桜の季節が巡り、総武高校に再び春がやってきた。
新学期。生徒会室の机には、最高学年となった『3年』の学年章をつけた八幡と材木座の姿があった。
かつて雪乃とめぐりが座っていたその場所に座り、八幡は膨大な書類の手際よい処理を進めていく。朝の鍛錬で引き締まった体躯と、ブレない意志を宿した佇まい。かつて「氷の女王」と呼ばれた雪乃の完璧さと凄絶なまでの信念を引き継ぎ、決して妥協せず理不尽に立ち向かうその姿から、生徒たちはいつしか八幡を親しみと敬意を込めてこう呼んでいた。
――『アイスマン』。
「ふぅ……これで新入生歓迎会の予算案の調整は完了だな」
八幡がペンを置くと、隣のデスクでドッシリと構えていた副会長の材木座が、深く頷いた。
「うむ! 流石だな八幡……いや、生徒会長! 前会長・雪ノ下殿の教えを遺憾なく発揮した、隙のない完璧な書類調整であったぞ!」
「よせ、材木座。俺はただ、あの人が残してくれたこの生徒会を正しく回してるだけだ」
八幡はふと、デスクの片隅に飾られた写真立てに目をやった。
そこには、昨年の卒業式の日、満開の桜の下で誇らしげに微笑む雪乃とめぐり、そして照れくさそうに並ぶ自分と材木座の姿が写っていた。手元には、今も雪乃から託された大切な紺色のリボンがしっかりと収められている。
その時、生徒会室のドアが勢いよく開き、駆け込んできた2年生の生徒会役員が息を切らせて叫んだ。
「ひ、比企谷会長! 大変です! 3年の部活の代表たちが、新入生の勧誘枠を横取りしようと、1年生相手に理不尽な圧力をかけていて……!」
「……そうか」
八幡の目が、すっと静かに細められた。
そこにあったのは、かつての卑屈な冷たさではない。大切な後輩と学校の秩序を守るための、静かな怒りと冷酷なまでの決意だった。
八幡はゆっくりと立ち上がると、制服の襟を正し、低い声を響かせた。
「雪ノ下先輩が作ったこの学校の公平さを、理不尽で汚させるわけにはいかねえな。……理不尽に対しては、俺が執り行う」
「氷の女王」の正義と矜持を継いだ男の、揺るぎない一言。
その背中を見つめ、材木座はニヤリと力強い不敵な笑みを浮かべ、ドスンと己の胸を叩いた。
「――応ッ!! 男・材木座義輝、どこまでもお供するぞ! 我らの鉄槌、奴らにとくと見せてやろうではないか!」
「行くぞ」
頼もしい相棒を従え、八幡は迷いない足取りで生徒会室のドアを開けた。
遠く離れた大学で、今もトップを走り続けているであろう「氷の女王」の背中に追いつくために。
今日も八幡は、真っ直ぐに前へと踏み出していくのだった。
騒ぎの渦中となっている中庭へと到着した八幡と材木座。
そこでは、体の大きな運動部の3年生数名が、おどおどと縮こまっている新入生たちを取り囲み、強引に勧誘用紙へ署名させようと詰め寄っていた。
「おいおい、断るなんて度胸あるじゃねえか。総武高の上下関係を教えてやろうか?」
威圧的な言葉に青ざめる1年生たち。
その理不尽な光景に、八幡の瞳が冷ややかに光る。八幡はポケットから手を取り出すと、静かだが静寂を切り裂くような声を響かせた。
「――そこまでだ」
一瞬で現場の空気が凍りつく。振り返った3年生たちが、八幡の鋭い眼差しと、その横で腕を組んで仁王立ちする材木座の圧倒的な威圧感に気押され、思わず息を呑んだ。
「ひ、比企谷……!?」
「部活動の勧誘ルール違反、および後輩に対する脅迫・威圧行為。生徒会規約第4条に抵触する」
八幡は淡々と、けれど一切の反論を許さない重みのある声で告げた。
「職務執行だ」
「応ッ!!」
材木座の腹の底から響く怒号のような返事が中庭に轟く。
八幡の隙のない正論による追撃と、材木座のどっしりとした圧に、逃げ場を失った上級生たちはぐうの音も出ず、捨て台詞を残して蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
「大丈夫か?」
八幡がしゃがみ込み、怯えていた1年生たちに優しく手を差し伸べると、新入生たちはパッと表情を輝かせた。
「は、はい! ありがとうございます、比企谷先輩! 材木座先輩!」
「マジで助かりました……! 先輩たち、めちゃくちゃ格好いいです!」
心からの感謝と尊敬の眼差しを向けられ、八幡と材木座は誇らしげに、けれどどこか照れくさそうに口元を緩めた。
「気にすんな。何かあったらいつでも生徒会室に来い」
新入生たちの頭を軽く撫でると、二人は騒ぎ立てることもなく、風のように爽やかにその場を立ち去った。
◇
騒がしい中庭を抜け、静かな校舎の廊下へと戻ってきた二人。
八幡はポケットに手を突っ込み、ふと立ち止まると、どこかわずかに照れくさそうに隣の相棒へ声をかけた。
「……なぁ、材木座」
「ぬ? 何だ、八幡よ」
「……俺、さっきちゃんと笑えてたか?」
かつて「死んだ魚の目」と「引きつった歪な笑顔」しか出来なかった男が、後輩を安心させるために浮かべた不器用な笑み。雪ノ下に認められ、後輩たちから慕われるようになった今でも、八幡はふと自分の「男としての振る舞い」を確かめたくなるのだ。
八幡の少し不安そうな問いかけに、材木座はニヤリと力強く、どこか誇らしげに鼻を鳴らした。
「ふっ……まあまあだな!」
「なんだよそれ。厳しいな」
「クハハ! 前会長の雪ノ下殿なら『まだまだね』とバッサリ斬り捨てているところだぞ! それに比べれば『まあまあ』など上々の出来ではないか!」
「……違和感ねえよ、脳内再生余裕すぎるわ」
八幡は苦笑交じりに肩をすくめると、手の中で大切に握りしめている紺色のリボンにそっと想いを馳せた。
(……『まだまだ』か。ほんと、あの人ならそう言うだろうな)
けれど、以前のように自分を卑下する気持ちは微塵もなかった。
格好悪い自分も、不器用な笑顔も受け入れながら、俺たちは確かに前へ進んでいる。
「行くぞ、材木座。生徒会室で仕事の続きだ」
「おうよ! 今日も『アイスマン』の伝説を刻むとしようぞ!」
春の爽やかな風が廊下を吹き抜ける中、二人の「良い男」たちの頼もしい足音が、放課後の校舎にまっすぐ響き渡っていった。
「それやめろ。なんか中2っぽい」
即座に突っ込む八幡。
「アイスマン」という二つ名が廊下に響き渡った瞬間、背筋に走った痒いような恥ずかしさに耐えかね、八幡は心底嫌そうな顔で顔をしかめた。
「俺はただの生徒会長だっつーの。変な通り名つけて喜んでるんじゃねえよ。だいたい『氷の女王』の後継者とか、それ自体がすでに重症の痛さだろ」
「クハハハ! だが八幡よ、火のない所に煙は立たぬと言うではないか!」
材木座は腕を組み、さも当然といった様子で大きく頷く。
「前会長・雪ノ下殿の圧倒的な『氷の女王』たる気風を継ぎ、生徒会室で冷酷なまでの正論で理不尽を叩き潰すその姿……! それに加えて、その眼力(めじから)だ!」
「……目のせいかよ」
「そうだ! かつての『死んだ魚の目』はどこへやら、今や理不尽を射殺すかのような鋭い『絶対零度の眼光』へと進化を遂げている! これを『アイスマン』と言わずして何と呼ぶのだ!」
「進化させてねぇよ。元々の目つきが悪いだけだろ……」
呆れ果ててため息をつく八幡だったが、材木座のその言い草にどこか自嘲気味な笑みが漏れた。
かつては「腐った目」「死んだ魚の目」と嫌悪され、自分でも自分の嫌な部分の象徴だと思っていたこの目つき。それが今では、大切な生徒会や後輩たちを守るための「意思の強さ」として見られるようになっている。
(……目つきが変わったわけじゃない。俺が見ている『もの』が変わっただけだ)
「……まあいい。とにかく校内でその名前を大声で呼ぶな。恥ずかしすぎて生徒会長の権限で出禁にするぞ」
「ぬぐっ!? それは困る! 余の第二の故郷である生徒会室を追い出されては、執筆活動にも差し障りが出るではないか!」
慌てる材木座を横目に、八幡は生徒会室のドアノブに手をかけた。
「だったら余計な口を滑らせずに仕事しろ。今日も受験勉強と生徒会業務の両立で山積みなんだからな」
「ふっ……雪ノ下殿のいるあの最高峰の大学か。相変わらず無謀な挑戦だな、八幡」
ニヤリと笑う材木座に、八幡は迷いのない力強い目を向け、ドアを押し開けた。
「無謀で結構。……追いつくって、約束したからな」
夕陽が差し込む生徒会室。
『アイスマン』なんて中二病じみた異名に苦笑しながらも、八幡はあの人が待つ未来へ向かって、今日も迷いなくペンを握りしめるのだった。
生徒会室のドアが、少し遠慮がちに開いた。
入ってきたのは、どこか困惑と不安を隠しきれない様子の1年生――一色いろはだった。
「……あの、比企谷先輩、材木座先輩。ちょっと……相談があるんですけど」
いつものあざとさや明るさは影を潜め、本気で困り果てた表情で八幡たちを見つめるいろは。八幡は書類をめくる手を止め、静かに視線を向けた。
「一色か。どうした?」
「それが……担任の先生から、まだ早いんですけど、次の生徒会長選挙に出ろって強く推されてて……。断ろうとしたんですけど、『期待してるぞ』とか『推薦枠は決まってる』とか言われて、半ば無理矢理決められそうになってるんです。私、そんな器じゃないし……生徒会長なんて絶対無理です……!」
自分の意にそぐわない形で押し付けられそうになっている重責。
かつての自分なら「大変だな」と他人事で済ませていたかもしれない。だが、生徒会長として、そして『アイスマン』として生徒の意思と正義を守ると決めた八幡の目が、すっと静かに細められた。
「……そうか」
八幡は椅子から立ち上がると、迷いのない落ち着いた声でいろはに告げた。
「心配すんな。俺からお前の担任には言っておく。本人の意思を無視した強制的な推薦は無効だ。生徒会としても、そんな理不尽な押し付けは認めねえ」
「え……比企谷先輩が、直接先生に……?」
頼もしすぎる先輩の一言に、いろはは一瞬パッと顔を輝かせた。
「……だが、一色。俺が担任を突っぱねてお前を助けたとして……それで、お前の問題は本当に解決するのか?」
八幡は腕を組み、静かに自問するように、そして一色の深層にある問いを突くようにそう投げかけた。
「え……?」
「俺が圧をかけて先生を黙らせれば、確かにお前は生徒会長をやらずに済む。だが……『先生の期待を裏切った生徒』っていう気まずさや、推薦を蹴ったことでクラスから浮くかもしれないっていうリスクは、そのままお前に残るだろ」
ただ目の前の問題を大人が力技で揉み消すだけでは、彼女が学校生活で抱える根本的なモヤモヤは消えない。
かつての自分なら「嫌なら断ればいい」と突き放すか、あるいは裏で嫌われ役を買って出て問題を潰していただろう。だが、雪乃の背中を追い、生徒会長として後輩と向き合う今の八幡は違った。
相手をただ守るのではなく、その人間が「自分の足で立つ」ための問いかけをする。
「……う」
言葉を詰まらせるいろはに、八幡は冷徹なまでの誠実さを込めた目で、まっすぐ言葉を続けた。
「お前がただ逃げたいだけなら、俺がいくらでも悪者になって揉み消してやる。……だが、本当はどうしたい? 誰かに言われたからじゃなく、お前自身はどうしたいんだ?」
八幡の真摯な問いかけに、いろははあざとい微笑みを完全に消し、息を呑んで己の胸に手を当てた。
(ぬぅ……さすがは八幡。ただ問題を潰すのではなく、一色殿自身の意志を引き出そうというわけか……!)
隣で材木座が感心したように重々しく頷く。
誰かに決められたレールに乗るのではなく、自分の意思で選択すること。
かつて雪乃が自分に教えてくれたその大切な「答え」を、八幡は今、後輩である一色いろはへと確かに受け継ごうとしていた。
「あー……えっと、はい! えへへ、なんか真面目なトーンで聞かれちゃったら、恥ずかしくなっちゃいました~」
いろはは急にいつもの小悪魔的な笑みを浮かべると、舌を少し出してパタパタと手を振った。
「まぁまぁ! 比企谷先輩のカッコいいところも見られたし、今日のところはこれで満足ってことで! 先生の件は頼みましたからねっ!」
本心を見せる直前で、いつもの「あざとい一色いろは」の仮面を被り、適当にごまかすように笑う。
八幡はその態度に深く踏み込むことはせず、ただ静かに一瞥した。
「……そうか」
短くそれだけ呟くと、八幡はデスクの書類へと視線を戻した。
「まあ、お前が嫌がってるってこと自体は事実なんだから、担任には俺からちゃんと話は通しといてやるよ。あとの選択は好きにしろ」
「はーい! さすが比企谷先輩、頼りになります~! それじゃ、お邪魔しましたっ!」
軽やかな足取りで、逃げるように生徒会室を後にするいろは。パタンとドアが閉まり、部屋に再び静けさが戻ってきた。
二人のやり取りを黙って見守っていた材木座が、腕を組んで首をかしげながら八幡に問いかけた。
「……八幡よ。あれでよかったのか? 一色殿、本心を語らぬまま逃げてしまったぞ」
どこか不完全燃焼のような顔をする材木座に対し、八幡は背もたれに体を預け、深く息を吐き出した。
「過剰に手助けしてもな……」
八幡はポケットから、雪乃から託された大切な紺色のリボンをそっと取り出し、愛おしそうに指先で触れた。
「無理やり本音を引き出して、こっちの望む答えを言わせたところで意味がねえんだよ。自分がどうしたいかは、結局自分が傷つきながら見つけるしかない。かつての俺たちが、先輩達からそうされたみたいにな」
手出しをしすぎて成長の機会を奪うのは、本当の優しさじゃない。
相手を信じて、最後に決断する余白を残してやること。それこそが、雪乃から学び、今の八幡が辿り着いた誠意の形だった。
「ぬぅ……相手の自主性を尊重し、見守るというわけか。相変わらずお前は、不器用で意地の悪い、良い先輩だな、八幡」
材木座のニヤリとした言葉に、八幡は照れ隠しにふんと鼻を鳴らした。
「うるせえよ。……さあ仕事だ仕事。大学に合格するためにも、今日のノルマは全部終わらせるぞ」
「応ッ! 余も最高峰の作家になるべく、ペンを走らせるとしよう!」
放課後の夕陽が差し込む生徒会室で、二人はそれぞれの見据える未来に向かって、静かに、そして力強く歩みを進めていくのだった。
放課後、生徒会室を出たいろはが足を向けたのは、葉山のいる教室だった。
「……葉山先輩、ちょっとお時間ありますか?」
廊下に呼び出された葉山隼人は、いつもの爽やかな笑みを浮かべて「どうしたんだい?」と首を傾げた。
いろはは上目遣いに葉山を見つめ、どこか失望したような、あざとく困り果てたような溜め息をついてみせる。
「……実は、先生から生徒会長選挙に出ろって言われて困ってて。それで比企谷先輩に相談しに行ったんですけど……正直、比企谷先輩じゃ頼りにならないっていうか……」
八幡の対応を「期待外れ」だと匂わせ、葉山の同情や関心を惹こうとした一言。
だが――それを口にした瞬間、葉山の表情からいつもの穏やかな笑顔がスッと消え去った。
「――いろは。君は、比企谷のことを何もわかってない」
静かだが、今までいろはが聞いたこともないほど低く、冷ややかな声。
息を呑むいろはに対し、葉山は静かに、けれど強い眼差しで一色を見下ろした。
「比企谷は……みんなの為に泥を被ってる」
「え……」
「生徒会長としてあの場所に立ち、周囲の期待や理不尽をすべて受け止めて、どれだけ苦心してこの学校を変えてきたのか、あいつがどれだけの覚悟でそこにいるのか、君は何も分かっていない」
葉山はポケットに手を突っ込み、どこか遠くを見るような、けれど確かな敬意を込めた目で言葉を紡ぐ。
「別に……あいつと友達ってわけじゃない。……だけど、僕はずっと見てきたからな」
どれほど泥をかぶり、傷つきながらも立ち上がり、今や誰もが認める生徒会長として、雪ノ下とめぐりの残した生徒会を守り抜いている男。その覚悟と努力を一番近くで、一番よく知っていたのは、同じ学年として彼を見てきた葉山たちだった。
「あいつが君をあしらったというなら、それには間違いなく意味があるはずだ。安易に比企谷を批判するような真似は、二度としないでくれ」
いつもの優しい「葉山先輩」ではない。自分の仲間であり、好敵手でもある比企谷八幡への絶対的な信頼とプライド。
冷徹なまでのその言葉に、いろはは反論の言葉を失い、完全に言葉を詰まらせて黙り込むしかなかった。
「……話がそれだけなら、僕はこれで」
一言そう残し、葉山は一色に振り返ることもなく教室へと戻っていく。
静まり返った廊下で、いろはは自分が比企谷八幡という男の背負っているものの大きさを、何ひとつ理解していなかったのだと思い知らされていた。
葉山に一蹴されたあの日から、いろははどこか居心地の悪さを抱えたまま学校生活を送っていた。
だが、気にし始めると、今まで聞き流していた周囲の会話がやけに耳に入ってくるようになる。
休み時間の教室。女子生徒たちが集まって、楽しそうに生徒会の話をしているのが聞こえてきた。
「ねえ、昨日うちの部活のトラブル、比企谷先輩と材木座先輩が対応してくれたんだよね」
「えっ、マジで? 大丈夫だったの?」
「うん! なんかさ、手放しで『優しく慰めてくれる』って感じじゃないんだけど……なんて言うか、絶対にごまかさないし、本当に困ってる生徒を絶対に見捨てることだけはないんだよね」
「分かる! 材木座先輩も最初はイタい人だと思ってたけど、すっごく真剣に話聞いてくれるし。比企谷先輩のあの鋭い目も、頼もしく見えてくるから不思議だよね」
「さすが『氷の女王』の後継者って言われるだけあるよね。雪ノ下先輩のあのブレないかっこよさを、ちゃんと受け継いでる感じ」
――手放しで優しいわけじゃない。だけど、絶対に見捨てない。
クラスメイトたちの言葉が、いろはの胸に静かに突き刺さる。
あの時、比企谷八幡が自分に向けた冷ややかとも思える眼差し。
「俺が揉み消して助けてやったとして、それで本当にお前の問題は解決するのか?」という問いかけ。
あれは、決して自分をあしらったのでも、冷たく突き放したのでもなかったのだ。
ただ『いい顔』をして表面上の優しさを売るのではなく、自分が傷つきながらでも自分の足で立つための「本当の優しさ」を注いでくれていたのだと、いろはは今さらながら気づかされる。
(私……ほんと、何にも見えてなかったんだ……)
比企谷八幡も、材木座義輝も、そして彼らが追いかけ続ける雪ノ下雪乃も。
彼らは甘い言葉で甘やかすのではなく、理不尽と戦い、自分自身と向き合う姿勢そのもので生徒たちを引っ張っていた。
教室の窓から生徒会室のある特別棟を見上げながら、いろははぎゅっと自分の制服のスカートを握りしめた。
もう一度、ちゃんとあの二人の前に行かなければいけない。
誤魔化しの仮面を捨てて、自分自身の『本当の気持ち』を伝えるために。
放課後、再び静かに開かれた生徒会室のドア。
そこに立っていたのは、いつものあざとい笑顔を完全に消し、どこか痛々しいほどに真剣な目を伏せた一色いろはだった。
「……先輩。この前のこと、ちゃんと話します」
促されるまま椅子に腰掛けた一色は、誰にも見せまいと隠していた本音を、ポツリポツリと零し始めた。
「私、なんとなくクラスの男子たちと上手く立ち回って、適度に仲良くしてたら……いつの間にか、女子グループからハブられるようになって……。孤立した私を面白がった子たちが、勢いで生徒会長に立候補させようとしてきたんです」
誰に嫌われることもなく、器用に立ち回っているつもりだった。なのに、いつの間にか八方塞がりになり、逃げ場を失っていた。
「……怖かったんです。だから、先輩に泣きついて、全部なかったことにしてもらおうとした。でも、違いましたよね。私がちゃんと周りを見てなかったから、自分の居場所を自分で無くしてたんだって……気づいちゃいました」
一色は震える両手をぎゅっと膝の上で握りしめ、ぽつりと呟いた。
「……私、もうクラスに居場所がないように思うんです」
その言葉に、生徒会室の空気がわずかに重くなった。
かつて自分自身も「ぼっち」として孤独を抱え、クラスの構造や人間関係の澱みに苦しみ続けた八幡にとって、一色のその痛切な告白は、あまりにも深く突き刺さるものだった。
八幡は腕を組み、静かに一色の瞳を見据えた。
同情の言葉をかけるわけでも、安易な慰めを口にするわけでもない。ただ、彼女の痛みを真っ直ぐに受け止め、少しの間沈黙したあと、低い、けれど温かみのある声で言った。
「……そうか」
そして、八幡はふっと息を吐くと、机の上の書類を軽くトントンと整えてから、どこか呆れたような、けれど優しい笑みを浮かべて一色を見た。
「ならさ。――生徒会に入るか?」
「え……?」
思いがけない提案に、一色はパチパチとまばたきをした。
「クラスに居場所がないなら、別の居場所を作ればいい。ちょうど書記というか……雑用係の枠が空いてるぞ。お前の得意な『パシリ』の腕を活かすには、これ以上ない環境だろ」
「ちょっ、雑用係ってなんですか! 私、そんな都合よく使われるキャラじゃ……!」
いつもの調子を少しだけ取り戻して抗議する一色に、隣でデスクを拭いていた材木座がフッと鼻を鳴らして笑った。
「くっくっく……一色殿。我らの下で下積みから始めるというのも、悪くはないぞ。なにせ、この生徒会は行き場を失った者たちが誇りを取り戻すための特等席なのだからな」
「材木座先輩、なんか急にカッコつけてますけど言ってることがよく分かりません!」
呆れつつも、一色の瞳に浮かんでいた暗い影は、確実に晴れ始めていた。
居場所がないなら、新しく作ればいい。かつて雪乃とめぐりに救われ、この場所で居場所を見つけた八幡だからこそ言える、不器用な救済だった。
八幡はポケットから手を抜き、まっすぐに一色を見据えた。
「どうする? 逃げるだけならいつでもできるが……自分の足で立つ気があるなら、いつでも歓迎してやるよ」
一色はしばらくその顔を見つめ、やがて、これまでにないほど素直で、美しい笑みを浮かべた。
「……仕方ないですね。先輩がそこまで言うなら、雑用係としてなら入ってあげますよ」
こうして、新たな仲間を迎えた生徒会室に、また新しい風が吹き抜けていくのだった。
こうして、一色いろはの「生徒会書記兼雑用係」としての新しい日常が始まった。
最初の数日間、いろはは自分がどれだけ生徒会の業務を舐めていたかを痛感させられることになった。
「――比企谷先輩、これ、体育館の備品貸出の申請書類なんですけど……」
「ああ、それなら昨日の段階で運動部同士の重複を調整済みだ。そっちのファイルにまとめてあるから、職員室の平塚先生に回しておいてくれ」
「……え? もう終わってるんですか!?」
八幡の処理速度と判断力は圧巻だった。
ただ書類を捌くだけではない。学校全体の人間関係の摩擦や、部活間の小さな利害対立を事前に察知し、大きな問題になる前に裏で完璧に手を打っている。
そして、隣の材木座もまた凄まじかった。
独特の圧倒的な存在感で、規約違反を繰り返す生徒や無理難題を押し付けてくる外部の業者に対してどっしりと立ちはだかり、八幡の正論を後押しする。二人の連携には一切の無駄がなく、まさに「氷の女王」の教えを極めた阿吽の呼吸だった。
「……すご……」
思わず口から漏れ出た呟き。
クラスで女子の顔色を伺い、男子の前であざとく立ち回っていた自分とは、やっていることの次元が違っていた。
誰かに媚びるためでも、自分を良く見せるためでもない。彼らはただただ不器用なまでに真っ直ぐ、全校生徒が平穏に過ごせる学校生活――その「日常」を守るために、影で膨大な汗を流していたのだ。
(学校を守るって……こういうことなんだ……)
かつて学校の頂点に立っていた雪乃とめぐり、そしてその遺志を継いだ八幡と材木座。
彼らが積み重ねてきた圧倒的な「実績」と「信頼」の裏側にある泥臭い努力を肌で感じた瞬間、いろはの胸の奥で何かが熱く弾けた。
「一色、ボーッとしてないでそのプリント束ねろ。次は予算会議の準備だ」
「あ、はいっ! 今やります!」
返事をする声が、自分でも驚くほど自然と弾んだ。
最初は「居場所がないから逃げ込んできた」だけの場所だった。
けれど、膨大な雑用をこなし、生徒たちの「助かりました!」という感謝の笑顔を八幡たちの後ろから見るたびに、自分の手で学校の平和を支えているという誇らしさが込み上げてくる。
(……なんか、悪くないかも)
「ふふ、どうした一色殿。顔つきが変わってきたではないか!」
「材木座先輩うるさいです! 私はただ、先輩達の手際の良さを盗もうとしてるだけですから!」
「おい、盗むな。教えるからちゃんと聞け」
呆れつつも教える八幡の横顔を見て、いろはは密かに口元を緩めた。
ただ守られるだけの存在から、共に守る側の人間へ。
「やりがい」という名の確かな手応えを感じながら、いろはは新しい自分の居場所で、生き生きと動き回り始めるのだった。
生徒会室の仕事が一段落した放課後。
資料の整理を終えた一色いろはは、ふと八幡のデスクの片隅に飾られている小さな写真立てに目を留めた。
そこには、満開の桜の下、凛とした佇まいでこちらを見つめる美しい黒髪の少女――雪ノ下雪乃の姿が写っていた。その圧倒的な気品と美しさは、写真越しであっても息をのむほどだった。
いろはは書類を胸に抱えたまま、八幡の横顔をそっと盗み見た。八幡は書類にペンを走らせながらも、時折その写真へあたたかな、けれど熱い決意を秘めた視線を向けている。
「……比企谷先輩」
「ん? なんだ」
ペンを止めずに答える八幡に、いろはは少し意地悪く、けれど確かめるような声で問いかけた。
「その写真の人……もしかして、恋人ですか?」
その言葉に、八幡のの手がピタリと止まった。
八幡はゆっくりとペンを置き、写真の中の「氷の女王」を一度だけ愛おしそうに見つめると、静かに首を振った。
「……いや。俺の、目標だ」
「……目標?」
「ああ。あの人は、俺が一生かけても追いつけるか分からないくらい、凄くて、綺麗で……カッコいい人だ。俺が今ここいるのも、全部あの人のおかげだ」
誇らしげにそう語る八幡。
「恋人」という安易な言葉では括れない、彼らの間に存在する圧倒的な絆と信頼の深さが、その一言に凝縮されていた。
「……ふーん」
いろははそっと視線を落とし、胸の前で抱えた書類をぎゅっと強く握りしめた。
胸の奥が、なんだかちくちくと痛む。
八幡が自分に向ける「頼れる先輩」としての優しさや、自分を守ってくれた手厚い配慮。それが自分だけに向けられたものではなく、すべてこの「雪ノ下雪乃」という絶対的な存在を追いかける中で磨かれたものなのだと突きつけられた気がした。
(……なによ、それ)
自分は決して、八幡の特別な存在になりたいわけじゃない。……そう思っていたはずなのに。
八幡の瞳の中に、自分が入る余地など一切ないほど強く刻まれている雪乃の影に対して、いろはの胸の中に湧き上がってきたのは、自分でも驚くほど素直で、甘く苦い『嫉妬』だった。
「……先輩ってば、重すぎです。キモいです」
「あ?」
「なんでもないですー! ほら、仕事残ってますよ、生徒会長!」
ぷいっと顔を背け、少しだけ乱暴に書類をデスクに置くいろは。
「なんだあいつ……急に不機嫌になりやがって」と首をかしげる八幡と、「くっくっく、乙女心は複雑よのう」とニヤニヤする材木座。
夕陽が差し込む生徒会室で、いろはは背中を向けたまま、小さく唇を尖らせていた。
生徒会室で活き活きと仕事をし、やりがいを感じ始めていた一色いろはだったが、彼女を取り巻くクラスの環境が急激に好転したわけではなかった。
むしろ、居場所を見つけ、凛とした表情を見せるようになった彼女に対して、クラスの一部女子グループによる陰湿で静かなイジメが日増しに強まっていた。
靴箱への嫌がらせ、聞こえるような陰口、提出物の隠蔽――。
いろはは生徒会室では何事もないかのように振る舞おうとしていたが、ふとした瞬間に見せる疲れ切った表情や、ぎこちない仕草。
八幡と材木座が、それに気づかないはずがなかった。
「……八幡よ」
「ああ」
放課後、生徒会室で書類を整理しながら、二人は低く言葉を交わす。
八幡は死んだ魚のような、しかし『絶対零度の眼光』を静かに宿した目で窓の外を見つめていた。
「過剰な手助けは本人のためにならん……だが、集団による理不尽な暴力やイジメとなれば話は別だ」
「応。我ら生徒会が背負う矜持……そして何より、我らの後輩を傷つける不埒者どもを放置するわけにはいかぬ」
手出しをしすぎないことと、理不尽な暴力を放置することは全く違う。
八幡と材木座は静かに立ち上がった。
◇
その日の放課後。渡り廊下の陰、人の目が届きにくい場所で、イジメは一線を超えようとしていた。
数人の女子生徒が一色いろはを取り囲み、冷ややかな視線を浴びせかけている。
「ねえ一色さん、生徒会に入っていい気になってんじゃない?」
「男子に媚び売って、今度は先輩に取り入ってさ。ほんとイタいんだけど」
「ちょっと反省したら? そのカバン、下に落としたらどうなるか試してみようよ」
いろはのカバンを奪い、手すりの外へ突き出そうとする女子生徒たち。
いろはは唇を強く噛み締め、必死に涙を堪えながら拳を握りしめていた。ここで泣いたら負けだ、と自分に言い聞かせながら。
まさにその手が離されようとした、その時――。
「――そこまでだ」
低く、廊下の空気を一瞬で凍りつかせるような声が響いた。
驚いて振り返った女子生徒たちの目が、恐怖で丸くなる。
そこに立っていたのは、制服のポケットに手を突っ込み、冷徹な目つきで静かに佇む八幡。そして、その横で巨大な体躯を誇るように仁王立ちする材木座だった。
「ひ、比企谷先輩……!? 材木座先輩……!?」
「生徒会規約第7条、および校内暴力・不当な嫌がらせ行為の禁止規定」
八幡は淡々と、だが一切の弁明を許さない『アイスマン』の冷酷な威圧感を纏って歩み寄る。
「集団による威圧、物品の損壊未遂、ならびに継続的な嫌がらせ。……言い訳を聞くつもりはない。状況はすべて記録させてもらった」
「な、なに言ってるんですか! 私たちはただ一色さんと話してただけで――」
「理不尽に対しては、俺が執り行う」
八幡の放った絶対零度の眼光と冷酷な声に、女子生徒たちは言葉を失い、その場に縫い付けられたように動けなくなった。
「職務執行だ」
八幡の静かな宣言を受け、材木座が腹の底から響く怒号のような声を張り上げた。
「――応ッ!!」
「教導主任の平塚先生ならびに各担任へ報告の上、厳正な処分を行わせてもらう」
逃げ場を失い、自分たちのしたことの重大さに顔を蒼白にした女子生徒たちは、その場にへたり込んだ。八幡は一色から奪われていたカバンを静かに取り返すと、呆然としている一色へ手渡した。
◇
静まり返った夕暮れの廊下。
八幡と材木座の後ろを、一色いろはは小さく歩いていた。
堪えていた涙がポロポロと溢れ落ち、制服の袖を濡らす。
「……ひ、比企谷先輩……材木座先輩……っ」
「泣くな、一色」
八幡は振り返らず、前を見据えたまま静かに言った。
「言ったろ。ここは行き場を失った奴が立つための場所だって。理不尽に踏みにじられそうになったら、俺たちが叩き潰してやる。……お前はもう、一人じゃねえんだからな」
「う……うぁ……っ……ありがとうございます……っ!」
材木座もまた、豪快に鼻を鳴らしてニヤリと笑った。
「クハハ! 我らの大切な後輩に手を出すなど、100年早いわ! さあ八幡、生徒会室へ戻って温かいお茶でも淹れるとしようぞ!」
「おう」
沈む夕陽に照らされながら歩く3人の影。
涙を拭いながら二人を見上げるいろはの瞳には、かつてないほど強くて温かな、そして誇らしい決意の光が宿っていた。
生徒会室に静かな夕空の光が差し込む時間帯。
放課後の作業も落ち着き、八幡はデスクで模試の成績表を確認していた。ふとそれを横から覗き込んだいろはが、目を丸くして声をあげる。
「……え、ちょっと待ってください。比企谷先輩、学年10位なんですか!? 全然そんな風に見えないのに……!」
「失礼だな。ちゃんと勉強はしてるんだよ」
呆れ顔で成績表を仕舞う八幡に、いろはは少し体を乗り出して、ずっと気になっていた疑問を口にした。
「じゃあ……やっぱり本当なんですか? 雪ノ下先輩が行ったあの大学を目指すのって」
「まあな」
八幡は飾り気もなく、当然のことのように短く答える。
いろはは息を呑んだ。雪乃が進学した大学は、誰もが知る国内最高峰の難関校だ。学年10位という素晴らしい成績であっても、合格ラインにはまだ大きな壁が存在する。
「すごいですけど……それって、めちゃくちゃ難しくないですか? 正直、現実的じゃないというか……」
「難しいに決まってるだろ」
八幡は迷いのない目で真っ直ぐ前を見据え、静かに言った。
「でも目指すよ。……やらないよりは、ずっといい」
『追ってきなさい』という彼女の言葉と、託された紺色のリボン。無理だと諦めて何もしないくらいなら、どんなに不格好でも足掻き続ける。それが、彼女の隣に立つと誓った男の覚悟だった。
その言葉に、隣でペンを走らせていた材木座が、深く、誇らしげに頷く。
「うむ。高き峰を目指してこそ男よ。八幡の背中、余も実に見応えがあるぞ」
二人の間に漂う揺るぎない信頼と覚悟。
それを見つめていたいろはは、胸の奥をキュッと締め付けられるような感覚を覚え、思わず不躾な問いを投げかけていた。
「……そんなに、雪ノ下先輩が好きなんですか?」
ストレートすぎる問いかけ。
八幡は動じることもなく、手元の缶のブラックコーヒーを一口あおぐと、遠くの空を見つめながら静かに返した。
「……そうだな」
誤魔化しも照れ隠しも排した、ただただ真実だけがこもった一言。
黒い液体を喉に流し込む八幡の横顔は、大人びていて、どこか触れられないほど遠くに見えた。
「……っ」
いろはは何も言えなくなり、口を噤んだ。
胸の奥で、モヤモヤとした名前のつかない感情が渦巻いて離れない。
自分を理不尽から救い出し、居場所を与えてくれた頼もしい先輩。その先輩の心と視線は、最初から最後まで、遥か高みにいる「雪ノ下雪乃」だけに注がれている。
(……なによ、それ。かっこよすぎるでしょ、バカ……)
口元を小さく尖らせながら、いろはは自分のデスクへと向き直る。
割り切れない甘苦いモヤモヤを抱えたまま、雑務の書類をめくる指先に、少しだけいつもより力を込めるのだった。
塾での講義を終えた夜、八幡はサイゼリヤのドリンクバー近くの席でノートと問題集を広げていた。
普段の学校では使っていない、勉強用の黒縁メガネをかけ、難解な英文法と格闘している。
カサリと紙の擦れる音が響く店内。その対面にある椅子が、すっと引かれた。
「……こんな時間に、どうした?」
八幡はペンを止め、メガネを外しながら顔を上げた。
視界が少しぼやけたあと、そこに立っていたのは、私服姿の一色いろはだった。
いろはは何も言わず、八幡の目の前の席にすっと相席する。
どこか思いつめたような、けれど真っ直ぐな瞳で八幡を見つめていた。
「……一色?」
突然の遭遇に首をかしげる八幡に対し、いろはは小さく息を吸い込むと、誤魔化しの笑顔もあざとさもすべて捨て去った声で、ぽつりと問いかけた。
「……私に、可能性はないんですか?」
「――あ?」
思いがけなすぎる言葉に、八幡は思わず目を丸くした。
外したメガネを握ったまま、八幡の動きが完全に止まる。
静かなファミレスの片隅で、いろはの真剣な眼差しだけが、八幡の胸を強く射抜いていた。
「……まあ、そういう意味だと解釈して話すが」
八幡は握りしめていたメガネをゆっくりとテーブルに置くと、頭をかきながらため息をひとつ吐いた。
「未来が決まってることなんて、ねえよ」
「……え?」
「世の中ハッピーエンドばかりじゃないからな。誰が誰に対しても、な」
誰と誰が結ばれるとか、誰の想いが報われるとか、そんなあらかじめ約束された未来なんてどこにもない。
自分と雪乃の間にだって、あるいは誰と誰の間にだって、絶対に絶対なんてものは存在しない。挫折もすれば、すれ違うことだってある。
八幡のその言葉の裏にある「甘い期待を抱かせない優しさ」と「突き放しきれない誠実さ」を感じ取りながらも、いろはは困ったように眉をひそめた。
「……なんですかそれ。難しいこと言わないでください」
いろははテーブルの上に身を乗り出し、八幡の目をじっと見つめ返した。
「ハッピーエンドばっかりじゃないとか、未来は決まってないとか……それってつまり、私が追いつく隙だってゼロじゃないってことですよね?」
「おい、話の都合のいいところだけ切り取るな――」
「言いましたからね! 未来は決まってないって!」
いろはは八幡の言葉を遮ると、いつものあざとい小悪魔の顔ではなく、一人の恋する少女としての強い意志を宿した瞳で、まっすぐに言い放った。
「少しでも可能性があるなら……私は、絶対に諦めませんから」
自分を理不尽から救い出してくれた、不器用で格好いい先輩。
その心に「雪ノ下雪乃」という絶対的な存在がいることは知っている。それでも、自分の想いを隠したまま逃げるのは、もうやめた。
強い言葉を言い捨てて、いろはは真っ赤になった顔を隠すように立ち上がると、「ドリンクバー取ってきます!」と逃げるように席を立った。
残された八幡は、冷めたドリンクのグラスを見つめながら、ぽつりと呟く。
「……たく、めんどくさい後輩が増えたもんだ」
眼鏡をかけ直した八幡の目の前のノートには、街灯の光と、夜のサイゼリヤの静寂だけが広がっていた。
受験シーズンが一段と熱を帯びる冬の夕暮れ、生徒会室にはどこか寂しくも静謐な空気が流れていた。
机の上に整然と並べられた引き継ぎ資料を見つめながら、八幡はぽつりと呟いた。
「そろそろ生徒会も引退の時期だな」
雪乃から託されたバトンを繋ぎ、走り続けてきた日々。八幡は外したメガネを胸ポケットに挿し、窓の外に広がる夕焼け空を仰いだ。
「……少しはこの学校、良くできたか?」
自問自答するような八幡の問いかけに、真っ先に返したのは材木座だった。
「クハハ! 聞くまでもないだろう、八幡よ!」
材木座は腕を組み、鼻を鳴らして誇らしげに胸を張る。
「お前と余が築き上げたこの生徒会は、理不尽に抗い、行き場を失った者たちの灯火であった! この校舎を見渡してみるがいい。誰もがお前の『職務執行』と誠意に救われ、平穏を享受しておるのだからな!」
その言葉を裏付けるように、書類を腕に抱えた一色が、八幡の顔を覗き込んで柔らかく微笑んだ。
「そうですよ、先輩。……私みたいに救われた人が、この学校にはいっぱいいます」
かつて居場所をなくし、仮面を被って逃げ回っていた自分。そんな自分を見捨てず、泥臭く居場所を与えてくれた八幡たちの背中を、いろはは愛おしそうに見つめる。
「頼れる先輩たちがいてくれたから、私も……この場所が大好きになれました」
材木座の熱弁と、いろはのまっすぐな感謝の言葉。
八幡はどこか照れくさそうに視線を泳がせると、静かに缶コーヒーに口つけた。
「……そうか」
苦い液体が喉を通る。
雪乃の背中を追いかけてがむしゃらに駆け抜けてきたこの場所で、自分たちもまた、誰かの救いになれていたのだと実感する。
「まあ……後任のお前がしっかりやれば、この学校もまだ捨てたもんじゃないだろ。頼んだぞ、次期生徒会長」
「もうっ! 当たり前じゃないですか! 比企谷先輩たちが残してくれた大事な場所なんですから、私がカンペキに仕切ってみせますよ!」
あざとく胸を張るいろはと、それを頼もしそうに見守る材木座。
静かにコーヒーを飲み干した八幡の胸には、雪乃の待つ未来へと踏み出すための、確かな誇りと温かな手応えが宿っていた。
春の温かな風が校庭の桜を揺らす日。奉仕部から始まった俺たちの高校生活は、今日という卒業式をもってひとつの区切りを迎えていた。
式典の真っ只中。次期生徒会長として壇上に立った一色いろはは、凛とした声で送辞を読み上げていた。
かつてクラスで浮き、仮面を被って逃げ回っていたあの日の少女の面影はない。堂々と全校生徒を見渡し、学校の「日常」を守り抜いてきた先輩たちへの感謝を紡ぐ姿は、どこからどう見ても立派な生徒会長そのものだった。
そして、卒業生代表として答辞に立ったのは八幡だった。
八幡は飾らない、けれど力強い言葉で3年間の日々を振り返り、式場を静かな感動で包み込んだ。
式の直前、合格発表の番号の中に自分の受験番号を見つけたときの感覚が、まだ手に残っている。
雪乃が通うあの難関大学。模試の判定はずっと厳しく、本当のギリギリの滑り込みだった。だが、泥臭く足掻き続けた結果、俺はようやく彼女と同じスタートラインに立つ権利を手に入れたのだった。
式が終わり、生徒たちが思い思いに別れを告げ合う放課後。
八幡が生徒会室の荷物をまとめ終えたところへ、いろはが一人で入ってきた。
「……比企谷先輩」
「ん? なんだ一色。送辞、なかなか立派だったぞ」
八幡が少し照れくさそうに言うと、いろはは八幡の目の前まで歩み寄り、ぎゅっと自分の制服の裾を握りしめた。
「……先輩。先輩のネクタイ、私にください」
唐突な要求に、八幡は手を止めて首をかしげた。
「ネクタイ? そんなもん何に使うんだよ。お前が持ってたって意味ねえだろ」
実用性も脈絡もない提案に呆れ半分で尋ねる八幡。
だが、いろはは真っ赤になった顔を背けることなく、涙目のまま意地を張るように八幡の目をまっすぐ見つめ返した。
「欲しいと言ったら欲しいんですっ……!」
その必死で、あまりにも不器用な主張。
自分に対するまっすぐな好意と、今日で本当にお別れなのだという切なさ、そして絶対に引かない彼女の覚悟が、その一言にすべて詰まっていた。
八幡はそれ以上、深く追及することはしなかった。
「……たく、相変わらず我が儘な後輩だな」
八幡はふっと柔らかく笑うと、首元から手慣れた手つきでネクタイを緩め、するりと引き抜いた。
そして、それを丁寧に折りたたむと、目の前の後輩の手にそっと手渡した。
「はいよ。……大事にしろよな、生徒会長」
手のひらに残る、温かいネクタイの感触。
いろははそれを胸元にぎゅっと抱きしめ、堪えていた涙をぽろぽろと零しながら、最高の笑顔を浮かべた。
「……はい! 大事に、ずっと大事にしますから……!」
春の光が差し込む生徒会室。
雪乃の待つ未来へ歩み出す八幡と、その背中を追いかけながら自分の道を歩み始めるいろはの間に、温かく穏やかな時間が流れていた。
ネクタイを胸に抱きしめたまま涙を拭ったいろはは、少しだけ鼻をすすると、いつものあざとく小悪魔的な笑みを浮かべようと懸命に表情を作った。
生徒会室の入口には、巨大な体躯をすっと立たせ、重厚な眼差しで二人を見守っていた材木座の姿もあった。
「……材木座先輩。今までありがとうございました。……先輩が居てくれたおかげで、私、変な男子に絡まれずに済みましたし、頼もしかったです」
「クハハ! 礼には及ばんよ一色殿! お主がこの生徒会に持ち込んだ華やかさは、余にとっても実に心地よいものであった! これからの総武高校生徒会、お主の腕手腕に期待しておるぞ!」
材木座は腕を組み、満足そうに頷く。
そして、いろはは最後に八幡へと視線を向けた。
「比企谷先輩。……本当に、お世話になりました。不器用で、キモくて、すぐブラックコーヒー飲んでカッコつける先輩でしたけど……私を助けてくれて、ありがとうございました」
「最後くらい一言余計なのを引けよ……。まあ、体には気をつけろよ、生徒会長」
八幡は呆れたように肩をすくめつつも、優しく温かな眼差しを後輩へと向けた。
「はい! じゃあ、私、もう行きますね!」
くるりと背を向け、軽やかな足取りで生徒会室のドアを開けるいろは。
廊下に一歩踏み出し、ゆっくりとドアを閉め切る直前――彼女は二人に見えない角度で足を止め、胸元のネクタイをもう一度ギュッと抱きしめた。
春の柔らかな光が差し込む廊下で、去っていく八幡と材木座の頼もしい背中を愛おしそうに見つめながら、いろはは誰にも聞こえないほどの小さな声で、けれど強い決意を込めて呟いた。
「……諦めませんからね、先輩」
雪ノ下雪乃という絶対的な存在へ向かって走り去っていく背中。
それでも、このネクタイが手元にある限り、自分と彼の繋がりが消えることはない。
涙を完全に拭い去ったいろはは、生徒会長としての誇りと、密かな恋心を胸に抱き、真っ直ぐ前を向いて歩き出した。