流星は還らない   作:lourou

8 / 8
第2章 汀原のヒバリ(4)

 その日の夕食のあと、カスミ先輩が、食堂に全員を集めた。

 

 全員といっても多くない。カスミ先輩。ミオ。コハル。上級生があと三人。それに、トキ先生と、拾い子たち。

 

 カスミ先輩は一本の襟巻きをヒバリに差し出した。

 

 藍染めの布に、細い星の縞。

 

 汀原学舎(みぎわらがくしゃ)の乗り手が、代々巻いてきた柄だ。

 

「これは、うちの乗り手の印。チームの襟巻き」

 

 ヒバリはそれを受け取った。両手で広げて、しげしげと眺める。

 

「新品?」

 

「新品。まだ誰も巻いてない」

 

 カスミ先輩は自分の首の襟巻きに触れた。端がほつれて、色が少し抜けている。

 

「うちのチームには、決まり文句がある。一つだけ覚えておいて」

 

「なに」

 

「全員で帰る。それが、潮汲みだ」

 

 ヒバリは少し首をかしげた。それから何も言わずに襟巻きを首に巻いた。

 

 外套の上から。

 

 継ぎはぎの膜の外套は、脱がなかった。藍色の襟巻きが錆色の外套の襟もとでひどく目立った。

 

 コハルがくすっと笑った。

 

「似合ってます」

 

「そう?」

 

「はい。なんか、拾い子さんと、うちの子と、両方って感じで」

 

 ヒバリは自分の胸もとを見下ろした。それから、ほんの少しだけ口の端を上げた。

 

「それから、もう一つ」

 

 カスミ先輩が食堂の奥の柱を指さした。

 

 黒ずんだ、太い木の柱だ。食堂ができたときからそこにあるという、古い柱。その表面に、びっしりと、刻み目が入っている。

 

 名前と、横線。

 

 何十、何百という名前と線が、床から、背伸びしても届かない高さまで、重なりあって刻まれていた。上のほうの名前はもう薄れて読めない。

 

「入学した日と、季節が変わって最初の潮の日に、ここに背丈を刻むんだ。汀原学舎の、昔からの決まり」

 

 ミオは自分の名前を探した。

 

 自分の頭の高さのあたりに、まだ新しい刻み目がいくつか並んでいる。『ミオ』。その少し上に、少し古い、別の筆跡の刻み目。『アカリ』。

 

 姉の名前だ。

 

「ヒバリ、立って」

 

 カスミ先輩に言われて、ヒバリは柱の前に立った。背中を柱につける。

 

「背、測ったことある?」

 

「ない」

 

「じゃあ、これが最初だ」

 

 カスミ先輩は小刀を取り出して、ミオに差し出した。

 

「ミオ。おまえが刻んでやれ。拾ったんだろう」

 

 ミオは小刀を受け取った。

 

 ヒバリの頭の上に、手のひらを水平に当てる。錆色の跳ねた一房が、手のひらをくすぐった。

 

 その高さに小刀で横線を刻む。

 

 木の削れる、乾いた音。

 

 それから、その横に名前を刻んだ。

 

 『汀原(みぎわら)のヒバリ』

 

 刻みながら、ミオの手は少し震えた。

 

 この線は、もう上には伸びないのだ。

 

 監察官はそう言っていた。

 

 次の季節の潮の日にも、その次の季節にも。ヒバリが何度この柱の前に立っても、新しい線は、今日のこの線と、まったく同じ高さに刻まれる。

 

 ヒバリは背中を柱から離して振り返った。

 

 刻まれた自分の名前をじっと見つめた。

 

「……汀原の、ヒバリ」

 

 口の中で、小さく転がすように言った。

 

 それから、首の襟巻きにそっと触れた。

 

◇

 

 その夜、ヒバリはミオとコハルの部屋で寝ることになった。

 

 空いている寝台が、そこにしかなかったからだ。コハルは大喜びで、自分の毛布を一枚ヒバリに貸した。寝台に入って一分もしないうちに、コハル自身はもう寝息を立てていた。

 

 ミオは窓辺に座っていた。

 

 ヒバリは寝台の上で膝を抱えていた。外套を着たまま。襟巻きも、巻いたまま。

 

「寝ないの?」

 

 ミオが訊くと、ヒバリは首を振った。

 

「屋根の下で寝るの、変な感じがする」

 

「そのうち慣れるよ」

 

「慣れるかな」

 

 ミオは窓の外を見た。

 

 夜空は深い藍色だった。

 

 星はない。この世界の夜空には、星は見えない。そのかわりに帳(とばり)がある。昼のあいだは青空に溶けて見えなかった光が、夜になると、空いっぱいに浮かび上がる。緑から薄紫へ、裾のほうだけほのかに薔薇色を帯びた光の幕が、ゆっくりと、ゆっくりと揺れている。

 

 ミオはその空が好きだった。小さいころから、ずっと。

 

 丘の上のほうに黒い大きな影が見えた。

 

 錆びたアンテナ。

 

 その梯子のあたりを、小さな灯が、ゆっくり、ゆっくりと上へ昇っていく。

 

「ヒバリ」

 

 ミオは窓の外を指さした。

 

「見て。あそこ」

 

 ヒバリが寝台から身を乗り出した。

 

「なに、あれ」

 

「トキ先生。毎晩、あそこに登ってるの」

 

「毎晩?」

 

「毎晩。わたしが入学する前から、ずっとだって。あの梯子、百二十七段あるの。片足、悪いのに」

 

「何してるの」

 

「誰も知らない」

 

 ミオは窓枠に頬杖をついた。

 

「訊いても、怒鳴られるだけ。上で何をしてるのか、誰も見たことがないの」

 

 ヒバリは、窓に額をつけるようにして、その灯を見上げていた。

 

 灯は、梯子のてっぺんまで昇りきると、皿の真ん中あたりで止まった。そこで小さく揺れていた。

 

 ヒバリの左目に、窓の外の帳の光が映っていた。

 

 緑から薄紫へ。空と同じ速さでゆっくりと揺れている。

 

 ヒバリは、長いこと、何も言わなかった。

 

 何かを思い出そうとしているような顔だった。けれど、何を思い出そうとしているのか、たぶん、本人にもわかっていない。

 

「ねえ」

 

 窓に額をつけたまま、ヒバリが言った。

 

「年、取らないって、どういうこと?」

 

 ミオはすぐには答えられなかった。

 

 監察官の前では「ふうん」としか言わなかった子が、今になって訊いている。

 

「……わたしが、来年、十七になっても、ヒバリは十六のまま」

 

「うん」

 

「わたしが二十になって、凪(なぎ)が来て、艇に乗れなくなっても、ヒバリは十六のまま。飛びつづけてる」

 

「うん」

 

「わたしが、トキ先生くらいの、おばあちゃんになっても」

 

 そこで、ミオの声は少し詰まった。

 

「……ヒバリは、十六のまま」

 

 ヒバリは窓から額を離した。

 

 ミオのほうを見た。帳の色の左目が暗い部屋の中でほのかに揺れていた。

 

「ミオが、ばあちゃんになるの?」

 

「なるよ。いつか」

 

「ふうん」

 

 あのときと同じ言葉だった。

 

 けれど、あのときとは、少しだけ違う響きだった。

 

 ヒバリは自分の手のひらを見た。指を開いて閉じた。それから、何かを確かめるように、首もとの襟巻きに触れた。

 

「……変なの」

 

 それだけ言って、ヒバリは寝台に戻った。外套にくるまって、壁のほうを向いて横になった。

 

「おやすみ、ミオ」

 

 初めて、名前を呼ばれた。

 

「……おやすみ、ヒバリ」

 

 しばらくすると、静かな寝息が聞こえてきた。

 

 ミオは、窓辺に座ったまま、自分の荷物の中から一冊の手帳を取り出した。

 

 小さな、革の手帳だった。

 

 姉が町を出ていく日にくれたものだ。表紙に、古い羅針の紋が型押しされている。方位を示す針と、円。

 

 ――役に立たない、昔の飾りだけどね。ミオなら、何か書くことがあるでしょ。

 

 姉はそう言って笑った。

 

 もらってから一年、ミオは一文字も書いていなかった。何を書けばいいのか、わからなかったから。

 

 ミオは、温かい殻の灯を手もとに引き寄せて、手帳を開いた。

 

 真っ白な、最初の頁。

 

 ペンを取る。

 

 少し考えてから、頁のいちばん上に丁寧に書いた。

 

 『汀原学舎 潮の日誌 一冊目』

 

 それから、その下に、少しだけ小さな字で書き足した。

 

 『ちゃんと書いておくこと』

 

 何を、誰のために、ちゃんと書いておくのか、自分でもよくわからなかった。

 

 ただ、この子のことを、書いておかなくちゃいけないと思った。

 

 この子の髪の長さも。背丈の線も。初めて名前を呼ばれた夜のことも。

 

 いつか、この子だけが、このままの姿で残る日のために。

 

 ミオはペンを走らせた。

 

 『早春の夜。空から、女の子が落ちてきた。』

 

 『名前は、ヒバリ。留星(とどめぼし)。もう、年を取らない。』

 

 そこまで書いて、ペンが止まった。

 

 少し迷ってから続けた。

 

 『少しだけ、ずるいと思った。』

 

 書いてしまってから、ミオはその一行をじっと見つめた。

 

 それから、上から何本も線を引いて消した。読めなくなるまで。

 

 消した一行の下にもう一行だけ書いた。

 

 『ヒバリの髪は、耳の上の一房だけが、跳ねている。』

 

 窓の外では、帳の光が、静かに揺れていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。