その日の夕食のあと、カスミ先輩が、食堂に全員を集めた。
全員といっても多くない。カスミ先輩。ミオ。コハル。上級生があと三人。それに、トキ先生と、拾い子たち。
カスミ先輩は一本の襟巻きをヒバリに差し出した。
藍染めの布に、細い星の縞。
「これは、うちの乗り手の印。チームの襟巻き」
ヒバリはそれを受け取った。両手で広げて、しげしげと眺める。
「新品?」
「新品。まだ誰も巻いてない」
カスミ先輩は自分の首の襟巻きに触れた。端がほつれて、色が少し抜けている。
「うちのチームには、決まり文句がある。一つだけ覚えておいて」
「なに」
「全員で帰る。それが、潮汲みだ」
ヒバリは少し首をかしげた。それから何も言わずに襟巻きを首に巻いた。
外套の上から。
継ぎはぎの膜の外套は、脱がなかった。藍色の襟巻きが錆色の外套の襟もとでひどく目立った。
コハルがくすっと笑った。
「似合ってます」
「そう?」
「はい。なんか、拾い子さんと、うちの子と、両方って感じで」
ヒバリは自分の胸もとを見下ろした。それから、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「それから、もう一つ」
カスミ先輩が食堂の奥の柱を指さした。
黒ずんだ、太い木の柱だ。食堂ができたときからそこにあるという、古い柱。その表面に、びっしりと、刻み目が入っている。
名前と、横線。
何十、何百という名前と線が、床から、背伸びしても届かない高さまで、重なりあって刻まれていた。上のほうの名前はもう薄れて読めない。
「入学した日と、季節が変わって最初の潮の日に、ここに背丈を刻むんだ。汀原学舎の、昔からの決まり」
ミオは自分の名前を探した。
自分の頭の高さのあたりに、まだ新しい刻み目がいくつか並んでいる。『ミオ』。その少し上に、少し古い、別の筆跡の刻み目。『アカリ』。
姉の名前だ。
「ヒバリ、立って」
カスミ先輩に言われて、ヒバリは柱の前に立った。背中を柱につける。
「背、測ったことある?」
「ない」
「じゃあ、これが最初だ」
カスミ先輩は小刀を取り出して、ミオに差し出した。
「ミオ。おまえが刻んでやれ。拾ったんだろう」
ミオは小刀を受け取った。
ヒバリの頭の上に、手のひらを水平に当てる。錆色の跳ねた一房が、手のひらをくすぐった。
その高さに小刀で横線を刻む。
木の削れる、乾いた音。
それから、その横に名前を刻んだ。
『
刻みながら、ミオの手は少し震えた。
この線は、もう上には伸びないのだ。
監察官はそう言っていた。
次の季節の潮の日にも、その次の季節にも。ヒバリが何度この柱の前に立っても、新しい線は、今日のこの線と、まったく同じ高さに刻まれる。
ヒバリは背中を柱から離して振り返った。
刻まれた自分の名前をじっと見つめた。
「……汀原の、ヒバリ」
口の中で、小さく転がすように言った。
それから、首の襟巻きにそっと触れた。
◇
その夜、ヒバリはミオとコハルの部屋で寝ることになった。
空いている寝台が、そこにしかなかったからだ。コハルは大喜びで、自分の毛布を一枚ヒバリに貸した。寝台に入って一分もしないうちに、コハル自身はもう寝息を立てていた。
ミオは窓辺に座っていた。
ヒバリは寝台の上で膝を抱えていた。外套を着たまま。襟巻きも、巻いたまま。
「寝ないの?」
ミオが訊くと、ヒバリは首を振った。
「屋根の下で寝るの、変な感じがする」
「そのうち慣れるよ」
「慣れるかな」
ミオは窓の外を見た。
夜空は深い藍色だった。
星はない。この世界の夜空には、星は見えない。そのかわりに
ミオはその空が好きだった。小さいころから、ずっと。
丘の上のほうに黒い大きな影が見えた。
錆びたアンテナ。
その梯子のあたりを、小さな灯が、ゆっくり、ゆっくりと上へ昇っていく。
「ヒバリ」
ミオは窓の外を指さした。
「見て。あそこ」
ヒバリが寝台から身を乗り出した。
「なに、あれ」
「トキ先生。毎晩、あそこに登ってるの」
「毎晩?」
「毎晩。わたしが入学する前から、ずっとだって。あの梯子、百二十七段あるの。片足、悪いのに」
「何してるの」
「誰も知らない」
ミオは窓枠に頬杖をついた。
「訊いても、怒鳴られるだけ。上で何をしてるのか、誰も見たことがないの」
ヒバリは、窓に額をつけるようにして、その灯を見上げていた。
灯は、梯子のてっぺんまで昇りきると、皿の真ん中あたりで止まった。そこで小さく揺れていた。
ヒバリの左目に、窓の外の帳の光が映っていた。
緑から薄紫へ。空と同じ速さでゆっくりと揺れている。
ヒバリは、長いこと、何も言わなかった。
何かを思い出そうとしているような顔だった。けれど、何を思い出そうとしているのか、たぶん、本人にもわかっていない。
「ねえ」
窓に額をつけたまま、ヒバリが言った。
「年、取らないって、どういうこと?」
ミオはすぐには答えられなかった。
監察官の前では「ふうん」としか言わなかった子が、今になって訊いている。
「……わたしが、来年、十七になっても、ヒバリは十六のまま」
「うん」
「わたしが二十になって、
「うん」
「わたしが、トキ先生くらいの、おばあちゃんになっても」
そこで、ミオの声は少し詰まった。
「……ヒバリは、十六のまま」
ヒバリは窓から額を離した。
ミオのほうを見た。帳の色の左目が暗い部屋の中でほのかに揺れていた。
「ミオが、ばあちゃんになるの?」
「なるよ。いつか」
「ふうん」
あのときと同じ言葉だった。
けれど、あのときとは、少しだけ違う響きだった。
ヒバリは自分の手のひらを見た。指を開いて閉じた。それから、何かを確かめるように、首もとの襟巻きに触れた。
「……変なの」
それだけ言って、ヒバリは寝台に戻った。外套にくるまって、壁のほうを向いて横になった。
「おやすみ、ミオ」
初めて、名前を呼ばれた。
「……おやすみ、ヒバリ」
しばらくすると、静かな寝息が聞こえてきた。
ミオは、窓辺に座ったまま、自分の荷物の中から一冊の手帳を取り出した。
小さな、革の手帳だった。
姉が町を出ていく日にくれたものだ。表紙に、古い羅針の紋が型押しされている。方位を示す針と、円。
――役に立たない、昔の飾りだけどね。ミオなら、何か書くことがあるでしょ。
姉はそう言って笑った。
もらってから一年、ミオは一文字も書いていなかった。何を書けばいいのか、わからなかったから。
ミオは、温かい殻の灯を手もとに引き寄せて、手帳を開いた。
真っ白な、最初の頁。
ペンを取る。
少し考えてから、頁のいちばん上に丁寧に書いた。
『汀原学舎 潮の日誌 一冊目』
それから、その下に、少しだけ小さな字で書き足した。
『ちゃんと書いておくこと』
何を、誰のために、ちゃんと書いておくのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、この子のことを、書いておかなくちゃいけないと思った。
この子の髪の長さも。背丈の線も。初めて名前を呼ばれた夜のことも。
いつか、この子だけが、このままの姿で残る日のために。
ミオはペンを走らせた。
『早春の夜。空から、女の子が落ちてきた。』
『名前は、ヒバリ。
そこまで書いて、ペンが止まった。
少し迷ってから続けた。
『少しだけ、ずるいと思った。』
書いてしまってから、ミオはその一行をじっと見つめた。
それから、上から何本も線を引いて消した。読めなくなるまで。
消した一行の下にもう一行だけ書いた。
『ヒバリの髪は、耳の上の一房だけが、跳ねている。』
窓の外では、帳の光が、静かに揺れていた。