察しが良すぎる八幡   作:tomozow

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前編です。


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甘いバターの香りが漂う家庭科室、あるいはどちらかのリビング。

午後の柔らかな光が差し込む中、由比ヶ浜結衣はボウルの前で落ち着かない様子で泡立て器を握っていた。

「うーん……やっぱり、ちょっと焼きすぎたかな……」

心配そうに呟きながら、こんがりと色づいたクッキーを皿に並べる。その隣には、いつの間にか腕を組んで壁にもたれかかっていた比企谷八幡が立っていた。

「……で。いつまでそこに突っ立ってる気?比企谷くん」

少し離れたテーブルで資料に目を通していた雪ノ下雪乃が、わずかに眉をひそめながら顔を上げる。その冷ややかな視線などどこ吹く風と、八幡はフッと鼻を鳴らした。

「いや、見届け人としての義務ってやつよ。この状況、どう見たって一波乱ありそうだからな」

「はぁ? 何を言っているのかしら……」

雪乃が呆れたようにため息をついた、その時だった。

手を動かす結衣の手がピタリと止まる。背中が小さく震えた。

「――由比ヶ浜さん?」

雪乃が怪訝そうに呼びかける。だが、結衣は振り返らない。ただ、俯いたまま、きゅっと唇を噛みしめていた。

「……っ、違うよ、ヒッキーは何も分かってない……!」

小さな、けれど切なさが混じった声が室内に響く。

結衣が持っていたクッキーの皿をテーブルに置こうとした瞬間、八幡は静かに、しかし遮るようにその言葉を継いだ。

「そうじゃないだろ?」

「え……?」

「お前は俺に謝りたい。……それと、お礼が言いたいんだ」

結衣の肩がびくりと跳ねる。八幡はまっすぐに、結衣の背中を見つめていた。その濁った瞳の奥には、すべてを分かっていながら、あえて言葉にする男の覚悟のようなものがあった。

「そして――俺が好きだと、伝えたいんだろ?」

「っ……!」

時間が止まったかのような静寂。

その言葉の意味を理解した瞬間、結衣の動きが完全にフリーズした。

顔が一気に、湯気が立ちそうなほど真っ赤に染まる。耳たぶまで、いや首筋までが鮮やかな朱色に変わり、結衣は目を見開いたまま固まった。

「な……ななな、なにを、なにを言って――っ!?」

顔を真っ赤にした結衣が、両手で自分の頬をパタパタと慌てて仰ぎながら、しどろもどろになる。

「な、なに言っての、バカ! いきなりそんなこと……! ふ、不意打ちとか、ずるい、し、信じられない……っ!」

「いや、図星だろ。その顔見りゃ大体察しがつくわ」

「うぅ……っ!」

顔を真っ赤にして、恥ずかしさのあまりその場にしゃがみ込みそうになる結衣。

――そして、そのやり取りを数歩離れた場所で聞いていた雪ノ下雪乃は。

「……は?」

思考が、完全に停止していた。

手元で開いていたノートから視線が外れないまま、雪乃の瞳孔が小さく揺れる。

脳内で今の会話がリフレインする。

『お前は俺に謝りたい』

『お礼が言いたいんだ』

『そして俺が好きだと伝えたいんだろ?』

(……何を言っているのこの男は?)

雪乃は驚愕と混乱のあまり、持っていたペンをポトリとテーブルに落とした。カサリと乾いた音が静かな部屋に響く。

比企谷八幡という男が、他人の感情の機微に敏感なのは知っていた。しかし、ここまでストレートに、それも他人の秘めた想いを暴くような真似を――しかも、よりによってこんな真っ向から口にするなんて。

「ちょっ……ちょっと、比企谷くん、あなたね……!」

雪乃は慌てて立ち上がり、開いた口が塞がらないといった様子で八幡を睨みつけた。だが、その白い頬もうっすらと紅潮している。自分に向けられた言葉ではないというのに、あまりの破壊力に気圧されていた。

「なんだよ、雪ノ下。お前もなんか言うか?」

「言いたいことは山ほどあるわよ! 人の心情を勝手に、それもそんな風に大声で……! 少しはデリカシーというものを持ち合わせたらどうなの!」

「いや、ここで言わねぇと、このバカが一生一人で抱え込みそうだったからな」

八幡はそう言って、照れくさそうに頭を掻いた。その横顔は、いつものひねくれたものとは少し違って、どこか優しかった。

真っ赤な顔で、もじもじと裾を引っ張りながら立ち上がった結衣が、潤んだ瞳で八幡を見る。

言い訳も否定も、もうできなかった。

「……もう……バカ……本当、大バカ……っ」

結衣はポロリと涙を零しながら、それでも隠しきれないほどの愛おしそうな笑顔を浮かべ、小さな声で呟いた。

「……うん。……大好き、だよ……っ」

その言葉を聞いた八幡は、気まずそうに視線を逸らしながらも、どこか満足げに小さく息をつくのだった。

――騒がしくも愛おしい、いつもの日常が、そこにはあった。

 

「……ちょっと待ちなさい」

静寂を切り裂く雪乃の声は、いつになく低く、そして微かに震えていた。

「……ん?」

気まずそうに首をかいていた八幡と、顔を真っ赤にしたまま涙ぐんでいた結衣が同時に振り向く。

雪乃はテーブルに両手をつき、ゆっくりと立ち上がっていた。その青い瞳には、先ほどの困惑は消え去り、静かだがメラメラと燃え上がるような情熱――いや、執念のようなものが宿っている。

「なんでいきなりカップルが成立してるのよ。……あたしの気持ちはどうなるの?」

「……は?」

八幡の口から、間抜けた声が漏れた。

今、この女はなんと言った? あたしの気持ち? 思考が一瞬フリーズし、八幡の脳内コンピューターが猛烈な勢いでエラーを弾き出す。

「……え、ちょっと待て。雪ノ下、それって……そういうことなのか?」

「……否定はしないわ」

雪乃はフンと鼻を鳴らし、そっぽを向いた。だが、その白い耳たぶは結衣に負けないほど真っ赤に染まっている。視線こそ逸らしているものの、その全身から「そうよ、文句ある?」という強い主張が溢れ出ていた。

八幡は呆然としながら、こめかみを押さえた。

「いやいやおかしいだろ。なんでそんな『私も並んでました』みたいなノリなんだよ。俺は先着順じゃないんだが?」

「先着も何もないでしょう」

雪乃はバッと八幡を睨みつけると、胸の前で腕を組み、毅然とした態度で言い放った。

「同じ日なら、早いも遅いもないわ」

「どんなガバガバな理論だよ!? 締め切り当日の消印有効みたいな扱いすんじゃねえよ!」

八幡のツッコミなど意に介さず、雪乃はゆっくりと結衣の方へと向き直った。その目はすでに『奉仕部部長』として、そして一人のライバルとしての鋭さを取り戻している。

「……というわけよ、由比ヶ浜さん。これからはフェアに行かせてもらうわ」

「ゆ、ゆきのん……」

結衣は驚きに目を見開いていたが、雪乃の真剣な眼差しを受け止めるうちに、その表情が変わっていく。パッと顔を輝かせ、胸の前でキュッと拳を握りしめた。

「勝負よ、由比ヶ浜さん」

「――負けるわけないでしょ、ゆきのん!」

バチバチと火花が散る二人の視線。甘いクッキーの香りが漂っていた家庭科室は、一瞬にして二人による宣戦布告の戦場へと変貌を遂げた。

「……おいおい、急に少年漫画みたいな展開にするなよ……」

八幡は頭を抱え、深々とため息をついた。

こいつらはいつもそうだ。自分勝手にこじらせて、勝手に盛り上がって、最後には俺を巻き込んでいく。

……だが。

(……まあ、なんだ)

一人で勝手に納得して勝手に身を引こうとするよりは、こうして正面からぶつかってきてくれるほうが、ずっといい。

二人のまっすぐな想いに挟まれ、八幡は「やれやれ」と肩をすくめた。

「ったく……めんどくさい奴らだな、お前らは」

口元に浮かんだのは、苦笑いと、どこか吹っ切れたような穏やかな笑みだった。

「……まあ、いいさ。付き合ってやるよ、お前らの勝負にな」

八幡のその言葉に、雪乃と結衣は一瞬顔を見合わせ――そして、今日一番の眩しい笑顔を八幡に向けたのだった。

 

「……いや、ちょっと待て」

二人の間で散る火花を交互に見ながら、八幡は眉間に深いシワを寄せた。

「由比ヶ浜はまだ分かる。あいつは元々チョロいし、犬を助けた件の恩義とか色々と文脈があるからな」

「チョロくないし!!」という結衣の抗議を綺麗にスルーしながら、八幡は胡散臭そうな目で雪乃を指差す。

「だが、お前だ雪ノ下。お前が俺に好意を抱く要素なんて、どこにあったんだよ? お前、出会った頃から今日に至るまで、俺のことゴミを見るような目でしか見てなかったろ」

「甘いわね、比企谷くん」

雪乃はフッと鼻で笑うと、まるで論文の発表でもするかのように優雅に人差し指を立てた。

「あなたは私の観察力を舐めているのかしら? 私はあなたの『美点』を、最初から正当に評価していたわ」

「美点……? 俺に……?」

気味が悪いものを見るような八幡の視線にも怯まず、雪乃は朗々と語り始める。

「まず第一に、見知らぬ犬のために自らの身を投げ出す献身性。あれはなかなかできることではないわ」

「いや、ただの事故だあれは……」

「第二に、私の数々の毒舌に耐えうる精神的タフさ。並の男なら三日で精神を病んで帰らぬ人になっているはずよ」

「自分で言うなそれを……」

八幡のツッコミを涼しい顔で受け流し、雪乃はさらに歩み寄ると、八幡の目をまっすぐに見つめた。その瞳には、隠しきれないほどの熱が宿っている。

「第三に――私を加害者側と知りながら、決して責めることなく受け止めた寛容さ」

「っ……」

「そして極めつけは、今日のこれよ。由比ヶ浜さんのあの分かりにくいクッキーから、彼女の本当の想いを見抜いてみせた圧倒的な洞察力」

雪乃はそこで一旦言葉を区切り、満足げに胸を張った。

「合格なんてものじゃないわ。……満点よ」

「〜〜〜〜っ!?」

間髪いれずに叩きつけられた『満点』の評価。

八幡の思考回路が完全に焼き切れた。

(なんだこの女……!? なんなんだ急に!? いつもの辛辣な口調のまま、全力で俺を褒めちぎってきやがった……!)

いつもなら「ひねくれゴミ虫」だの「腐った死んだ魚の目」だの言ってくるはずの雪乃から、真っ向から100点満点を突きつけられたのだ。

ダメージがあまりにも大きすぎる。

八幡の顔が、耳の先まで一気に真っ赤に染まった。

言葉を返そうにも、口がパクパクと動くだけで意味のある音声にならない。手で顔を覆い、あからさまに視線を明後日の方向へ逸らすのが精一杯だった。

そんな八幡の激レアな大動揺っぷりを見て、結衣は大きく何度も頷いた。

「うんうん! 分かるよゆきのん! ヒッキーってさ、性格はすっごくひねくれてるし目つきも悪いけど……そういうトコ、本当にすごいんだよね!」

「ええ、まさにその通りよ由比ヶ浜さん。だからこそ、譲るわけにはいかないの」

「うん! あたしも絶対に負けないからね!」

真っ赤になったまま固まっている八幡の横で、なぜか固い絆(?)で結ばれつつある二人。

「……お前ら、頼むからもう喋らないでくれ……俺のHPはもうゼロだ……」

蚊の泣くような声で呟く八幡の言葉は、完璧に盛り上がる二人のヒロインたちの耳には届いていないようだった。

 

休日。三人で並んで歩くショッピングモールは、どこか甘やかで、けれど少し緊張感のある空気に包まれていた。

右には「ヒッキー、これ見て!」と無邪気に腕をつついてくる結衣。

左には「あまり浮かれていると足元をすくわれるわよ」と言いつつも、いつもより歩調を緩めている雪乃。

(……なんで俺がこんな一触即発の贅沢な空間に放り込まれてんだか)

八幡が胃の痛みに耐えながら歩いていると、聞き覚えのある、どこか楽しげで意地の悪い声が静寂を破った。

「あらあら〜? なにそれ、三人でデート? くすくす……三人でデートなんて、ずいぶん奇妙な組み合わせじゃない?」

通りすがりのショップの前。買い物の袋を手にした雪ノ下陽乃が、意地悪く口元を歪めながら立ち塞がっていた。その目は明らかな面白がりと、「相変わらずだね」と小馬鹿にしたような色を孕んでいる。

いつもなら雪乃が身を固くし、八幡が気まずそうに目を逸らす場面。

――しかし、今日の二人は違った。

雪乃と結衣は一瞬顔を見合わせると、同時に深い、心の底から同情するような溜め息をついた。

そして、まるで『何も分かっていない哀れな子供』を見るかのような、心底かわいそうな目で陽乃を見つめたのだ。

「……え?」

想定外のリアクションに、陽乃の笑みが一瞬ピクッと固まる。

雪乃は陽乃の視線を冷ややかにシャットアウトすると、八幡の袖をクイッと引いた。

「比企谷くん、少し待っていなさい。……由比ヶ浜さん」

「うん! ゆきのん、行こ!」

「おい、ちょっと待て、どこ連れてく気だ……!?」

八幡の抵抗も虚しく、二人は両脇から八幡の腕をがっちりとホールドし、そのままメンズのアパレルショップ&サロンへと連れ去っていった。

取り残された陽乃は、腕を組んで眉をひそめる。

「……は? なに今の目。意味かんないんだけど……」

◇

十五分後。

「お待たせ、姉さん」

店のフィッティングルームから、雪乃と結衣が満足げな笑みを浮かべて戻ってきた。その後ろから、ゆっくりと一人の男が歩み出てくる。

「……っ!?」

陽乃の目が、見開かれた。

そこにいたのは――いつもの猫背で死んだ魚の目をした比企谷八幡ではなかった。

洗練されたシルエットの上質なジャケットに、スタイルを引き立てるスリムなパンツ。セットされた髪からはふわりと爽やかな香りが漂い、何より、背筋をすっと伸ばしたその立ち姿は、まるで雑誌から飛び出してきたトップファッションモデルそのものだった。

いつもの「腐った目」すらも、どこかアンニュイでミステリアスな色気を醸し出すアクセントへと昇華されている。

「な……なに、これ……」

言葉を失い、あぜんとする陽乃。

そんな陽乃に対し、雪乃は誇らしげに胸を張り、フッと美しく不敵な笑みを浮かべて言い放った。

「もちろん、見た目だけじゃないわ。……中身も一流よ」

間髪いれずに、結衣も力強く何度も頷く。

「うん! ヒッキーはね、見た目を変えたらそこらのイケメンなんて相手にならないくらい、中身も最高にカッコいいんだから!」

二人からの絶大な信頼と評価を背負わされ、当の八幡は真っ赤な顔を必死に手で覆いながら、ボソッと呟いた。

「……頼むからもうやめてくれ……恥ずかしすぎて死にそうだ……」

完璧なヴィジュアルと、相変わらずの不器用な照れギャップ。

それらを完璧な連携で見せつけてくる雪乃と結衣。

あの百戦錬磨の雪ノ下陽乃が、口を半開きのまま完全にあっけにとられて固まっていた。

「……う、嘘でしょ……これがさっきの男の子……?」

勝ち誇った顔で八幡の両脇を陣取る二人のヒロインと、真っ赤になってそっぽを向く超絶イケメンな八幡。

マウントを取りに来たはずの陽乃を完全返り討ちにした三人のデートは、ここからさらに盛り上がりを見せるのだった。

 

あっけに取られて固まっている陽乃を見下ろすように、雪乃はすっと目を細め、どこか楽しげに口元を緩めた。

「ふふ……姉さんには、比企谷くんという原石がただの石ころに見えていたようね」

「……っ」

陽乃の眉がぴくりと跳ねる。だが、あまりの変貌を遂げた八幡の姿と、雪乃の堂々とした態度に、いつもの軽妙な口たたきが出てこない。

雪乃は満足そうに頷くと、隣に立つ結衣へと視線を向けた。

「こういうのを、世間では何と言ったかしら、由比ヶ浜さん?」

「あはは! それはねゆきのん、『女子力足んないんじゃない?』だよ!」

結衣は腕を組んで胸を張り、ニシシといたずらっぽく笑ってみせた。

「~〜〜っ……ぐ、ぐぬぬ……っ!」

まさか妹とその親友から、完璧な連携で「女子力不足」の烙印を押されるとは夢にも思っていなかったのだろう。

あの百戦錬磨で余裕たっぷりだった雪ノ下陽乃が、顔を真っ赤にして拳を握りしめ、喉の奥から「ぐぬぬ」としか声が出なくなっていた。完全敗北の瞬間である。

「……はぁぁぁぁぁ……」

そんな女性陣のバチバチ(というより二人の圧勝)のやり取りの横で、本日何度目になるか分からない深々としたため息をついたのは、当の八幡だった。

(……原石だのなんだの持ち上げるのはやめてくれ。あと女子力云々で陽乃さん煽るのもやめろ。後で俺にどんな報復が来ると思ってんだ……)

バッチリ決まった服とセットされた髪のせいで、その憂いを含んだため息すらも「アンニュイなイケメンの仕草」として絵になってしまっているのが、八幡にとっては余計に頭の痛いところだった。

「ちょっと比企谷くん……! あなた、妹たちに一体どんな吹き込みをしたのよ……!?」

悔しさのあまり、八幡に矛先を向けようとする陽乃。

しかし、すかさず雪乃と結衣が八幡の前に立ちふさがり、ガードするように腕を組んだ。

「姉さん、負け惜しみは見苦しいわよ」

「そうだよ陽乃さん! ヒッキーはあたしたちのなんだから、意地悪しないでよね!」

「〜〜〜〜っ!!」

普段の立場が見事に引っくり返り、二人の最強のガードによって手も足も出ない陽乃。

そして、その背後で「もう帰りたい……」と心底嫌そうに目を伏せるモデル風八幡。

こうして、三人(+撃沈した陽乃)の波乱に満ちたショッピングモールでのデートは、さらなる盛り上がりを見せていくのだった。

 

雪乃と結衣によって洗練された八幡の姿にざわつくクラスメイトたちと、弟(大志)のために一人で悩みを抱え込んでいた川崎沙希。八幡のどこまでも不器用で、けれど温かい「裏での優しさ」に気づいた川崎の涙と感謝のシーンを、感情豊かに描いてみました。

休み時間。いつもの奉仕部室……ではなく、2年F組の教室は、普段とはまったく違う異様な熱気に包まれていた。

窓際の席で、いつものように文庫本に目を落としている一人の男。

上質な生地のブレザーに、すっきりと整えられた髪。そしてどこか憂いを帯びたアンニュイな雰囲気。

「ねえ、誰……? 他校のモデル?」

「転校生かな……めちゃくちゃカッコよくない?」

「でも、座ってるのって比企谷の席じゃね……?」

クッキーの一件以来、雪乃と結衣によって徹底的にファッションと身だしなみを見直された八幡は、いまや教室中の注目の的となっていた。当の本人は「視線が痛い……早く部室に逃げたい……」と心の中で頭を抱えていたが、その無表情すらも「クールでミステリアスなイケメン」としてクラスの女子たちの悲鳴を集めてしまう始末だった。

そんなざわめく教室のドアが、ガラガラと重い音を立てて開く。

入ってきたのは、川崎沙希だった。

いつもの尖った雰囲気は息を潜め、その綺麗な顔立ちには隠しきれない疲労が滲んでいる。目元には、はっきりと分かるほど濃いクマができていた。

(……大志のやつ、相当溜め込んでたな)

八幡は本から視線を外し、チラリと川崎を見た。

実は前日、八幡は大志から「姉ちゃんが夜遅くまでバイトばかりしていて心配だ」「本当は進学したいはずなのに、自分の学費のために無理をしている」という切実な相談を受けていたのだ。

川崎は教室の異様な雰囲気に気づくこともなく、力なく自分の席に着くと、そのまま机に伏してしまった。

◇

放課後。

静まり返った昇降口で、川崎は帰宅するために自分の靴箱を開けた。

カバンを押し込もうとしたその時、一枚の丁寧に折りたたまれた紙が、ハラリと靴箱から落ちた。

「……なにこれ」

拾い上げて広げてみると、そこにはある大学の『給付型スカラシップ(奨学金)制度の案内』と、手書きのメモが添えられていた。

奨学金の条件、申請期限、そして夜間バイトを減らしても学費と生活費を両立できる詳細なシミュレーション。

どれも川崎が喉から手が出るほど欲しかった情報であり、一人で悩み抜いていた問題を解決する『答え』そのものだった。

「これ……誰が……?」

メモの筆跡に見覚えはなかった。だが、その丁寧にまとめられた数字の端々に、どこか見覚えのある「ひねくれた、けれど徹底的なリサーチ」の痕跡があった。

ふと、川崎の脳裏に、今日の教室での出来事が蘇る。

――『誰だあの人は』と騒がれていた、あの窓際の男。

――見た目はまるで別人みたいに綺麗になっていたけれど、本を開く手つきや、たまに面倒そうに髪をかく仕草。

「……嘘でしょ」

川崎はハッと目を見開いた。

大志が誰に相談したのか。

なぜ自分の欲しい情報が、完璧なタイミングでここにあるのか。

そして、あの男がどれほど「自分の手柄にしないように」裏で動き回る奴なのか。

すべての点と線がつながった瞬間、川崎の胸の奥から、温かく激しい感情が溢れ出してきた。

さっきまで教室にいたのは――間違いなく、比企谷八幡だったのだ。

「……ばか」

誰もいない昇降口で、川崎の目からぽろぽろと大きな涙がこぼれ落ちる。

自分のために、わざわざ調べてくれた。

直接手渡せば自分がプライドを傷つけられると思って、わざわざ誰も見ていない靴箱にそっと入れておいてくれた。

どこまでも不器用で、どこまでも優しい、あの男のやり方で。

川崎は涙で濡れた頬を袖で拭うと、誰もいなくなった校舎の空を見上げ、震える声でぽつりと呟いた。

「……ありがとう、比企谷」

夕日に染まる校庭に、その小さな感謝の声が優しく溶けていった。

 

教室の扉が静かに開き、結衣がスマートフォンを握りしめたまま不安そうに八幡のもとへ駆け寄ってきた。

「ヒッキー……これ、見て……。クラスで変なチェーンメールが回ってきてて……」

画面には、戸部、大岡、大和の三人の名前と、彼らを根拠もなく貶めるような卑劣な文章が並んでいた。

洗練された雰囲気を纏う今の八幡は、画面を一瞥すると短く吐き捨てた。

「……ダサいな」

その冷ややかな一言は、卑怯な手段でしか他人を叩けない犯人に対する、最大級の蔑みだった。

その瞬間、教室の隅で小さく肩を震わせている一人の男子生徒の姿が、八幡の目の端に映る。

◇

一方、グループの歪みに心を痛めていた葉山隼人もまた、チェーンメールの件で苦しんでいた。

「みんなの仲良し」を守りたいのに、どう動けばいいか分からない葉山のもとへ、八幡が声をかける。

「葉山。チェーンメールだなんだって騒ぐ前に、今週普通に職場見学のイベントあるだろ。あれ、俺と一緒に回れば解決だ」

「……え?」

「くだらないスクールカーストでマウント取り合ってるからそんな陰湿なメール回す暇ができるんだよ。本物の大人の働く現場を叩き込んでやれば、一発で目が覚める」

八幡が提案したのは、職場見学の班行動を利用して、問題の渦中にいる面々を「本物の大人の社会」へと引っ張り出すことだった。

将来弁護士を目指している葉山のために、見学先に選んだのは地元の弁護士事務所。

厳格な法律の世界、弁護士たちの鋭い眼光、そして社会の厳しいリアル。プロの仕事現場を前にして、高校生たちの浅はかな企みやクラス内のちっぽけな摩擦など、一瞬で吹き飛んでしまった。

社会の厳しさに直面した戸部たちは、チェーンメールどころではなくなり、自分たちの進路や生ぬるい現状について真剣に向き合わざるを得なくなったのだ。

◇

夕暮れ時。弁護士事務所での職場見学を終え、二人は静かな帰り道を並んで歩いていた。

スタイル抜群のジャケットを着こなし、まっすぐ前を見つめる八幡。

その隣で、どこかすっきりしたような、けれどどこか寂しげな表情を浮かべる葉山。

八幡はポケットに手を突っ込み、遠くの街並みを見つめながらぽつりと呟いた。

「……今頃、戸部、大岡、大和は仲良くやってるだろうか」

あの三人は今頃、自分たちの未熟さに恥じ入りながらも、同じ「現実」という課題に向かって泥臭く話し合っているはずだった。取り揃えた上辺だけの仲良しごっこではなく、本当の意味で向き合いながら。

「……なぁ、葉山。あれで良かったのか?」

八幡の問いかけは、葉山が必死に守ろうとしていた「表面上の穏やかな関係」を壊してしまったことへの、彼なりの配慮だった。

葉山は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに視線を夕日へと戻し、フッと自嘲気味に笑った。

「……ガキは嫌いなんだよ」

いつもの「みんなの隼人くん」としての完璧なスマイルではない。

甘えや欺瞞を許さない、一人の男としての本音。

「……そうかよ」

八幡は苦笑いを浮かべた。

お互いに「本物」を求め、傷つきながらも、少しずつ大人になっていく。

夕暮れの街の中、並んで歩く二人の背中は、どこか似通っていた。

 

文化祭実行委員長に就任したものの、プレッシャーと自分の能力不足に押しつぶされそうになっていた相模南が、意を決して奉仕部の扉を叩いた。

「お願い……あたしをフォローしてほしいの。委員長として、ちゃんとやり遂げたくて……」

すがるような目で訴える相模。

本来の彼女なら「チヤホヤされたい」「奉仕部に丸投げしたい」というプライドが透けて見えたかもしれない。だが、真剣に悩む彼女の様子をじっと見つめていた八幡は、腕を組んで静かに口を開いた。

「手伝うのは良い。……だがな、相模」

八幡の低く落ち着いた声に、相模はビクッと肩を揺らす。

「雪ノ下が優秀すぎて、下手にフォローに回ると『なんで相模が委員長やってんの?』みたいな空気に絶対なるぞ。周りは容赦なく比べるからな」

「っ……」

図星を突かれ、相模は言葉を詰まらせる。八幡はそこへ容赦のない現実を突きつけつつも、まっすぐな瞳で続けた。

「だから、お前が逃げずに『普通に頑張る』ってなら、俺たちは全力でフォローする。影で支えるのも、足りない穴を埋めるのも全部やってやる。……それで良いなら、引き受けるけど」

ただ甘やかすのではなく、相模自身の『覚悟』を促す八幡の言葉。

その横で、雪乃が静かに微笑みながら頷いた。

「ええ。あなたが投げ出さない限り、私が完璧なサポートを約束するわ。比企谷くんの言う通り、主役はあなたなのだから」

「そうだよ相模さん! あたしたちも絶対手伝うから、一緒に頑張ろうよ!」

結衣もパッと顔を輝かせ、力強く相模の手を握りしめた。

自分を道具扱いするでもなく、バカにするでもなく、一人の人間として「頑張れ」と言ってくれた三人。相模の目から、じんわりと涙が滲み出る。

「……うん! じゃあ、それでお願い……! 私、頑張るから!」

頭を深く下げ、どこかすっきりとした表情で相模は部室を後にした。

◇

それからの文化祭準備期間は、まさに怒涛だった。

相模は八幡の言葉通り、慣れない書類仕事や各部活との調整に必死で食らいついた。挫けそうになるたびに、影で雪乃が完璧な資料補佐を行い、結衣が持ち前の明るさでクラスや実行委員の空気を和ませる。

そして八幡は――洗練された観察眼と立ち回りで、裏で起こる小さなトラブル(機材の手配漏れやシフトの重複など)を、相模が気づく前にスマートに処理していった。

「相模、次の進行の確認だ。お前が合図を出せば、裏方は全部動くようになってる」

「ひ、比企谷くん……! ありがとう……!」

相模は自分が「飾りだけの委員長」ではなく、奉仕部に支えられながら確かに「全員を引っ張っている」という実感を噛みしめていた。

◇

そして、文化祭最終日。

エンディングセレモニーのステージ上で、相模は見事に開会・閉会の挨拶をやり遂げた。全校生徒からの大きな拍手が体育館に響きわたる。

舞台袖に降りてきた相模の元へ、八幡、雪乃、結衣が歩み寄った。

「お疲れ様、相模さん。見事な仕切りだったわ」

「すごかったよ相模ちゃん! 大成功だね!」

二人から温かい言葉をかけられ、相模は感極まったように鼻をすすった。そして、少し照れくさそうに八幡の方を見る。

「……比企谷くん。私ね、最初は君のこと、変な奴だと思ってた。でも……君たちがいてくれなかったら、私絶対に逃げてたと思う」

「俺は別に大したことしてねぇよ。お前が最後まで逃げなかっただけだ」

八幡がいつものように照れ隠しで視線を逸らすと、相模はくすっと笑った。

「ふふ、やっぱり相変わらず素直じゃないね。……でも、本当にありがとう。あのさ、もしよかったら……打ち上げ、一緒に来ない? 友達として」

『友達として』という言葉に、一瞬目を見開く奉仕部の三人。

「……まあ、雪ノ下と由比ヶ浜が行くなら、付き合ってやってもいいけどな」

八幡がぽつりと呟くと、雪乃と結衣は顔を見合わせて嬉しそうに微笑んだ。

「ええ、喜んで参加させてもらうわ、相模さん」

「うん! 打ち上げ行こ行こー!」

ギスギスした悲劇ではなく、努力と信頼の上に芽生えた小さな友情。

夕暮れ時の体育館の裏で、四人の温かい笑い声がいつまでも響いていた。

 

修学旅行を間近に控えた放課後。

奉仕部室のドアが勢いよく開き、顔を蒼白にした戸部翔が、どこか気まずそうな葉山隼人を伴って駆け込んできた。

「た、頼むヒキタニくん! 奉仕部の皆さん! 俺に知恵を貸してくれっ……!」

頭を床にこすりつける勢いで頭を下げる戸部に、八幡は嫌そうな顔で文庫本を伏せた。

「なんだよ急に。騒々しいな……」

「実はさ……」

戸部はチラリと葉山を見やり、意を決したように拳を握りしめた。

「俺、修学旅行で海老名さんに告白したいんだ! ……でも、絶対に振られたくない!! 100%成功する告白の仕方を教えてくれっ!」

切実すぎる(そして都合が良すぎる)戸部の叫びが部室に響き渡る。

それを聞いた八幡は、間髪入れずに冷ややかな一言を言い放った。

「無理だな」

「早いよ切り捨てんの!? もうちょっと考えてくれても良くない!?」

「アホか」

八幡は呆れたように大きなため息をつくと、椅子の背もたれに深く寄りかかった。

「絶対に振られない告白なんて、俺の今までの人生で聞いたことがないぞ。……むしろ俺が教えてほしいくらいだわ」

八幡の心からの(そして自虐の混ざった)本音に、隣にいた結衣と雪乃が深く大きく頷いた。

「うんうん……ヒッキーの言う通りだよ戸部っち。そんな魔法みたいな方法があったら、世界中の誰も恋愛で悩まないって……」

「ええ。リスクを冒さずにリターンだけを得ようだなんて、甘えもいいところだわ。そもそも恋愛とは相互の不確定要素の上に成り立つもので――」

雪乃がいつものロジカルな論破モードに入りかけたため、八幡は手でそれを制し、戸部に向き直った。

「まあ、告白するっていうならフォローくらいはしてやる。……だがな、そもそも可能性はあるのか?」

八幡はそう言いながら、海老名と距離が近い結衣と、グループのリーダーである葉山に視線を送った。

「結衣、葉山。ぶっちゃけどうなんだ?」

直球すぎる質問に、結衣は「うぐっ」と声を詰まらせ、気まずそうに視線を泳がせた。

「う、うーん……姫菜ってさ、そういう浮いた話よりBLとかの方が好きだし……ぶっちゃけ、可能性は薄いと思う……かな……」

結衣の容赦ない分析に、戸部の顔が急速に引きつっていく。八幡はさらに葉山を見た。

「葉山、お前はどう思う?」

「…………」

葉山は静かに目を伏せ、否定も肯定もしなかった。それが何よりの「答え」だった。グループの空気を誰よりも観察している葉山だからこそ、海老名が現状の関係維持を望んでいることを痛いほど理解していたのだ。

逃げ場を失い、完全に血の気が引いた戸部。

そんな絶望的な空気の中、雪乃が紅茶のカップをソーサーに優しく置き、涼しげな顔でトドメの一撃を放った。

「……まあ、玉砕するのも青春よ?」

「ゆ、ゆきのん……っ! 言い方! 言い方がストレートすぎるよ……っ!?」

結衣が慌ててフォローに入ろうとするが、時すでに遅し。

「ぎょ、玉砕……っ……俺の恋、始まる前に粉々……っ!?」

あまりの現実の厳しさと、奉仕部全員からの客観的な事実の突きつけに、戸部はガクッと膝から崩れ落ち、部室の床で真っ白に灰となって落ち込んでしまった。

「……おい戸部、勝手に絶望してんじゃねえよ。フォローするって言ったろ。玉砕覚悟で挑むなら、少しでも確率上げる方法くらいは一緒に考えてやるから立て」

真っ赤な顔でぶつぶつ言いながら面倒見の良さを見せる八幡と、それを見て顔を見合わせて微笑む雪乃と結衣。

そして、どこらすっきりした顔で戸部の肩を叩く葉山。

修学旅行に向けた、奉仕部の新たな(そして少し騒がしい)試練が幕を開けたのだった。

 

現状の関係を守りたい海老名の意図を汲み取りつつも、戸部の真剣さを踏まえて「気持ちを伝えること」の大切さを説く八幡。そして、いつの間にか八幡・雪乃・結衣の3人が見せる自然な仲の良さに触れ、海老名が少し毒気を抜かれて受け入れる絶妙な空気を描いてみました。

戸部と葉山が部室を去った後。

入れ替わるようにして、海老名姫菜が一人で奉仕部のドアを叩いた。

いつもの「腐女子モード」のテンションは鳴りをひそめ、その眼鏡の奥の瞳には、どこか冷ややかで冷静な色が宿っている。

「……さっき、戸部くんたちが来てたでしょ?」

海老名は静かにパイプ椅子に腰掛けると、遠回しに、けれどはっきりと自分の希望を口にした。

「私ね、今のグループの雰囲気がすごく好きなんだ。誰も傷つかなくて、ずっとこのまま変わらないでいられる関係。だから……もし誰かがその関係を壊そうとしているなら、それをうまく阻止してほしいの」

海老名が言いたいことは明確だった。『戸部に告白させないよう、奉仕部の力で邪魔をしてほしい』という願い。それが彼女なりの、グループを守るための防衛策だった。

部室に重い静寂が落ちる。

海老名の切実な気持ちも理解できる。だが、洗練された今の八幡は、怯むことなく海老名の目をまっすぐに見つめ返した。

「……あいつはチャラチャラしてるし、バカだし、見ててイライラすることもある。……けどな」

八幡は腕を組み、ゆっくりと息を吐き出した。

「戸部は本気だぞ。あいつなりに本気で悩んで、傷つくリスクを背負ってここに相談しに来たんだ。……俺たちがおかしな誘導をして告白を邪魔するような真似はさせない。あいつが覚悟を決めて自分の気持ちを伝えるくらいは、させてやってもいいんじゃないか?」

「……っ」

八幡の真っ直ぐで誠実な言葉に、海老名は小さく息を飲んだ。

「そうよ、海老名さん」

雪乃が優しく、けれど毅然とした声で八幡の言葉を継ぐ。

「関係を守りたいというあなたの気持ちも分かるわ。けれど、誰かの真剣な想いをなかったことにするのは、誇りある生き方とは言えないのではないかしら」

「うん……! 戸部っち、すっごく真剣だったよ。あたしたち、戸部っちのことも、海老名ちゃんのことも応援したいの」

結衣も真剣な眼差しで海老名の手の上に自分の手を重ねた。

海老名はしばらく黙り込んだ。

八幡たちの言っていることは正しい。だが、変わってしまうことへの恐怖が、彼女の足をすくませている。

そんな海老名の前で――ふと、部室の空気が少し柔らかくなった。

「……ま、お前がそこまで頑なになる気持ちも分からなくはないけどな」

八幡がふっと肩の力を抜いて言うと、雪乃が「あら、案外物分かりが良いのね」と微笑みながら、八幡の淹れたての紅茶のカップをそっと彼の手元に置く。

「比企谷くんが珍しくまともなことを言うから、少し驚いてしまったわ」

「おい雪ノ下、俺はいつだってまともだろ。……おい由比ヶ浜、お前も笑うな」

「あはは! だってヒッキー、カッコいいこと言った後に照れるんだもん! ゆきのん、ヒッキーのこういうトコ本当ズルいよね〜」

「ええ、本当にね。まったく困った人だわ」

「お前らなぁ……」

八幡を中心に、ごく自然に肩を寄せ合い、お互いへの信頼と甘やかな好意を隠そうともしない三人。

かつて「嘘の優しさ」や「傷つかない関係」に縛られていたはずの奉仕部が、今や真っ直ぐにお互いの気持ちを伝え合い、心から楽しそうに笑い合っている。

その様子を、海老名は出されたブラックコーヒーを一口啜りながら、静かに見つめていた。

(……ズルいなぁ、君たちは)

苦いコーヒーの味が口の中に広がる。

お互いに踏み込み、傷つくかもしれないリスクを乗り越えて「本物」を手に入れた三人の姿。それを見せつけられては、自分の「変化を恐れるだけの身勝手さ」がなんだか少し、格好悪く思えてきた。

海老名はじっと三人のイチャイチャ(と本人は認識した)やり取りを見つめた後、深く、ひとつため息をついた。

「……ふふ、わかったよ」

海老名は眼鏡の位置をクイッと直すと、苦笑いを浮かべて言った。

「まあ……『それくらい』なら、ちゃんと受けて立つよ。戸部くんの気持ち、逃げずに受け止める」

「姫菜……!」

パッと顔を輝かせる結衣。雪乃も安堵したように小さく胸を撫で下ろした。

「サンキュ、海老名」

八幡が少し気まずそうに礼を言うと、海老名はブラックコーヒーのカップを掲げて、悪戯っぽく微笑んだのだった。

「その代わり! 修学旅行中は、君たち三人の甘々でお砂糖吐きそうな尊いやり取りを、特等席でじっくり観察させてもらうからね!」

「「「それは遠慮させてくれ/いただくわ/勘弁して〜!」」」

重苦しかった空気は完全に吹き飛び、奉仕部室にはいつもの賑やかな笑い声が戻っていた。

 

「……で、だ」

海老名が部室を出て行った後、八幡は腕を組み、非常に真面目な顔で二人に切り出した。

「このままの戸部じゃ、いくら海老名が正面から受け止めようとしてくれたところで玉砕確定だ。……となると、あいつ自身を『海老名のストライクゾーン』に叩き込むための改造が必要なんじゃないか?」

「か、改造……!?」

結衣が目を丸くする。八幡は深く頷くと、まるで軍師のような鋭い眼光で語り始めた。

「海老名の深い方の好みは俺にはさっぱり分からん。だが……なんとなく想像はつくだろ?」

「う、うん……まあ、姫菜だし……」

「そうだ。まず前提として『BLに寛容であること』。ここは大絶対条件だ。なんなら自ら素材(ネタ)を提供できるくらいの姿勢があれば、なお良しだな」

「素材提供!?」

結衣が叫ぶ横で、八幡は淡々と具体的なソリューションを提示していく。

「戸部単体じゃ弱いが……あいつには大岡と大和っていう絶妙なポジションのツレがいる。修学旅行中、あいつらと妙に距離感をバグらせて仲良くさせておけば、海老名は勝手に食いつくはずだ。……『あら〜? 戸部くんと大岡くん、なんだか最近良い雰囲気じゃない……?』みたいな感じでな」

「〜〜〜っ! それ、すっごくありかも!!」

八幡のあまりにも的確すぎる(?)提案に、結衣はパァッと顔を輝かせて膝を打った。

「海老名ちゃん、絶対そういうの大好きだし! 戸部っちが大岡っちとかと仲良く楽しそうにしてたら、海老名ちゃんの『腐女子センサー』がビンビンに反応して、好感度爆上がりだよ!」

「だろ? 腐女子の心理を突くなら、まずは男子同士の尊い友情(と錯覚させる何か)を見せつけるのが一番手っ取り早い」

ドヤ顔で言い放つ八幡。

そして、二人のこのあまりにも突拍子もない、けれどぐうの音も出ないほど理にかなった作戦を聞いていた雪ノ下雪乃は――

「………………」

手元の紅茶のカップを握りしめたまま、プルプルと震えていた。

「ゆ、ゆきのん……? 大丈夫……?」

結衣が心配そうに覗き込むと、雪乃は悔しそうにギュッと唇をかみ締め、低く掠れた声で呟いた。

「……否定、できないわ……っ」

「雪ノ下?」

「論理的に考えて……彼女の行動原理、および関心領域に対するアプローチとしては、極めて合理的かつ効果的と言わざるを得ないわ……っ! 比企谷くんの言う通り、彼女の警戒心を解き、好意的な関心を引くにはそれが最も最短ルートよ……!」

雪乃は頭を抱え、自分の誇り高き頭脳が「男子同士の擬似腐女子アピール作戦」を正解だと弾き出してしまったことに、激しく葛藤していた。

「くっ……こんな底意地の悪い、人を欺くような歪んだ作戦に同意しなければならないなんて……! でも……でも、否定ができないのよ……っ!!」

「いや、そんな絶望した顔で同意されても困るんだが……」

八幡は引きつつも、フッと不敵な笑みを浮かべた。

「よし、決まりだな。修学旅行中の戸部のミッションは『大岡・大和との友情を超えたイチャイチャ演出しつつ、海老名に告白する』だ。あいつに叩き込んでおくぞ」

「あはは! 戸部っち、頑張れ〜!」

「……はぁ、もう好きになさい……。私は見失った倫理観を探してくるわ……」

こうして、戸部翔を「海老名姫菜専用の特攻兵器」へと仕立て上げる、奉仕部による前代未聞の改造計画が決定したのだった。

 

「……待てよ。戸部・大岡・大和だけじゃパンチが弱いな」

八幡は顎に手を当て、意悪く目を細めた。

「葉山も参加させるか。あいつが一切傷つかずに高みの見物を決め込もうとしてんのも気に入らねぇ。自分のグループの問題だろ? 責任取ってもらおうじゃねえか」

「えっ、隼人くんも!?」と目を見開く結衣を余所に、八幡は部室に呼び戻した戸部と葉山の前に立ちふさがった。

「いいか、葉山。お前には『海老名特効兵器』のコアになってもらう」

「……は? 僕が……かい?」

戸惑う葉山を無視して、八幡は具体的なシチュエーションを指示し始める。

「まず、お前が自分のネクタイを少し緩める。そこで『……うまく結び直せないな』的な雰囲気を出すんだ。そこに戸部が『しょうがねえなー隼人くんは! 俺が結んでやるよ!』と距離を詰めて、戸部にネクタイを結ばせる。……あ、逆でもいいぞ。戸部のネクタイを葉山が整えてやるパターンだ」

「「……え!?」」

ハモる戸部と葉山。

「ヒ、ヒキタニくん!? 俺と隼人くんがそんな距離感に……!?」

「比企谷くん、いくらなんでもそれは……」

「黙れ、海老名の好感度を上げたいんだろ! 葉山、グループの平和のためだ。腹括れ。……ほら、とりあえず今ここでリハーサルだ。やってみろ」

八幡の強引なプレッシャーに押され、二人は冷や汗を流しながら向き合った。

葉山は意を決したように、長指で自分のネクタイをすっと緩める。そして、気まずそうに目を逸らしながら戸部へと差し出した。

「……た、頼むよ、戸部……」

「は、隼人くん……っ! じ、じゃあ失礼して……っ」

顔を真っ赤にした戸部が、震える手で葉山の胸元に手を伸ばす。

顔と顔が息がかかるほどの至近距離に接近し、葉山も恥ずかしさのあまり耳まで真っ赤に染まって目を伏せる。あの「完璧な葉山隼人」が、男相手に照れまくっているという破壊力抜群の光景。

その瞬間――。

「……ッ!!!!」

部室の陰から、海老名姫菜のダウジングロッド(腐女子センサー)が跳ね上がった。

物陰から顔を出した海老名は、眼鏡の奥の瞳をギラギラと黄金色に輝かせ、息を呑んでその光景をガン見している。口元を両手で覆い、「尊い……! 隼翔……いや翔隼……!? 公式が最大大手……っ!」と声にならない叫びをあげていた。

そして、その予想以上の「生々しい破壊力」を正面から浴びてしまった女子陣はというと――

「~~~~~っっ///!!」

結衣は「きゃあぁぁっ!?」と両手で顔を覆いながらも、指の隙間からバッチリ覗き見して顔を真っ赤に加熱させている。

「な、なななな何をやっているのよあなたたちはーっ///!!!」

雪乃に至っては、あまりの刺激の強さと美形男子二人の密着構図に脳内キャパシティがオーバーフローし、茹でダコのように顔を真っ赤にして叫んでいた。

「……よし、完璧だな」

八幡だけが、真っ赤になって固まる葉山と戸部、大興奮の海老名、そして真っ赤な雪乃と結衣を見渡して、満足げに深く頷いたのだった。

 

翌朝、2年F組の教室は、普段の朝とは明らかに違う異様な熱気とざわめきに包まれていた。

「ねえ、見た……? 今朝のLIMEのグループ画像……」

「見た見た見た! ヤバくない!? 隼人くんと戸部!??」

「嘘でしょ、あの二人ってそういう関係……!? っていうか、隼人くんのあの表情なに!? 色気凄すぎない!?」

女子たちがスマホの画面を囲み、顔を真っ赤にして悲鳴をあげている。

画面に映っているのは――昨日、奉仕部室で撮られた一枚の写真。

少しネクタイを緩め、耳まで真っ赤にしながら照れたように目を伏せる超絶イケメン・葉山隼人。そして、息が届くほどの至近距離で、真剣な顔でそのネクタイに手を伸ばす戸部翔。

絶妙なアングルと奇跡的な光の加減により、まるで最高峰のTL・BLドラマの一シーンのような圧倒的な色気が漂う一枚に仕上がっていた。

「……あ、あはは……ご、ごめんね……? うっかり全体グループに送信しちゃって……」

教室の隅で、結衣が小さくなって冷や汗をダラダラと流していた。昨日の興奮のあまり、誤ってクラスのグループチャットに写真を投下してしまった犯人は、紛れもなく彼女だった。

「由比ヶ浜……お前、万死に値するぞ……」

隣で八幡が頭を抱えて低く呟く。当の葉山と戸部は、クラス中の女子からの熱視線に耐えかねて、顔を真っ赤にしたまま自分のデスクで固まっていた。

◇

「ちょっと……隼人……?」

普段なら「隼人に変な虫(あるいは男子)がつかないか」を警戒するはずの三浦由美子すらも、スマホの画面に釘付けになっていた。

いつも完璧でどこか遠い存在だった葉山隼人が見せる、男相手の隙のある「色気」と照れ顔。そして、それをリードするかのように男らしく(見えてしまう)戸部の真剣な横顔。

「……な、なにこれ……。戸部……なんか……なんか悔しいけど、ちょっと格好よく見えない……?」

女王・由美子にすらそう言わしめるほどの破壊力。クラスの女子たちの視線は、葉山だけでなく、今や「葉山を翻弄する男」として覚醒してしまった(ように見える)戸部翔に釘付けになっていたのだ。

◇

そして――この状況を、誰よりも遠く、けれど誰よりも熱い眼光で見つめている女子がいた。

「ハァ……ハァ……っ///」

海老名姫菜である。

眼鏡のレンズが熱気で曇り、手で押さえた鼻からは今にも鼻血が噴き出しそうになっていた。

昨日、目の前で生で拝んだあの奇跡の瞬間が、高画質な画像として手元に永遠に残る恐怖と歓喜。

海老名はプルプルと震える手でスマホ画面を拡大し、戸部の横顔を凝視した。

(……待って。戸部くんって……こんなに首筋綺麗だった……? いつもチャラチャラうるさいだけだと思ってたのに……隼人くんを相手に、こんな……こんな男らしい顔するの……っ!?)

海老名の脳内コンピューターが、恐ろしいスピードで再計算を始める。

ただの「おバカなクラスメイト」だったはずの戸部翔が。

自分を胸キュンさせる「最高の素材」として、そして一人の魅力的で色気のある男性として、海老名のフィルターを突き破って強烈に意識され始めていた。

「……戸部くん……っ///」

真っ赤な顔で思わず小さく名前を呟いてしまった海老名。

「比企谷くん、見て。海老名さん、完全に『落ちて』きてるわ…」

「ああ……由比ヶ浜の誤爆は万死に値するが、結果としては100点満点のプロデュースになっちまったな……」

遠くからその様子を観察していた八幡と雪乃(こちらも実は写真を直視できずに顔を背けている)は、呆れつつも戸部の恋が大きく前進したことを確信するのだった。

 

「……はぁ。もうどうにでもなれ」

クラス中が写真の話題で持ちきりの中、八幡は深々とため息をつくと、静かに立ち上がった。

ここで日怯んで逃げ出せば、戸部の作戦も結衣の誤爆も無駄になる。どうせ自分はすでに雪乃と結衣によって『トップモデル級の超絶イケメン』へとプロデュースされ、女子からの注目を浴びている身だ。

(ちょっとくらい協力してやるか……戸部、感謝しろよ)

八幡はさりげなく戸部の席の横を通り過ぎる瞬間――すっと自分の脚を戸部の足元へ滑らせた。

「うおっと!?」

完全に油断していた戸部が豪快にバランスを崩し、前のめりに倒れ込む。

クラスの女子から「キャッ!」と短い悲鳴が上がる。

その瞬間だった。

八幡は洗練された動作でサッと身を翻すと、倒れそうになった戸部の腰を引き寄せ、そのままガバッと腕の中で抱き止めた。

「……っと。危ねえな、戸部」

間一髪で抱き留められた戸部と、それをすっと支える八幡。

引き締まったジャケット越しに伝わる体温、顔と顔が触れ合いそうな至近距離。八幡のアンニュイで涼しげな瞳が、戸部の瞳を正面から射抜く。

最近、イケメン化によってクラス内人気が急上昇している八幡と、写真の一件で色気のある男として注目を集める戸部。

クラスの喧騒が、一瞬にして静まり返った。

まるで二人の周りだけ、時間が止まったかのような『2人だけの空間』が広がっていた。

「ひ……ヒキタニくん……っ!?」

あまりの至近距離と八幡のイケメンすぎる完璧な対応に、戸部は男であるにもかかわらず、顔を真っ赤にして固まってしまう。

「あ……」

その様子を横で見ていた葉山隼人すらも、あまりにも絵になりすぎている二人の構図と、八幡の無駄に格好いい立ち振る舞いに気圧され、耳まで真っ赤になって言葉を失っていた。

そして――この光景を目撃した教室の女子たちはというと。

「〜〜〜〜〜っっっ///!!!!」

海老名姫菜の興奮は、ついに限界突破(マックス)を迎えていた。

「ヒキ翔……!? いや翔ヒキ……!? まさかの比企谷くん参戦……っ!?」と、もはや言葉にならない喘ぎ声を漏らし、鼻を押さえた手から鮮血が零れ落ちそうになっている。

「なっ……なにあれ、カッコよすぎない……!?」

「比企谷くん、王子様じゃん……! 抱き止められたいんだけど!?」

女子たちの黄色い悲鳴が爆発する中、奉仕部や周りの女子たちの反応も凄まじかった。

「……っ///」

結衣は「ヒ、ヒッキーがカッコいいけど……なんかズルいっ!」と顔を赤くして嫉妬とキュンキュンが混ざった複雑な表情を浮かべる。

雪乃も「なっ……何をやっているのかしら、あの男は……っ///」と手で顔を覆いながらも、真っ赤な顔で隙間から八幡の格好良すぎる横顔を凝視していた。

さらには三浦由美子も「……なによあいつ、無駄にサマになってんじゃないわよ……///」と顔を背けつつも赤面し、学園祭で八幡たちに助けられた相模南に至っては「……比企谷くん、やっぱりすごく頼もしいかも……///」と胸をときめかせていた。

まさにクラスの女子全員がまんざらでもない(むしろ大好物な)表情で、八幡と戸部の抱擁に見入っていたのだ。

「……おい戸部、いつまで抱きついてんだ。そろそろ離れろ」

「あ、ごめんヒキタニくんっ! ……ってか、サンキュ……っ」

真っ赤になって体を離す戸部と、髪をサッとかき上げて席に戻るイケメン八幡。

こうして、修学旅行前の2年F組は、八幡たちの怒涛のパフォーマンス(?)によって、かつてないほどカオスで熱狂的な雰囲気に包まれるのだった。

 

「よし……僕も腹を括ろう」

八幡のまさかの助け舟(?)とクラスの圧倒的な熱気を受け、ついに葉山隼人が覚悟を決めた。

「ありがとう、比企谷。……でも、大丈夫だ」

葉山はさっと爽やかな笑みを浮かべると、八幡の腕から離れてまだ呆然としていた戸部の肩を抱き、ぐっと自分の方へと引き寄せた。

「――戸部は、僕の(友達)だからね」

「隼人くん……っ!?」

葉山と戸部の距離が再びゼロになる。

洗練されたイケメン八幡、学校一の完璧王子・葉山、そして今やその二人に翻弄される『色気の覚醒した男』戸部翔。

至近距離で視線を交わし合う葉山、戸部、八幡の三人。

(((……俺たち/僕は、一体何をやってるんだ???)))

三人同時に脳内で激しいセルフツッコミと虚無感が吹き荒れていたが、一度引き返せなくなった男たちの完璧な演技は止まらない。

そして、その光景を目の当たりにしたクラスの女子たちは――

「キャーーーーーーーッッっ///!!!!」

教室内はもやは悲鳴と歓声で割れんばかりの大ヒートアップ!

「隼人くんの『僕の』って言い方ヤバすぎる!!」

「比企谷くんからの奪い合い!? 三角関係なの!?」

「もう無理尊すぎて息ができない!!」

海老名姫菜はついに言葉を失い、天を仰いで胸を押さえたまま幸せそうに砕け散り、結衣と雪乃は顔を真っ赤にしてお互いの手を握りしめ、由美子も相模も赤面したまま画面と二人から目を逸らせずにいた。

修学旅行の前日。

2年F組のチームワーク(?)と熱気は間違いなく過去最高潮に達していた。

 

 

 

 

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