったのだろうか。

 

 それから、もう一つ、もっと遠くのことが浮かびかけた。

 

 自分が二十歳になっても、三十になっても、ヒバリは十六歳。

 

 では、自分が、トキ先生くらいの年になったら。

 

 腰が曲がって、杖をついて、白髪になった自分の横に、今と同じ顔のこの子が立っている。

 

 ミオはそこで考えるのをやめた。

 

 怖かったからだ。

 

 何が怖いのかもまだうまく言えないのに。

 

 ミオはヒバリの髪を見た。

 

 錆びたような赤茶色の、自分で切ったらしい、不揃いな短い髪。耳の上の一房だけが、ぴょんと跳ねている。

 

 この跳ねた一房も、もう、ずっとこのままなのだ。

 

 監察官と入れ替わるようにもう一人客が来た。

 

 真っ白な制服を着た、背の高い少女だった。胸に、金の輪の紋章。

 

 天輪学院の生徒だ、とミオにはすぐにわかった。第七井戸のふもとにある、世界でいちばんの名門。大潮汲みで何年も首位を守っている学園。セツナさまのいる学園。

 

「天輪学院の使いで参りました」

 

 少女はよく通る声で言って、ヒバリに一枚の書状を差し出した。

 

「留星となられたあなたを、本学院にお迎えしたいと、学院長が申しております。寮も、艇の厩舎も、最上のものをご用意します。もちろん、あなたの艇の治療も。留星をお迎えすることは、本学院だけでなく、第七井戸の町々すべての恵みにつながります」

 

 ヒバリは書状を受け取らなかった。

 

「いらない」

 

「……え?」

 

「あたし、帰るから。墜星原に。仲間、探しに」

 

 使いの少女は困ったようにミオのほうを見た。ミオはどんな顔をしていいかわからなかった。

 

「三日は飛ぶなと、言われていたはずですが」

 

「明日には飛ぶ」

 

 ヒバリは寝台から足を下ろした。立ち上がろうとして、膝がかくんと折れた。

 

 ミオはとっさに腕を伸ばして、その体を受け止めた。

 

 軽かった。

 

 昨夜背負ったときと同じくらい軽かった。

 

 この軽さも、もう変わらないのだと、ミオは思った。

 

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