マリンフォードの戦いが終わった。
いや――正確に言えば、それは海軍が長年築き上げてきた絶対的な権威が、初めて世界の目の前で打ち砕かれた瞬間だった。
海軍本部の広場には、無数の瓦礫が散乱していた。
地面には巨大な亀裂が走り、焼け焦げた建物からは黒煙が立ち上る。海軍兵たちは傷ついた仲間を運び、医療班は負傷者の手当てに追われていた。
そして、誰もが信じられない光景を目にしていた。
海軍最高戦力――三人の大将。
赤犬サカズキ。
黄猿ボルサリーノ。
青雉クザン。
その全員が、敗北したのだ。
しかも、相手は海賊団ですらない。
誰の傘下にも入らず、どの勢力にも属さず、ただ一人で戦場に現れた男。
太陽のように輝く斧を手に、黒い稲妻をまとい、海軍の最高戦力をねじ伏せた男。
その名は――エスカノール。
「……本当に、終わったのか?」
一人の海兵が、呆然と呟いた。
「大将たちが……全員、倒されたんだぞ……」
「ふざけるな……! あの三人が負けるはずがない……!」
「だが、現実だ……! 元帥が……敗北を宣言したんだ……!」
誰もが現実を受け入れられずにいた。
海軍は白ひげ海賊団を公開処刑の舞台で壊滅させ、海賊の時代に終止符を打つはずだった。
しかし、蓋を開けてみればどうだ。
三大将は倒れ、黒ひげの野望も打ち砕かれ、戦場の主導権は完全に失われた。
そして、そのすべてを引き起こした男は、勝利を誇示することもなく、誰かに従うこともなく、夕日に向かって去っていった。
まるで――この戦いそのものが、自分にとって取るに足らない出来事だったとでも言うように。
「……化け物め」
誰かがそう呟いた。
だが、その言葉に反論する者は一人もいなかった。
*
海軍本部、元帥室。
割れた窓から吹き込む潮風が、散乱した書類を静かに揺らしていた。
センゴクは机の前に座り、目の前に置かれた報告書を睨みつけていた。
そこには、戦場で起きた出来事が克明に記されている。
黄猿、戦闘不能。
赤犬、戦闘不能。
青雉、戦闘不能。
黒ひげ海賊団、壊滅的損害。
そして、海軍本部は敗北を宣言。
センゴクは深々と息を吐いた。
「……一人の男が、ここまでの事態を引き起こすとはな」
その声には、怒りだけではなく、困惑も滲んでいた。
「能力の詳細は不明。所属も不明。出身地すら掴めていない……。分かっているのは、太陽のような熱と光を操ること。そして、覇王色の覇気が尋常ではないということだけか」
傍らに立つつるが、静かに口を開いた。
「あれほどの力……単純な能力者というだけでは説明がつかないね」
「能力者であることは間違いない。だが、あの男は能力に頼り切っているわけではない。武器の扱いも、覇気の使い方も、常人の域を遥かに超えている」
センゴクは拳を握りしめた。
赤犬のマグマを片手で受け止めた。
黄猿の光を消し去った。
青雉の氷を蒸発させた。
そして、黒ひげの闇さえも真正面から打ち破った。
それらは、すべて同じ男が成し遂げたことなのだ。
「……問題は、あの男が何者なのかということだね」
「海賊ならば、縄張りや仲間、野望を手掛かりに動きを予測できる。でも、あの男にはそれすらない」
センゴクは黙り込んだ。
海軍にとって最も危険な相手とは、必ずしも最も凶悪な海賊ではない。
何を目的に動くのか分からず、何を守り、何を奪おうとしているのかも分からない存在。
そして、必要とあらば海軍最高戦力を一人で打ち倒せる存在。
エスカノールは、そのすべてに当てはまっていた。
「つる……」
「なんだい」
「この男を、放置するわけにはいかん」
センゴクの声が低くなる。
「海軍が敗北した事実は、いずれ世界中に広まるだろう。だが、それ以上に危険なのは、あの男の存在そのものだ」
つるは静かに頷いた。
「懸賞金を?」
「ああ。ただし、通常の海賊と同じ基準で考えてはならん」
センゴクは報告書を閉じた。
「奴は白ひげの部下ではない。黒ひげの敵でも、海軍の敵であることだけを目的とした男でもない。あの男は、自分の意思だけで戦場を支配した」
その眼差しが鋭くなる。
「敵に回れば、海軍本部そのものが再び陥落しかねん」
その言葉に、つるの表情も険しくなった。
「……世界政府は、黙っていないだろうね」
「黙っていられるはずがない」
センゴクは窓の外を見つめた。
「問題は、政府があの男をどう扱うかだ」
*
その頃、聖地マリージョア。
世界政府の最高権力者たちは、静寂に包まれた部屋で映像記録を見つめていた。
スクリーンに映し出されているのは、黄金に輝く巨大な斧を構えた男。
その周囲には黒い稲妻が走り、地面は砕け、海兵たちは次々と倒れていく。
赤犬のマグマは届かず、黄猿の光は消え、青雉の氷は熱によって蒸発した。
そして最後には、黒ひげの闇さえも圧倒する太陽の一撃。
映像が途切れた。
長い沈黙の後、五老星の一人が口を開いた。
「……これほどの力を持つ人間が、今まで記録に残っていなかったとはな」
「能力者の資料を照合させたが、該当する人物は見つからなかった」
「サンサンの実……太陽人間、か。そんな悪魔の実が存在するという記録も、確認できていない」
「能力の詳細も、弱点も不明。しかも本人は、海賊団にも世界政府にも属していない」
別の老人が杖を鳴らした。
「厄介なのは、力だけではない。あの男は、海軍の大将三人を倒してなお、何の要求もしなかった」
「金も、地位も、名声も求めていないように見える」
「白ひげを救った理由も不明だ。両者の間に何らかの関係があるのか?」
「少なくとも、白ひげ海賊団の一員ではないという報告が上がっている」
五老星の一人が、映像の中の男を見つめた。
そこには、戦場のすべてを見下ろすような、傲岸不遜な笑みが浮かんでいた。
「……あの男の態度が気に入らん」
「海軍の最高戦力を打ち破り、世界政府の権威を踏みにじった。それでいて、まるで自分が何も悪いことをしていないかのような顔をしている」
「自分こそが世界で最も強いとでも言いたげな態度だ」
「実際、映像を見る限りでは……否定しきれんのが問題だな」
その言葉に、部屋の空気がさらに重くなった。
彼らは世界の秩序を維持するため、数々の脅威を排除してきた。
だが、今回の相手は違う。
海賊王を目指す者でもない。
世界を支配しようとする者でもない。
革命軍のように政府を倒すと宣言したわけでもない。
ただ、自分の信念と約束のためだけに動き、結果として世界の均衡を揺るがした男。
その行動原理が分からない以上、予測も対策も立てようがなかった。
「……結論を出そう」
五老星の一人が言った。
「この男を、世界にとって最上級の危険人物として扱う」
「懸賞金を設定するのか?」
「当然だ。あの男の存在を知った海賊たちが、何を考えるか分からん。海軍の敗北を見て勢いづく者も現れるだろう」
「だが、懸賞金の額をどうする?」
その問いに、誰もすぐには答えなかった。
通常の大海賊であれば、数億から十数億ベリー。
四皇のような存在ともなれば、数十億ベリーに達することもある。
しかし、エスカノールは海賊団を率いていない。
領土も、傘下の勢力も、確認されていない。
それでも、三大将を同時に戦闘不能にし、海軍本部を敗北に追い込んだ。
単純に既存の基準へ当てはめることなどできなかった。
やがて、一人が口を開く。
「……四十五億ベリー」
他の四人が、その数字を反芻する。
「四十五億……」
「四皇に匹敵する、いや、それ以上の危険性を示す額か」
「妥当だろう。あの男を侮れば、世界政府そのものが危機に陥る」
一人が念を押すように言った。
「だが、これは単なる強さへの評価ではない。世界に対する危険度を示す数字だ」
「分かっている」
五老星の一人が、冷徹な声で告げた。
「この男を、決して自由にさせてはならん」
その言葉とともに、エスカノールの処遇が決定された。
世界政府は、彼を危険人物として正式に指定。
海軍は、ただちに懸賞金付きの手配書を発行することとなった。
*
その知らせは、瞬く間に世界中へ広がっていった。
新聞社には、マリンフォードの戦いを伝える記事が次々と持ち込まれた。
記者たちは、海軍が敗北を認めたという前代未聞の事態に騒然となっていた。
「おい! この写真を使え! 大将たちが倒れている映像だ!」
「いや、こっちだ! 太陽のような斧を持った男の写真を一面に載せろ!」
「名前は分かっているのか!?」
「エスカノールだ! 海軍の報告書に名前が記載されている!」
「懸賞金は!?」
その問いに、政府から届いた書類を手にした編集長が、目を見開いた。
「……四十五億ベリーだ」
一瞬、誰も言葉を発しなかった。
「……は?」
「四十五億ベリーだ! 聞こえなかったのか!?」
「そんな馬鹿な……!」
「四皇に匹敵する額じゃないか!」
「違う……! この男は、どこの海賊団にも属していないんだぞ!?」
編集長は震える手で書類を握りしめた。
「それでも政府は、この額をつけた……。つまり、それだけ危険だと判断したということだ」
そして、世界中の新聞社が号外を刷り始めた。
翌朝。
海軍本部の敗北を伝える記事とともに、世界中へ配られた新聞の一面には、あの男の姿が掲載された。
黄金の斧を肩に担ぎ、悠然と立つ巨漢。
その表情には、恐怖も焦りもない。
自分の前に立つ者すべてを見下ろすような、圧倒的な傲慢さだけがあった。
記事には、こう記されていた。
「海軍本部、三大将敗北――謎の男エスカノール現る!」
そして、その下には、世界政府が正式に発行した手配書の情報が掲載されていた。
*
東の海。
とある酒場では、新聞を読んでいた海賊たちが大声を上げていた。
「おいおい、見ろよ! 四十五億ベリーだと!?」
「白ひげの戦争を一人でひっくり返した男だってよ!」
「しかも三大将を全員倒したらしいぞ!」
「そんな人間が本当にいるのか……?」
その場にいた男たちは、新聞に掲載された写真を食い入るように見つめていた。
ある者は恐怖に震え、ある者は目を輝かせ、ある者はその額に野心を燃やした。
だが、誰もが同じことを考えていた。
――この男には、決して逆らうべきではない。
*
新世界。
海賊たちが集う島でも、新聞は大きな話題となっていた。
「四十五億……! 冗談じゃねェ!」
「海軍本部を潰した男だ。そりゃあ、そのくらいの額にもなるだろうよ」
「だが、海賊団を持っていないんだろ? 何が目的なんだ?」
「さあな……。ただ一つ分かるのは、あの男が敵に回ったら終わりだってことだ」
別の場所では、ある海賊が新聞を握りつぶした。
「クソッ……! 世界の勢力図が変わっちまうぞ……!」
そう。
白ひげの時代が終わろうとしていたその瞬間、世界は新たな怪物の存在を知ったのだ。
四皇の一角が崩れようとする中で、海軍の最高戦力を一人で打ち破った男が現れた。
しかも、その男はどの勢力にも属していない。
誰の命令も受けず、誰の傘下にも入らず、誰にも頭を下げない。
そんな男が、世界の海を自由に歩き回っている。
それは、海軍にとっても、海賊にとっても、世界政府にとっても、無視できない事実だった。
*
そして、世界の均衡を見守る者たちもまた、その名を知ることとなった。
ミホークは、新聞に目を落とし、口元をわずかに緩めた。
「……四十五億か。政府も、随分と大きく出たものだ」
彼の脳裏には、マリンフォードで見た黒い稲妻と、太陽のように輝く斧の光景が蘇っていた。
「だが……あの男にとっては、金額など何の意味もないだろうな」
ドフラミンゴは新聞を見て、腹の底から笑った。
「フッフッフッフッフ! 四十五億ベリー! こいつは最高だ!」
彼は新聞を掲げ、愉快そうに続けた。
「海軍の大将を三人まとめて叩き潰し、黒ひげの計画までぶち壊す! しかも、どこの組織にも属していないだと!?」
笑い声が、部屋中に響き渡る。
「いいねェ……! 世界がどんどん面白くなってきやがった!」
一方、クロコダイルは新聞を無言で読み進めていた。
やがて、煙草をくわえたまま、小さく息を吐く。
「……四十五億、か」
彼の視線が、手配書の写真に止まった。
「政府がこれほどの額をつけるということは、相当本気で恐れているらしいな」
そして、低く呟く。
「厄介な男が現れたもんだ」
女帝ハンコックは、別のことを考えていた。
ルフィは無事だろうか。
あの戦場で、あの男と出会ったことで、何かが変わったのだろうか。
「……ルフィ」
彼女は新聞をそっと置いた。
エスカノールという男の力がどれほどのものかは、もう疑いようがない。
しかし、彼女が気にかけているのは、その力ではなかった。
あの戦場で、ルフィが何を成し遂げたのか。
それだけだった。
*
その頃、マリンフォードを遠く離れた海上。
小さな船が、夜の海を静かに進んでいた。
船の上にいるのは、痩せ細った一人の男。
エスカノールだった。
夜の姿に戻った彼は、船縁に腰掛け、海面を見つめていた。
「……はぁ。やはり、あのような場所へ行くべきではなかったのでしょうか……」
弱々しい声が、波音に紛れる。
「大将の方々を倒してしまうなんて……。きっと、私は恐ろしい人間だと思われているのでしょうね……」
彼は小さく肩を落とした。
だが、ふと顔を上げる。
脳裏に浮かんだのは、かつて自分に食事を与え、何の見返りも求めずに去っていった大海賊の姿だった。
「……それでも」
エスカノールは、胸元に手を当てた。
「約束は……守れました」
ほんの少しだけ、表情が和らぐ。
「白ひげさんが、ご無事でいてくだされば……それで、十分です」
その時だった。
遠くの海を渡ってきた一羽の新聞配達鳥が、彼の船の上空を横切った。
一部の新聞が、風に煽られて船の甲板へ落ちる。
「ひゃっ!? な、何ですか!?」
エスカノールは驚いて身を縮めた。
おそるおそる新聞を拾い上げ、表紙に目を向ける。
そこには、見覚えのある巨漢の写真が大きく掲載されていた。
黄金の斧を肩に担ぎ、傲然と世界を見下ろす男。
昼間の自分だった。
「……え?」
エスカノールは、ゆっくりと新聞を持ち上げた。
その下には、黒々とした数字が並んでいた。
4,500,000,000 BERRY
「よ、四十五億……!?」
彼は思わず声を裏返らせた。
「ど、どうして私が……!? いえ、確かに戦いましたけれども……! で、でも、これはあまりにも……!」
震える手で新聞を握りしめ、今にも泣き出しそうな顔になる。
「ど、どうしましょう……! これでは、世界中の恐ろしい海賊たちに狙われてしまいます……!」
彼は船の隅へ逃げ込むと、膝を抱えて震え始めた。
だが――。
その新聞の片隅には、もう一つの文字が刻まれていた。
傲慢の罪 エスカノール
世界政府が名づけた、彼の異名。
世界が恐れ、海軍が警戒し、海賊たちが畏怖する名。
しかし、当の本人はというと――。
「うぅ……どうして、こんなことに……」
船の隅で、今にも泣きそうになっていた。
その姿は、マリンフォードで三大将を圧倒した男とは、到底結びつかないものだった。
それでも、世界はもう知ってしまった。
太陽が昇れば、誰にも頭を下げない傲慢なる王が現れることを。
そして、その王が本気で怒れば、世界の均衡すら揺らぎかねないということを。
海軍本部を震撼させ、世界政府を警戒させ、海賊たちに畏怖された男。
その名は――
傲慢の罪、エスカノール。
懸賞金、四十五億ベリー。
世界は今、新たな伝説の誕生を知ったのだった。