筆記の音が微かに響く。誰もが授業に集中している中、彼女だけは一心不乱に何事かを書き込んでいた。
「この場合に於ける連立方程式の解き方は──」
「……」
教師の声を半分聞き流しながら俺は彼女を眺めていた。手元の文字は数学と一切関係なく、周囲もそれを知っていた。
「じゃあこの問題は……
「あ、ハイ」
先生からの指名を受け、黒板に向かう。
『
「うん、正解! よく聞いてたね」
「……」
意識の半分は隣の席に行っていたが、これでも俺は要領が良い方だ。中学レベルの問題ならある程度はこなせる。
「……」
席に戻る。隣の女子は相変わらず文字を書き連ねていた。
▫▫▫▫▫
「はい、それじゃ二人組作って」
体育の時間。このクラスは偶数人なため休みがいない限り余りは出ない。が、俺は一人あぶれる奴がいるのを知っていた。
「
「ビーズヘッド。私は量劉したよ」
「……オッケーってことでいいんだな?」
こくりと頷く。
そいつは隣席の女子。『
「はい、じゃあ準備体操、始め!」
教師に従い俺と恙山はストレッチを始める。流石に体育の授業では何かを書くことはしないが、それ以外の教科では当然のように執筆し続ける。それが彼女だった。
▫▫▫▫▫
「恙山。後ろ頼む」
「カタルゼブ」
今日の給食当番は俺と恙山と他二名。配膳ワゴンを俺が引き、恙山が後ろから押す。
「氷鉋、カレーよそってくれ」
「ん」
班員の男子に従い俺はカレーの鍋を担当。
「恙山は牛乳頼む」
「聘礼」
配膳はスムーズに進み、俺たちは向かい合って手を合わせる。
「「「「いただきます」」」」
流石の恙山も食事の挨拶は普通にする。ただ、致命的にコミュニケーションが図れない。これだけはどうしようもなかった。
▫▫▫▫▫
昼食が終わり昼休み。大抵の生徒は体育館か図書室に向かう中、俺は黙々と執筆を続ける恙山を見ていた。
気色悪いことをしている自覚はある。文句を言われたら、いや、不快感が表面化すればやめようと思っていた。
しかし彼女はほぼ全てに対して無関心。同じクラスの女子に誘われても首を左右し、教師に叱られても在り方を変えない。そんな強さが少し羨ましくもあった。
拒まれる以前に、受け入れられていない。ならそれはそれでいい。俺が勝手に見るだけだ。
「なあ、恙山」
「ん」
邪魔をする気はない。ただ一つ、知りたいことがあった。
「いつも何書いてるんだ?」
「……」
無言で手渡されたのは使い込まれたノート。中を見てみると……それはまあ多大な文章が書き連ねられていた。
「これは……小説か?」
「……」
小説と言うより散文に近い。ところどころ途切れているかと思えば数ページ後に文が繋がっていたりと、中々難解な読み物だった。
「誰かに見せようとは思わないのか?」
「クードゥル。これは私のため」
「……そうか」
珍しく、その口から意味のある言葉を聞いた。
▫▫▫▫▫
五、六時間目も恙山の様子は変わらなかった。入学当初は様々な先生から叱咤を受けていたが、あまりにも暖簾に腕押しだったため諦められている。
では、恙山の成績は悪いのかと聞かれれば否である。
その授業態度故に内申点こそ特筆すべき所は無いものの、テストは全教科満点。授業をろくすっぽ聞いていないのに何故そこまで好成績をキープできるのか、と周囲は密かに噂していた。
「氷鉋くん」
「なんだ」
放課後、俺を呼び止めたのはクラスの女子。手元には──ああ、そういうことか。
「先生への寄せ書き、恙山さんにも書いてもらうようお願いしてもらうことってできる?」
「本人に言えばやってくれると思うが」
「ん〜……。できればそうしたいんだけど、恙山さんとわたしって仲良くないから」
──それに、返答が意味不明で不気味だから。というのも、俺に依頼する理由の一つだろう。
「分かった。少し用紙借りるぞ」
「うん。ありがとう氷鉋くん」
……とまあこのように、中学二年生の俺はすっかり恙山担当となっていたのだった。
▫▫▫▫▫
階段を上がる足音だけが校内に響く。もう殆どの生徒が部活に勤しむか帰路についていた。しかし彼女は別。
「恙山」
「……」
恙山はいつものように、夕暮れの教室で小説を書いていた。
「これ、いなくなる先生への寄せ書きだ。恙山にも書いてもらう」
「ヘンロータウン。その下の下……なるほど」
相変わらず何を言っているのかよく分からないが、彼女は与えられた仕事を放棄するような人間ではない。一年間隣にいてそれはよく分かった。
《今までありがとうございました》
「…………」
テンプレートじみた言葉だが、彼女が放つものにしては正常すぎる。用紙を受け取りながら俺は疑問符を浮かべた。
「よし、これは後で渡すとして……帰るか、恙山」
「吾松椿」
俺は元運動部所属だったが、とある疾患を抱え引退。帰宅部になっている。そして恙山だが、どの部にも適性がないという理由で特別に帰宅部となっている。
「今日の授業は退屈だったな」
「喨觧にしては溌剌だったね」
意味が通るようで全く不明の会話。しかし俺はそんな時間が嫌いではなかった。
正直、中学一年生の時は彼女とそこまで関わりはなかった。きっかけを挙げるとするなら、あの体育祭の日──。
▫▫▫▫▫
『……そろそろだな』
当時の俺は激しい運動も可能だった。更に言えばクラスで一番脚が速かった。
種目はクライマックスを迎え、熱気も最高潮に高まる。その気炎に浮かされるように、俺はアンカーとして恙山からバトンを受け取るのを待っていた。
『ガタコロラシス』
『……任せろ』
刹那、視線が交わる。バカなことに、俺はその一瞬で恙山に興味を持ってしまった。
ちなみに結果は惜しくも二位。俺らしい終わり方ではある。
▫▫▫▫▫
「じゃあな恙山。また明日」
「羊雲の在り方を探して」
分かれ道を異に行き、俺たちは家路を辿る。なんやかんや今日の学校生活も悪くなかった。
「ただいま」
「おー、おかえり転科
「母さんは?」
「まだパート。父さんは寝てる」
帰宅した俺を迎えたのは二つ年下の弟。俺とは違い病のしがらみに縛られていない。
「よし、じゃあ今日の飯は俺が作るか」
「転科兄、もうちょっと味濃くしてくれよ」
「血圧が高くなるから程々にな」
▫▫▫▫▫
両鉄の柱、災禍嫐錄、籖銹ノ凶。
恙山箸利の脳内を埋め尽くすのは意味不明の文字列。およそ"意味"らしきものは介在せず、ただ言葉ならざる何か、として筆を走らせていた。
「…………」
彼女は筆記を止めない。体育や行事、葬儀の場などでは流石に自重するが、基本的に思考から迸る言葉はとめどなく。
カリカリと鉛筆を扱う手さばきは慣れたもの。意味の無い走り書き。書いておきたい自分用小説の続き。ノートの中は彼女だけの小宇宙だった。
「は、箸利ちゃん? ご飯だけど……食べられる?」
「…………」
部屋のドアからおずおずと顔を出したのは彼女の母親。幼い頃からコミュニケーション不可の娘を授かったからか、疲労の色は濃かった。
夕飯を食べられるか。その問いに、彼女はただ首肯した。
▫▫▫▫▫
「どう? 箸利ちゃん。美味しい? 今日はお肉が安かったからたくさん買ってきたけど……」
「…………」
頷く。それだけの行為に、彼女の両親は安堵したように胸を抑えた。
「は、箸利。学校はどうだ? 楽しいか?」
「…………」
父からの問いに、首肯。恙山箸利という人間は、これまで嘘をついたことは無い。
彼女は学校生活を楽しんでいた。周囲から孤立しようと、問題児扱いされようと、ペンとノートさえあれば人生を謳歌できる。それは彼女だけの才能だった。
「ごちそうさまでした」
「! ……お粗末さまでした! よく言えたわね、偉い偉い」
両親に負の感情を抱いたことは無い。厳密に言えば──他者に何かしらの感情を抱くことは無い。それが、恙山箸利という人間。
──の、筈だった。
▫▫▫▫▫
彼女は今日も文字を書き連ねる。そのルーティンに近頃は異分子が登場していた。
・氷鉋転科くんが話しかけて来た回数……七回。
・こちらを見ていた時間……二時間五十二分四十三秒。
「……?」
彼女自身も、何故氷鉋転科の記録を記帳しているのか、理由は分からなかった。