東京駅に到着し、解散となった後の帰り道。
新幹線の余韻を残したまま歩く八幡たちの前に、人混みを掻き分けるようにして一人の女性が姿を現した。
整った容姿に、どこか人を試すような笑みを浮かべた美女――雪ノ下陽乃である。
「やあ、修学旅行お疲れ様。楽しかったかしら?」
「……どうも、陽乃さん。お久しぶりです」
八幡は足を止め、いつも通りの落ち着いた様子で短く挨拶を返した。
隣にいる雪乃は、姉の突然の登場に一瞬身体を強張らせ、結衣も少し緊張したように八幡の袖をぎゅっと握りしめる。
陽乃はそんな三人の様子をじっと見つめると、やがてその笑みをすっと消し、冷ややかな瞳で八幡をまっすぐに見据えた。
「ねえ、比企谷くん。単刀直入に言うわね」
陽乃は冷たい声で、はっきりと告げた。
「雪乃ちゃんともう会わないで」
周囲の空気が一瞬で凍りつく。
雪乃が息を呑み、「姉さん、何を……!」と声をあげようとしたが、八幡はすっと手を挙げて雪乃を制した。
八幡は怯むことなく、涼しげな表情のまま陽乃の目をじっと見つめ返す。
「……なぜです?」
「わからないかしら?」
陽乃は小さくため息をつき、腕を組んで冷ややかに言い放った。
「あなたといるとね、雪乃ちゃんはダメになってしまうのよ。依存して、自分を見失って、あなたの顔色ばかり伺うようになる。……あなたたちの関係は、雪乃ちゃんにとって毒でしかないわ」
かつての八幡なら、その言葉に毒気を抜かれ、己の存在意義を問われて沈黙していたかもしれない。
しかし、雪乃や結衣と誠実に向き合い、お互いを高め合える関係を築いてきた今の八幡には、その言葉はまったく響かなかった。
八幡はどこか呆れたように肩をすくめると、首をかしげた。
「……いや、まったく思い当たりませんけど」
「……は?」
想定外のあっさりとした返答に、陽乃の眉がぴくりと動く。
八幡は腕を組み、非常に真面目な顔で言葉を続けた。
「お互いに意見を言い合って、尊重し合って、日々切磋琢磨してますよ。……どう考えても健全な恋人関係だと思いますけどね」
言葉を失う陽乃。
そして、八幡はさらに淡々とした口調で、とんでもない追撃を口にした。
「……まあ、結衣っていうもう一人の彼女もいるんで、そこは不健全(修羅場的)ですけど」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ///!??!?」
完璧なポーカーフェイスを誇るあの雪ノ下陽乃が、一瞬で顔を茹でダコのように真っ赤にして怒り狂った。
「な、ななな何言ってるのよあなたーーーーっっ///!?!? 恋人!? 健全!? しかも二股!? なに開き直って堂々と二股宣言してるのよばかじゃないの!?!?!」
「ひ、ヒッキー!? 陽乃さんの前で何言ってるのーっ///!?」
「比企谷くん……! あなたという人は本当に……///!」
八幡のあまりにも堂々とした(そして事実である)爆弾発言に、結衣と雪乃も顔を真っ赤にしてパニックになり、東京駅の改札前は一気にカオスな修羅場と化した。
これまで妹を弄び、八幡を精神的に追い詰めて楽しんでいた陽乃が、完全にペースを乱されて激怒する。
そんな陽乃の姿を見て、八幡は「やれやれ」と小さく息を吐き出しながら、雪乃と結衣の手をしっかりと握り直すのだった。
「な、なに言ってるのよあなた……! 馬鹿じゃないの……!?」
真っ赤になって怒り散らす陽乃。
その激しい感情の裏にある「何か」を察した八幡は、数秒の間に思考を高速回転させた。
(なぜこの人は、妹の恋愛にここまで過剰に割り込んでくる? なぜ『雪乃がダメになる』なんて言い方をする? ……違うな。この人は雪乃に怒ってるんじゃない。俺に嫉妬してるわけでもない。……この人は、ずっと置き去りにされてきたんだ)
完璧な長女として期待され、本音を誰にも見せられず、妹が自分から離れて自立していく姿をただ見守るしかなかった孤独。
(……ああ、そうか。なんだ、案外単純じゃないか)
八幡は深々と息を吐き出すと、激怒する陽乃に向かって迷いなく一歩を踏み出した。
「なによ、反論があるなら……っ!?」
言葉を言い切る前に。
八幡はすっと長い腕を伸ばし、陽乃の華奢な体を優しく、けれど力強く包み込むように抱きしめた。
「……っ!?」
東京駅の喧騒の中、陽乃の思考が完全にフリーズした。
八幡の体温、男らしい落ち着いた香り、そして背中に回された温かい手のぬくもり。
「ひ……比企谷、くん……? な、なにを……」
あんなに威勢のよかった声が、嘘のように小さく震える。
八幡は陽乃を抱きしめたまま、耳元で静かに、甘く囁いた。
「いや……色々考えた末にですね。もしかして、こうされたかったのかな、と思いまして。……嫌なら、すぐにやめますけど」
「……っ」
いつもなら「気安く触らないでよ」とあしらうはずの陽乃。
だが、八幡の温もりに包まれた彼女の唇から漏れたのは、消え入りそうな本音だった。
「……っ……嫌じゃ……ない……」
「そうですか」
八幡は柔らかく微笑むと、今度は陽乃の頭にそっと手を置き、子供をあやすように優しくポンポンと撫で始めた。
「よく頑張ってきましたね、陽乃さん」
その一言が、陽乃が何年間もずっと誰かに言ってほしかった、決定的な救いの言葉だった。
「〜〜〜〜〜っっっ……!!!」
陽乃の瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ出した。
完璧なお姉ちゃんという仮面が剥がれ落ち、八幡の胸に顔をうずめて、子供のように声をあげて泣きじゃくり始める。
「う……うぁぁぁん……っ! 比企谷くん……っ、比企谷くん……っっ!」
八幡は逃げ出すことなく、しっかりと陽乃を受け止めながら、背中を優しく擦った。
「……寂しかったんですね、陽乃さん」
「……うん……っ! ずっと……ずっと寂しかった……っ! 誰も私を見てくれなくて……誰も届いてくれなくて……っ!」
遠くで見守っていた雪乃と結衣も、見たこともない姉の泣き顔に目頭を熱くさせ、静かに手を繋ぎ合って二人を温かく見守っていた。
いつも意地悪で冷たかった「雪ノ下陽乃」という一人の女性が、八幡の圧倒的な優しさによって、ついに本当の自分を取り戻した瞬間だった。
「ねえ、比企谷くん……もっとこっち寄ってよ」
「……いや、これ以上寄ったら俺の体が半分りはみ出るんですが、陽乃さん」
文句を言いつつも、八幡は椅子から落とさないように絶妙な力加減で体を預けられている。
なんと陽乃は、隣の席ではなくわざわざ八幡と同じ側にぎゅうぎゅうに詰め掛け、八幡の腕に自分の腕を完全に絡ませ、ぴったりと密着して座っていたのだ。
あの誰も寄せ付けない、隙のない完璧なお姉ちゃん・雪ノ下陽乃が、まるで大型犬のように八幡の横にベッタリとへばりついている。
「だって、離れたら寂しいんだもん。……いいでしょ?」
上目遣いでそんなことを呟く陽乃の破壊力は凄まじかった。
八幡も、あの東京駅での涙を見てしまった手前、さすがに冷たく突き放すこともできず、「やれやれ……」とため息をつきながらも、その密着を嫌がる様子もなく受け入れている。
向かい側の席に並んで座る雪乃と結衣は、その光景を目の当たりにして――完全にフリーズしていた。
「………………」
雪乃はフォークを持ったまま、信じられないものを見るような目で実の姉を見つめている。
(……あの姉さんが……比企谷くんの腕に絡みついて……甘えている……? 私の目は節穴になったのかしら……?)
「……ねえ、ゆきのん。あたしたち、今すごいものを見せられてるよね……?」
結衣も目を点にし、自分の頬をつねって現実逃避を試みていた。
さっきまで「雪乃ちゃんから離れなさい」と冷たい言葉を浴びせていたはずの陽乃が、今や自分の「もう一人の彼女(?)である結衣たち」の目の前で、八幡を独占してべったり甘えているのだ。
「あのさ、陽乃さん。目の前に俺の『本命(?)』たちがいるんだから、少しは体を引き離したらどうですかね」
八幡が呆れたように向かい側をあごでしゃくると、陽乃はふふんと嬉しそうに笑い、さらに八幡の腕をぎゅっと抱え込んだ。
「いいのよ別に。雪乃ちゃんも結衣ちゃんも、可愛い私の可愛い妹(と、その仲間)だもの。ねー?」
「姉さん……っ! あなた、さっきまでの威厳はどこに行ったのよ……っ///!」
顔を真っ赤にして抗議する雪乃と、「うぅ、なんだか負けた気がするけど、ヒッキーが困ってるから許す……のか……?」と複雑な顔をする結衣。
そんな修羅場ともパラダイスともつかないカオスなファミレスの席で、八幡はミラノ風ドリアの皿をスライドさせながら、遠い目をして呟くのだった。
「……誰か、この状況の正しいツッコミ方を教えてくれ……」
「……まあ、無理して強がらなくてもいいんじゃないですか」
八幡はそう言って、再び腕を引き寄せ、陽乃の肩を優しくぎゅっと抱きしめた。
「……っ///」
その温もりと包容力に包まれた瞬間、陽乃はふにゃりと顔を綻ばせ、八幡の胸元に頬を寄せてうっとりと瞳を閉じた。
「……はぁ……気持ちいい……。ねえ比企谷くん、このまま一生抱きしめててよ……」
普段の冷徹な仮面はどこへやら、完全に八幡の腕の中で甘やかされてトロけている陽乃。
八幡も「サイゼの店内でこれはどうなんだ」と思いつつも、彼女が長年抱えてきた寂しさを思えば強く突き放すこともできず、諦めたようにそのまま抱きしめ続けている。
そして――向かい側の席で、ドリンクバーのグラスを握りしめたまま固まっているふたり。
((……いや、ここサイゼなんだが????))
ふたり同時に脳内で激しいツッコミが吹き荒れる。
周りを見渡せば、隣のテーブルでは男子中学生たちがドリンクバーを混ぜ合わせて爆笑しており、奥の席では家族連れがピザを分かち合っている。
そんな庶民的で賑やかなファミレスの片隅で、学校一番の美女・雪ノ下陽乃が八幡の胸の中でうっとり浸っているのだ。絵面がシュールすぎる。
そして、それ以上にふたりの胸の中に渦巻いていたのは――ヒロインとしての切実な主張だった。
(……っていうか、私(たち)が八幡の恋人なんだが……??)
雪乃はピクピクと眉を跳ねさせ、赤くなった顔で自分の胸元を手で押さえた。
(私と由比ヶ浜さんが、彼のパートナーとして正式にお付き合いしているはずなのに……なぜ私の姉が真っ先に彼に抱きしめられてトロけているのよ……!?)
結衣もストローをカリカリと噛みながら、目を丸くしてパニックになっていた。
(ゆ、ゆきのん……あたしたち、修学旅行でヒッキーとすっごく甘い雰囲気になったよね……!? なんで帰ってきた途端に陽乃さんにヒッキーを独占されてるのぉーっ///!?)
「……ねえ、比企谷くん。もう私、お姉ちゃんやめて比企谷くんの『一番目』になっちゃおうかな?」
陽乃が八幡の胸の中から上目遣いでそんな小悪魔(ただし本気度100%)な発言を繰り出すと、ついに雪乃と結衣の限界が訪れた。
「「だーめーーーっ!!!///(だめよーーっ!!!///)」」
店内中に響き渡るふたりの絶叫。
八幡の「おい店内で大声出すな」というツッコミも虚しく、サイゼリヤのボックス席は、修学旅行以上の熱量と甘さに包まれた、カオスな修羅場(?)へと突入していくのだった。
サイゼリヤの賑やかな喧騒から遮断されたかのように、二人の周りだけが静かな空間に包まれる。
八幡は、胸の中でうっとりと身体を預けている陽乃を抱きしめたまま、その耳元で低く、静かに語りかけた。
「……雪ノ下家の長女でいるのが、嫌になったんですか?」
「……」
その一言に、陽乃はピクリと身体を跳ねさせ、返す言葉を失って無言になった。
いつもなら軽薄な冗談で誤魔化すか、意地悪な笑みを浮かべて煙に巻くはずの陽乃が、完全に沈黙している。
八幡の問いかけは、あまりにも正確に、そして優しく彼女の核心を突いていた。
完璧な長女として振る舞い続け、親の期待を一手になぞり、妹の「自由」の裏で自分自身の意思や感情を殺し続けてきた日々。
向かい側でそのやり取りを見ていた雪乃は、ハッと息を呑んだ。
(……姉さん……)
以前の自分なら「弱音を吐くな」と反発していたかもしれない。けれど、奉仕部で八幡や結衣と出会い、自分の足で立ち上がろうとしている今の雪乃には、陽乃が背負ってきた『雪ノ下家の長女』という重圧の意味が痛いほど理解できた。
(わからない……わけではないわ。姉さんはずっと、私以上にあの家の期待と縛りに晒されてきたのだから……)
雪乃の瞳に、姉への複雑な葛藤と、深い理解の光が宿る。
一方で、その横でドリンクバーのグラスを両手で包み込んでいた結衣は、しんみりとした空気を感じ取りながらも、素直な感想を脳内に浮かべていた。
(うう……ゆきのんのお家も、陽乃さんも、やっぱりすごく大変なんだなぁ……。金持ちの家って、なんか色々複雑で大変なんだなー……)
八幡は無言のまま自分の胸に顔を埋める陽乃の背中を、もう一度トントンと優しく叩いた。
「まあ、嫌になったなら嫌になったでいいんじゃないですか。……たまにはただの『陽乃』として、俺に甘えるくらいは許してやりますよ」
「……っ///」
八幡の大人の包容力に、陽乃は再びキュンと胸を射抜かれ、真っ赤な顔で八幡の服をギュッと掴み直すのだった。
「まあ……そんなに長女であることに疲れたなら、いっそのこと恋人でも作ればいいんじゃないですか? 寄り添える相手がいりゃ、少しは楽になりますよ」
八幡が抱きしめたままポンポンと背中を叩き、ごく自然にそう提案した。
すると陽乃は八幡の胸に顔を埋めたまま、どこか冷めた、けれど甘えるような声でフンと鼻を鳴らす。
「……男なんてみんなダメよ。私のことなんて、どうせ顔と身体と、雪ノ下家の財産しか見てないんだから」
「……俺も一応、男ですけど」
八幡が苦笑混じりにそう呟くと、陽乃は八幡の胸元からすっと顔を上げ、八幡の目をまっすぐに見つめ返した。その瞳には、冗談めかした色は一切ない。
「あなたは違うでしょ」
迷いのない、あまりにもストレートな断言。
自分を「雪ノ下の長女」としてではなく、ただの「陽乃」として見抜き、包み込んでくれた八幡だからこその言葉だった。
「……そんなものかな?」
八幡は首をかしげ、自分のどこがそこまで買われているのかとピンと来ない様子で呟く。
だが、向かい側の席でそのやり取りを見ていた雪乃と結衣は――
((うんうん、絶対に違う!!))
と、心の中で深く、強く頷いていた。
顔や身体、家柄なんてものに一切惑わされず、人の歪みや寂しさの根底を見破って、恐れることなく懐に飛び込んで救ってしまう。そんな八幡の異次元の包容力と男気(そして無意識のタラシっぷり)を、二人は誰よりもよく知っていたからだ。
「……比企谷くん、あなたのそういう無自覚なところは本当に罪深いわね……」
雪乃が呆れたようにため息をつきつつも、どこか誇らしげに八幡を見つめ、
「本当だよ〜! ヒッキーってば、自分じゃ全然分かってないんだから!」
結衣もぷくっと頬を膨らませながら、八幡の袖を反対側からぎゅっと引っ張るのだった。
「じゃあ……これから雪ノ下家(実家)に行きます?」
八幡がまるで「ちょっとコンビニ寄っていきます?」くらいの軽いトーンでそう口にした。
「「……え!?」」
サイゼのボックス席に、陽乃と雪乃の息が完璧に揃った驚愕の声が響き渡る。
あの雪ノ下陽乃が目を丸くして八幡の顔をまじまじと見つめ、雪乃に至っては持っていたフォークを落としそうになりながら身を乗り出した。
「ひ、比企谷くん……あなた、いま何と言ったか分かっているの!? あの家がどういう場所なのか……!」
「いや、分かってますよ。だから行くんです」
八幡は至って平然とした顔で、ドリンクバーのコップに口を付けた。
「陽乃さんが『長女の重圧』だの『家の縛り』だので一人で苦しんでて、雪乃もずっとあの家との距離感で悩んでんだろ? なら、俺が直接乗り込んで、ご両親――特に母親(ママン)とじっくり話し合ってくれば済む話じゃないですか」
言葉に迷いも怯えもない。
今の八幡は、ファッションも生き方も洗練され、自信と圧倒的なカリスマ性を纏った「覚醒状態」だ。雪ノ下家の持つ威圧感や世間体など、彼の前では何の障壁にもならなかった。
陽乃は胸を強く打たれたように固まり、顔を真っ赤にしながら八幡の胸元にギュッと抱きついた。
「っ……///! なにそれカッコよすぎるんだけど……! 本気で私をあそこから連れ出してくれるつもりなわけ!?」
「……まあ、ついでに二人の恋人として正式に挨拶も済ませてきますかね」
さらりとトンデモない爆弾発言を重ねる八幡。
その横で、一人冷静に(?)一部始終を見ていた結衣は、ストローをくわえたまま遠い目をして心の中で呟いていた。
(……あ、これ……ヒッキー絶対に何かデカいやらかし(殴り込み)するパターンだ……)
八幡の異次元の頼もしさと行動力に期待が膨らむ反面、あの恐ろしい雪ノ下の母親相手に一体どんな大立ち回りを演じるつもりなのかと、結衣の胸騒ぎは止まらないのだった。
サイゼリヤを出て、そのまま八幡の引率(?)のもとで向かった雪ノ下家の邸宅。
重厚で荘厳な門構えをくぐり、威厳に満ちた玄関ホールへと足を踏み入れる。
「……で、念のために言っておきますけど。別に俺、陽乃さんの恋人じゃないですからね?」
邸宅の廊下を歩きながら、八幡は隣で相変わらずぴったりと腕を絡めてくる陽乃に呆れたように釘を刺した。
「ふふっ、今はね? でも、私の心の一番近くにいるのは間違いなく君だと思うなぁ~」
陽乃は悪戯っぽく、けれどどこかうっとりと頬を緩めながら、八幡の腕にぎゅっと擦り寄る。雪乃と結衣は((また始まった……))という顔をしつつも、どこか頼もしい八幡の背中を追っていた。
◇
そして辿り着いた、重厚な応接室。
部屋の奥、上座のソファに優雅に腰を下ろしていたのは――雪ノ下家の絶対的な支配者である母(ママン)だった。
冷徹で付け入る隙のない美貌と、周囲を圧倒する立ち振る舞い。
部屋に入ってきた一行を見遣り、まずは娘たちに視線を落とす。
「お帰りなさい、雪乃、陽乃。……修学旅行から無事に戻ったのは何よりだけれど、連絡もなく男の方をお連れになるなんて、どういう風の吹き回しかしら?」
氷のように冷ややかな声が応接室に響く。
普通ならその圧迫感だけで気圧されてしまう場面――しかし、洗練されたオーラと絶対的な自信を纏った八幡は、怯むどころか涼しい顔で一歩前に出た。
雪ノ下母の正面に立ち、真っ直ぐにその瞳を見据えて静かに口を開く。
「初めまして。比企谷八幡です」
「――――ッ」
その瞬間、雪ノ下母の美しく整った顔立ちが一瞬で強張り、目を見開いた。
ただの高校生ではない。無駄のない立ち振る舞い、一切の動揺を見せない鋭い眼光、そして何より陽乃と雪乃の二人が全幅の信頼を寄せてその背中に寄り添っている事実。
今まで誰も崩せなかった雪ノ下家の「完璧な支配」に、突如として現れた異物――いや、圧倒的な存在感を放つ男の登場に、あの母親が初めて言葉を失い、動揺を隠せないでいた。
静まり返った応接室。重苦しい静寂を破ったのは、八幡のどこか嘲るような、けれど落ち着き払った声だった。
「いや……でも、あなたは俺の名前を知ってますよね?」
「……っ」
雪ノ下母の額から、すっと一筋の冷や汗が伝い落ちる。圧倒的な威圧感で人を支配してきたはずの女性が、ただの高校生のひと言に完全に呑まれていた。
理由は明解だった。
雪ノ下母は、ある人物からすでに「比企谷八幡」という名を聞かされていたのだ。
――それは、過去に八幡が巻き込まれた交通事故の際、相手方の示談交渉を担当した葉山隼人の父親(葉山弁護士)からの報告だった。
当時、事故の加害者側であった雪ノ下家の名は、世間体や政治的立場を守るために徹底して伏せられ、表に出ることはなかった。……だが、八幡の記憶は誤魔化せなかった。
あの事故の直後、現場に現れた見覚えのある高級車。そして、ニュースで目にした「雪ノ下建設」や市議会議員の報道映像。さらに葉山弁護士の微妙な態度。
かつて、八幡がすべてを察した瞬間に見せたあの鋭い洞察力を、葉山弁護士は雪ノ下家に報告していたのだ。
『――比企谷くんは、私にこう呟いたのですよ。「……雪ノ下家ですか?」とね』
その時の報告を思い出し、雪ノ下母の背筋に冷たいものが走る。
葉山弁護士がどれほど冷や汗をかき、追い詰められたか。そして、動揺する弁護士に対して八幡が言った決定的な言葉。
『まあ、確かに公になったら大変ですね。社会的影響も大きいでしょうし……僕も忘れますよ、この件は』
高校生とは思えない圧倒的な余裕と、相手の弱みを完璧に握りながらもあえて追及せず「恩」として貸し付ける底知れなさ。
雪ノ下母は悟ったのだ。目の前にいるのは、単に娘たちを惑わせる青二才などではない。雪ノ下家という巨大な権力と弱みを握ったまま、余裕で微笑んでいる本物の怪物なのだと。
八幡は強張る雪ノ下母に向かって、優雅に口角を上げた。
「あの節はどうも。……で、今日は事故の話をしに来たわけじゃないんですよ、お母さん」
八幡のその言葉に、雪ノ下母は息を呑み、完全に主導権を奪われたことを理解するのだった。
「いや、本当。別に脅しに来たわけじゃないんで」
八幡はひらひらと手を振りながら、苦笑交じりにどこか抜けたような声を出した。さっきまでの冷徹で底知れない雰囲気を一瞬で消し去り、ごく普通の高校生のような「無害さ」を前面に押し出す。
「ただまあ、娘さんたちの教育がちょっと厳しすぎるんじゃないかなと思いまして。ほら、北風と太陽じゃないですけど……もうちょい家の中でくらい、肩の力抜きませんか? ずっと緊張しっぱなしじゃ、いくら優秀なお嬢さん方でも参っちゃいますよ」
そのあまりにも軽やかで拍子抜けするような提案に、雪ノ下母は毒気を抜かれたように瞬きをした。
(事故の件を笠に着て脅迫してくるわけでも、対立しに来たわけでもない……? ただ、娘たちの心配をして……?)
あれほど警戒し、身構えていた雪ノ下母の緊張の糸が、ほんの少しだけ弛緩する。
――その瞬間を、八幡が見逃すはずもなかった。
八幡は滑らかな足取りで応接室のソファの背後にすっと回り込むと、迷うことなく雪ノ下母の華奢な肩へと手を伸ばした。
「失礼しますね。いやあ、お母さんもお仕事やら家業やらで、かなり肩に力が入ってるんじゃないですか?」
「っ……ちょっと、あなた……!?」
制止する間もなく、八幡の長くてしなやかな指先が、絶妙な力加減で雪ノ下母のカチコチに凝り固まった肩を捉える。
(……っな……なによ、この力加減は……!?)
長年の重圧と緊張で岩のように張っていた肩甲骨のきわに、八幡の親指が寸分の狂いもなくグッと入ってくる。
八幡の指先から伝わる圧倒的な温もりと、驚くほど的確なツボ押し。雪ノ下母の口から、自分でも信じられないような小さく吐息の漏れる声が出そうになり、彼女は咄嗟に口元を押さえた。
「……んっ……ふぅ……」
(な、何なのこの心地よさは……!? 普段受けている高級サロンの施術よりも、遥かにピンポイントで解れていく……悪くない……どころか、ものすごく気持ちいいじゃない……)
あれほど冷徹で厳格だった雪ノ下家の女主人・雪ノ下母が、八幡の手によってあっという間にトロトロと解されていく。
そして、その光景を正面から見せつけられている三人。
「………………」
雪乃、結衣、陽乃の三人は、口をぐうの音も出ないほどぽっかりと開け、固まっていた。
(((……いや、私たちは一体何を見せられているの???)))
雪乃は自分の目を疑った。あの冷酷無比で絶対に逆らえなかった実の母親が、比企谷くんの肩もみ一つで「ふぅ……」とうっとり息を漏らしているのだ。
陽乃もまた、呆然としながら開いた口が塞がらない。(え、私より先にお母さんを攻略して落としてない……!?)
結衣に至っては、「ヒッキーって肩もみの才能まであったんだ……」と明当違いな感心を抱きつつも、言葉を失っていた。
事故の件で弱みを握りつつも決して振りかざさず、圧倒的な安心感とまさかの「肩もみ」で相手の毒気を完全に抜き去ってしまう八幡の底知れなさ。
(……やっぱりこの人(ヒッキー/比企谷くん)、どこからどう見ても普通じゃないわ……)
雪ノ下家の応接室に、なんとも言えないカオスで温かい(?)平和な時間が流れるのだった。
「もっと家族の団欒を持った方がいいんじゃないですか? まあ、雪ノ下建設の経営者ともなれば心労も相当なもんでしょうけど……ずっと気を張り詰めてちゃ、旦那さんや娘さんたちだって疲れちゃいますよ」
八幡は親戚の近所のお兄さんかのような親しみやすい口調で世間話をしながら、その神業のような手つきを止めることはなかった。
肩から首筋、そして凝りの溜まりやすい腕から手首にかけて、滑らかにツボを押し込み、絶妙な力加減で解ぐしていく。
「……んっ……ふぁ……っ……」
雪ノ下家の絶対的権力者であり、政財界にも名を馳せるあの女主人が、ついに我慢しきれず小さく甘い吐息を漏らした。
長年、巨大な家柄と経営の重圧を一人で背負い込み、休まる暇のなかった彼女の心身が、八幡の温かい手と圧倒的な包容力によって、まるで春の雪のようにドロドロにとろけていく。厳格な面影はどこへやら、ソファに深く背を預け、完全に八幡のマッサージの虜となっていた。
そして、その衝撃的な光景を目の当たりにしている三人。
「〜〜〜〜〜っっっ///!?」
八幡の手元と、とろけきった母親の表情交互に見つめながら、陽乃と雪乃はなぜか顔を真っ赤にして心臓を激しくドキドキさせていた。
自分の母親をいとも簡単に手籠め(?)にし、絶対的な存在だった「雪ノ下家」の空気を一瞬で自分色に染め上げてしまう八幡の男としての圧倒的な存在感とカリスマ性。背後から優しく語りかけながらマッサージするその横顔があまりにも格好良すぎて、娘である二人まで毒気が抜かれて胸が高鳴ってしまう。
そんな中、一人素直に目を輝かせたのは結衣だった。
「わぁ……! すごい、お母さんすっごく気持ち良さそう……! ヒッキー、あたしも! あたしもやってほしいー!」
八幡の腕にパッと抱きつくようにして強だりする結衣。
八幡は雪ノ下母の首筋を最後に心地よく押し込むと、呆れたようにパッと手を離して振り返った。
「ばーか。明日な。今日はもう帰って寝る時間だろ」
「えーっ、明日絶対だよ! 約束ね!」
「……はいはい」
かるくあしらわれる結衣だったが、約束を取り付けて満足そうにえへへと微笑む。
「……ふぅ……。あ、あら……失礼……」
マッサージが終わり、ふと我に返った雪ノ下母は、顔をほんのり桜色に染めながら乱れた髪を整えた。その瞳は完全に八幡への警戒を解き、どこかうっとりとした余韻と全幅の信頼を宿している。
「……比企谷くん、と言ったかしら。……あなた、なかなか良い手を持っているのね。またいつでも……相談(マッサージ)に来なさい」
「ええ、機会があればまた」
かつてあれほど冷徹だった雪ノ下家が、八幡というたった一人の男の手によって、あっという間に温かく穏やかな「家族」の空間へと塗り替えられたのだった。
八幡が「じゃ、俺はこれで」とあっさり雪ノ下家を辞去した後。
残された雪ノ下邸の応接室には、これまでの冷え切った緊張感が嘘のように、数年ぶり――いや、もしかすると初めてかもしれない、穏やかで優しい時間が流れていた。
雪ノ下母は、先ほどまでのドロドロにとろけた余韻を少し引きずりながらも、どこかすっきりとした表情で紅茶に口をつけている。その横顔には、いつもまとっていた攻撃的なまでのトゲや重圧の影が消えていた。
「……あんなことで、ね」
ぽつりと呟いたのは雪乃だった。
隣に座る陽乃も、どこか呆れたような、それでいて愛おしさを隠しきれない苦笑いを浮かべて小さく頷く。
ただ肩を揉んで、なんてことのない世間話をしただけだ。
内容だけを切り取れば、どこにでもあるただの光景に過ぎない。
(――でも、じゃあ他の誰に、同じ真似ができるというの?)
雪乃と陽乃は、心の中で同じ問いに辿り着き、戦慄していた。
この「雪ノ下家」という巨大で息苦しい城に乗り込み、過去の事故という最大の弱みを握りながらも一切振りかざさず、冷徹な女主人の警戒を完璧な無害さで解き明かし、心身の緊張を物理的・精神的にほぐして手籠めにしてしまう。
政治家も、実業家も、誰もがひれ伏すか恐れて遠巻きにするあの母親を相手に、だ。
「……肩を揉んで、世間話をしただけ。……ふふっ、本当にそれだけなのにね」
陽乃が自嘲気味に呟く。
言葉選び、タイミング、呼吸の掴み方、相手が一番欲していた「重圧からの解放」。そのすべてを一切の打算を感じさせず、呼吸をするように完璧にやってのけた。
圧倒的な洞察力、度胸、包容力、そして人心を掌握する天然のカリスマ性。
「比企谷八幡」という男が秘める異次元のポテンシャルと底知れなさを、雪ノ下家の人間全員が骨の髄まで見せつけられた夜だった。
「……あんな男(ひと)に勝てるわけないじゃない、ねえ、雪乃ちゃん」
「……ええ。本当に……恐ろしい人だわ」
そう吐き捨てながらも、二人の瞳には八幡への深すぎる愛着と誇らしさが満ちていた。
雪ノ下家に訪れた優しい静寂の中、少女たちはそれぞれの胸の高鳴りを静かに噛み締めるのだった。
夜風の心地よい雪ノ下邸の敷地を離れ、帰路につく夜道。
四人が並んで歩く静かな住宅街に、結衣の少し弾んだ声がぽつりと落ちた。
「……なんか、すごいものを見たような、すっごく普通の光景だったような……不思議な気分だなー」
首をかしげながら、両手を後ろで組んでトコトコと歩く結衣。
八幡はポケットに手を入れたまま、淡々と息を吐いた。
「まあ、いいんじゃないか? あのピリピリした空気が少しはほぐれたようだし、結果オーライだろ」
「そりゃそうだけどさー……」
結衣はふっと足を止めると、ちらっと八幡の横顔を見上げ、いたずらっぽく、けれど少し上気した笑みを浮かべた。
「ねえ、ヒッキー。さっきお母さんにあんなに上手なマッサージしてさ……私、ちょっと羨ましかったなー。……私も、揉んでほしいなー」
そう言って、結衣はわざとらしく自分の胸をキュッと強調するように両腕を組み、上目遣いで八幡をねだるように見つめた。年頃の女の子の甘い誘惑と、絶妙なアピール。
「――っ!?」
直球すぎる結衣の仕草と挑発に、それまで冷静だった八幡の顔が一気に真っ赤に染まった。
慌てて視線を逸らし、咳払いを一つする。
「なっ……! お前な、道路の真ん中で急に何を言い出すんだよ……!」
「えへへー、だって本当のことだもん。ヒッキーの手、すごく気持ちよさそうだったし……ダメ?」
少し悪戯っぽく微笑む結衣に対し、八幡は耳まで真っ赤にしながらも、どこか呆れたような、そして危険を察知したような低い声でぼそっと呟いた。
「……別に、やってもいいけどさ」
「本当!?」
「――ただ。……お前がそれを言うなら、その……なんだ、手加減できなくなるかもしれないから、多分途中で止まらなくなるからやめとけ」
男としての理性と、目の前で無防備に甘えてくる結衣という存在の危うさ。それを自覚しているからこその、八幡なりの精一杯の警告だった。
だが、その低く掠れた声と、普段は絶対に見せない本音を含んだ返答に――。
「え……っ……?」
今度は、言った本人の結衣のほうが完全にフッ飛んだ。
「なっ……ななな何をサラッと危ないこと言ってるのよヒッキー――っっ///!?!」
さっきまで余裕ぶってアピールしていたはずなのに、八幡の真面目すぎる爆弾発言のせいで、今度は結衣の顔が茹でダコのように真っ赤に爆発した。自分の耳まで熱くなるのが分かり、恥ずかしさのあまり両手で顔を覆ってジタバタと身悶えする。
「うわぁぁぁん! なんだよそれ反則ーっ! 自分から言っといて私が照れるじゃんかーっ///!」
「お前が言い出したんだろうが……!」
赤面して顔を隠す結衣と、気まずそうに顔を逸らしながらも耳たぶまで真っ赤な八幡。
その後ろを歩きながら、雪乃と陽乃は呆れたような、それでいて最高に微笑ましいものを見るような温かい目を向けていた。
静かな夜の帰り道、冷たい秋風の中に、彼らの甘酸っぱい熱気がいつまでもふんわりと漂っていたのだった。