数年前、とある島の夜。
月明かりが港町を照らす中、薄暗い路地から男の悲鳴が響いていた。
「ひっ……! お、お金ならもう全部お渡ししましたから……!」
眼鏡をかけた細身の男、エスカノールは、数人の海賊に取り囲まれていた。背中には大きな斧を背負っているものの、今の彼には抵抗する勇気すらない。
「うるせェ! だったら、その斧を置いていきな!」
「そ、それだけは……!」
海賊が拳を振り上げた、その瞬間だった。
「おい、てめェら」
低く、重々しい声が響いた。
海賊たちが振り返る。そこには、巨大な身体に三日月形の白い口髭を持つ男が立っていた。その背後には、屈強な男たちが並んでいる。
「なんだ、てめェは!」
「弱い者から奪うたァ、随分とつまらねェ真似をするじゃねェか」
大男が一歩踏み出す。
その顔を見た海賊たちは、一斉に青ざめた。
「ま、まさか……白ひげ!?」
四皇、エドワード・ニューゲート。世界最強の男を前にして、海賊たちは悲鳴を上げながら逃げ去った。
取り残されたエスカノールは、呆然とその場に立ち尽くしていた。
「あ、あの……助けていただき、ありがとうございます……!」
白ひげは豪快に笑った。
「グララララ! 気にするな! ところで、おめェ、飯は食ったのか?」
「えっ……?」
「食ってねェなら船に来い! 飯ならいくらでもある!」
「で、ですが……ご迷惑では……」
「細けェことは気にするな!」
白ひげはエスカノールの背中を叩いた。
「腹が減ってるなら食え! それだけの話だ!」
その言葉に、エスカノールの目から涙がこぼれた。
誰かが自分に手を差し伸べてくれた。見返りを求めることもなく、弱い自分を笑うこともなく、ただ飯を食えと言ってくれた。
それが、彼にはたまらなく温かかった。
「……ありがとうございます……!」
その夜、エスカノールは白ひげ海賊団の船で温かい食事を与えられた。隊員たちは彼を歓迎し、白ひげもまた、気弱な彼を特別扱いすることなく接した。
やがて夜も更け、白ひげ海賊団は次の島へ向かうために出航することになった。
港に立つエスカノールは、船上の白ひげを見上げていた。
「白ひげさん……本日は、本当にありがとうございました」
「グララララ! 大げさな奴だな! また腹が減ったら、いつでも来い!」
エスカノールはうつむいた。伝えたいことはたくさんあったが、うまく言葉にならない。それでも、最後に顔を上げると、震える声で告げた。
「白ひげさん。私は、あなたから食事だけではなく、大切なものをいただきました。私の弱さを笑わず、何も求めず、手を差し伸べてくださったこと……決して忘れません」
彼は深々と頭を下げた。
「いつか、あなたに危機が訪れたなら、私は必ず駆けつけます。この恩は、必ず返します。何があろうとも、必ずです!」
白ひげは一瞬だけ目を細め、やがて豪快に笑った。
「グララララ! そうかよ! なら、好きにしな! だが、無茶して死ぬんじゃねェぞ!」
「……はい!」
船が岸を離れていく。エスカノールは、モビーディック号が見えなくなるまで頭を下げ続けた。
白ひげは最後まで知らなかった。あの気弱な男が、太陽の下ではどんな姿になるのかを。
*
そして現在、世界の命運を左右する戦争が始まろうとしていた。
海軍本部マリンフォード。処刑台にはポートガス・D・エースが立たされ、湾内には海軍の軍艦が並んでいた。海の向こうからは、白ひげ海賊団が姿を現している。
「来たぞォォォ!!」
海兵たちの叫び声が響く。
モビーディック号の船首に立つ白ひげは、処刑台を見据えていた。
「グララララ……! 待ってろよ、エース!」
砲撃が飛び交い、海賊と海兵が激突する。世界を揺るがす頂上戦争が、ついに幕を開けた。
その頃、戦場から離れた海上を、一隻の小さな船が進んでいた。
船上には、眼鏡をかけた細身の男がいる。エスカノールだった。
彼は新聞を握りしめ、震える手で記事を見つめていた。そこには、白ひげ海賊団と海軍本部の全面戦争が報じられていた。
「白ひげさんが……」
顔から血の気が引いていく。
海軍大将。海軍本部。世界政府。考えれば考えるほど恐ろしくなった。
「わ、私なんかが行ったところで……何の役にも立たないかもしれません……」
足が震えた。逃げ出したい。何も見なかったことにしたい。
しかし、脳裏に浮かんだのは、あの夜の記憶だった。
温かい食事。豪快な笑い声。そして、別れ際に自分を気遣ってくれた白ひげの姿。
『無茶して死ぬんじゃねェぞ!』
エスカノールは目を閉じた。
「……白ひげさん。私は、あなたに誓いました。この恩は、必ず返すと……!」
彼は立ち上がり、背中の神器リッタを手に取った。夜の彼には重すぎる斧を、両手でしっかりと握りしめる。
「……行きます」
船首をマリンフォードへ向ける。小さな船は、闇の海を進み始めた。
*
夜は、まだ明けていなかった。
やがてエスカノールは、激戦の続くマリンフォードへとたどり着いた。砲撃の音が轟く中、彼は必死に戦場を見渡し、ついに見つけた。
「……白ひげさん!」
巨大な身体。三日月形の口髭。間違えるはずがなかった。
エスカノールは震える足で駆け寄り、白ひげの前に立った。
白ひげが振り返る。
「……あァ?」
「し、白ひげさん! 以前、あなたに助けていただいたエスカノールです!」
白ひげは目を見開いた。
「おお……! あのときの野郎か!」
「はい……!」
エスカノールは深々と頭を下げた。
「この戦争、私も参加させてください!」
白ひげは彼の細い身体を見て、険しい顔になった。
「馬鹿野郎! ここは遊び場じゃねェぞ! おめェみてェな奴が来る場所じゃねェ! 命が惜しけりゃ、今すぐ逃げろ!」
エスカノールは唇を震わせた。それでも、首を横に振る。
「……申し訳ありません。ですが、私はあなたに誓ったのです。この恩は、必ず返すと……!」
白ひげは黙って彼を見つめた。
そのときだった。
東の空が、ほんのわずかに明るくなった。
水平線の向こうから、黄金色の光が差し込む。エスカノールの肩に、朝日が触れた。
ほんの数秒。
それだけで、異変が起こった。
細かった肩が広がり、腕が膨れ上がる。筋肉が盛り上がり、身体が大きくなっていく。背筋が伸び、先ほどまで震えていた指が、まるで別人のもののように力強く神器リッタを握りしめた。
「……なっ!?」
白ひげは思わず目を見開いた。
目の前で起きていることが理解できない。ほんの数秒前まで恐怖に震えていた男が、今では圧倒的な威圧感を放つ巨漢へと変貌していたのだ。
そして、エスカノールがゆっくりと顔を上げた。
その表情には、恐怖も、迷いも、遠慮もなかった。あるのは、自分こそが頂点に立つ者だと疑わない絶対的な自信。
「……ふむ」
エスカノールは自分の身体を見下ろし、満足げに笑った。
「ようやく、朝ですか」
その瞬間、彼の身体から凄まじい覇王色の覇気が噴き上がった。
空気が震え、マリンフォード全体が重圧に包まれる。黒い稲妻がエスカノールの身体から幾筋も弾け飛び、黄金色の陽光を切り裂くように空間を走った。漆黒の閃光が地面を砕き、神器リッタに絡みつく。まるで太陽そのものが、黒い稲妻をまとって降臨したかのようだった。
「な、なんだ、この覇気は……!?」
海兵たちが次々と膝をつき、意識を失っていく。戦場の怒号さえ、一瞬かき消された。
遠くにいた兵士たちが、恐怖に顔を歪める。
「覇王色……!? こんな規模の覇気が……!」
白ひげでさえ、目の前の男を凝視していた。
「お、おい……おめェ……本当に、あのときの……?」
エスカノールは白ひげを振り返った。
「おや? どうかなさいましたか、白ひげさん?」
その声は、先ほどまでの弱々しい男のものとはまるで違っていた。堂々としていて、余裕に満ち、相手が誰であろうと恐れない声だった。
「夜の私しかご存じないのでしたね。無理もありません」
エスカノールは片手でリッタを持ち上げ、肩に担いだ。
「私ほどの存在ともなれば、太陽の下でこそ真価を発揮するのですから」
白ひげは数秒、彼を見つめたあと、豪快に笑った。
「グラララララ!! こいつは驚いた! とんでもねェ奴を助けちまったもんだ!」
「ええ。まったく、その通りです」
エスカノールは当然だと言わんばかりに頷いた。
そのとき、海軍側から怒声が飛んだ。
「貴様ァ! 何者じゃ!」
赤犬ことサカズキが、鋭い眼差しでエスカノールを睨みつけていた。
エスカノールはゆっくりとそちらへ顔を向ける。
「何者か、ですって?」
彼は鼻で笑った。
「フッ……あなた方は、自分が誰に向かって怒鳴っているのかも分からないようですね」
赤犬の額に青筋が浮かぶ。
「貴様……海軍本部を愚弄する気か!」
「海軍本部?」
エスカノールは、心底おかしそうに笑った。
「それがどうしたというのです?」
黒い稲妻が、再び彼の肩から弾けた。大地が軋み、周囲の海兵たちが後ずさる。
「あなた方がどれほどの権力を持とうと、私には関係ありません」
エスカノールはリッタを握り直し、堂々と胸を張った。
「私は、私より弱い者に頭を下げる趣味などありませんので」
その言葉に、戦場の空気が張り詰めた。
「そして――」
彼は背後の白ひげを一瞥し、再び海軍へ視線を戻した。
「私の恩人に手を出したことを、後悔させて差し上げましょう」
黄金色の朝日が、彼の巨体を照らす。黒い稲妻が空間を裂き、圧倒的な覇王色の覇気が戦場を支配する。
エスカノールは笑った。
誰にも頭を下げず、誰にも恐れを抱かず、自分こそが頂点に立つ者だと疑わない男の笑みだった。
「さあ……誰から相手をして差し上げましょうか?」
白ひげはその背中を見つめ、腹の底から笑った。
「グララララ……! 面白ェじゃねェか!」
朝日がマリンフォードを照らしていく。
その光の中心には、太陽の傲慢王が立っていた。
エスカノール。
恩人への約束を果たすため、世界最強の戦場に降り立った男。
そして今、海軍本部は知ることになる。
自分たちが、決して侮ってはならない存在を敵に回したのだということを。