春色の風がまだ肌寒さを残す四月。満開の桜並木を抜ける通学路で、その事故は起きかけた。
「――危ないっ!」
鋭く、けれどどこか透き通るような声が響いたかと思うと、強い衝撃とともに体が宙を舞い、アスファルトの端へと押し出された。
ガシャア、と重いブレーキ音が鼓膜を打つ。直後、目の前を黒いセダンが猛スピードで通り過ぎていった。
心臓が早鐘を打つ。地面に尻餅をついたまま、比企谷八幡は呆然と視線を彷徨わせた。
――今の、何だ? 確か赤信号を無視した車が突っ込んできて、もうダメだと思ったんだが……。
「……いつまでそこに座っている気かしら。見苦しいわね」
冷ややかな、しかし凛とした声が上から降ってきた。
促されるままに顔を上げると、そこに立っていたのは一人の少女だった。
風に揺れる艶やかな黒髪。整いすぎた冷淡な顔立ち。そして、制服の胸元に輝く『生徒会長章』。
2年生の生徒会長にして、全校生徒から畏怖と憧れを込めて「氷の女王」と呼ばれている雪ノ下雪乃その人だった。
彼女は汚れ一つない制服の裾を軽く払い、助けた相手を見下ろすように冷ややかな双眸を向けている。その完璧な身のこなしには、先ほど一歩間違えれば大事故になりかねない飛び出しをした動揺など微塵も感じられなかった。
「あ……、その、助けてくれて……」
言葉を詰まらせる八幡に対し、雪乃は呆れたようにふっと息を吐き出す。
「お礼なら結構よ。ただ、これからはもう少し視野を広く持って歩くことね。自分の命を粗末にする人間は、見ていて不愉快だわ」
冷たい言葉を淡々と吐き捨てると、雪乃は背を向け、生徒会章を揺らしながら歩き出した。
その背中はまさに「氷の女王」の異名にふさわしい、近づきがたい気高さを放っている。
――最悪の高校生活の幕開けだと思っていた。
だが、この冷徹で美しい先輩との出会いが、八幡の日常を少しずつ、しかし確実に変えていくことになる――。
満開の桜が舞い散る体育館。新入生歓迎会と始業式を兼ねた講堂は、ピンと張りつめた緊張感に包まれていた。
ステージの壇上に上がったのは、新入生代表の葉山隼人。
明るい髪色に爽やかな笑顔、そして立ち振る舞い一つをとってもクラスの中心人物たるオーラを纏っている。彼のハキハキとした等身大の挨拶は、早くも新入生たちの心を掴み、会場には和やかな拍手が広がっていた。
しかし、その雰囲気が一変したのは、次に「在校生代表」として呼び出された人物が登壇した瞬間だった。
「――在校生代表、生徒会長・雪ノ下雪乃」
アナウンスとともに、一人の少女がすっと立ち上がる。
静寂を切り裂くように響く、規則正しい靴音。彼女が壇上のマイクの前に立った瞬間、体育館内の空気の温度が数度下がったかのような錯覚すら覚えた。
「……本日、総武高校の門をくぐった新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます」
マイクを通した雪乃の声は、どこまでも澄み渡り、透き通っていた。
手元に原稿の類は一切ない。にもかかわらず、彼女の口から紡がれる言葉は完璧な論理と美しい修辞で彩られ、一切の淀みも、言い淀みも存在しない。
自分の至らなさを恥じ、自己研鑽を怠らないことの尊さを語るその演説は、甘い言葉で新入生を歓迎するような生ぬるいものではなかった。しかし、その根底にあるのは圧倒的な品格と、生徒会長としての毅然とした覚悟だった。
非の打ち所がない、完璧すぎる演説。
(……凄えな、ありゃ)
最後列に並ぶ一年生の中で、比企谷八幡はただ呆然と壇上の雪乃を見上げていた。
朝、自分を車から救ったあの冷ややかな少女が、いまや全校生徒の視線を一身に集め、神々しいまでの光を放っている。
演説が終わると、一瞬の静寂ののち、体育館が揺れるほどの大きな拍手が巻き起こった。
「ねえ、見た……? すごい綺麗な人……!」
「雪ノ下先輩だよね? 2年生で生徒会長なんだって……カッコよすぎる……!」
「憧れるなぁ……あんな風になりたい……!」
特に新一年生の女子たちの間では、すでに熱狂的な溜め息と羨望の眼差しが交錯していた。
容姿端麗、成績優秀、そしてブレない芯の強さ。雪ノ下雪乃という存在は、この日、間違いなく新入生たちの「絶対的な憧れ」としてその心に深く刻み込まれたのだ。
熱狂する周囲の歓声をよそに、壇上から降りた雪乃は、一切の誇らしげな色も見せず、ただ淡々と自席へと戻っていく。
その冷徹なまでの美しさに、八幡は改めて「氷の女王」という異名の意味を噛み締めていた。
新学期が始まって数週間。生徒会長・雪ノ下雪乃の名は、良くも悪くも校内に瞬く間に轟いていた。
彼女が「氷の女王」と呼ばれる理由は、その美麗な容姿や完璧な成績だけではない。何よりも、校内に潜むイジメや理不尽な行いに対して、一切の容赦をしないその徹底的な姿勢にこそあった。
ある日の昼休み、校舎の陰で上級生たちが新入生を取り囲み、カツアゲまがいの暴言を吐いていた時のことだ。
偶然通りかかった生徒会役員が事態に気づき、すぐに雪乃へ報告が入った。
現場に現れた雪乃は、取り巻きを引き連れることもなく、たった一人でその場の雰囲気を一変させた。
「そこまでよ」
鈴を転がすような、しかし芯の通った声。
凄む上級生たちに対し、雪乃は眉一つ動かさず、淡々と、しかし完璧な論理で相手の言い分を叩き潰していった。
「あなたたちがやっていることは校則違反である以前に、ただの卑屈な自己満足よ。自分より立場が弱い者を叩くことでしか存在価値を証明できないなんて、どれほど哀れな生き物なのかしら?」
一言一言が刃のように鋭く、相手の自尊心を容赦なく切り刻む。
顔を真っ赤にして反論しようとする上級生に対し、雪乃は冷ややかな眼差しで生徒会手帳を開いた。
「なお、あなたたちのこれまでの行状、日付および目撃証言はすべて記録済みよ。このまま指導部へ同行するか、しかるべき処分を受けるか、今ここで選びなさい」
一切の揺らぎもない絶対的な正論と冷徹なまでの眼圧に圧され、上級生たちは吐き捨てるようにその場から逃げ出していった。
理不尽な悪を断ち切るその姿は、周囲から見ればまさに立ち入る隙もない「氷の女王」そのものだった。
――だが。
怯えてうずくまっていた新入生のもとへ歩み寄ると、雪乃は一転して静かにしゃがみ込み、視線の高さを取り直した。
「大丈夫かしら? 怪我はない?」
その声には、先ほどまでの冷酷さは一切ない。
差し出された白い手と、傷ついた者を静かに気遣う優しい眼差し。理不尽を絶対に許さない冷徹な氷の裏側にある、不器用で、けれど清廉な正義感。
恐怖から解放された生徒の目には、その姿がただの恐ろしい女王ではなく、「自分を救ってくれた聖母」のように映っていた。
理不尽を退ける「氷の女王」にして、救われた者にとっては「氷の聖母」。
相反するふたつの二つ名は、校内で一層のカリスマ性を帯びて語り継がれていくことになる。
そして、その一部始終を遠くの校舎の陰から見ていた八幡は、深く溜め息をついた。
(……相変わらず容赦ねえな。けど、あいつのあの頑ななまでの正義感は……嫌いじゃない)
自分を助けてくれたあの日と同じ、ブレない氷の美しさを感じながら、八幡は静かにその場を後にした。
放課後の校舎。夕日がオレンジ色に廊下を染める時間帯、比企谷八幡はいつもの癖で、ブレザーのポケットに両手を突っ込んだまま階段を下りていた。
その時だった。
「あっ――」
靴底が滑り、一瞬で視界が斜めに傾く。
踏み外した。足元には数段下の踊り場。手すりを掴もうにも、ポケットに入れた両手はすぐに出てこない。万事休す――頭を打つ恐怖に目を瞑った、次の瞬間。
がしっ、と力強い感触が胸元に走った。
重力から解放されるような浮遊感と同時に、柔らかくも芯のある身体に受け止められる。
ふわっと、甘く爽やかな柑橘系の香りが鼻腔をくすぐった。
「――っく……!」
抑え気味な小さな呻き声。八幡が恐る恐る目を開けると、すぐ目の前に透明感のある素肌と、息をのむほど美しい黒髪が広がっていた。
雪ノ下雪乃だった。
彼女は倒れかけてきた八幡の身体を、華奢な腕で必死に支えていたのだ。至近距離で重なる視線。彼女の白い首筋や、微かに上下する胸元が嫌でも目に入る。
「……いつまで抱きついている気かしら?」
ハッと正気に戻った八幡は、慌てて体勢を整えて足をついた。
雪乃は軽く制服の乱れを整えると、いつもの冷ややかな双眸で八幡を睨みつけた。
「ポケットに手を突っ込みながら階段を使うなんて。……危機意識が足りないわね」
氷のように冷たい、けれどどこか呆れたような声音。
彼女はそれだけを言い捨てると、振り返りもせず、ツカツカと軽やかな靴音を立てて階段を下りていった。生徒会長章が夕日に照らされてキラリと光る。
「……あ、ありがと……」
消え入るような声で呟いた八幡は、その場に立ち尽くしたまま、自分の胸に手を当てた。
――トクン、トクン、と。
早鐘のように打つ心臓の鼓動が、うるさいほど耳の奥で響いている。
ただの安堵や恐怖の反動じゃない。身体が触れ合った瞬間の温もり、鼻をくすぐった匂い、そして自分を見上げたあの凛とした瞳が、脳裏から離れない。
(……待て、落ち着け。これは吊り橋効果ってやつだ。命の危険を感じた時の錯覚で――)
必死に理屈をこね回して否定しようとする。
けれど、加速していく胸騒ぎと熱くなった耳たぶが、容赦なく真実を突きつけてくる。
勘違いじゃない。
今まで「ひねくれ者」として他者と距離を置いてきた自分が、生まれて初めて覚えるこの感情。
(嘘だろ……。これが、恋ってやつなのか……?)
去っていく「氷の女王」の背中を遠くに見送りながら、八幡は自分の思いがけない変化に、ただただ戸惑うしかなかった。
「――相変わらずかっこいいねー、雪乃ちゃんは」
階段を軽やかに下りてきたのは、2年生で生徒会副会長を務める巡(めぐり)だった。
柔らかい雰囲気を纏った彼女は、去っていく八幡の背中をチラリと見たあと、隣に立つ雪乃へとのほほんとした笑みを向ける。
「大丈夫だった?」
唐突な問いかけに、雪乃は足を止めずに小さく首を傾げた。
「何がかしら?」
「何がって……さっきの一年生、結構な勢いで落ちてきてたでしょ? どこか痛めてない?」
巡は心配そうに雪乃の腕や肩に視線を送る。華奢な雪乃が、背のある男子生徒を真正面から受け止めたのだ。いくら咄嗟のこととはいえ、反動は少なくなかったはずだ。
だが、雪乃は表情ひとつ変えず、いつもの凛とした声で短く言い放った。
「そんなやわな鍛え方はしていないわ」
「ふふ、さすが雪乃ちゃん。頼もしいなぁ」
巡はくすっと微笑みながら、雪乃の隣に並んで歩き出す。
「でもね、いくら雪乃ちゃんでも無茶はダメだよ? 生徒会長が怪我したら、私とっても困っちゃうんだから」
「……分かっているわ。ただ、目の前で生徒が階段から転げ落ちるのを放置するわけにはいかないでしょう。生徒会としての業務の一環よ」
つんと澄ました顔で答える雪乃だったが、その耳たぶが、夕日のせいだけではなくほんのわずかに赤くなっていることに、巡は気づかないふりをした。
「そっかそっか。……ねえ、雪乃ちゃん。あの子、すっごく顔赤くして走っていっちゃったけど……何か言ったの?」
「いいえ。ただ危機意識の欠如を指摘しただけよ。……本当に、呆れた一年生だわ」
前を見据えたまま淡々と語る雪乃。
しかし、その手は制服のスカートをほんの少しだけ強く握りしめていた。
「ふーん……? そっかぁ」
巡はすべてを察したように意味深な笑みを浮かべ、夕暮れ時の廊下を二人で静かに歩を進めていった。
翌日の放課後。校舎の渡り廊下で、八幡は前方を歩く彼女の姿を見かけた。
美しい黒髪をなびかせ、まっすぐと背筋を伸ばして歩く雪ノ下雪乃。
一昨日助けられたお礼と、昨日の階段での出来事。ちゃんと言えていなかった感謝の言葉を伝えようと、八幡は意を決して声をかけようとした。
「あの、雪ノ下先――」
呼びかけかけた言葉が、途中で喉に引っかかった。
(……ん?)
違和感だった。
一見するといつもの優雅で完璧な歩調に見える。だが、右足を一歩踏み出すその瞬間だけ、ほんのわずかに、本当にコンマ数秒だけ踏み込みが甘い。右足に体重がかかるのを、かばうように歩いている。
八幡の目が、その小さな異変を見逃さなかった。
(……嘘だろ)
血の気が引くのが分かった。
脳裏に蘇るのは、昨日の階段での出来事。自分の体重を乗せたまま、彼女の華奢な身体に激突したあの瞬間。
『そんなやわな鍛え方はしていないわ』
昨日、彼女は副会長のめぐりにそう言い切っていた。けれど、実際には怪我をしていたのだ。
男子生徒ひとりを正面から受け止めて無傷でいられるはずがない。痛みを押し殺し、顔にすら出さず、平然と「氷の女王」として振る舞っていたのだ。自分のせいで。
(俺のせいで……怪我させた……)
胸が押し潰されるような罪悪感と猛烈な自己嫌悪が八幡を襲う。
ポケットに手を突っ込んで歩いていた自分の愚かさ。
浮かれて「恋かもしれない」なんて自分の感情に気を取られていた間抜けさ。
彼女は今も痛みを耐えながら、生徒会長としての責務を果たそうとしているのに。
(……俺は、どうすればいいんだよ……)
声をかけることすらできず、八幡はその場に立ち尽くした。
直接心配したところで、「余計なお世話よ」「これくらい何でもないわ」と冷たくあしらわれるのは目に見えている。かといって、このまま見て見ぬふりをするなんて、男として、いや人間として絶対に許されない。
八幡は拳を強く握りしめ、遠ざかっていく彼女の背中を、苦い痛みを抱えながらただ見つめ続けるしかなかった。
誰もいない放課後の階段。西日に照らされた段差にぽつんと腰を下ろし、八幡は膝を抱えて項垂れていた。
頭の中をぐるぐると駆け巡るのは、自分の軽率さと、痛みを隠して歩いていた雪乃の姿。押し寄せる自己嫌悪に潰されそうになっていた、その時だった。
カツン、と静かな靴音が近づき、八幡の目の前にすっと缶が差し出された。
「……コーヒーよ」
顔を上げると、そこに立っていたのは雪乃だった。手渡された缶のラベルには、はっきりと『BLACK』の文字。
「……あの、俺、苦いの苦手なんですけど……」
八幡が弱々しく言葉を返すと、雪乃は呆れたように小さく息を吐き出し、眉をひそめた。
「何を言っているのかしら。社会に出れば、こんなものより遥かに苦い現実ばかりよ。コーヒーの苦味くらい、黙って飲み干しなさい」
容赦のない正論を言い残し、彼女はくるりと背を向け、去ろうとする。
その背中、そして一歩踏み出すごとに微かに強張る足元を見て、八幡は思わず声を張り上げた。
「……雪ノ下先輩! その……その足、俺のせいで――」
喉まで出かかった「ごめんなさい」の先が、罪悪感で詰まって出てこない。
八幡の言葉に、雪乃は足を止めた。
ゆっくりと振り返った彼女は、動揺することもなく、八幡の不安げな瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
「気にしなくて良いわ」
静かで、どこまでも透き通った声。
そして、夕日に照らされた彼女の唇が、ほんのわずかに――本当にごくわずかに柔らかく綻んだ。
「生徒を守るのが生徒会長。私の役目よ」
言葉を置くと、彼女は今度こそ振り返ることなく、静かな足取りで階段を下りていった。
残された八幡は、手に持った温もりを失いつつある缶コーヒーを見つめた。
冷徹で隙がなく、誰も寄せ付けない「氷の女王」。
けれど、その冷たさの裏側にあるのは、自分を削ってでも誰かを庇い、守ろうとする圧倒的な高潔さと優しさだ。
助けられた生徒たちが、なぜ彼女を「氷の聖母」と呼ぶのか。
缶のプルタブを引き、口に含んだ黒い液体は恐ろしいほど苦かったけれど、八幡はその意味を、痛いほど胸に噛み締めていた。
ファミレス独特の喧騒が遠くで鳴り響く、夕暮れ時のサイゼリヤ。
八幡はテーブルの上に運ばれてきたミラノ風ドリアを前に、ただじっとフォークを見つめていた。熱々の湯気と香ばしいチーズの匂いが鼻をくすぐるが、喉を通る気がまるで起きない。
頭の中を占めているのは、階段で告げられたあの言葉と、わずかに見せた彼女の微笑みだ。
――『生徒を守るのが生徒会長。私の役目よ』
圧倒的なものを見てしまった。
凛とした高潔さ、自己犠牲すら当然のように受け入れる強さ、そしてその裏にある恐ろしいほどの優しさ。自分とは住む世界が違いすぎる「氷の聖母」の存在感に、胸が苦しいほど押し潰されそうだった。
現実逃避するように、ドリンクバーで淹れてきたブラックコーヒーに口をつける。
「……っ、苦……」
やっぱり苦い。
けれど、逃げ出したいようなこの甘い思考を打ち消すには、ちょうどいい刺激だった。一口飲むたびに、階段での彼女の言葉が苦味とともに体中に広がっていく。
(ほんと……苦いじゃねえか、雪ノ下先輩……)
溜め息をつき、カップをソーサーに戻したその時だった。
「あら」
聞き覚えのある、鈴を転がすような透き通った声が頭上から降ってきた。
驚いて顔を上げると、そこに立っていたのは、私服姿の雪ノ下雪乃だった。
普段の制服姿とは少し印象の違う、清楚で落ち着いた装い。けれど、纏っている静謐で美しい空気は間違いなく彼女そのものだった。
雪乃は少し意外そうに八幡を見つめたあと、隣の空いている椅子に視線を落とした。
「偶然ね。……相席してもいいかしら?」
「――――」
声が出なかった。
心臓がドクンと大きく跳ね上がり、思考が完全にフリーズする。
まさかこんな場所で、しかも一人で彼女のことばかり考えていたタイミングで会うなんて、どんな確率だ。
問いかけられた言葉に対し、八幡は声にならない掠れた息を漏らしながら、ただ小さく、首を縦に振ることしかできなかった。
コクのある紅茶の香りが、ファミレスの油っぽい空気を穏やかに塗り替えていく。
八幡の目の前で、雪乃は静かに教科書とノートを広げていた。
手元に置かれた透明なグラスには、綺麗なアンバー色の紅茶。一口含んでは優雅にカップを置き、長くて綺麗な指先でシャーペンを走らせる。その横顔はどこまでも凛としていて、周囲のガヤガヤとした喧騒がそこだけ遮断されているかのようだった。
言葉通り、彼女は勉強に集中している。一切の無駄がない完璧な集中力。
八幡は冷めかけたドリアに手を伸ばすことも忘れ、ただぼんやりとその姿を見つめていた。
(……本当に、何なんだよ、この人は)
車に轢かれそうになった自分を助け、自分の不注意で負った足の痛みすら「役目だ」と笑ってみせた。
そして今、こうして目の前で静かに机に向かっている。
夕暮れの窓から差し込む斜光が、彼女の艶やかな黒髪を輝かせ、長いまつ毛に影を落としている。
その隙のない横顔に、吸い寄せられるように視線を奪われ――気づけば、思考がそのまま唇から零れ落ちていた。
「……綺麗だ」
「――――」
ピタリと、シャーペンを動かす手が止まった。
雪乃はゆっくりと顔を上げ、黒真珠のような瞳でまっ振りと八幡を見つめた。
その視線に一切の不快感はなかったが、どこか諌めるような、静かな温度が宿っている。
「……あまり、そういう軽々しい言葉は言わない方が良いわよ」
雪乃は静かにシャーペンを置くと、紅茶のカップに手を添えながら淡々と言葉を続けた。
「まだ、私たちが会ってから数日しか経っていないのだから」
「――――っ!?」
八幡の顔が一気に沸騰したように熱くなった。
心臓が口から飛び出しそうなほど跳ね上がる。
(嘘だろ……!? 俺、今、声に出てたのか……!?)
「あ、いや! 違う、その! 今のは別に変な意味じゃなくて、その、夕日の当たり方とか、勉強に集中してる佇まいが絵になるとかそういう――!」
両手を前に出して見苦しく言い訳を並べ立てる八幡。自分のダサさに穴があったら入りたいどころか埋まりたい。
そんな八幡の慌てぶりを、雪乃は咎めるでもなく、呆れるでもなく、ただ静かに見つめていた。
「言い訳は見苦しいわよ、比企谷くん」
そう告げる彼女の頬が、ほんの少しだけ朱に染まっているように見えたのは、きっと夕日のせいだけではないはずだった。
「……貴方は、年上が好みなの?」
小さく首を傾げた雪乃の唇から、意地悪で、けれどどこか妖艶な笑みがこぼれた。
いつもは「氷の女王」として隙のない表情を見せる彼女が、至近距離で魅せるわずかな悪戯っぽさ。その美しさに毒されたように、八幡は息を呑み、完全に言葉を失った。
言葉を返そうにも、口の中がカラカラに乾いてうまく回らない。
八幡は必死に混乱する思考を整理しようと、俯きながら声を絞り出した。
「……俺は、その……恋愛とか、そういうのよく分かんないんだよ。俺みたいなやつには、誰かを好きになるとか……そんな資格はない」
ずっと自分に言い聞かせてきた諦念。
どうせ自分なんて誰からも選ばれない。期待して傷つくくらいなら、最初から土俵にすら上がらない方がマシだ。自虐混じりに絞り出したその言葉に、雪乃は小さくため息をついた。
「そう。貴方は……挑戦もしないうちに諦める、ただの臆病者ということかしらね?」
ピキリ、と八幡の中で何かが跳ねた。
図星だからこそ、そして他ならぬ彼女から吐き捨てられた言葉だからこそ、容赦なく胸に突き刺さる。流石にイラッとした八幡は、弱腰な自分を振り払うように勢いよく顔を上げ、雪乃を睨みつけた。
だが――。
正面から視線がぶつかった瞬間、雪乃はやはり、楽しそうにふっと微笑んでいた。
八幡の怒りも、虚勢も、すべてお見通しだと言わんばかりの柔らかで挑発的な笑み。
「資格がいるなんて……誰が決めたのかしら?」
「――――っ」
静かな、けれど逃げ場を塞ぐような一言。
一瞬で八幡の怒りは雲散霧消し、代わりに胸の奥を激しい衝動が突き上げた。
ドクン、ドクンと、耳の奥で自分の心臓がうるさいほど跳ねている。
(勝てるわけないだろ、こんなの……)
資格なんていらない。諦めるな。
冷酷な正論で突き放すのではなく、言葉の裏でそう告げられているような気がして。
八幡はただ、赤くなった顔を隠すように握りこぶしを強く握りしめることしか出来なかった。
翌日、教室に入った八幡を待ち受けていたのは、ウンザリするような不快感だった。
男子グループの席の周りで、数人の男たちがニヤニヤとスマホの画面を覗き込んでいる。
「これヤバくない? 体育の後の雪ノ下先輩だろ?」
「うわ、マジだ。胸のラインめっちゃくっきり出てんじゃん……」
「どこから手に入れたんだよ」「裏のアカウントで流れてきてさ……」
学内での雪乃の話題は絶えない。だが、単なる「憧れ」の域を超え、今や男子たちの間で彼女の盗撮画像が出回っていた。制服姿ならまだしも、着替え中のスキを狙ったような際どい角度の隠し撮り写真まで混ざっている。一度ネットやグループチャットに拡散されたデータは、削除要請したところで完全に消えることはない。
(……気味が悪い)
反吐が出るほどの嫌悪感が八幡の胸を灼いた。
尊高で清廉な彼女が、裏でこんな薄汚い好奇の目に晒されている。
(……けど、俺に何ができる?)
俺はただの一年生だ。ぼっちで、影響力もなければ、男子グループに乗り込んでスマホを叩き落とすような度胸も正義感もない。関われば「何だアイツ」と嘲笑されて終わるだけだ。
自分に対する無力感と苛立ちに押し潰されそうになりながら、八幡は屋上へと続く階段の踊り場へと足を運んだ。そこには、クラスで唯一(消去法で)まともに話せる男、材木座義輝がラノベを読んでいた。
「……材木座、ちょっと聞きたいんだが」
「ぬ? なんじゃ八幡、そのような険しい顔をして。また余の類稀なる知恵を借りに来たか?」
八幡は言葉を選びながら、クラスで起きている盗撮画像の拡散と、手を出せない自分の歯がゆさを吐き出した。
じっと話を聞いていた材木座は、いつもの痛々しいポーズを解き、メガネの奥の目をキリリと光らせた。
「ふむ……卑劣な忍びの如き所業、許しがたいな。データが消えぬなら、元から断つしかない。八幡よ、毒をもって毒を制す……『隠し撮りをする奴を、隠し撮り(証拠確保)する』というのはどうだ?」
「……あ?」
「犯行の瞬間を完璧な動画や写真で収め、決定的な証拠として突きつけるのだ! さすれば言い逃れはできん。相手の喉元に刃を突きつけるようなものよ!」
腕を組んでドヤ顔を決める材木座。
その言葉に、八幡は思わず息を呑んだ。
痛々しい中二病の発想かと思いきや、思いのほか理にかなっている。正面から戦えない自分のような人間が、陰湿な悪を追い詰めるための「裏の手段」。
(……犯行の瞬間を撮る、か)
自分の手は汚れるかもしれない。だが、あの気高き「氷の聖母」をこれ以上踏みにじらせないためなら――八幡の心の中で、小さな決意の炎が静かに燃え上がり始めていた。
放課後の裏庭に面した渡り廊下の死角。
そこは、悪質な男子グループがスマホで雪乃の盗撮画像を確認し、下卑た笑い声を上げる定番の溜まり場だった。
「ほら見ろよ、このアングル……」
「やべえな、マジで尊いわ……」
物陰から、その様子をじっと窺う黒い影が二つ。
――比企谷八幡と、その背後で身を潜める材木座義輝だ。
(今だ……!)
八幡はポケットのなかでスマホの録画機能を起動し、奴らが画面を見せ合っている決定的な瞬間、そしてその端末に保存されているデータを鮮明に捉え始めた。完璧な証拠が、今、目の前で記録されていく。
だが――。
「ん? おい、誰だお前……?」
グループの一人が、物陰にいる八幡の存在に気づいた。
ギョッとして振り返った時には、すでに遅い。スマホの画面に光る録画中の表示を見た男の顔が、怒りと焦りに歪んだ。
「おまっ、何盗撮してやがる!」
「ぐっ……!」
反射的に掴みかかってきた男の拳が、八幡の頬を容赦なく捉えた。
衝撃で視界が揺れ、床に崩れ落ちる八幡。痛みが走る。
「おい、やめろ! そこまでだ貴様ら!」
――その時。
怒号とともに、物陰から巨体が飛び出した。材木座義輝である。
アニメの主人公気取りで男の背中に突撃をかました材木座だったが、体格差と不意を突かれた焦りから、あっさりと別の男たちに腕を掴まれ、羽交い締めにされて床に押さえつけられてしまった。
「ぐふっ……! くっ、流石の余も、まさか多勢に無勢とは……!」
「何なんだこいつら! ぶっ叩いてやれ!」
丸腰でボコボコにされそうになる材木座、そして頬を押さえて這いつくばる八幡。
その光景に、八幡の中で冷めた理性とは別の、ドス黒い苛立ちの感情が沸騰した。
(ふざけんな……!)
卑劣な真似をしておきながら、都合が悪くなると暴力を振るうクズども。
怒りで視界が赤く染まった八幡は、這いつくばった姿勢のまま、目の前にいた男の足元へ思い切り足を突き出し、強烈な蹴りを見舞った。
「ぐあっ!」
不意を突かれた男がバランスを崩して尻餅をつく。
しかし、怒り狂った別の男がすかさず八幡の腹部へと飛び蹴りを放ち、八幡は激しい衝撃とともに壁際に叩きつけられた。呼吸ができないほどの痛みに顔を歪める。
「あなた達、いい加減にしなさい」
――その声が響いた瞬間、空気が凍りついた。
低く、静かで、圧倒的な威圧感を放つ声。
暴行を加えようと拳を振り上げていた男たちの手が、まるで呪いにでもかけられたようにピタリと止まる。
廊下の角から現れたのは、生徒会長・雪ノ下雪乃と、副会長の城廻めぐりだった。
雪乃の纏う冷徹なまでの美しさと、氷の女王としての殺気が、その場の空間を完全に制圧していた。
そして、その横に立つめぐりは、普段の柔らかい表情を消し、手に持ったスマホの画面を男たちに向けていた。
「あなたたち。争う音が聞こえた時から、ずっと動画を撮らせてもらっているわ」
めぐりは静かな、けれど逃げ場を与えないトーンで告げ、画面に映る決定的瞬間を男たちに見せつける。
「盗撮行為に、暴行……。これだけの証拠が残っていれば、もう言い逃れはできないねー」
雪乃が冷ややかな一歩を踏み出す。その一歩だけで、男たちは怯えたように後ずさりした。
「生徒会として、今回の件は一切の猶予なく指導部および校長へ報告させてもらうわ。処分を覚悟することね」
絶対的な正論と完璧な証拠を突きつけられ、男子グループは青ざめた顔でその場に崩れ落ちた。
荒い息を吐きながら壁にもたれかかる八幡と、羽交い締めから解放されて息を整える材木座。
めぐりは二人へ駆け寄ると、心配そうに屈み込んだ。
「大丈夫!? ひどい顔……すぐ保健室へ行こう」
雪乃もまた、倒れ込む八幡のもとへ静かに歩み寄る。その瞳には、盗撮していた男達に向けられていた冷徹さとは違う、痛々しそうな揺らぎが宿っていた。
「……バカな真似をして。無茶ばかりするのね、貴方は」
呆れたような、けれどどこかわずかに震える声。
八幡は痛む腹を押さえながら、去っていく男たちの背中と、自分を庇うように立つ二人の先輩を見上げた。
(……やれやれ。格好悪いとこ、見せちまったな……)
痛む頬を擦りながら、八幡は苦い溜め息を吐き出した。
犯人たちの処分は迅速だった。退学とまではいかなかったものの、厳しい停学処分が下された。
彼らが使っていた盗撮データの入ったチャットグループも消去され、表向きの騒ぎはひとまず沈静化することとなった。
だが、八幡の胸のつかえが下りることはなかった。
(……どうせ元データはどこかにバックアップされてる)
スマホのローカルデータ、あるいは別の雲の上のストレージ。完全にこの世から抹消することなど不可能に近い。そして、それを追及して暴き出す術を、ただの一年生である八幡は持っていなかった。
放課後、机に突っ伏しながら八幡は小さく自嘲の笑みを漏らす。
(結局、ボコボコにされて、動画を撮ってくれた生徒会に救われただけだ。俺は……本当に無力だな)
自分の限界と甘さを思い知らされ、苦い溜め息が口からこぼれた。
――同時刻、生徒会室。
静まり返った部屋で、雪乃は一人、窓の外の夕焼けを眺めていた。
校内に蔓延していた悪意と、醜い欲望。人間の持つ汚さというものは、どれだけ知識として理解していても、決して慣れることなどできない。不快感と生理的な拒絶反応が胸の奥を刺す。
けれど、雪乃の脳裏に浮かんでいたのは、あの夕暮れの裏庭で、ボロボロになりながらも立ち向かっていた二人の姿だった。
(……愚かで、無謀な真似を)
自分の手や体を汚してまで、誰かのために動く。
成功するかどうか、結果を出せるかどうかではない。あの男たちは、理不尽に対して恐怖に怯えることなく、実際に「行動」を起こしたのだ。
「……評価しないわけにはいかないわね」
誰もいない部屋で、雪乃はぽつりと呟いた。
冷徹な「氷の女王」の仮面の裏で、彼女の胸の奥に、不器用で真っ直ぐな二人に対する小さくも確かな敬意が芽生えていた。
「――というわけで、比企谷くん、材木座くん。あなたたち二人を生徒会役員にスカウトしたいのだけれど」
放課後の生徒会室。
招かれた八幡と材木座を前に、雪ノ下雪乃は一切の前置きもなく直球でそう言い放った。
突然の指名に、八幡と材木座は顔を見合わせる。
「……は? スカウトって、選挙とかはどうなるんだよ?」
「む、左様! 生徒会役員といえば全校生徒の信認を得るための選挙戦……! 泥沼の政治闘争が不可避ではないのか!?」
困惑する八幡と材木座に対し、雪乃は手元の書類をトントンと整えながら、呆れたように息を吐いた。
「選挙? 無いわね。というか……立候補者なんて最初からいないわ」
「いないって……」
「我が校の生徒会役員は定員割れが常態化しているのよ。だから、規約に基づき『会長推薦枠』という特別枠が存在するわ。私が推薦すれば、認証式を経て即座に役員として任用できるの」
さらりと恐ろしい校内の人材不足を暴露する雪乃。
八幡は腕を組み、静かに思考を巡らせた。
(生徒会か……。柄じゃないし、ぶっちゃけ面倒くさい仕事が増えるのは嫌だ)
本来の自分なら、間違いなく即座に断っていただろう。
だが――。
脳裏に浮かぶのは、車に轢かれそうになった自分を庇ってくれた姿。
自分の不注意で足に怪我を負わせても「役目だ」と笑った姿。
そして、あの盗撮騒ぎの際、自分たちのために駆けつけてくれたあの凛とした佇まい。
(……俺には、この人に返さなきゃいけない『貸し』がある)
助けられてばかりで、自分は無力だと落ち込んでいた。
けれど、今ここでその手を取れるなら、迷う理由なんて最初からどこにもなかった。
八幡はチラリと隣の材木座を見る。
材木座もまた、いつもの痛々しい中二病の作法を引っ込め、力強く頷いてみせた。男の意地と恩義を感じているのは自分だけではないらしい。
八幡はゆっくりと視線を雪乃に戻し、口元をわずかに緩めた。
「……まあ、会長直々の推薦なら断る理由もないです。雪ノ下先輩」
「ふむ! 余の知恵と武勇、この生徒会のために捧げようぞ!」
二人の返答を聞き、雪乃は一瞬間を置いたあと、どこか嬉しさを隠しきれないように、そっと口元を綻ばせた。
「……そう。よろしく頼むわね、二人とも」
「氷の女王」の元に、新しく二人の頼もしい(?)後輩が加わった瞬間だった。
生徒会役員として正式に加入した翌日から、八幡と材木座を待っていたのは途方もない量の仕事だった。
「ぬあああっ! 八幡ぁ、このダンボール箱を資料保管庫へ運ぶのか!? 余の腕が、腕が千切れそうじゃぞ!」
「騒ぐな材木座、声出す体力がもったいない……。俺は俺で、この過去三期分の予算決算書の突合で目が死にそうだ……」
重い備品の運搬、校内の整備といった力仕事から、膨大な提出書類の整理やデータ入力という細かな事務作業まで。まさに雑用と呼ぶにふさわしいタスクが山積みになっていた。
汗を拭いながら、書類の山と格闘する八幡を見かねて、副会長のめぐりが温かいお茶を二人のデスクに置いた。
「二人ともお疲れ様〜。ずっと人手が足りなくて、仕事が溜まっちゃってたんだよね」
「……あざっす。にしてもめぐり先輩、なんでこんなに人手が足りないんですか? 生徒会なんて、内申点目当てとかで入リたがる奴がいそうなもんですけど」
八幡が素直な疑問を口にすると、めぐりは苦笑いを浮かべながら、生徒会室の奥で黙々と校長会提出用の資料をチェックしている雪乃の方へチラリと視線を送った。
「うーん……実はね、雪乃ちゃん目当てで入ろうとする男子が生徒会室に押し寄せてた時期があったの」
「下心か……」
「うん、下心。だから本当は、生徒会に入るには雪乃ちゃんの面接と適性試験が必要なんだけど……まあ、彼女の厳しい基準に合格する人なんて、今まで一人もいなかったんだよね」
「……なるほどな」
容姿端麗な「氷の女王」に近づきたい一心でやってくる不純な動機の男子たちを、雪乃が圧倒的な正論と冷徹な面接で叩き潰し、片っ端から不合格にしてきた光景が容易に目に浮かんだ。
「……じゃあ、なんで俺たちは面接もなしに一発採用だったんですか? ぶっちゃけ俺も不純な動機がゼロとは言い切れませんけど」
自虐交じりに尋ねる八幡の言葉に、書類をめくる手がピタリと止まった。
雪乃は静かに眼鏡を外し(※集中するときだけかけるデスクワーク用だ)、二人のほうへまっすぐな視線を向けた。
「あなたたちは、動ける人間よ。……面接の必要なんて、最初からなかったわ」
短く、けれど一切の迷いがない言葉。
口先だけの言葉や、不純な下心で近づいてくる大勢の人間を見てきた彼女だからこそ。自分の身を投げ打ってでも理不尽に立ち向かい、実際に「行動」してみせた八幡と材木座の姿勢を、誰よりも高く評価していたのだ。
「……っ」
「ふ、ふはは! さすが会長、見る目がある! 余の真の価値を見抜くとはな!」
照れ隠しに大袈裟に高笑いする材木座の横で、八幡は気まずそうに鼻の頭を掻いた。
「……まあ、期待に添えるよう、雑用くらいはこなしますよ」
「ええ、頼むわね。……あ、でも比企谷くん、書類の『合計金額』の欄、三箇所ほど計算ミスがあるわ。やり直し」
「厳しすぎません兼厳格すぎません!? 氷の女王様!?」
「先輩と呼びなさい。当然でしょう? 生徒会の仕事に妥協は許さないわ」
くすくす笑うめぐりと、文句を言いながらもペンを握り直す八幡。
忙しくもどこか温かい、新しい生徒会の日常が本格的に走り出していた。
「――そういえば、なんで雪ノ下先輩は生徒会長なんてやってるんですか?」
書類整理の手を少し緩め、八幡がふとした疑問を口にした。
「生徒会の業務って、ぶっちゃけ膨大で面倒だし、メリットといえば内申書がちょっと良く見えるくらいだ。先輩みたいな学年首位の優等生なら、わざわざこんな苦労をしなくても推薦なんて余裕で取れるだろうに」
「む! 余も気になるぞ! 会長ほどの才覚があれば、このような雑務に追われずとも我が道を往くことができるはず! なにか秘められた野望でもあるのか!?」
材木座も身を乗り出して尋ねる。
二人からの視線を受け、雪乃は手元のペンを静かに置くと、どこか遠くを見るような瞳で息を吐いた。
「大層な野望なんてないわよ。……ただ、誰かがやらなくてはならないでしょう?」
当たり前のことを言うように、さらりと告げる雪乃。
「誰もやらないのであれば、私がやる。それだけの話よ。……私はね、理不尽というものが心底嫌いなの。校則を盾にした身勝手な主張も、弱い者を虐げる空気も、押し付けられた不条理も。そういったものを正すのに、生徒会長という権限と肩書きはとても便利なのよ」
背筋をすっと伸ばし、どこまでも清廉で凛とした声で語る雪乃。
そこに自己保身や名誉欲といった浅ましい感情は欠片も存在しなかった。ただ純粋な信念と、誰も背負おうとしない重荷を自ら背負う圧倒的な覚悟だけがあった。
「――――」
その格好良すぎる答えに、八幡と材木座は完全に言葉を失った。
(……男前すぎるだろ、この生徒会長)
(ぬうう……! なんという高潔さ! 漢(おとこ)の中の漢……いや、乙女の中の覇王……!)
二人揃って心の中で感嘆の声を上げる。
「氷の女王」だの「氷の聖母」だのと周りが好き勝手に呼んでいる異名すら、彼女の持つ圧倒的な高潔さの前には生ぬるく思えるほどだった。
「……なにかしら。妙な顔をして」
不審そうに眉をひそめる雪乃に、八幡は苦笑いを浮かべながら大きく首を横に振った。
「いえ、別に。……本当に、どこまでもブレない人だなと思っただけです」
「そうよ、雪乃ちゃんは昔からずっとカッコいいんだから」
いつの間にかお茶を淹れ直していた副会長のめぐりが、クスクスと楽しそうに微笑む。
「失礼ね。私はただ、自分の意志に従っているだけよ。……さあ、無駄話をしていないで手を動かしなさい、比企谷くん、材木座くん。まだ書類は山ほど残っているわ」
少しだけ頬を朱に染め、照れ隠しのようにいつもの冷徹な表情に戻る雪乃。
八幡と材木座は顔を見合わせ、「へいへい」と肩をすくめながら、再びペンを握り直した。この圧倒的に男前な先輩のためなら、もう少し雑用に付き合ってやるのも悪くないと思いながら。
生徒会室の窓から差し込む夕空の橙色が、机の上に広げられた資料を穏やかに染めていく。
静寂の中、響くのは資料をめくるカサリという音と、雪乃が走らせるシャーペンの規則正しいリズムだけだ。
(……ああ、やっぱり勘違いなんかじゃないな)
八幡は手元のペンを止め、隣で真剣な横顔を見せる雪乃を静かに見つめた。
階段で助けられたあの瞬間から、胸の奥で燻り続けていた熱。
『吊り橋効果だ』『ただの錯覚だ』と、今まで何度も自分に言い訳を作って誤魔化そうとしてきた。だが、こうして彼女の側に立ち、その背中を見つめ続けてきた今なら、はっきりと分かる。
自分は、雪ノ下雪乃という一人の少女に、完全に惚れているのだと。
それは決して容姿の美しさだけに惹かれたわけではない。
理不尽を絶対に許さない清廉さ。誰にも期待せず、誰のせいにもせず、膨大な雑務や校内の問題に一人で立ち向かってきた圧倒的な孤高。そして、傷ついた者を不器用に庇い庇護する「氷の聖母」としての優しさ。
(世界を変える、なんて大層なことは言えねえけど……)
八幡は自嘲気味に口元を緩めた。
元々、自分はこの世の全てを諦めたような冷めた眼差しで生きてきた。他人に期待せず、関わらず、傷つかない位置で波風を立てずにやり過ごすのが自分の処世術だったはずだ。
けれど、彼女の側にいると不思議と思えてしまうのだ。
「この人が引っ張っていってくれるなら、この学校の胸糞悪い空気くらいは変えられるんじゃないか」
そして――「こんなひねくれた俺でも、少しはマシな自分に変われるんじゃないか」と。
雪乃が持つ圧倒的な実行力と、人を惹きつけてやまないカリスマ性。それは、諦めることに慣れきっていた八幡の凍りついた思考を、内側から静かに溶かしていくほどの熱量を持っていた。
「……何かしら、比企谷くん。さっきから私の顔ばかり見て。手に迷いが見えるけれど?」
八幡の視線に気づいた雪乃が、書類から目を離さずに淡々と告げる。
「……いえ。ちょっと、頼もしい先輩だなと思ってただけです」
「……ふん。お世辞を言っても仕事は減らないわよ」
そっけなく言い捨てながらも、雪乃は少しだけ気まずそうに視線を泳がせ、ほんのりと頬を朱に染めた。
そのわずかな表情の変化を目に焼き付けながら、八幡はもう一度深く息を吐き出し、力強くペンを握り直した。
この凛とした「氷の女王」の隣に立ち続けるために。
自分も少しずつ、変わっていこうと心に誓いながら。
資料の端を綺麗に揃えながら、雪乃はふっと視線を八幡へ向けた。
その唇の端には、いつもの冷厳な表情からは想像もつかないほど、柔らかく、そしてどこか意地悪な笑みが浮かんでいた。
「……私に惚れるのは構わないけれど、難しいわよ?」
「――――っ!?」
心臓が跳ね上がり、八幡は手にしていたペンを危うく落としかけた。
完全に自分の世界に入って深く思索していたつもりが、筒抜けだったとでもいうのか。自分の甘さと詰みの早さに、背中から嫌な汗が吹き出す。
(マジかよ……バレバレだったか……?)
八幡は必死に冷静さを装おうとするも、耳の根まで一気に熱くなっていくのが自分でも分かった。視線を明後日の方向へ泳がせながら、引きつった声で呟く。
「……な、何のことだかさっぱり分かりませんね。俺はただ、効率的な作業手順について熟考していただけで――」
「ふふっ」
静かな生徒会室に、鈴を転がすような笑い声が響いた。
声の主は、温かいお茶のおかわりを運んできた副会長のめぐりだった。
「比企谷くん、お顔真っ赤だよ? 雪乃ちゃんの言う通り、わかりやすすぎ〜」
「ぬ、ぬははは! 案ずるな八幡! 恋という名の修羅道、この材木座義輝が全力でバックアップしてやろうぞ! ぬおお、これが青春というヤツか……!」
「黙れ材木座! あとめぐり先輩も乗っからないでください!」
八幡が赤面しながら頭を抱えると、雪乃は少しだけ照れたように咳払いをし、手元の書類に視線を戻した。
「……冗談はこれくらいにして、残りの書類を終わらせるわよ。私の隣に立つからには、容赦なく働いてもらうわ」
「……へいへい。お望み通り、徹底的に付き合いますよ、会長」
八幡は苦笑交じりに溜め息をつき、腹をくくってペンを握り直した。
周りを冷やかすめぐりと材木座の温かい視線に包まれながら、静かな生徒会室には、心地よいカリカリという執務の音だけが再び響き始めていた。
校門を出てすぐの街頭。夕闇が深まり始める通りで、雪乃は柄の悪い二人組の男たちに立ち塞がれていた。
「なあお姉ちゃん、ちょっとお茶しようよ〜。たまには息抜き必要でしょ?」
「断るわ。通行の妨げよ、そこを退きなさい」
雪乃は冷徹な一蹴を放ち、通り抜けようとする。しかし男の一人がニヤニヤしながら強引にその華奢な腕を掴み上げた。
「かたいこと言うなって! 減るもんじゃなし、ちょっと付き合えよ!」
「……放しなさい!」
言葉が通じないと判断した瞬間、雪乃の身体が疾風のように動いた。
掴まれた腕の関節を即座に極め、相手の勢いを利用して一本背負いの体勢でアスファルトへと叩きつける。鈍い音とともに男が悶絶した。
「なっ……この女、やりやがったな!?」
もう一人の男が顔色を変え、低く唸る。雪乃は幼少期から合気道をはじめとする武術を嗜んでおり、一対一であれば後れを取るようなことはない。
だが――相手は二人。
「痛ぇなクソが……!」
叩きつけられた男が執念で足首を掴み、雪乃の体制がわずかに崩れた。その隙を見逃さず、背後に回ったもう一人の男が凶悪な笑みを浮かべ、拳を振り上げて雪乃の頭部へと不意打ちを放とうとする。
視界の死角。完全に無防備な雪乃の後頭部へ、重い衝撃が迫る――。
「――雪ノ下先輩っ!!」
ドカッ!!
突如、激しい衝撃音とともに、背後の男の顔面にズシリと重い革製の通学カバンが直撃した。
「ぐはっ!?」
不意を突かれて体勢を崩す男。
カバンを投げつけた張本人――呼吸を荒らげた八幡が、全力で二人の間に割り込んできた。
「うちの生徒会長に……気安く触ってんじゃねえよ……!」
「このガキが調子乗りやがってぇ!」
鼻血を流しながら逆上した男が、標的を八幡に変えて強烈な拳を打ち込む。
ドカッと鈍い音が響き、八幡の頬に激痛が走った。八幡は吹き飛びそうになるのを歯を食いしばって耐え、男の服の胸倉を必死で掴み取り、その場に縫い付けた。
(……一秒でもいい……隙を作れれば……!)
自分が殴られているその一瞬。それこそが、彼女にとって十分すぎる時間だった。
八幡が時間を稼いだその隙に、雪乃の目が氷のように冷たく冴え渡る。
「……私の後輩に、何をしてくれているのかしら」
冷酷なまでに静かな声。
八幡の服を掴んでいた男の腕へ、雪乃のしなやかな手が滑り込む。鮮やかな手さばきで手首を捻り上げ、男の体勢を崩すと、そのまま顎へと鋭い掌打を叩き込んだ。
「ぐぁっ……!?」
脳を揺らされた男が崩れ落ちる。
さらに、立ち上がろうとしていた最初の男の頸椎へ容赦ない寸勁を見舞い、瞬く間に二人の男を地面に沈めてみせた。
静寂が戻った路上。息を荒らげる二人の男は完全に意識を失い、転がっている。
雪乃は乱れた制服の裾を整えると、頬を腫らして地面に座り込んでいる八幡のもとへ駆け寄った。その瞳には、いつもの冷酷さなど欠片もなく、激しい動揺と溢れんばかりの狼狽が色濃く浮かんでいた。
「比企谷くん……! バカな真似を……どうしてカバンなんて投げたの!? 殴られてるじゃない!」
「……はは、カバンの中、参考書詰まってて重かったんすよね……効いたでしょ……」
痛む頬を押さえながら不敵に笑う八幡に、雪乃は息を呑み、震える手で八幡の頬へそっと手を伸ばした。
「……本当におバカさんね、貴方は」
叱るような言葉とは裏腹に、彼女の指先はどこまでも優しく、暖かかった。
倒れた男たちを横目に、雪乃はゆっくりと立ち上がると、乱れた息を整えながら制服の袖を払った。
そして、頬を腫らしながらもどこか満足そうに地面に座り込む八幡を見下ろし、呆れたような、けれど愛おしさを隠しきれない眼差しを向ける。
「……あなた。なかなかね」
絶妙なタイミングでカバンを投げつけ、自ら囮となって隙を作り出した度胸と機転。それを称えるように呟いたあと、彼女は少しだけ意地悪く眉をひそめて言葉を続けた。
「……そして、まだまだよ」
武術の足さばきもガードもない、ただ体を張っただけの無茶な動きに対する「氷の女王」らしい厳格な採点。
「……確かに。返す言葉もないっすわ」
八幡は苦笑いを浮かべ、自嘲気味に鼻の頭を擦った。
実際、自分はただ殴られただけで、鮮やかに男二人を沈めたのは他ならぬ彼女だ。格好いいところを見せられたとは口が裂けても言えない。
けれど――雪乃の唇が、夕闇の中でふっと柔らかく綻んだ。
「でも……理屈ばかりで動かない人間より、そうやって動ける人は、嫌いじゃないわ」
「――――」
風に揺れる黒髪の間から覗く、ほんのりと朱に染まった頬と、温かな微笑み。
その言葉と笑顔に、八幡の胸の奥がぎゅっと締め付けられるように熱くなった。
手は痛むし、頬は腫れてズキズキと熱を持っている。
自分がどれだけ無力で、情けない格好晒したかもよく分かっている。
(だけど……)
圧倒的に強くて、美しくて、孤独だった「氷の聖母」。
そんな彼女をほんの少しでも脅威から遠ざけ、守るための足しにはなれたのだ。
八幡は沈んでいく夕日を見上げながら、痛みすら心地よく感じながら、静かに心の中で噛み締めていた。
――それだけで、今は十分に満足だった。
朝日がまだ眩しい早朝の住宅街。
ジャージ姿の八幡は、冷え込んだ空気を肺に吸い込みながら、一定のペースでランニングを続けていた。
(昨日の今日でこれかよ……我ながら単純と言うか、なんと言うか)
昨日の夕暮れ、不良に絡まれたときの一件。自らの不甲斐なさと、無力さが身に染みて痛かった。カバンを投げつけて隙を作るのが精一杯で、まともにやり合う力なんて微塵もなかった。あの時、もし雪乃が武術を心得ていなければ、自分たちは一体どうなっていたことか。
――「でも、動ける人は嫌いじゃないわ」
あの時彼女がくれた言葉が、脳裏に焼き付いて離れない。
守られてばかりの「お荷物」で終わるつもりはない。せめて、彼女の隣に並び立つだけの最低限の力くらいはつけておきたい。
「ふうっ、ふうっ……!」
荒くなる息を整えつつ、八幡はさらに足を前に踏み出した。
それから数日、毎朝のルーティンとなった早朝ランニングの途中、いつもの公園の角に差し掛かった時のことだった。
「ぬおおおぉぉーーっ!!」
突如として響き渡る、気合の入った異様な咆哮。
見れば、朝の澄み切った空気の中、ハチマキを締めた巨体が必死の形相でスクワットを繰り返していた。材木座義輝である。
「……おい、材木座? お前、朝から何やってんだよ」
八幡が呆れたように声をかけると、材木座は汗だくの顔を上げ、フッと鼻を鳴らした。
「ふっ、我が友、八幡よ! 見て分からんか、肉体改造のプレリュードよ!」
「は? 肉体改造?」
「うむ! 昨日の貴様の勇姿、しかと聞き及んだぞ! 不良どもを相手に身を挺して会長を守り、あまつさえ隙を作り出したその生き様……! 男・材木座義輝、感動せずにはおれんかったわ!」
材木座はぐっと力こぶを作ってみせるが、その腕はぷるぷると情けなく震えている。
「いや、俺はただビビりながらカバン投げただけだぞ。それに、お前まで付き合う必要はないだろ」
「いいや、ある!」
材木座は真剣な眼差しで立ち上がり、胸を張った。
「考えてもみよ! あの過酷にして麗しき生徒会の日々を! 厳格にして慈愛に満ちた雪ノ下会長、そして我らを温かく見守ってくださる城廻副会長! あの居心地の良い、かけがえのない空間を守るためなら、余とてこの贅肉を削ぎ落とすやぶさかではない!」
熱っぽく語る材木座の言葉に、八幡は少しだけ面食らった。
だが、すぐに腑に落ちる。
確かに、あの生徒会室は居心地が良い。過剰な詮索をする者はおらず、お互いの距離感を保ちながら、それぞれの正義や役割を全うできる場所。あの場所を、そしてあの人たちとの日常を、二人は密かにとても気に入っていた。
不良から雪乃を守るため、そして何より――あの誇り高い「氷の女王」の隣に胸を張って立つため。
「……そうかよ。なら、途中で足つっても知らねえからな」
「ふっ、侮るなかれ! 余の秘められたポテンシャル、今こそ解放する時よ! さあ、次は腹筋だ、八幡! 付き合え!」
「はいはい、わかったよ……っとに、調子のいい奴め」
苦笑いを浮かべながらも、八幡は材木座の隣に並び、再び身体を動かし始めた。
静かな朝の光の中、二人の影がアスファルトの上に長く伸びていく。
少しずつ変わり始める自分たちの未来を予感させながら、それぞれの戦いが、今日もこうして始まっていた。
放課後、まだ八幡と材木座が到着する前の静かな生徒会室。
湯気がふわりと立ち上る紅茶のカップを手に、副会長のめぐりは窓辺に立つ雪乃の横顔を優しく見つめていた。
「ねえ、雪乃ちゃん。比企谷くんと材木座くん……あの二人、なかなか良い男じゃない?」
めぐりはクスクスと微笑みながら、どこか慈しむようなトーンで問いかけた。
盗撮事件の時も、先日の街頭でのトラブルの時も、不器用で格好悪い姿を見せながら、二人はいつだって大切なものを守るために真っ先に身体を動かした。
めぐりの問いかけに、雪乃は手にしたカップに視線を落とし、ほんの少しだけ琥珀色の液体を口に含んだ。
「……まだまだよ」
一拍置いて返ってきたのは、相変わらず厳しい「氷の女王」らしい一言。
しかし、カップをソーサーに戻した彼女の唇の端には、隠しきれない小さな温もりとうっすらとした微笑みが浮かんでいた。
「……でも。今、なってる途中よ」
完成された男ではない。不器用で、欠点だらけで、迷ってばかりの二人。
けれど、自分の弱さと向き合い、誰かを守るために傷つきながらも一歩ずつ前に進もうとしている。その途上にある姿を、雪乃は誰よりも近くで、誰よりも正当に評価していた。
(――ふふ、やっぱりね)
その言葉と優しい横顔を見て、めぐりは心の中でそっと微笑んだ。
最初に面接もなしで二人を生徒会に推薦した時。
誰もが恐れる「氷の女王」の厳格な瞳は、二人の中に眠る本物の価値を最初から見抜いていたのだ。
(雪乃ちゃんの目に、やっぱり狂いはなかったな)
「ふふ、二人とも、聞いたら泣いて喜んじゃうかもね」
「言うわけがないでしょう。……あのおバカさんたちが調子に乗るだけだわ」
少しだけ顔を赤らめてそっぽを向く雪乃。
その時、ガチャリとドアが開き、「ちわーす」「失礼するぞ!」と、少し息を荒らげた(※早朝トレーニングの成果か、どこか誇らしげな)二人の声が廊下に響き渡った。
「あ、いらっしゃい、ふたりとも!」
弾んだ声で迎えるめぐりと、いつもの冷徹な仮面を被り直して二人を睨む雪乃。
二人の「良い男」へとなろうとしている後輩たちを迎え、今日もまた、愛おしく賑やかな生徒会の放課後が始まろうとしていた。
「……はぁ」
生徒会室に、本日何度目かわからない雪乃の深いため息が響いた。
事の発端は、めぐりがどこからか仕入れてきた校内のちょっとした噂話だった。
『生徒会に入った一年生の二人、相変わらずクラスだと地味っていうか浮いてるよね』
『というか八幡、相変わらず死んだ魚の目をしてるし、服のセンスもなんか惜しいっていうか……』
「……本当に、あなたたちは生徒会の看板を背負っているという自覚があるのかしら」
書類から目を離し、冷ややかな視線を八幡と材木座に向ける雪乃。
「いや、俺は別にクラスで浮いてようが困ってませんし、服なんて着られれば何でもいい派なんですけど……」
「ぬぅ……余の漆黒の装束(私服)に難癖をつけるとは、愚かな同級生どもめ……!」
言い訳をする二人を、雪乃は手厳しい一言で遮った。
「黙りなさい。あなたたちの私生活に干渉するつもりはないけれど、生徒会役員としての見栄えや威厳も必要よ。……今週末の土曜日、予定を空けておきなさい」
「はい? 土曜日……ですか?」
「私とめぐりで、あなたたちのファッションを一から見直してあげるわ。いいわね?」
断る余地を一切与えない「命令」に、八幡と材木座は「へい……」「御意……」と頷くしかなかった。
◇
そして迎えた土曜日。
駅前のショッピングモールに集まった四人は、注目の的となっていた。
それもそのはず、私服姿の雪乃とめぐりのレベルが高すぎるのだ。
雪乃は洗練されたシックなコーディネートで「氷の聖母」らしい凛とした美しさを際立たせており、めぐりは柔らかい色合いのニットで清楚かつ華やかな魅力を放っている。
対する八幡と材木座は、いつもの冴えない私服。並んで歩くだけで完全に格差社会が発生していた。
「――よし! 今日は二人を『生徒会役員にふさわしいイケメン』に変身させるよ〜!」
やる気満々のめぐりに引率され、まず連れてこられたのはメンズのセレクトショップだった。
「比企谷くん、まずはそのヨレたパーカーを脱ぎなさい。このジャケットを着てみて」
「材木座くんは……そのプリントTシャツをやめて、こっちのシンプルめなシャツにしようか」
雪乃とめぐりの厳しい(かつ的確な)指導のもと、着せ替え人形のように服を次々と試着させられる二人。
「うん! 比企谷くん、立ち姿がシュッとしてるからジャケット似合うね!」
めぐりが笑顔で褒めると、八幡は気まずそうに目を逸らした。
さらに、姿見の前に立つ八幡の後ろに雪乃がすっと寄り添う。
鏡越しに視線が交差した。雪乃は八幡のジャケットの襟元を手際よく整えながら、少しだけ満足そうに口元を綻ばせる。
「……悪くないわ。元々の姿勢の悪さを正せば、見違えるわね」
至近距離から香る、彼女のほのかなシャンプーの匂い。
鏡に映る二人の姿は、傍から見ればまるで仲のいいカップルが買い物に来ているようにしか見えない。
(……待て待て待て。落ち着け俺)
八幡は必死に昂ぶる心拍数を抑えようと息を整える。
休日。街を巡る買い物。
隣には私服姿で微笑む最高に美しく高潔な先輩。
そして、照れ隠しのように「似合っているわ」と囁いてくれる彼女。
(これ……客観的に見て、デートって呼んでもいいんじゃないか……?)
もちろん、材木座のコーディネート指導に頭を抱えるめぐりの存在や、これが「生徒会の見栄え改善」という名目であることは分かっている。
けれど、鏡の中でほんのり頬を朱に染めながら自分の服を選んでくれている雪乃の横顔を見つめながら、八幡はこの夢のような時間を、密かに噛み締めていた。
ショッピングモールの明るい光の中、洗練された洋服の数々に囲まれて、八幡たちが次の一着を選んでいた時のことだった。
「――あらぁ。可愛い後輩くんたちとお買い物、ってわけ?」
突如、空間の空気がフッと変わるような、軽やかで艶やかな声が背後から降ってきた。
振り返ると、そこに立っていたのは雪乃の姉・雪ノ下陽乃だった。
相変わらず周囲を惹きつける圧倒的なオーラを纏いながら、陽乃は面白がるような笑みを浮かべてこちらに近づいてくる。その琥珀色の瞳は、値踏みするように八幡と材木座、そして雪乃とめぐりの顔を順に舐め回すように見つめた。
「へえ、雪乃ちゃんが自分から男の子たちを連れてお出かけなんて珍しいじゃない。……もしかして、歳下くんたちとのデートだったりするのかな?」
その含みを持たせた意地悪な言い方に、八幡は心臓が跳ね上がるのを感じた。
昨日から自意識過剰に「デートかも」などと考えていただけに、図星を突かれたような気まずさと気恥ずかしさで、全身の血が一気に沸騰するように熱くなる。
(うっ……笑えねえよ、観察眼がエグい……!)
「ぬぅ……! この圧倒的な存在感、もしや強大なボスの来訪か……!」
材木座も冷や汗を流しながらタジタジと一歩引いている。
顔を真っ赤にして気まずそうに目を逸らす八幡を見て、陽乃はクスクスと楽しそうに笑声を漏らした。
だが――。
「……姉さん。からかうのはおよしなさい」
冷ややかな視線を向けながら、雪乃が一歩前に出た。
その声音には、いつもの冷徹さとは少し違う、まるで自分のテリトリーと大切なものを守るような、毅然とした響きがあった。
雪乃は陽乃の探るような視線を真っ向から受け止めると、少しも怯むことなく、はっきりとこう言い放った。
「姉さんには分からないでしょうけれど……この2人は、これから良い男になるわ。必ずね」
その言葉に、その場にいた全員の動きがピタリと止まった。
めぐりが「おや?」と目を丸くしてくすくす微笑み、材木座が「おお……!」と胸を熱くして感動の涙を拭う仕草をする。
そして八幡は、頭をガツンと殴られたような衝撃を受けながら、雪乃の背中を見つめた。
「……ふぅん?」
陽乃は面白そうに眉を跳ね上げ、妹の顔をじっと見つめた。
やがて、何かを測るような含み笑いを浮かべると、ふっと肩の力を抜いて手を振った。
「へえ……雪乃ちゃんがそこまで言い切るなんてね。なんだか少し、楽しみになっちゃったな」
陽乃はそれ以上詮索することなく、ヒラヒラと手を振りながら軽やかな足取りで去っていく。
すれ違いざま、八幡の耳元に、ほんの小さな声が掠めた。
「――がんばってね、後輩くん」
その背中が見えなくなり、ようやく生徒会メンバーの間に緊張の糸が緩んだ。
八幡は熱を持った顔を両手で覆いながら、信じられない思いで隣に立つ雪乃を見上げる。
雪乃はほんのりと耳たぶを赤く染めながらも、すまし顔でツンとそっぽを向いていた。
(……まったく、この人には振り回されっぱなしだな)
照れ隠しのように「ほら、さっさとするわよ」と歩き出す雪乃の背中を追いかけながら、八幡の胸の奥には、先ほどの彼女の言葉が熱い余韻となっていつまでも残り続けていた。
陽乃が去り、元の静けさを取り戻した服屋の店内。
八幡は未だに火照りが収まらない顔を隠すように、首の後ろをボリボリと掻きながら、隣で何事もなかったかのようにハンガーのシャツを吟味している雪乃へと視線を向けた。
「……あの、雪ノ下先輩」
「何かしら、比企谷くん。そのシャツのサイズなら、そっちじゃなくてMサイズよ」
「いや、服のサイズじゃなくて……さっきのやつです。なんで、あんなこと言ったんですか?」
『この2人は良い男になるわ。必ずね』――あの陽乃相手に堂々と言い放った言葉。
八幡にとっては、あまりにも熱量が大きすぎて、直視するには刺激が強すぎる台詞だった。
八幡の問いに、雪乃はシャツを手にする動きを止め、ふっと小さく息を吐き出した。
そして、ゆっくりとこちらを振り返ると、どこか凛とした、けれど少しだけ誇らしげな瞳で八幡を見つめた。
「……姉さんを追い払うためよ」
そっけない言い方。だが、雪乃は続けて、風に揺れる髪を耳にかけながら、微かに唇の端を緩めた。
「それと……私の可愛い後輩を馬鹿にされて、黙っていられるほど大人しくはないの。私は」
「――っ」
さらりと、けれど一切の迷いなく告げられた言葉。
『私の可愛い後輩』
「氷の女王」として孤高を貫いていた彼女が、自分たちを明確に「身内」として、そしてかけがえのない「後輩」として肯定し、守ろうとしてくれた。その事実が、八幡の胸の奥を激しく締め付ける。
「……っはは、相変わらず勝てねえな、この先輩には」
八幡は降参だとばかりに苦笑いを浮かべ、照れ隠しに顔を背けた。
「……何か言ったかしら?」
「いえ、別に。……ありがとうございます、先輩」
「……お礼を言われる筋合いはないわ。事実を言ったまでよ。……さあ、無駄話は終わり。次は貴方の靴を選ぶわよ、行きましょう」
少しだけ耳たぶを朱に染めた雪乃が、ツンとすまし顔で歩き出す。
その背後で、めぐりが「ふふっ、雪乃ちゃんたら〜」と楽しそうにクスクス笑い、材木座が「ぬおおお! 余も一生この会長についていくぞー!」と感動に震えていた。
照れくささと、胸を満たす確かな温かさを噛み締めながら、八幡は彼女の背中をしっかりと追いかけて歩き出した。
靴売り場へと移動する道中、少し前を歩く雪乃とめぐりの背中を、八幡と材木座は数歩離れた位置から追いかけていた。
買い物客の喧噪に紛れるようにして、めぐりが雪乃の隣でいたずらっぽく小首をかしげ、ひそやかな声をかける。
「ねえ、雪乃ちゃん。さっき陽さんに『良い男になる』って言ってたけど……この2人が、本当に良い男になると思う?」
めぐりの楽しそうな問いかけに、雪乃は前を見据えたまま、歩調を緩めることなく淡々と答えた。
「さあ? 未来のことはわからないわ」
「ふふ、冷たいなあ」
「別に冷たくはないわ。……ただ、その可能性はすでに示されているもの。私はほんの少し、未来を予想しただけよ」
風に揺れる黒髪をそっと手で押さえながら、雪乃の唇がほんのわずかに、けれど確かな信頼を込めて柔らかく綻ぶ。
「――まあ、それが実現するかどうかは、本人たちの努力次第だけれどね」
「……そっか。ふふ、そうだね」
満足そうに微笑むめぐりと、少しだけ照れくさそうに視線を泳がせる雪乃。
少し後ろを歩いていた八幡と材木座の耳には、その会話がハッキリと届いていた。
だが二人は顔を見合わせることもなく、示し合わせたように口を真一文字に結び、必死で「聞こえないふり」を決め込んでいた。
(……可能性、ね)
八幡はポケットの中でぐっと拳を握りしめた。
今までずっと、自分には何もないと諦めていた。無力で、情けなくて、ただ傷つかないように逃げ回るだけの存在だと思っていた。
けれど、あの凛とした「氷の女王」は、自分たちの泥臭い足掻きの中に、確かに何かを見出してくれたのだ。そして「良い男になる」という未来の可能性を信じてくれた。
隣を見れば、材木座もいつもの痛々しい態度を完全に封印し、見たこともない真剣な眼差しでまっすぐ前を見据えている。言いたいことは、言葉にせずとも十分に伝わっていた。
あんな格好良すぎる先輩に、あそこまで言われて、ただの「予想」で終わらせてたまるか。
(言われなくても……なってやるよ。あんたの隣に立っても恥ずかしくない、本物の『良い男』にな)
言葉には出さず、二人同時に心の中で固く誓いを立てる。
「ちょっと、二人とも何をしているの? 遅いわよ」
立ち止まり、振り返った雪乃が、いつものように少し呆れたような眉をひそめて二人を呼ぶ。
「あ、すみません。すぐ行きます」
「ふ、ふはは! 今行くぞ、会長!」
照れ隠しを胸の奥に押し込め、八幡と材木座は背筋をぴんと伸ばし、どこか誇らしげな足取りで彼女たちの元へと歩み寄っていった。
休日が明け、新しい週が始まった教室内。
いつものように席についた八幡と材木座の周りには、これまでとは明らかに異なる、どこかざわついた空気が漂っていた。
「……なぁ、なんか今日の比企谷、雰囲気違わないか?」
「服装もなんかシュッとしてるし……髪型も整ってる気がする」
「材木座もさ、あのイタい仕草がなくなって、なんか背筋伸びてね?」
クラスメイトたちのひそひそ話が耳に届く。
雪乃とめぐりによって選ばれた、洗練されたコーディネート。だが、周囲の目を引いていたのは単なる「見た目の変化」だけではなかった。
『この2人は、これから良い男になるわ。必ずね』
『可能性はすでに示されている。実現するかは本人次第ね』
あの休日、街の喧噪の中で雪乃が口にした言葉。
二人は互いにその話題を口にすることはなかったが、その胸には深く、熱い誓いが刻み込まれていた。
あんなに美しく、高潔で、誰よりも真っ直ぐな人が、自分たちの可能性を信じてくれたのだ。ならば、その期待を裏切るわけにはいかない。
八幡自身、意識して「格好つけよう」としているわけではなかった。
ただ、朝の早早トレーニングを継続したことで姿勢が自然と良くなり、毎日の膨大な生徒会業務をこなす中で、かつての「諦めきった死んだ魚の目」には静かな力強さと責任感が宿りはじめていた。
材木座もまた同じだった。無理に痛々しいキャラクターを演じて周囲から浮く必要などない。生徒会という居場所で認められ、自分たちの役割を果たしているという自負が、彼の態度にどっしりとした落ち着きをもたらしていた。
「おい、比企谷。この前のプリントの件なんだけど……」
「ああ、それならもう生徒会の方で処理して、職員室に回してあるぞ」
クラスの男子から話しかけられた八幡は、以前のように卑屈に目を逸らすこともなく、淡々と、けれど自然に対応する。
「まじか、助かったわ! サンキュ!」
礼を言われて去っていく同級生の背中を見送りながら、八幡はふと自分の手元を見つめた。
(……立ち位置が変わった、か)
クラスで孤立していた「ぼっち」から、一目置かれる「生徒会役員」へ。
けれど、八幡にとって重要なのはクラスでの評判などではなかった。
自らを模索し、鍛え、変わろうとし続けること。
それこそが、あの「氷の女王」の隣に胸を張って立ち続けるための、唯一の道なのだから。
「ふっ……八幡よ。我らの内に眠る真の力が、滲み出てしまっているようだな」
隣の席から、声を潜めてニヤリと笑いかけてくる材木座。
「……黙れ材木座。調子に乗るな。放課後も生徒会の仕事が山積みだぞ」
「ぬぐっ……分かっているわ! 会長を待たせるわけにはいかんからな!」
変わっていく自分たちを感じながら、二人は放課後の生徒会室――あの愛おしい場所へと向かうために、静かに気持ちを引き締めるのだった。
桜の季節が巡り、総武高校に新しい春がやってきた。
始業式を終え、新しく配られた教科書を鞄に押し込みながら、八幡は教室の窓から校庭を眺めていた。
「――2年生、か」
隣の席になった材木座が、どこか感慨深そうに腕を組みながら頷く。
「うむ。月日の流れるのは早いものだな、八幡よ。我らもついに上級生……後輩を持つ身となったわけだ」
「お前はまず後輩に痛いところ見せないように気をつけろよ。まあ、俺たちはずっと変わらず生徒会の雑用係だけどな」
そう口にしながらも、八幡は自然と背筋を伸ばしていた。
1年前の自分なら、「面倒な1年が終わった」と溜め息をついていただろう。だが今の自分には、胸を張って守りたい場所と、目指すべき背中がある。
放課後になり、二人は慣れた足取りで特別棟の生徒会室へと向かった。
ドアを軽くノックして中に入ると、春の柔らかい日差しが差し込む部屋の奥で、書類に目を落としていた雪乃がゆっくりと顔を上げた。
「――遅いわよ、ふたりとも」
胸元に輝く生徒会長のバッジ。
そして、その制服の胸元には『3年』を示す新しい学年章が飾られていた。
「すみません、新学期の書類の配り直しがあって」
「む! 3年生になられた雪ノ下会長、そしてめぐり副会長! 今年度もこの材木座義輝、粉骨砕身してお仕えする所存!」
大袈裟に一礼する材木座を見て、お茶を淹れていた副会長のめぐりがクスクスと可愛らしく笑う。
「ふふ、二人とも進級おめでとう〜! 2年生になってもよろしくね」
「こちらこそよろしくお願いします。めぐり先輩」
「うんうん、よろしくね、比企谷くん!」
雪乃はペンを置くと、椅子から立ち上がり、八幡と材木座の姿をまっすぐに見つめた。
1年前より確実にたくましくなり、立ち姿にも落ち着きが生まれた二人。その成長を確かめるように見つめた後、雪乃の唇がふっと誇らしげに綻んだ。
「進級おめでとう、比企谷くん、材木座くん。……二人とも、少し背が伸びたかしら?」
「まあ、成長期ですしね。鍛えてますから」
八幡が少し照れくさそうに答えると、雪乃はゆっくりと歩み寄り、八幡の前に立った。
「最高学年として、生徒会長として……今年度は今まで以上に厳しい要求をすることになるわよ。ついてこられるかしら?」
挑むような、けれど深い信頼に満ちた「氷の女王」の眼差し。
八幡は逃げることなく、まっすぐにその瞳を見返し、不敵に口元を緩めた。
「望むところです、雪ノ下先輩。あんたの隣で働くために、俺たちも1年間鍛えてきたんですから」
「……そう。頼もしいことね」
八幡の答えに、雪乃はほんのりと頬を朱に染めながらも、凛とした微笑みを浮かべた。
3年生となった雪乃とめぐり。そして2年生となり、名実ともに「頼れる男」へと成長しつつある八幡と材木座。
桜舞う新しい季節の中、彼らの愛おしくも真っ直ぐな生徒会の日々が、再び動き出していた。
新年度が始まって数週間。校内には、新入生たちの間で早くも囁かれている「ある噂」があった。
「生徒会役員の先輩たち、マジでヤバくない?」
「雪ノ下会長とめぐり副会長が凄すぎるのはもちろんだけどさ……」
「2年の比企谷先輩と材木座先輩が、まじで頼りになるんだよ」
新入生たちが抱く生徒会の印象は、圧倒的なカリスマ性を誇る3年生女子二人と、それを完璧に支える「頼れる2年生男子二人」というものだった。
八幡の飾らない優しさと状況判断の早さ、そして材木座のどっしりとした安定感と懐の深さ。不器用ながらも親身に後輩の面倒を見る二人の姿は、1年生たちの間でひそかな憧れの対象となっていたのだ。
◇
そんなある日の放課後。生徒会室の業務がひと段落した時間帯。
「――ふぅ、今日の分の報告書はすべて終わりましたね」
八幡が書類を整理し終えると、材木座はおもむろに鞄から一束の原稿用紙を取り出し、緊張した面持ちで雪乃のデスクへと進み出た。
「……会長。頼まれていた新作のプロットと冒頭部分、書き上がりましたぞ。お時間のある時にでも……」
空いた時間を見つけては、生徒会室の片隅で黙々とペンを走らせていた材木座。
実はここ1年、雪乃とめぐりは彼の執筆活動を応援し、定期的に添削を行っていたのだ。かつては独自の痛々しい設定と自己満足に埋もれていた彼の文章も、二人の厳しくも温かい指導と、生徒会での様々な経験を経て、劇的な進化を遂げていた。
雪乃は静かに原稿を受け取ると、眼鏡をかけ、真剣な眼差しでページをめくり始めた。
静寂が包む生徒会室。材木座はゴクリと生唾を飲み込み、八幡もどこか固唾を呑んでその様子を見守る。めぐりが優しくお茶を淹れながら、微笑ましそうに二人を見つめていた。
数分後。最後のページを読み終えた雪乃は、眼鏡を外し、ふっと静かに息を吐いた。
「……読めるレベルになったわね」
その短く、けれど確かな一言。
「……! ほ、本当でありますか、会長……!?」
「ええ。以前のような独善的な描写は影を潜め、登場人物の心情が丁寧に描かれているわ。構成も破綻していない。……普通に、物語として面白いわ」
「雪乃ちゃんが『面白い』って言うなんて、すごいよ材木座くん!」
めぐりがパッと顔を輝かせると、材木座の大きな瞳からボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ぬおおおおん……! 会長! めぐり副会長! 八幡っ……! 余は、余は感無量で破裂しそうだぞーッ!」
「泣くなキモい、鼻水出すな材木座」
呆れつつも、八幡は口元に温かい笑みを浮かべた。
材木座の努力を一番近くで見てきたのは自分だ。毎朝のトレーニングと同様、彼は自分の夢に向かって愚直なまでに努力を重ねてきた。かつての「痛い自称作家」は、今や誰もが認める本物の「小説家の卵」へと脱皮を遂げていたのだ。
「勘違いしないでちょうだい。ここから先はプロの世界よ。もっと厳しくなるわ」
ツンとすまし顔で付け加える雪乃だったが、その手元の原稿の端には、材木座の強みを引き出すための丁寧な朱入れがびっしりと書き込まれていた。
「へい! どこまでもついていきますぞ、会長!」
泣き笑いの顔で胸を張る材木座と、それを微笑ましく見つめる雪乃とめぐり。
そして、仲間の成長を誇らしく思いながら、静かにお茶を啜る八幡。
信頼と尊敬で結ばれた彼らの生徒会室には、今日もあたたかく、心地よい時間が流れていた。
生徒会室に静かな夕空の橙色が差し込む中、八幡は原稿に朱を入れ続ける雪乃と、それを嬉しそうに覗き込む材木座の姿を、どこか遠い目で見つめていた。
(……材木座の奴、本当に遠くまで行ったな)
かつてはクラスの隅でイタい妄想を撒き散らしていた男が、朝の鍛錬を重ね、生徒会の仕事を完璧にこなし、今や「小説家の卵」として雪乃に認められるまでに成長した。明確な夢を持ち、努力を形にした材木座の姿は、素直に誇らしく、そして眩しかった。
――それに引き換え、俺はどうだ?
ふと、八幡の胸の奥に冷たい疑問が持ち上がる。
服を選んでもらい、体を鍛え、生徒会の雑用をこなしてきた。周りからは「頼れる先輩」なんて呼ばれるようになったが、それは全部、彼女たちが敷いてくれたレールの上を走ってきただけなんじゃないか?
俺自身に、何か誇れるような成長や変化はあったのだろうか。ただ雪ノ下の存在とカリスマ性に惹かれて、必死にしがみついてついてきただけなんじゃないか――?
一度湧き上がった自虐的な思考は、八幡の心を静かに侵食していく。
「……何について悩んでいるのかしら、比企谷くん」
ハッと息を呑んで顔を上げると、いつの間にか雪乃が自分のデスクの前に立っていた。
書類を手にしたまま、彼女の澄んだ黒目が八幡の表情をまっすぐに見透かしている。
「……いえ、別に。ただ……材木座はすごいなと思ってただけです。あいつはちゃんと自分の力で前に進んで、変わったから」
自嘲気味に呟き、目を逸らそうとする八幡。
だが、雪乃は逃がすように視線を外すことを許さなかった。
「貴方は本当に……自分を低く評価するのが癖になっているのね」
雪乃は静かに溜め息をつくと、手元の書類をトントンと机で揃え、そのまま八幡の顔を覗き込むように身を乗り出した。
「材木座くんが成長したのは確かよ。でもね、比企谷くん。……貴方は、自分がどれだけ変わったか理解していないのかしら?」
「え……?」
「最初は自分の殻に閉じこもり、世界を諦めたような目をしていた貴方が、今では誰よりも周りを観察し、不器用ながらも生徒会と学校を守るために立ち上がっているわ。人の痛みに寄り添い、背中で示せる人にね」
雪乃はゆっくりと自分の席に戻り、温かいお茶の入ったカップを手に取った。
そして、湯気の向こうから、これまで八幡に見せたこともないような、あまりにも柔らかく、愛おしそうな眼差しを向けた。
「貴方はもう、十分に良い男になってるわよ」
「――ッ」
息が止まる。雪乃はそっとお茶を口に含み、ひと息ついてから、どこか意地悪く、けれど決定的な追撃を口にした。
「……それも『なかなか』程度ではなく、かなりの、ね」
ドクン、と胸の奥で大きな音が跳ねた。
静かな生徒会室。
カップをソーサーに戻すカチャリという小さな音が、やけに鮮明に耳に届く。
(……やばい。なんだこれ……うるさすぎるだろ、俺の心臓……!)
八幡は顔が一気に熱くなっていくのを止められず、慌てて手元の資料で顔の下半分を隠した。胸の鼓動が早鐘のように打ち鳴らされ、自分の胸の音が部屋中に響いてしまうのではないかと本気で焦る。
「……ふふっ」
その赤くなった耳を見て、雪乃が可憐に微笑む。
「……な、何笑ってんですか、会長」
「別に? 自分が言ったことに責任を持ちなさいと言いたかっただけよ。……頼りにしているわ、比企谷くん」
ツンとすまし顔に戻る雪乃だったが、その耳たぶもまた、ほんのりと朱に染まっていた。
自分はただついてきただけなんかじゃない。
彼女の隣に立つために足掻いてきた日々は、確かに自分を「かなりの良い男」へと変えていたのだと、八幡は跳ね上がる心臓の音を聞きながら、噛み締めるように悟るのだった。
マグカップを片手に、めぐりが楽しげにクスクスと笑いながら会話に入ってきた。
「そうそう! うちのクラスでも二人の噂は結構聞くよー。『後輩なのにめちゃくちゃ頼りがいがある』って、すごく評判がいいんだからね」
「ほ、ほう……! 我らが名声、ついにクラスの枠をも飛び越えて全校に轟き渡ってしまったか……!」
「おい材木座、お前まで調子に乗るな……」
思わぬところからの称賛の言葉に、材木座は胸を張り、八幡は照れくさそうに首の後ろをポリポリと掻きむしった。顔の熱がようやく引いたと思ったら、今度は別の方向から恥ずかしさが押し寄せてくる。
(……いつの間にか、そんなことになっていたのかよ)
自分ではただ目の前の仕事こなし、必死に食らいついていただけだ。
ふと振り返れば、自分がずっと見上げていたのは、常に凛と前を歩き続ける雪乃とめぐりの背中だった。あの背中に追いつきたくて、隣に並びたくて足掻いてきた日々。その積み重ねが、気づけば確かな「実績」となって自分たちの足元を支えていた。
ただ流されるだけのモラトリアムだった男が、いつの間にか後輩たちから頼られる存在になっている。
(……俺は、ちゃんと変われたのかな)
込み上げてくる気恥ずかしさと、小さな誇らしさを噛み締めながら、八幡はふっと息を吐いた。そして、自然と胸に湧き上がってきた言葉を、飾らないトーンで口にする。
「……まあ、先輩たちの背中を見てきたんでね。……よし、それなら来期は、俺が次の生徒会長をやりますよ。……もっとも、ほかに立候補する奴がいなければ、の話ですけど」
八幡が自嘲気味に肩をすくめると、その言葉を聞いた瞬間、雪乃の手がピタリと止まった。
雪乃はゆっくりと顔を上げると、少しだけ呆れたような、けれどどこか嬉しそうに潤んだ瞳で八幡を据えた。
「――ちょっと、比企谷くん」
「はい?」
「『立候補がいなければ』ですって? そんな弱気な保険をかけるものじゃないわ」
雪乃は軽くふんっと鼻を鳴らし、腕を組んでビシと言い放つ。
「そこは『立候補がいても、片手でひねる』くらいにしなさい。……そんな及び腰では、格好がつかないわよ?」
「そうだぞ、八幡! 次期会長の座、この材木座義輝が全力でバックアップしてやるからな!」
「いや、お前はおとなしくしてろ」
めぐりが「あはは、それも面白そう〜!」と楽しそうに笑い、生徒会室の空気が一気に明るく弾けた。
「……全く。肝心なところで締まらないんだから」
呆れたようにため息をつきつつも、雪乃の口元には隠しきれない柔らかな笑みが浮かんでいた。
その笑顔を見て、八幡は自分の胸の内で小さく笑う。
――ああ、本当に、この場所に来てよかった。
「はいはい、わかりましたよ。じゃあ訂正します。……立候補がいても、俺が次期会長の座を勝ち取って見せますよ」
力強く言い切った八幡の姿に、雪乃は満足そうに頷き、再び紅茶のカップに手を伸ばした。
新しい季節の風が吹き抜ける生徒会室で、彼らの未来は、もう迷うことなく真っ直ぐに前へと進み始めていた。
秋の気配が深まる大講堂。全校生徒が集まる中で、次期生徒会役員選挙の立会演説会が執り行われていた。
「え、えーっと……僕が生徒会長になったら、校則の緩和や、みなさんの意見を広く吸い上げる箱をですね……」
壇上に立った対抗馬の生徒は、ガチガチに緊張しながら手に持った原稿をただひたすら棒読みしていた。時折言葉を詰まらせ、マイクの前で焦る姿に、体育館には退屈そうなざわめきが広がっている。
だが、次に壇上に上がった八幡の登場で、講堂の空気は一変した。
洗練された制服を着こなし、背筋をぴんと伸ばしてマイクの前に立つ姿。朝の鍛錬で引き締まった体躯と、数々の激務やトラブルを潜り抜けてきた男の落ち着き。かつての「死んだ魚の目」はどこにもなく、そこには圧倒的な存在感と安心感を纏った「頼れる先輩」の姿があった。
八幡は原稿を広げることもせず、全校生徒の顔をまっすぐに見渡した。
「……長々と綺麗事を並べるつもりはありません。俺がこの1年、雪ノ下会長達と過ごして学んだのは、生徒会とは言葉ではなく『行動』で示す場所だということです」
低く、けれど講堂の隅々にまで響き渡る静かな情熱を込めた声。
「不安があるなら俺たちの元に来てください。不条理があるなら、俺たちが前に立ちます。言葉ではなく、結果で皆さんの学校生活を守ることを約束します。――以上です」
短く、だが一切の飾りのない自分の言葉。
静寂のあと、一瞬の間をおいて雷鳴のような大きな拍手が講堂を揺らした。
続く副会長選挙に立った材木座もまた、圧巻だった。かつての痛々しいキャラ付けを完全に削ぎ落とし、小説執筆と生徒会活動で培った豊かな語彙と圧倒的な包容力で後輩たちを鼓舞し、場内を大いに沸かせてみせた。
結果は――二人の圧勝だった。
◇
選挙結果が発表された放課後。静かになった生徒会室で、めぐりと雪乃は二人を暖かく出迎えた。
「ふふっ、二人ともお疲れ様! 圧勝だったね〜!」
パチパチと拍手を送るめぐりは、感極まったように二人を見つめ、それから雪乃の方を振り返って嬉しそうに目を細めた。
「ねえ、雪乃ちゃん。二人とも……本当に『良い男』になったねぇ」
1年前、服装も垢抜けず、自分に自信のなかった後輩二人。それが今や、全校生徒から圧倒的な信頼を集める立派なリーダーへと成長したのだ。
めぐりの言葉に、雪乃は書類を整える手を止めると、ふっと胸を張るようにして、どこか誇らしげな笑みを浮かべた。
「ふん……何を言っているのかしら、めぐり」
雪乃はゆっくりと八幡と材木座の方へと歩み寄り、その澄んだ黒目で二人を順番に見つめた。そして、愛おしさと信頼を隠すことなく、凛とした声で言い放つ。
「私達の後輩よ? 当然じゃないかしら」
「「――っ」」
「氷の女王」からのこれ以上ない最高の賛辞。
八幡は恥ずかしさで顔を忍ばせつつも、誇らしさで胸が一杯になり、材木座は「ぬおおお! 余の人生に悔いなし!」と男泣きしていた。
夕陽が差し込む生徒会室で、雪乃とめぐりの温かな眼差しに見守られながら、新しい生徒会長・比企谷八幡の時代が、今まさに幕を開けようとしていた。
桜の蕾がほころび始めた春の佳日。総武高校の体育館で、卒業証書授与式が厳かに執り行われていた。
在校生と保護者、教職員が見守る中、卒業生代表として壇上に立ったのは雪乃だった。その洗練された佇まいと、一点の隙もない気品ある姿。澄んだ声で紡がれる式辞は、校内を包む静寂の中で深く全員の心に染み渡っていく。
そして、新生徒会長として答辞を任されたのは八幡だった。
原稿など見ず、まっすぐに3年生たちの席――特に、あの「氷の聖母」を見据えて紡いだ感謝と決意の言葉。全校生徒から惜しみない拍手が送られ、完璧な形で式は幕を閉じた。
◇
放課後。静まり返った校門の脇、春風に黒髪を揺らしながら、雪乃は一人で八幡を待っていた。
制服の胸元には、卒業生であることを示す赤いコサージュ。その美しさはどこか儚く、手が届かないほど遠い世界の住人のように見えた。
「……雪ノ下先輩」
駆け寄った八幡だったが、彼女の前に立つと、喉がキュッと詰まって言葉が出てこなかった。
(……ダメだ。何も言えねえ……)
胸の奥で荒れ狂う感情。自分はこの人に惚れている。間違いなく、人生のすべてを賭けて愛している。
だが――彼女はこれから最高峰の大学へと進み、さらに広い世界へと羽ばたいていく。いくら生徒会長になり、クラスでの立ち位置が変わったと言っても、自分はまだまだだ。
(今の俺に……この人に何かを伝える資格なんて、あるのか……?)
自嘲気味に俯き、拳を強く握りしめる八幡。
そんな八幡の逡巡と葛藤をすべて見透かしたように、雪乃はふっと柔らかく、どこか愛おしそうな溜め息をついた。
「……前にも言ったけれど。資格なんていらないのよ、比企谷くん」
雪乃は静かに一歩、八幡へと歩み寄った。
「貴方は、理屈ではなく動ける人間……私のために傷つき、私のために前に進んでくれた。それで充分よ」
「先輩……」
雪乃は胸元の制服から、丁寧に解かれた紺色の髪飾り――彼女がずっと大切に結んでいたリボンを外し、八幡の手のひらにそっと包み込むように乗せた。
指先が触れ合い、彼女の体温と柔らかな香りが八幡の鼻腔をくすぐる。
「……これをあげるわ」
雪乃は八幡の目をまっすぐに見つめ、あの夕暮れの日のように、可憐で、そして包むような笑みを浮かべた。
「追ってきなさい。……私の隣に立つのは、とても難しいわよ?」
妖艶で、けれど全身全霊で彼を待っていると告げる「氷の女王」の言葉。
八幡は握りしめた手の中のリボンの感触を確かめ、溢れ出そうになる感情をすべてその一言に込めて、まっすぐに彼女の瞳を見返した。
「――必ず」
余計な言葉はいらなかった。そのたった一言に込められた決意の重さを悟り、雪乃は満足そうに、美しく目を細めた。
「ええ。楽しみに待っているわ」
背を向け、春の光の中を歩き出していく雪乃。
八幡はその背中をしっかりと目に焼き付けながら、心の中で強く、熱く誓っていた。
来年、必ず彼女と同じ大学を受験し、その合格通知を引っ提げて――今度こそ、胸を張って彼女の隣に立ち続けてみせると。
「――という話なんだが。ありかな?」
ドヤ顔でドサッと厚い原稿用紙の束を机に置いた材木座。
生徒会室に沈黙が走る。
そこには、材木座が空いた時間を使って書き上げた新作――「八幡が生徒会長になり、雪乃の背中を追って成長していく」という、小説の全貌が綴られていた。
「……っ! ざ、材木座お前……! な、何書いてやがるんだバカ野郎ッ!?」
八幡は顔を真っ赤にし、頭から湯気を吹き出しそうな勢いで原稿を奪い取ろうとするが、すでに手遅れだった。内容は雪乃とめぐりによってしっかりと読まれた後だったのだ。気まずさと恥ずかしさで死にそうになりながら、八幡は何も言えずにその場に凍りつく。
そんな八幡とは対照的に、副会長のめぐりはパッと顔を輝かせ、手を叩いて笑った。
「ふふっ、すっごく良いと思うよ〜! 二人がすごく格好よく描かれてるし、なんだか胸がキュンとしちゃったな」
「め、めぐり先輩まで何を言って……!」
あまりの恥ずかしさに悶絶する八幡だったが、ちらりと手元の原稿を見やり、それからそっと胸の奥の本音を確かめる。雪乃の隣に立ちたい、彼女の背中を追いかけたいという思い――。
「……ま、まあ……ありかなしかで言えば……あり、だけどよ……」
真っ赤な顔のまま、蚊の泣くような声でボソボソと呟く八幡。
その横で、雪乃は手にしたカップから静かにコーヒーを啜っていた。
いつもの完璧なポーカーフェイスを保とうとしているものの、その白い耳たぶは隠しきれないほど鮮やかな朱色に染まっている。
雪乃はコトンとカップをソーサーに置くと、少しだけ頬を赤らめたまま、いつもの凛とした――けれど、どこか挑発的で愛おしそうな笑みを浮かべた。
「……まあ、物語としては悪くないけれど」
雪乃は八幡の目をまっすぐに見つめ、あの「氷の女王」らしい高潔な瞳で微かに唇を綻ばせる。
「……現実の私が、そう簡単に追いつかせてあげると思っているのかしら? 私についてくるのは、小説以上に難しいわよ、比企谷くん?」
挑むような、そして全身で彼を信じて待っていると告げるような雪乃の言葉。
八幡は赤くなった顔を力強く上げ、新生徒会長の証である胸のバッジを握りしめると、真っ直ぐに彼女の瞳を見返した。
「――やってやりますよ。あんたがどれだけ先に行こうが、俺が絶対に追いついて見せますから」
「ふふ、言ったわね。期待して待っているわ」
まだ生徒会長になったばかりの、発展途上の八幡。
冷やかして微笑むめぐりと、満足そうに頷く材木座。そして、眩しそうに八幡を見つめる雪乃。
妄想の物語は終わったが、彼らが紡ぐ本物の物語は、ここからさらに熱く、どこまでも真っ直ぐに続いていくのだった。
後半は八幡と材木座が主人公です。