第7話 白き森の家
白き森の朝は、窓を叩く小さな音から始まる。枝先に止まった鳥が餌をねだり、葉の隙間から差し込む光が、台所の床に白い模様を落とす。その中を、一枚の皿が危なっかしい足取りで横切っていた。皿には焼いたパンが二切れ。その後ろで、小さな少女が眉間に皺を寄せ、両手を懸命に突き出している。
「急がなくていいわ、フリッガ。運ぶ先まで、きちんと見て」
鍋をかき混ぜながら声を掛けると、皿が大きく傾いた。落ちかけたパンをリゼットが指先の動き一つで戻すと、少女は悔しそうに唇を尖らせる。それでも最後まで魔法を解かず、ようやく食卓に皿を下ろした。陶器が木に触れる音を聞いてから、少女は勢いよく振り返った。「できた!」と弾む声に、リゼットも口元を緩める。
「ええ。次はパンを逃がさずに運べるといいわね」
「次は二枚いっぺんにできるもの」
「まずは一枚。それから、食べる前に手を洗っていらっしゃい」
踏み台を引きずって流しへ向かう背中を見送り、リゼットは食卓に二人分のスープを並べた。かつて、この家の椅子は一脚しか使われていなかった。今は向かいの席に厚い座布団が置かれ、窓辺には拾い集めた木の実が並び、書棚の下段を絵の多い本が占めている。静かだった家は、毎日どこかで何かが落ち、何かを尋ねる声がするようになった。
罪宝を巡る争いが終わったのは、アスガルドでボーが王であった時代のことだ。アステーリャはミッドガルドへ渡り、リゼットはかつて義母と暮らした白き森に戻った。ディアベルゼという名を知る者が森の女主人を訪ねてくることはあったが、この家で彼女を待つ少女は、その名を呼ばなかった。
フリッガ。かつてリゼットがアザミナの使徒であった時、その手で命を奪った瞳の魔女モルガナの、一人娘である。
引き取ったことで何かが償えるとは思っていなかった。夜中に母を求めて泣く子を抱いても、死者が戻るわけではない。それでも、この子を一人にはできなかった。最初は誰かに任せることさえ考えた。自分の手が何をしたのかを思うたび、幼い身体に触れるのが恐ろしくなったからだ。しかし、熱を出したフリッガが寝床から手を伸ばし、彼女の袖をつかんだ時には、もうその手をほどけなかった。
食卓の向かいで、フリッガがパンを二つに割っている。大きな方を自分の皿に残し、少し考えてから入れ替え、リゼットに差し出した。「こっちはお母様の分」と言って、当然のように笑う。その呼び方を初めて聞いた日のことを、リゼットは今でも覚えていた。返事ができずにいると、フリッガの笑顔が少しずつ消えていった。あの時はただ抱き寄せることしかできなかったが、今は差し出されたパンを受け取れる。
「ありがとう。今日は森へ行くから、あなたもしっかり食べなさい」
少女が頷き、スープの匙を持ち上げる。口元に付いた雫を拭いてやると、くすぐったそうに首をすくめた。その仕草がモルガナに似ている日もあれば、いつの間にか自分に似てしまったと気づく日もあった。
*
フリッガの背が伸びるにつれ、家の中から踏み台が一つずつ消えた。リゼットの後ろを歩いていた娘は、やがて隣に並び、薬草を見つければ先に駆けていくようになった。魔法を教える時間も長くなった。器用な娘だったが、同じ術を繰り返すより、その仕組みを知りたがった。説明を省けば必ず問い返されるので、リゼットの方が古い書物を開き直すこともあった。
オーディンが初めて森を訪れたのは、そんな頃だった。父王に代わって古い境界の魔術を調べているという青年は、森の入口で供を待たせ、一人で家まで歩いてきた。まだ玉座に就く前から、人に従われることに慣れた男だった。リゼットが椅子を勧めるより先に部屋を見渡し、書棚の古さを言い当てたところで、背後から声が掛かった。
「そのままでは、床まで森になってしまいますわ」
茶器を持ったフリッガが、彼の靴を見ていた。泥の付いた長靴と娘の顔を見比べ、オーディンは一瞬黙った。それから戸口に戻って丁寧に泥を落とす。その様子に、リゼットは茶を注ぐふりをして笑いを隠した。
話し合いが始まると、フリッガは二人のそばで資料を広げた。オーディンは境界を守る術の強さを問うたが、娘が気にしたのは、その内側で暮らす者たちだった。出入りを厳しく制限すれば、守られるはずの住人まで閉じ込めてしまう。そう指摘されると、青年はすぐには答えず、広げた地図を娘の方へ向け直した。「では、君ならどうする」と尋ねる声から、それまでの儀礼的な響きが薄れていた。
次の訪問には、新しい地図を持ってきた。その次には、前の議論についての報告を。そのうち用件が済んでも席を立たなくなり、フリッガの淹れた茶が冷めるまで話し込んだ。ある日、リゼットが留守だったと告げると、彼は明らかに困るどころか、娘に庭を案内してほしいと言った。帰宅してその話を聞いたリゼットは、しまいかけていた籠をもう一度食卓に置いた。
「私への相談は、もう済んだようね」
フリッガは返事の代わりに茶碗を片付け始めた。いつもなら二枚まとめて浮かせる皿を、その日は一枚ずつ手で運んでいた。
娘が彼を待つようになったことに、寂しさがなかったといえば嘘になる。窓の外へ目を向ける回数も、訪問の前日に庭を歩く時間も増えた。しかし、オーディンの話に異を唱える時の娘は少しも萎縮していなかったし、彼もまた、反論する彼女を面白がるだけでなく、言葉を受け止めようとしていた。リゼットは二人に茶を足しながら、しばらくは口を挟まずにいることにした。
*
結婚の申し出を受けたのはフリッガだったが、オーディンは改めてリゼットのもとを訪れた。いつになく姿勢を正した彼に、リゼットは先に言った。「あの子を誰と結婚させるか、私が決めるわけではないわ」。青年は頷いたが、それでも席を立たなかった。
「それでも、あなたにはお伝えしたかった。フリッガと、ともに生きたいのです」
リゼットはしばらく彼を見つめた。戦いや統治について語る時ほど、この男は滑らかに話せなかった。その不器用さに少しだけ安心した自分がおかしくて、息をつく。「あの子が何も言わない時ほど、よく見てあげなさい。人のために我慢することを、賢さだと思ってしまう時があるから」。今度の頷きは、先ほどより深かった。
婚礼の日、リゼットは娘の髪を梳いた。幼い頃は櫛を嫌がって逃げ回り、ようやく座らせても御伽噺を一つ語り終えなければじっとしていなかった。その髪に飾りを留めていると、鏡の中で娘と目が合った。
「お母様。そんなに確かめなくても、落ちませんわ」
「あなたが動かなければね」
「今日は逃げません」
笑い合ったあと、部屋が静かになった。リゼットが最後の一房を整えると、フリッガはその手に自分の手を重ねた。「帰ってきてもいいのでしょう?」。冗談めかしていたが、返事を待つ目は幼い日のままだった。リゼットは娘の肩に手を置き、鏡越しではなく、その顔を見た。
「鍵は持っているでしょう。帰るのに、許しはいらないわ」
フリッガが立ち上がり、彼女を抱きしめた。衣装に皺が寄ると叱るつもりだったのに、結局リゼットの方が長く離せなかった。
やがてオーディンが王となり、フリッガが王妃となっても、その約束は変わらなかった。アスガルドの王が森の戸口で「義母上」と呼び掛けるたびに、リゼットはどうにも落ち着かない顔をした。「その呼び方、まだ慣れないわ」と言うと、娘は隣で楽しそうに笑った。
*
森の静けさを破る声は、年を経て、もう一つ増えた。
「ばあちゃん!」
扉を開けた途端、金髪の子どもが飛び込んできた。リゼットの腰にぶつかる勢いで抱きつき、後ろへ振り返って得意げに弟を呼ぶ。少し遅れて戸口に現れた黒髪の子は、兄の足跡と床を交互に見てから、自分の靴を敷物に擦りつけた。
「ソー。お祖母様にご挨拶をする前に、何か忘れていない?」
荷物を抱えたフリッガに声を掛けられ、ソーはようやく足元を見た。リゼットが黙って戸口を指すと、来た時より少し小さな足取りで引き返す。その横を通りながら、ロキが「兄上は途中の水たまりにも入ったんだ」と報告した。すぐに抗議の声が上がり、王妃は額に手を当てる。リゼットは二人を順番に家へ入れ、娘から荷物を受け取った。
「お帰りなさい。今日はよく眠れそうね、あなた」
「ええ。まず、座らせていただけると助かります」
ソーは森の何もかもを知りたがり、知る前に触ろうとした。ロキは少し離れて観察し、誰も見ていないところで確かめようとした。どちらからも目が離せなかったが、叱られた時の顔は違っていた。ソーは不満を隠さず、ロキは何でもないふりをする。リゼットはその日の昼、割れた砂糖入れを背中に隠すロキを捕まえ、破片を全部持ってくるように言った。
「怒らないの?」
「手を切っていたら怒るわ。見せて」
両手を確かめ、傷がないと分かってから破片をつなぎ直す。ロキは元どおりになった器を見つめていたが、やがて小さな声で、角砂糖を取ろうとしたのだと白状した。「次は呼びなさい」と言って一つ渡すと、少しためらってから、兄の分も欲しいと言った。
夕食の支度にはフリッガが並んだ。棚のどこに何があるのかを尋ねる必要はなかった。母が鍋をかき混ぜる間に娘が皿を出し、その後ろでソーが椅子を運び、ロキが匙を数える。昔フリッガが使っていた座布団を二人で取り合い始めたので、リゼットはもう一枚、同じ厚さのものを出した。
*
夜になると、孫たちは一冊の本を抱えてきた。白い木々の描かれた表紙は角が擦れ、何度もめくられた頁には指の跡が残っている。フリッガが持ち出しては、続きをせがんだ本だった。リゼットが長椅子に座ると、ソーがすぐに隣を占めた。ロキは反対側に腰を下ろし、表紙に書かれた文字を指でなぞった。
「白き森の、おとぎばなし」
「そう。昔、この森にいた子どもたちのお話よ」
暖炉のそばで、フリッガが刺繍の手を止めた。リゼットは本を開き、最初の一行に目を落とした。よく知る名前がある。声も、笑い方も、手を引かれた時の温かさも覚えている。それらを紙に記す時、書けなかったことがいくつもあった。子どもに聞かせる物語の形にしても、頁の向こうにある記憶までは変えられなかった。
それでも読み始めると、ソーは身を乗り出し、ロキは挿絵を覗き込んだ。魔法の場面でソーが歓声を上げ、森の奥へ進む場面では、ロキが次の頁をめくりかける。リゼットはその手を軽く押さえ、先を急がずに言葉を続けた。
「どうして、二人で行ったの?」
ロキが尋ねたのは、森で暮らす子どもたちが家を抜け出すくだりだった。「大人に頼めばよかったのに」と続けられ、リゼットの指が頁の端で止まった。ソーは、冒険だからに決まっていると答えたが、弟は納得しない。しばらく火の音を聞いてから、リゼットは本に視線を戻した。
「自分たちで、できると思ったのね。困った時に引き返せるとも、思っていたのかもしれないわ」
「帰れなくなるの?」
不安そうに声を落としたロキの肩に、リゼットは手を添えた。「続きを聞きたいなら、もう少しお座りなさい」。そう答えると、彼は彼女の袖をつかんだまま座り直した。フリッガがそっと立ち上がり、脇の卓に温かいお茶を置いた。リゼットが顔を上げると、娘は何も尋ねずに微笑んだ。
その夜、物語は終わりまで進まなかった。最初にソーの頭が傾き、もう一頁だけと頼んだロキも、やがて袖を握ったまま眠ってしまった。リゼットは二人を起こさないように本を閉じた。フリッガが持ってきた毛布を広げ、はみ出した足先まで覆ってやる。
「私には、夜更かしをするなとおっしゃったのに」
娘が小声で言うので、リゼットも声を落とした。「あなたは寝たふりをして、私が部屋を出ると本を開いていたでしょう」。フリッガは目を丸くし、それから声を殺して笑った。気づいていないと思っていたらしい。母になった今でも、そういう顔をすると、幼い頃と少しも変わらなかった。
孫たちを寝室へ運ぶまで、もう少しこのままでいることにした。フリッガがそばの椅子に座り、冷めかけた茶に口をつける。明日の朝はパンを多めに焼かなければならないと話すと、娘は自分が先に起きると言った。きっとソーたちの方が早いだろう。そう思ったが、リゼットは頷くだけにした。
膝の上の本を閉じたまま、眠る二人の顔を見る。明日はまた、続きが聞きたいとせがまれるに違いない。リゼットは栞を挟み直し、手の届くところに本を置いた。
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マスターデュエルはマジで神ゲーです。相手の戦術をひっくり返した時の快感はやばいです。経験上、黒神話悟空で虎先鋒や亡魂や金池長老を倒した時と同じくらいにアドレナリンがでます。
フリッガについて
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原作通り死ぬ
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死なない。