(ガオ視点)
世界が輪郭を失っている。どこからどこまでが私の体が分からない。
伏せているテーブルと一体化している気がするし、視界に移る腕が自分から切り離されているような気もする。
視界の端で他の客がフォークを落とした。
「……へへぇ」
それだけで楽しい。嫌な気持ちは相変わらず湧いてきているが、蓋がされている。そこにあるのに、ないことにできている。
散らかった部屋の物をとりあえず箱の中に詰めて何とかしているような感じ。漠然とした不安を必死に心の奥へ押し込めて笑う。
「……え、へへぇ……」
頬を涙が伝う。きっと泣き笑いだ。
……もう、帰ろう。
酷い風邪をひいた時より自由の効かない体で会計を済ませて店の外に出る。
教会に帰る道すがら、地面が傾いた。酷い天変地異に私は逆らうこともできず、誰かほかの人を巻き込みながら路地裏になだれ込んだ。
「ってぇなぁ~……!! 何しやがる角ッパリが!」
私が巻き込んだ男の人は立ち上がり、私を見下ろしながら乱暴な口調で言った。
心の箱が軋んで揺れる。
「ちっ、酒カスじゃねぇか……! 足取りおぼつかないぐらい酔っぱらってんじゃねぇぞ!」
腹いせに尻を蹴られた。痛いのは気持ち良い。はずなのに、私の瞳からは涙が流れる。
「へへ……」
「薄ら笑いやがって、気持ちわりぃ。こっちは仕事クビんなったばかりだってのによぉ……! クソがっ!」
男は私の執拗に踏みにじる。足、腹、頭、所かまわず。なぜかそれが心地よかった。痛みの気持ちよさとは違う。
純潔の猫は富豪の膝の上に。雑種は街の隅に。私は汚い路地裏の地べたに。
あるべきものがあるべきところに収まっている納得感。
けれども自分より上背のある者に一方的に攻撃されるという事実。それが過去の記憶をごんごんと揺り動かす。薄ら笑いの下で心臓がうるさく警告してくる。
「その、お楽しみでしたら申し訳ないのですが」
泥酔という分厚い化けの皮が剥がれかけたその時、聞きなれた声がする。
「お助けした方がよろしいでしょうか?」
アカシが立っていた。私を見下ろす男を、身長の暴力でさらに見下ろす形で。
「な、なんだよお前……くそっ」
男は臆したのかそのまま逃げていく。入れ替わるようにフワワとシスイが集まってきた。
「だ、大丈夫ですか……?」
「心配しましたのよ。夕方にもう一度教会を訪れてもいらっしゃらないのですから」
心配そうな顔が3つ並ぶ。私なんかにはもったいない、望外の人たち。
故に苦しい。私には、私なんかには。
酒という靄のかかった感情、それでもなお壁に頭を打ち付けたくなるほど衝動的で。
額より先に角が壁にぶつかって、男に蹴られていたせいもあるのか少しだけ角が軋む感覚が伝わってくる。
「い、いきなりどうされたのですか!? とにかくお止めください!」
シスイが私を止めようとするが、フワワがその手を止めた。
「フワワ様? いきなり何を……手を離してくださいませんか?」
フワワは苦しそうな表情で動かない。その後、ぽつりぽつりと話し始める。
「なんとなく、ガオさんの気持ちが分かるんです……。自分の事がどうしようもないぐらい嫌になって、自傷しないと気が収まらなくなる……。シスイさんはありませんか……? そういう時……」
シスイは少し考えた後、私を見て、目を逸らす。
「私はそういう時、本当は放っておいて欲しいんです……。けど、こうして大切な人がその状態に陥っていると不思議ですね……。どうにかしないと、って思ってしまいます……。どうすれば良いんでしょうか……」
僅かに涙を浮かべるフワワに私は言った。
「じゃあ、角、折ってほしぃ……」
「えっ」
この角は私にふさわしくない。今はもう治ってしまったけど、昔のように折れた状態があるべき姿だった。
私みたいな半端者は片角でなければいけない。
そして醜くなれば、皆も私から離れていく。そうして1人になった私。それがあるべき姿だ。
あるべき私を想像して、ひどく涙腺が緩む。
ぼやけた視界の中でフワワが狼狽していた。
「私が……角、を……」
フワワはしゃがみこんで私の角に手をかける。彼女にはそれを手折るだけの膂力が十分にあることを知っている。
裁きを待つように目を閉じる。
「だって、竜人の角は……」
しかし一向に私の角には力がかからない。不思議に思って目を開けば、過去に見たことがないぐらい切羽詰まったフワワの顔が見える。
どうしてそんな顔をするのだろう。分からないが私の我儘のせいで彼女を苦しめている。視界の中で涙が光を曲げ、波を打って揺れる。
「その、本当に良いんですか……?」
頷く。
「っ……!」
フワワが意を決したように私の角と頭を掴むが、角が折れるほど力を込めてこなかった。
それでも何度か私の角を折ろうとして。今までで一番の力が角にかかった時、角がきしむ音が頭の中に響く。その感触はきっとフワワの手にも伝わった。
「つ”ぅ”……♡」
「ひっ……」
竜人の角は外側こそ爪の白い部分のように痛覚がないが、芯は痛みを感じる。
思わず漏れた吐息に反応してフワワが私の角から手を離し、立ち上がった。
「ご、ごめんなさい……。私、できません……」
申し訳なさそうに後ずさりするフワワ。気を使わせてしまい、後ろめたさで彼女から目を外して。その先にはシスイがいた。
「う、そ、その……本人がおっしゃるのであれば……」
彼女は躊躇しながらも私の前にしゃがみこみ、角に手をかける。
徐々に私の角に力がかかるが、角の軋む音と私の嗚咽が漏れた瞬間、フワワと同じように私の角から手を離した。
「はっ……はっ……はっ……」
力んで息を止めていたのか呼吸を荒くしており、暑くもないのに顔に汗を掻いていた。
「も、申し訳ありませんわ……その、気が引けて……」
シスイが私から目を逸らす。逸らした目線の先にはアカシがいる。
シスイだけでなく、フワワも私も彼を見ていた。
「では代わりに私が」
彼は何の気負いもなしに私の後ろから首に腕を回してきて、頭の動きを固定される。そして左手で私の角に手をかけた。
そのままあっという間に角が軋むところまで力をかけられて。
「う”う”ぅ”うううぅ”ぅ”……!♡!♡」
角が軋む気持ちよさに紛れた、これから訪れる部位の喪失に少しだけ怯えて手が動く。首に回された彼の腕に両手を置くが、今の私には片角の醜い姿こそがふさわしいのだと思い出して。
そんな弱者の心の動きを他所に、強者はあっさりと角を1本摘んだ。
「折れましたよ」
目の前に差し出される私の角。
「……え、っへ”へ”……へへ”っ……♡♡」
体の一部を失った喪失感。折れた断面が空気に触れてズキズキと痛む快楽。
それらを遥かに上回る、あるべき姿になれた安寧。罰を受けることで罪が許されたと感じる身勝手な安寧。
やっと得られた安寧に気が抜けて、そのまま意識を失った。
♢
気づけば私はベッドの上に寝かされていた。
片角が折れているおかげで横向きに寝られている。お酒が残っているのか、意識が薄らぼけていた。
「ガオさん」
聞き覚えのある声。寝たまま視線を動かすと、ベッドの脇に腰かけていたアカシが体を捻る体勢で私を見下ろしていた。
孤児院や九林寺で師匠に弟子入りする前に散々刷り込まれた上を取られる構図。それなのに、不思議と嫌な気持ちは湧いてこない。
更に視線を動かせば、少し離れたところで立っているフワワとシスイが見える。
彼女らは一様に心配そうな、不安そうな表情をしていた。
「決闘では私が勝ちましたよね」
「は、はい……あ、いや、うん……じゃなくて、あ、あぁ……?」
彼に急に話しかけられてどもる。
私はみんなの前でいつもどんな口調だったっけか。昔の記憶が顔をのぞかせてきて、簡単な肯定の言葉すら出力に難儀する。
「これは勝者としての命令です」
彼の手が私の頭に伸びてくる。私は目線で手の動きを追って、頭に乗っかる感覚に目を閉じた。
「私たちのそばにいてください」
優しくされているという罪悪感が無いわけじゃない。しかし腑に落ちる、というのだろうか。強い者からの命令には従うべき……いや、従うしかないのだ。
分かっている。これが彼の方便というのは私でも分かる。建て前というのは大事なのだと、今ここで知った。
視線をフワワとシスイの方に向ける。きっと卑屈で媚びるような視線だっただろう。
それでも彼女たちは優しい顔で頷いてくれた。つられて表情が緩む。
シスイが手を突き出してきた。その手には私の折れた角がある。
「これ、治した方がよろしいでしょうか?」
「……醜いアタシといるのは、嫌?」
「いえ、そんなことはありませんわ。そもそも私たちは角の有無が美醜に結びつかない感性をしていますし。しかし竜人にとって大切なものなのでしょう?」
「……みんなが気にしないなら、捨ててほしい。アタシには分不相応だから」
多少落ち着いた今でも自罰的な考えからは逃げられない。後で後悔するかもしれないが、捨てることを選んだ。
「捨てる、というのも何だか気が引けますが……。切った爪を捨てる感覚で良いのでしょうか」
「では私がもらっても良いですか?」
「構いませんが、どうするおつもりで?」
「アクセサリーにでもしようかと」
「それはそれで何となく問題がありそうな気もしますが……まぁ、良いと思いますわ」
「それでは自分の部屋に置いてきます」
ともかく私の角はアカシの手に渡り、彼は部屋を出ていく。
今更理解したが、ここは彼とフワワの家。恐らくこの部屋はフワワの寝室だろうか。思えばシーツに少し毛が付いている。
彼が居なくなって少しだけ静かな時間が流れたが、フワワが恐る恐る口を開いた。
「その、毛並み、触りますか……じゃなくて……触ってください……でも、なくて、えっと……」
何度も言い直してしどろもどろだったが、ついには断定口調で言い放つ。
「触りやがれください!」
そのまま彼女は私の前に差し出してきた。言われた通りにその毛並みを撫でる。
ふわふわと柔らかくも短毛のため反発力も兼ね備えている毛を生えている方向とは逆向きに撫でた。私が撫でた部分だけ他と毛並みがズレて、光の反射の仕方が変わったのか少しだけ黒く見える。
「その、私のも触りなさいな」
シスイは翼から抜けかけの羽を抜いて渡してくる。羽の軸を持ち、毛の部分で自分の鼻の下をくすぐる。僅かに柑橘系の良い匂いがした。
心地よい感触に随分と心が落ち着く一方で、ほとほと困り果てていた。
2人の優しさに私は何を返せる?
自己肯定感が地を這うどころかミミズのように地中に潜っている私にとって、自分の何を差し出しても彼女たちの博愛に釣り合うとは思えなかった。
それでも、何か返さなければいけないとすれば。差し出さなければいけないとすれば。全てだ。
私はいつの間にか2人にひれ伏すようにうつ伏せの体勢になっていた。両手は前に差し出して手のひらを上に向ける。
そちらの要求は全て受け入れる準備ができているという無抵抗の服従を示すポーズ。
「え、えっと……」
「そ、それは、いったいどういう……」
しかし、2人には伝わらなかったようで困惑した声が聞こえてきた。そうか、私は考え違いをしていた。
この体勢は足のつま先で地面を蹴れば、いつでも相手に飛び掛かれるではないか。もっと無抵抗かつ服従を示すポーズが他にある。
地中に潜っていた自己肯定感が岩盤を突き破る思いで体勢を修正した。
仰向けで膝を手で抱え込み、尻尾をお尻の方にだらんと流したポーズ。これが最も無防備で、なおかつ本能的にも服従を示す体勢であった。
二人の方を見れば、シスイは未だにピンと来ていない表情をしている。ただ、フワワの方は何かを感じ取ってくれたのかゆっくりとベッドに身を乗り上げてきた。
「楽にしてください」
股座に位置するフワワが柔らかい肉球で私の膝を抱え込んだ姿勢を解くように導く。
そして彼女は私の上に覆いかぶさってきた。手は頭の横で彼女に抑え込まれている。
優位な上のポジションを取られたが、心臓がぎゅうと締め付けられる嫌な感覚はない。むしろ下に置かれて安堵する。
組み敷かれてから少し経った。私が全身を弛緩させていたところにフワワの体が落ちてくる。
「ひぅ」
彼女の体毛が太ももに、二の腕に、お腹に触れた。くすぐったさから声が漏れる。
「声、我慢してください」
上位者からの命令に口をつぐむ。そのまま彼女が私の上で微動を繰り返すたびに毛がすれて堪えがたい感覚が昇ってきて、口から漏れそうになる。
「……~~っ」
目をつぶって耐えていると、毛のくすぐったさから唐突に解放された。代わりに肉球の柔らかさが両頬を包む。
「偉い、偉い……」
命令に従ったことを褒められて、未知の感覚が脳から湧き出てきた。いや、似たものを知っている。私のスキルをぶっ放して敵を倒した時の快感。
しかし、その水が飛び散るような快感とは比べようもならないほどこの感覚は粘着質で。熱したチーズみたいに柔らかくて、それゆえにどれだけ伸ばしても切り離せないしつこさがあって。
「ほら、シスイさんも。服従されてあげてください」
「いやっ、その、急に振られても……。わ、わかりましたから!」
私が未知の感覚に身を任せるべきか葛藤している間に、フワワに押されたシスイが私のマウントを取っていた。
フワワより体格の大きい彼女の下に組み敷かれて、また頭にあの快感が染み出してくる。
「そ、そのような顔をしないでください。こっちまで、変な気分に……」
そのような顔、と言われたが自分が今どんな顔をしているか分からない。それでも命令に従って、口をぎゅうと結び、目を強く閉じた。
「シスイさん、他にも命令をしてあげてください……。代償があるほど、帰順の証明になりますから……」
「そ、そういわれましてもすぐに命令なんて思いついたり……。あー、もう……!」
シスイはさっき私に渡した羽をベッドから拾い上げる。
その羽でフワワと同じように私のお腹を撫でた。
「ふ、くっ」
「声を我慢してくださいまし」
面で制圧されるフワワの毛に比べて一点集中。最初こそびっくりしたものの、刺激の総量で言えばこちらの方が小さい。
我慢できないことはなかった。フワワが介入してくるまでは。
彼女は私の目を塞ぐようにタオルをかける。そして私の両手を掴んで頭の上で拘束してきた。
視界を塞がれ、手を掴まれただけなのに。お腹を撫でる羽の感触が鮮明に体を駆け巡って。腹筋がびくりと痙攣する。
「うわ、腹筋凄い……」
シスイが呟きながら、割れた私の腹筋の溝を羽でなぞる。鍛えた腹筋も羽のくすぐったさは少しも軽減してくれない。
反射的に腕でお腹を防御しようとするが、フワワが体重をかけて私の手を押さえているためびくともしない。
「こ、こんなところまですごい筋肉……」
羽根とは違う感触。すべすべしているこれは恐らく指。シスイの指が腹斜筋の谷を3本指で駆けていく。
彼女の指は好奇心のままに私の肉を撫でるが、その動きは子供同士のじゃれあいで行う「こちょこちょ」そのものだった。
この時、声を出すのは身に余る刺激を受けた時の有効な防衛行動なのだと知った。くすぐられて笑うのは感覚を誤魔化すため、殴られて叫ぶのも同様に。
けど、今は命令で声を出せない。骨に守られていない無防備な皮膚を自由に触られるという暴挙を正面から受け止めざるを得ない。
思わず体を動かそうとするが、腕は拘束されている。足と尻尾もシスイが上に乗っていて動かせない。
僅かに身をよじって首を可動域の範囲で必死にねじるのが精いっぱいだった。
何度も頭を振っていると、上に載っていたタオルがズレた。片方の目だけで外の様子を伺えば、私のマウントを取っているシスイと目が合う。
「あ、そ、その……!」
慌てたように私から手を引くシスイ。そして何か話そうとする前にフワワがそれを遮って発現する。
「偉い、偉い……」
私の手の拘束を解いて前みたいにほっぺを肉球で挟まれる。
「ほら、シスイさんも」
「え、えっと、その、が、頑張りましたわね……?」
シスイは申し訳なさそうな顔で私の頭を撫でる。折れた角の周りをゆっくり。
さっきまでのくすぐったさが収まるのに反して、安堵と脱力の快感が体を支配する。
本能はそれに身を委ねろと言う。しかし経験がそれを否定する。
その心の動きを言語化する余裕はない。感情の奔流の中でその場にとどまるのが精いっぱいだった。
撫でられる手をはねのけるでもなく、かといって脱力するでもなく。私の手がベッドのシーツを強くつかんでいた時、部屋の扉が開いてアカシが戻ってきた。
「……その、お楽しみのようで申し訳ありませんでした」
私に群がるフワワとシスイを見て、彼は開いた扉を再び閉じようとする。
「ま、待ってください!! これはそういうあれではなくて!!」
私の上から飛び出して閉じようとしたドアに急いで手をねじ込むシスイ。扉の隙間から彼の袖を掴んで逃がすまいと引っ張る。
「アカシさんも一緒にどうですか……?」
遅れてフワワも扉の方に向かい、なし崩し的に彼を部屋の中に連れ込んだ。
そしてあれよあれよと流されるままに彼は私のマウントを取らされる。
「えぇと……」
彼は少し困った様子をしている。そしてベッド脇ではフワワは優しい表情を浮かべていたが、シスイは目を閉じて渋い表情をしていた。
「絵面が不味すぎますわ……!! 未婚の男女がとる姿勢とは到底……!」
「シスイさんもさっきまであれでしたけど……。まぁ、良いじゃないですか……。……………………3人とも…………既成事実……」
「は、はぁ!! そ、そんな……! …………不埒な…………本人の意思…………」
「……竜人……一夫多妻……お酒…………同衾…………」
「し、しかし……! ……不健全…………」
「男1女3のパーティで………………逆に健全…………」
フワワとシスイが何事が話しているのに気を取られていたが、目線を前に戻せば自分より3周りは巨大な体躯がマウントを取っている現実を直視する。
「その、すみません。私、本来は左が利き手でして。ガオさんの事を殴る時はいつも右だったので」
思ってもいないことを唐突に謝られてびっくりした。左だと死にかねないので右で手加減してもらって良かったと思う。
それにしても利き手が左とは気づかなかった。いつも右手で物を扱っていたし、それも様になっていたから。
ともかく彼の見当違いな謝罪に対して首を横に振りながら彼の左手を取った。そのまま自分の無防備なお腹に重ねる。
くすぐったさとわずかな恐怖に体が痙攣した。
命を脅かす手。死んじゃう手。それが自分の急所に当たっているという恐怖はすぐに感じなくなった。
代わりに湧き上がるのは安堵。自分より強い存在が自分を守ってくれている、というおこがましい安堵。
しかし、その感覚を受け入れがたい自分がいる。受け入れてしまえばきっと楽なのに。
お腹に置かれた彼の手を両手で強く握りながら迷っていると、唐突に頬が柔らかいものに包まれる。
前と同じようにフワワの肉球が両頬に当てられていて、逆さの顔が私を覗き込む。
「負けて良いんですよ……」
フワワの言葉で何に引っかかっているのかが浮き彫りになった気がする。
思えば私の人生は奪われる人生だった。孤児院時代は弱かったせいでろくに食事も食べられず。九林寺でも師匠に合うまでは強い先輩に虐げられる毎日。
弱ければ奪われる。弱ければ理不尽を強いられる。服従に意味はない。ひれ伏せば踏みつけられるだけ。
だから、強くなければ。強くあらねば。なのに。
「負けて、良いの……?」
「良いんですよ……。ね、アカシさん……」
「そうですね、命の取り合いではありませんし。負けは次の糧にすれば良いかと」
弱い事が許される。肩の荷が下りた気持ちだった。負けて良いんだ。
そう思った瞬間、お腹に当てられた大きな手と両頬を包む柔らかい肉球に身を委ねることができた。
負けては駄目だという無意識の弁がなくなった今、服従の安堵が止めどなく流れ込んでくる。
思えば師匠と送った日々も負けが許されていた。その時は自覚がなかったが、それがどれだけ稀有な環境か。
もっと、もっと。過去にできなかった分を、自覚できなかった分を取り戻すように。負けても良いという贅沢をむさぼる。
彼の手をもう1つ取り、自分の首に押し当てる。喉元という最大の急所を明け渡してのうのうと生きている。その僥倖に体が溶けてしまいそうなほどリラックスする。
「ほら、シスイさんも……」
「ま、またですか……? まぁ、今はガオさんも喜んでいるみたいですし……」
フワワに右手を押さえられ、左手はシスイに押さえられ、足の上にはアカシが乗っていて。腹と喉に彼の手が添えられて。右頬に肉球の柔らかい感触と、頭に心地よい指の感触。
「あっ……?♡ は、ぁぅっ……?♡」
知らない。負けて、生殺与奪の権を奪われながら、許されるのがこんなに気持ち良いなんて知らない。
良い意味で予想を裏切られ、戸惑っていた。
不意に首元、同じ姿勢で痺れたのか彼の手が私の喉を掴みなおした。
「ひ、う♡」
ぞくり、と背筋を伝う感覚。一瞬の恐怖の後、安堵に変わって脳髄を刺す。
その時、無意識に腰を浮かせようとしていた。現実にはマウントを取られているので動けない。
でも、どうしてそんな動きをしようとしたのか。
分からない。でも反射という事だけは分かる。
目の前に物が飛んで来たら驚いて目をつぶるように。
冷たいものに触ったら驚いて手を離すように。
生殺与奪を他人にゆだねた状態で、反射的にそうするようになっているのだ。
「そ、の……♡」
言ってから驚いた。私がいつも出している声と違う。
ずっと高くて、ずっと吐息交じりで。
「弱くて、ごめんなさい……♡ 許して……♡ くだ、さい……♡」
自然と口から出てくる許しを請う言葉。
媚び。そう、媚びだ。
上位者に対して、媚びる、諂う。
それができることの何という幸せか。
たったそれだけで己の無力が免責されるという幸運。
それすら許されず強くならざるを得なかった過去があるからこそ、効く。
「何でも……♡ する……♡ する、から……♡」
昔、師匠に呑み込みが早いと褒められたことがある。
今もきっとそうなのだろう。
より卑しく、より下手に。
目じりは下げて、眉はハの字に。口元は力なく開いて。でも開きすぎはだらしないから3割ほどの塩梅で。
体は脱力。しかし相手の指の動きに合わせて僅かに硬直させて、反応を返して。
本能と理性が一致団結して媚びを最適化する。
「許しましょう、貴方の弱さを」
喉元に当てられていた手が頭に伸びてきた。
部位鍛錬で歪になった大きい手が頭を撫でる。
そのことに許しを得た安堵が体を溶かす。
もう一方の手はお腹の地肌をさする。
僅かに指が引っかかって、へその下に親指が押し付けられた。
知らない感覚が下半身の方に広がる。
「ぅ、あ♡?」
不快とは程遠い。でも、今までの人生で一度も味わったことのない。
それでいて直感的に身を委ねたら戻れなくなると理解できる。
「ここが気持ち良いですか?」
私の反応を見て彼が同じところを擦る。
また親指で。紙に折り目を付けるように親指が下腹を押し擦る。
「は、ぁッ♡?」
体はとうに媚びつくしていて、腹を指で擦られようが僅かに体を痙攣させるだけ。
鍛えた腹筋も力を込めなければ役に立たず、臓腑を体の外から刺激される。
痛いとか、怖いならともかく、どうして気持ち良いのだろう。
その不思議さに怖さを抱くほどだが、頭を撫でられる感触に負の感情は一瞬で霧散する。
「~~……っ♡」
普通、気持ちよさとは抜けていくものだ。
湯船につかった時とか、へとへとで寝る時とか。
ふんわりとした心地よさに包まれて、次第に抜けていく。
今は溜まる一方。腹の奥に切ない気持ちよさが溜まって、今にも決壊しそう。
私が私でなくなりそうな衝動に思わず口を噛んだが。媚びを思い出した。
流されて良い。決壊して良い。壊れても、良い。
差しだせ。上位者に全て差し出せ。自分の自我ぐらいがなんだ。全部ベットしろ。
腹は決まった。未知の感覚の鉄砲水を前にしている状況だと言うのに体は脱力しきっている。
「は、♡ ぁ♡ ぁ♡ ぁっ♡」
自己の破滅すら許容する不退転の媚び。しかし、それは阻まれてしまった。
「ふ、ふ、不埒ですわッ!!」
顔を真っ赤にしたシスイがぐわっ、と仰け反る。それに驚いて腹を擦る手が止まる。
「何たる不埒! 何たる不健全! これ以上は私が耐えきれませんわ! 勘弁してくださいませ……!!」
なぜかその場で土下座し始めるシスイに気を取られた皆は私の拘束を解いてしまう。
その流れで一時的に取り残された私はベッドの上でうずくまる。お腹に残っている快感を扱いかねて、布団を丸めて強く抱え込んだ。