いつしか、目覚ましをセットせずとも自然と起きられるようになっていた。
「ん……」
朝の空気を取り込むために、窓を開ける。吹き抜けた風が心地よかった。
「さてと」
まずは顔を洗い口を濯ぐ。これをしなければ何も始まらない。
俺は基本的に弟より先に起きる。朝食を作ってやるのが俺の役割だからだ。
「朝からチャーハンは重いか……?」
冷蔵庫の中身を吟味して、俺と弟の飯を思索する。結局トーストプラスゆで卵、少しのサラダに落ち着いた。
「いただきます」
弟は登校時間になれば勝手に起きる。手間がかからない兄弟で助かった、と母さんは言っていた。
父さんは俺より早く働きに出る。故に前日に弁当を作る必要があった。
朝食を胃に収め、自室に戻る。予定まではまだ一時間ある。特にやることもないので勉強に勤しんでいた。
「ふー……、行くか」
一時間後、教科書を畳み持ち物チェックをしてから、俺は家を出た。
▫▫▫▫▫
「……暑い」
この季節は嫌でも汗が滲み出てくる。日差しの暑さも相まって不快感が強い。その中で俺は人を待っていた。
「……ん、おはよう、恙山」
「パーゾラック。崟嶺亭を見たよ」
いつからか、俺は自然な流れで恙山と登校することになっていた。
「今日も小説書くのか?」
「エレクティブニオン。いつも通り」
法則性は掴めないが彼女は稀に意味のある言葉を話す。一応こちらの話を理解はしているということだ。
「暑いな、最近」
「嚊翁」
……だからといって会話が成立するとは限らないが。
▫▫▫▫▫
「ふー……やっぱ授業はつまらないな」
今日も中学課程を修めた。大体が教師の言うことを聞きながら実行すればいいだけの時間だったから、退屈さにさえ目を瞑れば過ごせないことはなかった。
「恙山、帰ろう」
「貳揄嘛瀏權衲」
恙山は今日も狂ったように執筆を続けていた。毎度不思議だが授業内容はどうやって理解しているのだろう。
下校時間になってから担任の先生が教室を施錠するまで、彼女は筆を走らせ続ける。
『あー、氷鉋。悪いけど恙山を帰らせるよう言い含めてくれないか。隣の席だし、頼むよ』
というのが、いつか前に言われた担任からの"お願い"。問題児となるべく関わりたくないという内情がひしひしと伝わってくる。
それにしても彼女は何をモチベーションにして学校に通っているのか。不思議な点は尽きない。
「なあ、学校、楽しいか」
「…………」
下校途中。俺が問いかけると、彼女は当たり前のように頷いた。腫れ物扱いされながらも日常を満喫できるのは生まれ持っての才能か。
「そろそろ自然教室だな」
「日骨」
夏休み前の一大イベント、自然教室。恐らくだが俺は恙山係を押し付けられるだろう。しかしそれを悪くないと思う自分も、やはり不思議だった。
▫▫▫▫▫
「ふう、空気が旨い」
自然教室、当日。今日の主なスケジュールは見せ物を披露するキャンプファイヤーと、
辺り一面緑に囲まれた空間。都会では経験できない、妙味が多分に含められていた。
「氷鉋ー、恙山さんのこと頼むー」
「分かった」
相変わらず彼女はノートに文字を書き殴っていた。……一応、俺でなくともやってほしいことを言えばちゃんと従ってくれるのだが。
「恙山、そろそろ料理するから手洗ってきてくれ」
「ワントサイレス」
それからは班員と共に作業した。意外と言ったら失礼だが、恙山は調理が上手かった。
▫▫▫▫▫
「それにしてもなんで獅子舞なんだろうね」
「まあ、なんにせよやるべきことをやるだけだ」
キャンプファイヤーの見せ物、俺たちの班は獅子舞だった。お誂え向きに獅子頭が用意されてあり、近頃の練習成果を発揮するには丁度よかった。
「よし、行くぞ、恙山」
「鮎篥瓷」
結果としては、成功だったと言える。そんな自然教室一日目だった。
▫▫▫▫▫
「ふう、ふう……」
「氷鉋くん大丈夫? 手貸そうか?」
「……いや、山頂までなら行ける」
俺が患った病は激しい運動により発現する。一年間鈍っていた体は体力が少なく、山道を歩くにも難儀した。
万が一のことを想定して教師が一人俺についている。余計な手間をかけてしまうのは忍びない。
「…………?」
横目で恙山を盗み見ると、彼女は何故か俺を見ていた。
▫▫▫▫▫
「ヒュー、ヒュー……つい、た……」
「お疲れ氷鉋くん。はい、水どうぞ」
「ヒュー……ああ、助かる」
班員の気遣いが身に沁みる。やはり俺は施されるのは苦手らしい。
「恙山、何を見てるんだ?」
「麕臧僕」
恙山は相変わらず何を考えているのか分からない目で山頂からの景色を眺めていた。
そんな彼女を見て、一つの衝動が芽生えた。
「なあ。また恙山の小説、見せてくれるか?」
断られるのを前提にした質問だったが、彼女の返答は想定を軽く超えてきた。
「トグロセイフ。夏休み、読みに来る?」
「……いいのか?」
こくりと頷く。予想外の返答に反応が遅れた。
▫▫▫▫▫
「枕投げしようぜ」
「先生来たらどうすんだよ。オレ叱られたくないぞ」
夕食後、肝試しを終えシャワーを浴びた俺たち男子組は布団を並べて入眠態勢を整えていた。
「しょーがねぇなー、じゃあ恋バナでもすっか?」
「いいな。じゃあまずお前から──」
俺はどこかで自分とは縁遠い話だと高を括っていた。誰かを好きになる、ということがよく分からなかった。
「そういえば氷鉋。お前恙山のことどう思ってんだ?」
「俺? ……どうって……どうなんだろうか……」
俺に視線が集中する。
「いつもアイツの世話焼いてんじゃん。嫌とは思わねぇのか?」
「そーだよ。先生にも恙山役押し付けられてんのに、不満はないの?」
「……俺は……よく、分からない……」
「……なんかすまねぇな。よし、じゃあお前の好きな奴教えろよ!」
「えー、おれー!?」
興味、と言うには厚すぎる。好意、と分析するには情報が少なすぎる。
いつか分かる日が来るのだろうか。俺が恙山に抱いた、興味の正体を。
▫▫▫▫▫
「ただいまー」
「んー、おかえり転科兄。自然教室どうだった? 何か注意しとくことってある?」
「最低限包丁は扱えるようになっておけ、ぐらいだな」
「じゃあ楽勝だな」
自然に囲まれるのも悪くはなかったがやはり我が家が一番落ち着く。弟に返答しながら山頂での言葉を思い返していた。
『夏休み、読みに来る?』
特別物語が好きではないのに何故彼女の小説を読みたいと思ったのか。そして何故彼女はあっさりと了承したのか。疑問符だけが脳内をひた走る。
「はぁ……」
「? 何かやなことあった?」
「……よく分からないことが、一つな」
▫▫▫▫▫
授業は半分聞き流しているが、とりあえず平均以上の点を獲得。
夏休み前の期末テスト。俺は上の下並みの点数だった。そして──
「恙山。点数は?」
「暮雨双黒」
「……毎度のことだが、化け物じみてるな」
差し出された答案用紙は文句なしの満点だった。
「そろそろ夏休みだな」
「袈瓠詈」
あの自然教室での約束は、今も有効だろうか。その探りを入れるため俺は口を開く。
「小説、いつ読みに行ったらいい」
「ファーム。夏休み二日目に」
……たまに意味の通る言葉を聞くとなんだか得をしたような気分だ。俺は自分で考えている以上に、その日を待ち遠しく思っていることに気づいた。
「恙山。親御さんに俺が来ること言っておくことってできるか?」
「峨峨開踵稻」
「……俺が手紙書くから、それ渡してくれ」
▫▫▫▫▫
恙山箸利にとって、他者という存在は皆おしなべて均一だった。両親さえも、そこに『特別』は無い。……筈だった。
「おかえり、箸利ちゃ──ん? なにこれ、手紙?」
彼女はおもむろに氷鉋転科から預かったものを母親に見せた。手紙を見た母親がどんな反応をするか、予想はついていた。そしてそれに感情を揺さぶられることはないという確信が、彼女の中にあった。
《はじめまして、氷鉋転科という者です。夏休み二日目にそちらのお宅にお邪魔させていただきたく、この度筆を執りました。恙山箸利さんとは隣席の仲です》
「……! は、箸利ちゃん……! わ、分かったわ。お友達が来るのね!」
「皎曽玖楼陽」
嬉々として跳ねる母親を一瞥してから、自室に戻った。
『なあ。また恙山の小説、見せてくれるか?』
彼女はこれから先も他者との交流に意味や価値は見出さない。しかしただ一人例外を挙げるとするならば、それは──
▫▫▫▫▫
「お邪魔します」
手土産(菓子)を片手に訪れた恙山宅。夏休み一日目は現時点でできる宿題を終わらせることに集中した。恙山も大方そんなところだろう。
「いらっしゃい、あなたが氷鉋くんね!」
「はい。いつも娘さんにはよくしてもらっています。よかったら、これをどうぞ」
「ありがとう。家族で食べさせてもらうわね。箸利ちゃんは二階のお部屋にいるから……あ、案内必要かしら?」
「いえ、大丈夫です」
少ない問答の中でも彼女が愛されていることがよく分かる。ちゃんと愛情を受けていつものアレなら、何が原因なのか……なんて、俺が考えることでもないか。
「恙山、来たぞ」
「脩」
部屋は散らかっておらず、むしろよく整理整頓されていた。しかし強烈に目を引いたのは本棚のノート群。まさかこれ全部いつもの走り書きか……?
「小説、どこから読めばいい」
「トンペキ。氷鉋くん用に編纂したものがあるから」
……初めて、名前を呼ばれた。そして初めて、恙山から『何か』をされた。
動揺を悟られないよう渡されたノートを捲り、俺は彼女の世界に浸っていった。
▫▫▫▫▫
時間も忘れて読み耽っていると、いつの間にか夕飯時になっていた。
「……と、そろそろ帰る。今日はありがとう、恙山」
「うん。ありがとう、氷鉋くん」
「────」
目を剥いた。俺が小説を読む間も、恙山はこちらを一切気にせず書き続けていた。そんな彼女から、意味の通った言葉を与えられた。
「……また、来ていいか?」
頷く。流石にこれ以上意識を引き出すのはごうつくばりか。
「ありがとうございました恙山のお母さん。またお邪魔するかもしれません」
「! いつでも大歓迎よ氷鉋くん! ……その代わりって言ったら卑怯になるけど……
「はい、もちろんです」
正直に言うと、恙山母には少し引いた。確かに彼女のような娘をもてば気苦労も絶えないだろう。しかし友人関係にまで口出しするのは過干渉だ。
「ふー……」
外はもう茜空。ひぐらしの鳴き声をバックミュージックに、俺は帰り道を辿った。遠くでカラスが旋回していた。