(シスイ視点)
なぜこの人たちはこれほどまでに他人に酷いことができるのだろう。
実家にいた時の私はいつもそう思っていた。その答えを得たのは数年先のことだ。
一夫一妻制の根強い天使という種族。そこで貴族の不貞の子として生まれた私は酷く軽んじられた。
博愛と誠実を最大の美徳とする天使。私への軽んじ方は狡猾かつ陰湿で体裁だけはまともだった。貴族並みの教育を受けられたことはあの家の唯一の恩恵。
ある日、私に縁談が来た。面が良くて、家格も申し分なく、優しくしてくれる人。まさに白馬の王子様と呼ぶにふさわしい人だった。
当時の私が夢中にならないわけもなかった。彼だけが私を人扱いしてくれた。彼はこう言う。
「君の受けている仕打ちは到底許せるものではない。私が証拠を集めて糾弾し、助けてあげよう」
私はその言葉を信じてずっと待っていた。22の誕生日、私と彼の婚約を祝うパーティがその時。
冷静に考えればそのような祝いの場で誰かを糾弾する予定、ということに違和感を覚えるべきだ。そんなことは裏でひっそりとやれば良い、よっぽどの事情がない限り。
「ヴィスコンチ・イザベル・スカーレット! 今日限りで君との婚約は破棄させてもらう!」
パーティが始まってからずっと上機嫌だった私。自分の名前が呼ばれたことに気づいて、聞き間違いかと首をかしげて。言葉の内容をかみ砕いて、道化にされていたと気づいた表情の変遷はさぞ見ものだっただろう。
正妻や妹や周りの人が私にしていたことは、全て私が妹にしたことになった。
身に覚えは十分にあるが、自分がしたかといえば身に覚えのない事をまくしたてられた。
止せば良いのに私はやっていない、と醜くわめき散らす私。周りを喜ばせるだけだった。
私への糾弾はあれよという間に進み、身一つで実家を追い出されることに。
幽鬼のように放浪する内に考える。なぜあのように大掛かりな真似を私にしたのか。
慣れて反応の無くなった私をつまらないと思って、感情を取り戻させたというところは理解できた。
理解できないのはそのために私の婚約者が何年も不貞の子と仲良くするという地道な苦行をやり抜き、多くの人を巻き込んだのか。あの婚約パーティだってタダじゃない。
答えの出ないうちに行き倒れ、レッドクロスと呼ばれる治療を専門にする傭兵団に拾われた。
二度とあんな思いをするぐらいなら、と周りの人間を遠ざけ続けていた私を見捨てずに置いてくれた懐の広さには感謝している。
それから、あいつらがなぜ私にあんな大掛かりな真似をしたのかという答えをくれたことにも。
月日というのは偉大で、あんなことがあったにもかかわらず週に1度ぐらいしか思い出さなくなった頃。
私の地元で大きな地震が起きた。地震になじみのない地域での天災。被害は甚大でその救援に私たちは駆り出された。
与えられた任務をこなす機械と化していた私は地元に帰ってきたという感覚のないまま作業をしていた。
瓦礫の撤去中に小さな音を聞いた私が音の発生源を辿る。当時筋肉質だった私は瓦礫を2桁も横に退けたところで唐突に正妻の顔がでてきた。
落ち着いて周りを見渡せば、ここは私の実家ではないか。場所も正妻の寝室近く。
正妻は驚愕しており、たぶん私も驚いていたと思う。口を動かしているが何を言っているか聞こえない。無駄に救助を求めて喉をつぶしたのだろう。何か物を瓦礫にぶつけて必死に自己主張していたと見える。
「シスイ! こっちを手伝ってくれ! 生き埋めの奴がいる!!」
傭兵団の同僚に呼ばれる。
「分かりました。今行きます」
私は逡巡すらしなかった。手で支えていた瓦礫を元に戻して、同僚の手伝いに向かう。
同僚は私の顔を見てぎょっとする。
「ど、どうした……そんな嬉しそうな顔して」
この時私はようやく理解した。あの人たちが多大な労力をかけて私を貶めたのか。
正義だ。正しいと思うからこそ何を差し置いてもそれを実行する。あの人たちにとって不貞の子である私をいじめることは効率を差し置いても優先するべき絶対的に正しい事。
この時の私もただ正義を執行しただけのこと。災害現場で瓦礫の下の被災者を見捨てるという殺人を犯したが、爪の側面にできるささくれほども心に引っかかることはなかった。
婚約パーティで種明かしをされる前の私もそうだ。祝いの場で正妻を糾弾して辱めてやることに疑問すら覚えなかった。客観的に考えれば時と場所をわきまえてなさすぎるにもかかわらず。私にとってそれが正義だったから。
傭兵として仕事をする間、戦いの前に指揮官が自軍を鼓舞するのを何度も見てきた。
「この戦い、正義は我らにあり!! やつらに国の領土を一歩たりとも踏ませるな!!」
それにつられて兵士が大声を上げる。今ならそのよく分からない行為も理解できた。
要は殺人を正当化しているだけだ。初対面の恨みつらみの無い人間を殺すだけの理由を叫んでいるだけ。
正義があるから人を殺すのではなく、人を殺すために正義をでっちあげているのだ。
ともかく、この仕事を境に私は傭兵団を辞めた。人を助ける依頼を受けておきながら私情で人を見捨てた、仕事放棄をしたことに罪悪感を抱いたからだ。これ以上この組織に居ては不利益を与えるばかりだ。
仕事ばかりで使いもしなかった大金を持って、適当な街で植物のようにぼーっと暮らした。
あの3人が訪ねてきたのは、そんなある日の事。最初はすげなくあしらったけど。来る日も来る日も訪ねてきて。人と関わって二度とあんな思いをしたくないと思いつつも。一人になった時、傭兵団の人たちとの事務的な会話を何度も回顧して。
結局、寂しかったのだ。加えて彼らはとても善良だった。
毎日顔を見せてきたのにある日来ない日があって。外に出て探してみれば、3人がならず者に取り囲まれて危機に陥っているところを見つけた。
食っちゃ寝を繰り返していた私は傭兵時代とは比べ物にならないぐらいの貧弱なフィジカルだったが、持ち前の治癒魔法とスキルでその場を打開することはできた。
事情を聞いてみれば貴重な薬を盗まれた人のためにならず者を追いかけてあの状況だったらしい。3人は取り返した薬をその人に返し、報酬を得ることもなく見送った。
一文の得にならないことをなぜするのか、と答えの分かり切っている質問をついしてしまった。案の定、3人にとってはそれが正義だからという回答を得た。
「力があっても、悪い事に使うのはダメだ。かといって正しくても力がなければ意味がない。……俺たちが強くなるためにもシスイさんの力を貸してほしいんです、お願いします!」
そう言われて私は首を縦に振った。あれだけトラウマにしていた人とのかかわりを持ってしまった。相手が善良だからといって、ああならない保証などどこにもないのに。
「怪我するのが好きって……そんなはずあるわけないじゃない!」
「気持ちは嬉しいが……下手なフォローは止めてくれ」
「君がそんな人間じゃないってことは良く知ってる。……俺たちに気を遣ってくれてありがとう」
獣から3人を助けた後、私のカミングアウトを彼らは信じてくれなかった。
何を言っても聞き入れてくれない。私の主張は何一つ通らない。
同じだ。あの時と同じ。私が婚約パーティで手のひらを返されたあの時と。
人の心を取り戻して、それから叩きつけられるのも同じ。
こんな思いをするのなら。やはり人の心などいらない。
♢
目を覚ます。石造りの牢の中に薄い布団が敷かれている上に寝転がる私。寝具には涙がシミを作っていた。
思い出した。昨日の決闘騒ぎで主犯格の上に半裸になった私は憲兵につかまって牢に入れられたのだった。反省のために入れられただけで実刑判決は下ってない。
「丁度起きたか」
憲兵が私の檻の前まで来た。私の目元をじっと見つめて言う。
「……反省したみたいだな、出ろ。本来ならもう一日石の上で雑魚寝させるつもりだったがな」
私の目元が涙でぬれているのは反省の証拠ではなく、嫌な夢を見たからなのだが……訂正するほど馬鹿正直でもなかった。
そもそも、私は悪い事をしたと思っていない。あれはあの3人組に課される当然の罰。そこまでの正義を持たねばあんな痴態を晒すことはできなかっただろう。
そこまで考えて自己嫌悪に陥った。正義を盾に周りに迷惑をかけることを正当化する、それはまるで私を馬鹿にした正妻たちと同じだ。
もちろんほぼすべての人間はそのような思考回路を持っていることは客観的に認識しているが、気分が落ち込むものは落ち込む。
釈放され、賑やかな朝の市場をふらふらと歩きまわっていた。たまに声をかけられる。
「おっ、昨日の今日でもう釈放か? 憲兵の前でも脱いだか、嬢ちゃん?」
基本は昨日の私の痴態を見たおじさんからのセクハラ。反応を返さずにぼーっと歩いていたら特にそれ以上は構ってこなかった。
とはいえこうも言われると否応なしに昨日のことを意識する。大衆の前で下着姿になったあの瞬間の高揚。それは正義を執行するという達成感だけではなかった。肌に視線の突き刺さるあの感じ。
考えれば不思議な話だ。わずかな厚さの布切れ一枚を人前で取っ払うだけでなぜああも心持ちが変わるのか。
気づけば息が上がっていた。胸に触れてもいないのに鼓動がやけに聞こえる。
自己嫌悪の延長にある破滅願望。そう称するには少し幼い、しかし理性で押さえるには熟しすぎた自戒と解放への期待。
いつの間にか、私は店の路地裏にいた。大通りに面した、その気になれば多くの人の視線が降り注ぐ場所。
大通りに背中を向けて私は胸元のボタンを開け、ブラを外した。適当に地面へ放る。
そしてその場でしゃがみこみ、ショーツも足を通り抜けさせて摘出した。同じように地面へ放る。
下着だけの昨日とは真逆に、上着だけの状態で大通りに戻った。
……なんだ、この? ……なんだ?
形容しがたい興奮が湧いて止まらない。露出癖に目覚めたのか、それとも滅入った精神に合わせて自罰的な行動を取ることで一時的に得た精神の安定を勘違いしているだけのか。
いつのまにか猫背になっていた自分に気づき、胸を張って歩いた。布2枚ではなく、布1枚だけを隔てたその胸を張って。
見慣れた道、なのに衣を2つはがすだけでこうも世界は変わって見えるのか。頭がどうにかなりそうだった。近くの路地裏に入り、角を2つ曲がって人目のない所で大きく息を吐く。
深呼吸をしているのに一向に心臓が落ち着かない。私は胸元のボタンを全て開けては乳を放り出し、スカートをたくし上げては秘所を晒した。
あ、あー、あー……♡
眩暈がした。保険付きで眩暈。誰か来ても後ろを向けばギリギリ誤魔化せる保険付きで眩暈。
じゃあ、それ以上は?
私はワンピースのような上下一体型の上着を頭から一気に脱いだ。今誰か来たら終わる。着るのなんて間に合わない。
震える手で私は服を地面に置き、丁寧に畳み始めた。
気が狂いそうな焦燥を押さえつけて、服を3つ折りで正方形の綺麗な形に畳んだ。
服の隣に靴以外全裸の私が正座で座る。
終わる。終わる。昨日とは違う。決闘という舞台上の役者じゃない。ストリップショーにいくら興奮したとて舞台に乗り込む観客はいないだろう。
しかし今はただの痴女。身の安全など全く保障されていない。
周りを気にする勇気はなかった。今の私を影から覗いている人間がもしいるなら、どうかそのまま黙って回れ右してほしい。私が認識しない限りそれは見られていないことと同義だ。
気が狂いそうと比喩したが、実際に狂っていたらしい。私はその場で立ち上がろうとして、膝が震えてたたらを踏みながらもようやく直立。そのまま両手を頭の後ろに回して蹲踞の体勢を取った。
今の私は何を得ている? 尊厳と安全をベットして、勝って得られるものは今一時の興奮。
馬鹿げている。ただ止められない。
視界は見えているだけで情報処理をまったくしていない。自分の心臓の音だけ聞こえる。肋骨を押し上げる勢いで脈打つ心臓。呼吸するときに胸が上下するように、たぶん今の私は心臓が上下しているのが外から見えると思う。
「あの」
体が痙攣して変な汁が股から出た。心臓の音は聞こえない。たぶん止まった。
声をかけられたのと同時に肩にも手を置かれている。私の人生を終わらせた人の方を見れば見知ったアカシ様の顔が。
「お楽しみでしたら申し訳ないな、と思ったのですが。一応声をかけておこうかと」
「ぇっ……! ぁ、ぉっ、ぁ……!」
言葉が出ない。肺の中に空気がないから。吸わないと。
「はっぁ……! はっ……! ぁっ……!」
吸えない。命を繋ぐ分の呼吸すらままならない。おかしくなった私の体は吸う息より吐く息の方を多くする。
肩に置かれた手を必死にたどって彼に縋りつく。
「落ち着いてください」
体を抱きしめられていつもの声色で導かれる。
「吸って」
何も考えずに声に従って。
「吐いて」
彼の腕の中で全裸のまま。
「吸って」
大きい手が背中を優しく擦って。
「吐いて」
いつの間にか呼吸が落ち着いていた。正気を取り戻した私は彼の耳元で必死に弁明する。
「その!これは!違うのですわ! そんな……変態じゃ、私、なくて……」
言っていて気分が滅入る。昨日あんな真似をしておいてどの口が言うのか。
それに自分自身は痛みが引く瞬間が好きな癖を持っているくせに、露出癖の人間を変態と称する。
レッテルを張られ、何も聞き入れてもらえない苦しさを痛いほど知っている人間ではなかったのか、私は。
「うー……! うぅー!!」
脳が感情を処理しきれなくなった。叫び声をあげながらボロボロと涙を流す。
彼は幼稚な私の頭を撫でてくれる。
「分かりました。好きで服を脱いでいたわけでは無いのですよね?」
彼の腕の中でうなずく。
「誰かに強制されていたのですか?」
首を横に振る。
返事をしていて馬鹿かと思う。他の誰かに強制されていないなら自分で好きに服を脱いだに決まっているだろうに。
「そうですか……魔が差したんですね」
それでも彼は私に都合よく受け取ってくれて。私の言葉をそのまま信じてくれて。
それは初対面の時と同じだった。
♢
あの3人は私の言葉を信じてくれなかった。それをきっかけに3人といるだけで婚約パーティの嫌な思い出が常によぎる。
耐えられなくなった私は手紙を残して姿を消した。
再び掴んだ希望を失った私は生きる意味を見出せなくて、死ぬ場所を探していた。
飲まず食わずでうろついて、体力が尽きたところで倒れて、獣に食われて死のうと思った。
その途中、彼らに合った。殴られて喜ぶ幼い竜人の少女。首を絞められて恍惚とする獣人の女性。そして常軌を逸した行為を笑顔で行使する大男。
「……あの、お楽しみでしたら申し訳ないのですが、一応聞いておきますわ。これは合意の上で行われていることでしょうか?」
感情の死んでいた私もこの光景には流石に心を動かされた。
声をかければ、あざだらけの竜人の少女は良い笑顔で親指を立て、絞首跡の残る獣人の女性は恥ずかしそうに頷いた。
「合意の上とはいえ、人を傷つけることに抵抗は無いのですか?」
大男に聞けば、彼は首を振る。
「彼女たちが何らかの事情で嘘をついているとは思わないのですか?」
私の問いを聞いた大男は落ち込んだ顔で言った。
「私は人の心の機微を読み取るのがそこまで上手くありません。だから、その人の言葉をそのまま信じるようにしています。……諦めといわれてしまえばその通りなのですが」
私への返答はそこまで。
「だから、要求があれば口に出してください。きちんと聞きますから」
男は竜人の少女と獣人の女性にそう言った。
私に言われていないにもかかわらず、私は言った。
「私は痛みが引く瞬間が好きですわ。だから、私の尻を叩いてください。全財産を差し上げますので」
私は財布を放る。大男は驚いていたが財布を拾い、素振りを始める。
「これだけいただけるのでしたら全力で」
男は笑顔の中に真剣な眼差しを宿し、大きく振りかぶった。
私は尻を突き出す。困惑する竜人の少女と獣人の女性に見守られながら、私は尻を打たれた。
「つぁっ!! ……ん、ほぉぉおおおぉぉおおお……♡」
これが皆さんとの出会い。最低で最高の出会い。
♢
……あれ。
目を覚ますと、私は自宅にいた。頭に霞がかかったようなぼんやりとした意識。
顔を上げると分かる、私は机の上に突っ伏していたようだ。机の上には食事の皿と空のワインボトルが2本。食事の皿とワイングラスは2つ。テーブルの反対側には机に伏せる彼。
確か、露出していたところを彼に見られて。腰が抜けていたから背負って家まで帰ってきて。迷惑をかけたお詫びにお高いワインと肉を振る舞って。
酒が進んで私の身の上話を長々語って。勢いで彼にも酒を進めて。そこからあまり覚えていない。
起き抜け早々、そういえば彼の前で裸を晒したんだっけ、とその時の光景がよみがえってくる。顔が赤くなるぐらいで済んでいるのは未だに残っている酒のおかげ。切れたら多分、えらい事になる。
外を見れば時刻は昼過ぎごろ。朝っぱらから酒に酔って潰れていたとは。
ともかく未だに寝ている彼の肩を揺さぶった。
「アカシ様、起きてください」
彼はほんのわずかに身じろぎして、薄く目を開けた。彼はそのまま体を起こすが、椅子ごと後ろに倒れそうになったのを慌てて支える。
「……すみま、せん」
彼はぼやけた口調で立ち上がろうとするが、体の芯が定まっていない。このまま立ち上がると容易に転ぶ姿が想像できたため、立ち上がりの動作を制した。
おぼろげな記憶だが、空いた2本のワインボトルはほとんど私が飲んだように思う。彼が飲んだのはワイングラス1杯分くらい。体躯からは想像できないほど下戸なようだ。
しばらくベッドで休ませよう。知らなかったとはいえ、酔わせたの私だ。男性を自分の寝具に寝かせるのは抵抗があったが……嘘、彼になら別に良い。
「立てますか?」
彼に肩を貸しながら寝室まで連れていく。私の非力さと彼の巨躯が相まって肩を貸すだけでも相当難しかったが、何とかベッドの前まで来た。
しかし、目的地前で気の抜けた私はバランスを崩して彼もろともベッドに倒れこんでしまう。
倒れた衝撃に身を固くしたのも束の間。殿方と同じ寝具の上で寝転がるという事態に身動きが取れない。
興奮、緊張、よりも安心と脱力。露出していた時の極限の緊張から解放された時の余韻が残っているような。あの時と同じ、彼の腕の中で。
瞼が溶けて形を失ったように降りて来る。それを彼の腕が私の胸をわしづかみにしたことで強制的に覚醒させられた。
「は、あ、ぇ」
いやらしい手つきではない。ただ掴みやすいとっかかりを掴んだような。そのままぎゅう、と抱き寄せられる。
「ぁ そ、ぉ」
言葉にならない鳴き声が口から漏れるばかり。首筋にあたる温かくも柔らかい感触に体が跳ねる。
多分唇。
「 」
ついに音にすらならない。声帯が全く閉じずに息だけが漏れる。
ぐったりとベッドに持たれる頭。服がはだけて無防備な首と肩。弱い所を推定唇が執拗になぞる。
じたばたと逃げるそぶりをすれば、彼の腕が私の体を強く絡めとる。動いているうちに体が反転して目が合った。
眠そうに閉じられた瞼。しかし力で抑え込まれている今の状況を加味すれば、鋭く細められたようにも見える。ぞくり、ではなくぞわり。悪寒というには温かい閃光が背中を駆け抜ける。
ゆっくりと彼の顔が近づいてきて。推定ではなく確定唇が私の唇に触れる前に、私は何とか手を最終防衛ラインとした。
筋肉に覆われた体からは想像もできなかったほど柔らかな唇で手のひらを侵食される。その間に頭のなかで思考がぐるぐると回る。
一線、越えるか、越えないか。
超えて良いのか?
ぽっと出の私なんかが
フワワ様という人がありながら
でも、今まで良い事なかったし
一度ぐらい
これっきり
黙っていれば
思えば、彼を家に招いた時から無意識化でこの展開を望んでいたのだろう。
手のひらを啄まれるたびに思考が押される、易きに流される。一線越える理由を頭が探す。弱い自分を正当化する。身勝手な正義を擁立する。
……否。私の正義は皆さんのためにある。不貞などもっての他!!
あふれ出てきた妄想を振り払い、断固たる決意で彼を押し返した。……押し返した。…………やれるだけやった。
彼の巨体を腕の力だけで跳ねのけることはまるで叶わなかった。最終防衛ラインを下げてまで両手で押し返しても駄目だった。
力なき正義は無力である。
不意にその言葉が頭に浮かんで。力の抜けた私は彼に接吻を許した。
もう手遅れにもかかわらずじたばたともがく。無力な抵抗は、唇の柔らかい接触と暴力的な舌遣いの圧倒的力の前に蹂躙される。
知らない感覚が腰のあたりから発生する。いや、半裸で決闘した時や露出していた時のあの感覚。
それを濾して、湯煎して、砂糖をたっぷり溶かし込んだような。甘い、熱い、疼き。
砂糖で乾いた喉を潤すように。彼の唾液を求めて交わる、吸いつく、舐る。
すればするほど腰の感覚が消える。確かめるように身じろぎすれば、腰からナメクジのように気持ち良いが脳髄まで這いあがってくる。
もう自分で呼吸していない。彼のお古の空気で何とか生きながらえている。
その日、私の正義はおせっせに屈した。