橋姫との春
山桜と言うのは、ソメイヨシノと違って、花と葉が一緒に出てくるのだそうだ。
外の世界にいた頃の俺は、桜と言えば、学校の校庭や川沿いの土手に並んでいる、あの薄桃色の雲みたいなソメイヨシノの事しか知らなかった。
幻想郷に来て、初めて山に入った春に、赤茶けた若葉と白い花とが一緒くたになって咲いているのを見て、これも桜なのかと少し驚いた覚えがある。
派手さでは負けるが、山の斜面にぽつりぽつりと、思い出したように白く浮かんでいるのが何だか奥ゆかしくて、俺にも風情があるのだと感動したのは記憶に新しい。
その日も、山桜は咲いていた。
目的地は、朝の早いうちに人里を出て半日ほど歩いた先の山である。
春のこの時期、俺は大抵山菜を採りに山へ入るのだ。
蕨、ぜんまい、こごみ、たらの芽。
採ったそれを、里の八百屋や、表通りの料理屋に卸して暮らしているのだ。
幻想入りしてから何年か、色々な仕事を転々とした末に、どうやらこれが一番性に合っていたらしいと気が付いた。
朝から晩まで山を歩き回って、誰とも口を利かずに一日が終わる事もあるが、それはそれで別に嫌いではなかった。
とは言え、里に全く縁が無い訳でもない。
表通りの小料理屋の旦那は、春になると決まって、たらの芽の良いのが採れたら真っ先にうちへ回してくれ、と、俺の肩をばしばし叩く。
その後ろで、看板娘の娘さんが、お父っつぁんには内緒ね、と笑いながら、店の残りの握り飯を竹の皮に包んで持たせてくれたりもする。
里で俺に気安く声を掛けてくれるのは、その親子と、八百屋の婆さんくらいの物であるが、よそ者にそれだけいるのなら、上等と言って差し支えないはずだ。
今年は一番に良いのを持ってゆきます、と、俺はこの春、旦那に約束していた。
特に、たらの芽である。
これは天ぷらにすると、料理屋の旦那が目の色を変える程に高く売れる。
ただ、皆それを知っているから、里に近い山のたらの木は、春になると真っ先に芽を摘まれてしまう。
良いのを採ろうと思ったら、誰も入らないような、奥の急な斜面まで足を伸ばすしかない。
と言う訳で、俺はその日、普段よりも少し奥の方まで入り込んでいた。
斜面の上の方に、一本だけ、やけに大きな山桜が立っていた。
幹は大人が二人で抱えても回りきらない程に太く、張り出した枝の先まで、白い花がびっしりと付いている。
その根元の藪の辺りに、たらの木が何本か、ひょろりと伸びているのが見えた。
芽は、まだ誰にも摘まれていない。
しかも、丁度食べ頃の太さである。
今日は運が良い、と思った。
これは確か、外の世界の小説か何かで読んだのだったと思うが、桜の樹の下には屍体が埋まっているのだそうだ。
桜があんなにも見事に咲くのは、根が屍体の血を吸い上げているからなのだ、と。
最初に読んだ時には、随分と物騒な事を考える人もいるものだと思ったが、こうして山奥でたった一本、こんなにも見事に咲いている桜を見上げていると、そう言う事を思いつく人の気持ちも、何となく分からないでもない。
少なくともこの桜には、そんな蠱惑さがあった。
もっとも、その時の俺は、その根元に屍体ではなく、たらの芽が生えているのを見ていたのだが。
籠を背負い直して、斜面を這うように上ってゆく。
落ち葉が厚く積もっていて、足元がやけに柔らかい。
一歩ごとに、靴の先が腐葉土の中にずぶりと沈む。
山桜の根元まで辿り着き、一番太いたらの芽に手を伸ばした、その時であった。
足元が、消えた。
いや、正確に言うと、足元の落ち葉が、その下にあった筈の地面ごと、すとんと抜け落ちたのだ。
藪と落ち葉に隠れて、そこには大きな穴が口を開けていたらしい。
悲鳴を上げる暇も無かった。
伸ばした手が、たらの木の幹を掴み損ね、代わりに、掌が穴の縁の岩をざりざりと擦った。
体が、真っ暗な中へ吸い込まれてゆく。
背中の籠が岩壁にぶつかり、採ったばかりの蕨やこごみがばらばらと零れ落ちていった。
頭の上の、穴の口の明るい丸が、見る間に小さくなってゆく。
その丸の縁を、山桜の白い花びらが、ひらひらと何枚か舞っていた。
嗚呼、桜の樹の下に埋まるのがまさか自分だったとは。
ぼおっと現実感のない感想を抱いた瞬間であった。
背中が、何か柔らかい物に、ぼすん、と受け止められた。
落ちていた体が、ぐいん、と大きく撓んで、それから跳ね上がり、また沈み、何度か上下に揺さぶられてから、ようやく止まった。
手足を動かそうとすると、何かがべたべたと絡みついて、思うように動かない。
細くて、白くて、粘りのある糸。
それが、穴の中に、網の目のように張り巡らされているのだった。
ちょっと、待ってほしい。
これは、どう見ても。
「あっはは、大物が掛かったと思ったら、人間じゃないか!」
頭の上から、やけに明るい声が降ってきた。
見上げると、暗がりの中に、一人の少女が逆さまにぶら下がっていた。
明るい色の髪を後ろで丸く纏め、裾の大きく膨らんだ服を着ている。
腰の辺りから伸びた一本の糸で、遥か上の暗がりからぶら下がって、楽しそうに、ゆらゆらと揺れていた。
蜘蛛の巣に掛かった虫の気持ちと言うのは、多分こう言う物なのだろうと、俺はその時、心の底から思った。
***
少女は、黒谷ヤマメと名乗った。
この縦穴に住む、土蜘蛛なのだそうだ。
土蜘蛛と言えば、確か人を取って食う妖怪ではなかったか、と、糸に絡まったまま身を固くしていると、ヤマメはけらけらと笑って、食べないよ、と手を振った。
「食べないってば。そんな顔しないでよ。
最近は地上からの物好きも増えたけどさ、自分から落っこちてくる人間ってのは、そうそういないからね。
珍しいから、ちょっと見物してただけ」
見物されていたらしい。
ヤマメは逆さまのまま、俺の顔の前までするすると下りてくると、指先で器用に糸を手繰って、俺の手足に絡まっていた糸を、一本ずつ解いていった。
解きながら、何処から落ちてきたのか、何をしていたのか、と矢継ぎ早に聞いてくる。
山菜を採りに来て、山桜の根元で足を滑らせたのだと答えると、ヤマメは、ああ、あの大きい桜の所ね、と納得したように頷いた。
「あそこ、穴の口が藪で隠れてるからさ。たまに狸とか猪とかが落ちてくるんだよ。人間は、あんたが初めてかな」
狸や猪と同じ扱いであった。
まぁ実際、同じように落ちてきたのだから、文句は言えない。
糸が全部解けると、俺の体は、ヤマメの腰から伸びた一本の糸に吊るされる格好になった。
帰りたい、と言うと、ヤマメは、うーん、と困ったように首を傾げた。
「上に戻してあげるのは、別にいいんだけどさ。
今から旧都の方に、ちょっと届け物に行かなきゃいけないんだよね。
戻ってくるまで、待っててくれる?
……あ、でも、こんな所に人間を一人で置いとくのも、まずいか。
怨霊だの何だのに見つかったら、面倒な事になるし」
暫く考えてからヤマメは、そうだ、と手を打った。
「この下をずっと行くと、橋があるからさ。そこで待ってなよ。
橋姫がいて、橋の周りは見張ってるから、まぁ、変なのは寄ってこない。
ちょっと……いや、だいぶ機嫌の悪い奴だけど、悪い奴じゃないから。
たぶん」
最後の、たぶん、が少し気になった。
それからヤマメは、俺を吊るした糸を、するすると下へ伸ばしていった。
縦穴は、思っていたよりもずっと深かった。
上を見ても、もう穴の口の明かりは見えない。
下を見ても、何も見えない。
ただ、冷えた湿っぽい風が、下の方から、ゆっくりと吹き上がってくるだけである。
春の山の、日向の匂いのする風とは、まるで違う風であった。
随分と長いこと下ろされてから、ようやく、足の裏が硬い岩に触れた。
ヤマメは俺の体に巻き付けていた糸を手早く解くと、帰りにちゃんと拾いに行くからさ、と言い残し、自分の糸を手繰って、暗がりの上の方へ、するすると消えていった。
一人になった。
辺りは、真っ暗と言う程ではなかった。
岩肌の所々に、苔だか茸だかが、ぼんやりと青白い光を放っていて、それが細い道を、点々と照らしている。
道は、緩やかに下りながら、奥の方へと続いていた。
他に行く当ても無いので、俺はその道を辿る事にした。
歩きながら、擦りむいた掌を見る。
皮がめくれて、うっすらと血が滲んでいた。
膝も、ずきずきと痛む。
背中の籠は、無事ではあったが、中身は半分ほどに減っていた。
残っているのは、蕨が一掴みと、たらの芽が五つ、六つ。
あの大きな山桜の根元のたらの芽は、とうとう一つも摘めなかった。
寒かった。
春の山を歩く為の薄着では、この冷えは堪える。
吐く息が、少し白い。
地上はもう春だと言うのに、ここだけ、冬がずっと居座っているみたいだった。
どのくらい歩いただろう。
道の先が、ほんのりと明るくなった。
近づいてゆくと、それは大きな橋の、欄干に灯された灯りであった。
深い谷のような裂け目を跨いで、古びた木の橋が、向こう側の闇の中へと渡されている。
見上げると、頭の上は縦穴の底よりも更に高い暗がりで、天井が何処にあるのかも分からない。
細い道を下ってきたつもりが、何時の間にか、途方も無く大きな洞の中に出ていたらしかった。
その橋の真ん中に、誰かが立っていた。
***
欄干の灯りに照らされて、金色の髪が、ぼんやりと光っていた。
肩の辺りで切り揃えた髪の間から、先の尖った耳が覗いている。
何処の国の物とも知れない、異国めいた装いの、女の人であった。
そして、こちらを振り向いた、その目である。
緑色の目が、薄暗がりの中で、灯りを吸い込んで、底の方から光っているように見えた。
綺麗だ、と思った。
思ってから、初対面の相手をまじまじと見つめている自分に気づいて、慌てて目を逸らした。
「……人間?」
声は、思っていたよりも、ずっと低くて、冷たかった。
「何の用? 橋は、渡る為のものよ。渡るなら渡る、渡らないなら立ち止まらないで。邪魔だから」
とりあえず、事情を話した。
山で穴に落ちた事、ヤマメに助けてもらった事、ヤマメが戻るまで、この橋の所で待つように言われた事。
話しているうちに、彼女の眉が、ゆっくりと寄ってゆくのが分かった。
「ヤマメの知り合いなの。……ふぅん。あの子、本当に誰とでもすぐ仲良くなるのよね。会ったばかりの人間にまで。……ふん」
何が気に障ったのかは分からないが、どうやら、知り合いだと言ったのは逆効果だったようだ。
「いいわ。待ちたいなら、待てばいい。
ただし、橋の傍で待つなら、通行料を払ってもらうわ」
渡らなくても取られるのか、とちょっと思ったが、まぁ、他人の家の軒先を借りるようなものだろう。
俺は背中の籠を下ろして、中に残っていた蕨を一掴み、差し出してみた。
「要らない」
「地上の物なんて、要らないわよ。
どうせ、美味しいんでしょう、それ。
春の山で採れたばかりの、柔らかい、美味しい蕨なんでしょう。
そんな物を持って、のこのこ歩いてる人間が、妬ましい。
妬ましいから、要らない」
理屈が、ちょっと分からなかった。
いや、言っている事は分かるのだが、それでどうして要らないのかが分からない。
困ったので、たらの芽の方も見せてみると、彼女は、それを見た途端に、ますます嫌そうな顔になった。
どうやら、蕨より美味しそうな分だけ、余計に気に食わないようだった。
仕方が無いので、橋から少し離れた所で待つ事にする、と言って、元来た道の方へ下がろうとした。
すると、背中に、鋭い声が飛んできた。
「そっちは、怨霊の通り道よ。人間なんか、すぐに取り憑かれるわ。……死にたいなら、止めないけど」
足を止めて振り返ると、彼女は、ぷいと横を向いた。
結局、俺は橋の袂に、籠を抱えて突っ立っている事になった。
通行料は、払えないままである。
どうしたものかと、空いた方の手で首の後ろを掻いていると、ふと、彼女の視線が、俺の顔ではなく、もう少し横の辺りに止まっているのに気づいた。
肩である。
「……それ」
言われて、自分の肩を見る。
白い花びらが一枚、着物の肩口に、ちょこんと張り付いていた。
山桜の花びらである。
あの穴に落ちる時に、舞っていた物が、一緒に落ちてきたのだろう。
「それでいいわ。通行料」
花びらを摘んで差し出すと、彼女は、それを奪い取るようにして、自分の掌に載せた。
それから、そっと顔を近づけて、花びらの匂いを嗅いだ。
長いこと、そうしていた。
「……地上は、もう春なのね」
独り言のような声であった。
さっきまでの、刺々しい声とは、少しだけ違っていた。
それから、ヤマメが戻ってくるまでの間、俺たちは橋の袂で、ぽつりぽつりと話をした。
と言っても、話の殆どは、彼女の方からの質問であった。
「で。地上の、何処から落ちてきたのよ」
人里から半日ほど歩いた山だと答えると、彼女は、ふぅん、と興味の無さそうな声を出した。
興味の無さそうな声の割りに、次の質問はすぐに来た。
「……人間の里なんて、どうせ賑やかなだけでしょう。
で、あんたは、その賑やかな所で生まれ育ったって訳ね」
生まれは外の世界で、何年か前に幻想入りしたのだと答えると、彼女は、少しの間、黙った。
それから、呆れたように、細く息を吐いた。
「外の世界から来て、地上で暮らして、今度は地底に落っこちてきたの。
……随分と、あちこちに行く先がある人間なのね」
褒められたのではない事だけは、何となく分かった。
その時、元来た道の暗がりの方から、青白い靄のような物が、ふわりと漂ってきた。
人の顔のようにも見えるし、ただの煙のようにも見える。
それが、ふらふらと揺れながら、真っ直ぐに俺の方へ寄ってくる。
背筋が、すっと冷たくなった。
彼女が、ちらりとそちらを見た。
見ただけである。
何かを唱えた訳でも、手を振った訳でもない。
ただ、緑の目で、じろりと睨んだ。
すると靄は、まるで熱い物にでも触れたように、ぴくりと縮こまって、来た方へすうっと引き返していった。
「欄干の内側に、もっと寄りなさい。そんな所に突っ立ってたら、取り憑いてくれって言ってるような物よ」
言われるままに欄干の傍へ寄りながら、礼を言うと、彼女は、まだ靄の消えた方を睨んだまま、ぽつりと言った。
「あいつらはね、生きてる人間の、温かいのが好きなのよ。
自分たちには、もう無い物だから。
……妬ましいんでしょうね、生きてるのが」
その声が、何だか、怨霊の事だけを言っているようには聞こえなかった。
けれど、それが何なのかを聞く前に、彼女の方から、また次の質問が来た。
あの穴の上には、どんな桜が咲いているのか、と。
地上に興味なんて無い、と最初に言っておきながら、聞いてくる事は、何故か地上の事ばかりなのだった。
あの大きな山桜の話をすると、彼女は、欄干に頬杖をついたまま、黙って聞いていた。
花と葉が一緒に出てくる事。
山の斜面に、ぽつりぽつりと白く浮かんで見える事。
見上げると、花びらの隙間から、春の青い空が透けて見える事。
話し終えると、彼女は、ふん、と鼻を鳴らした。
「妬ましいわね。そんな物を、毎年、当たり前みたいに見られるなんて。……地底にはね、春なんて来ないのよ」
名前を名乗ると、彼女は、少し間を置いてから、水橋パルスィ、とだけ名乗り返してくれた。
橋姫だそうである。
覚えなくていいわよ、もう会わないんだから、と付け足されたが、人生で出会ったこともないほどのインパクトがある人物だ。
多分、もう忘れられないと思った。
不意に、パルスィが顔を寄せてきた。
すん、と、俺の襟元の辺りで、小さく鼻が鳴る。
驚いて身を引こうとした時には、もう離れていた。
「地上の匂いがぷんぷんする。日向と、土と、草の匂い。……嫌な匂い」
嫌な匂いの割りには、随分と長く嗅がれていたような気がする。
褒められているのか、貶されているのか、さっぱり分からなかった。
ただ、顔が熱くなっているのだけは、自分でもよく分かった。
「お待たせー! あ、ちゃんと生きてた」
頭の上から、ヤマメの声が降ってきた。
見上げると、暗がりの中から、するすると糸が下りてくる。
ヤマメは、橋の袂の俺と、欄干に寄りかかったパルスィとを交互に見て、何やら面白そうな顔をした。
パルスィの手の中の花びらに、目を留めたのかもしれない。
けれど、何も言わなかった。
帰り際、俺は、パルスィに一つ約束をした。
今度来る時は、花びら一枚じゃなく、あの山桜の枝を一本、折って持ってくる、と。
パルスィは、目を丸くした。
それから、すぐに、そっぽを向いた。
「来なくていいわよ。……待たないから」
ヤマメの糸に吊るされて、暗がりの中を上ってゆく。
見下ろすと、橋の灯りが、少しずつ小さくなってゆく。
その灯りの傍に、金色の髪が、まだぼんやりと光っていた。
ずっと、こちらを見上げているようだった。
上る途中で、ヤマメが教えてくれた。
今度来る時は、あの山桜の所の穴の口から、下に向かって大声で呼べばいい。
聞こえたら、迎えに行ってあげる、と。
***
水橋パルスィは、橋姫である。
橋姫の仕事と言うのは、橋を見守る事だ。
橋を渡ってゆく者を見送り、渡ってくる者を出迎え、渡る途中で足を踏み外しそうな間抜けがいれば、仕方なく手を貸してやる。
そして、渡ってゆく者は、皆、何処かへ行く。
旧都へ酒を飲みに行く者。
地霊殿へ用事を済ませに行く者。
地上へ、帰ってゆく者。
何処かへ行く者は、当然、行く先がある者である。
行く先がある者は、当然、妬ましい。
だからパルスィは、橋の上から、行き交う者たちを一人残らず妬んできた。
それで、別に困った事は無い。
妬むと言うのは、パルスィにとって、息をするのと同じくらい当たり前の事なのだ。
その橋の上で、パルスィは、掌の上の花びらを眺めていた。
白い花びらであった。
薄くて、小さくて、端の方が、ほんの少しだけ桃色に色づいている。
地底では、まず見る事の無い物だ。
地底には、花が咲かない。
咲く筈の季節が、そもそも来ないからである。
顔を近づけて、匂いを嗅いでみる。
桜の匂いと言うのは、思っていたよりもずっと淡い物であった。
鼻を押し付けるようにしないと、殆ど分からない。
その代わりに、もっとはっきりと、別の匂いがした。
日向と、土と、草と、それから少しだけ汗の混じった、人間の匂い。
あの男の、肩の匂いであった。
「何よ、これ」
花びらのくせに、桜より、あの男の匂いの方が強いじゃない。
きっと長い時間、あの男の肩に張り付いていたのだ。
穴に落ちる間も、縦穴を下りる間も、薄暗い道を歩く間も、ずっと。
そう思った途端に、胸の奥の方で、何かがむかむかと渦を巻いた。
花びらが、妬ましかった。
花びら一枚を相手に何を妬んでいるのかと、自分でも呆れるが、妬ましい物は妬ましいのだから仕方が無い。
パルスィは、花びらを潰さないように、そっと袂に仕舞った。
あの男は、もう来ない。
分かっている。
橋の上で、もう数えるのも面倒な程の長い間、行き交う者を見てきたのだ。
地上から下りてきた人間が、二度と地底に戻ってこない事くらい、知っている。
誰だって、怖い目に遭った場所には戻ってこない物だ。
今度は桜の枝を持ってくる、などと言っていたが、地上に戻って、明るいお日様の下で一晩寝れば、地底の事など、悪い夢でも見たように忘れてしまうに決まっている。
だから、待たない。
待たないと、ちゃんと言ってやったのだ。
そう思いながら、パルスィは、橋の欄干に寄りかかって、縦穴の方を見上げていた。
見上げていたのは、別に待っているからではない。
縦穴の方から、時々、冷たい風が下りてくる。
その風が、地上の匂いを運んでくるかどうか、確かめていただけである。
運んでくる訳が無いのだが。
一度、眠った。
起きて、袂から花びらを出して、匂いを嗅いだ。
桜の匂いは、もう殆どしなかった。
あの男の匂いは、まだ、少しだけ残っていた。
ヤマメが、糸に吊るされて、橋の上を一度通り過ぎていった。
通り過ぎる時に、何か言いたそうにパルスィの顔を見たので、睨んでやった。
ヤマメは、肩をすくめて、何も言わずに旧都の方へ下りていった。
何も言わないのが、余計に腹立たしかった。
もう一度、眠った。
起きて、花びらを出した。
白かった花びらの端が、茶色く縮れ始めていた。
地底には季節が無いのに、地上から来た物は、ちゃんと時間を連れてきてしまうらしい。
パルスィは、縮れた端を指でそっと伸ばそうとして、余計に縮れさせてしまった。
匂いは、もう、殆ど分からなかった。
馬鹿みたい。
花びらを袂に戻して、欄干に額を押し付ける。
ひやりとした木の感触が、額に冷たい。
何を、こんなに。
こんな物、たかが花びら一枚じゃないか。
たかが、一度通りすがっただけの、人間の。
***
里に戻ったのは、すっかり日が暮れてからだった。
翌朝、残ったたらの芽を五つ六つ持って小料理屋へ行くと、旦那は、籠の中を覗き込んで、たったこれだけか、と目を丸くした。
一番に良いのを持ってゆくと約束しておいて、これである。
面目なさに頭を掻いていると、奥から出てきた娘さんが、俺の掌の擦り傷に目を留めて、ちょっと、どうしたのそれ、と声を上げた。
山で転んだのだと誤魔化すと、娘さんは呆れたように、もう、と言って、奥から膏薬を持ってきて塗ってくれた。
穴に落ちて地底まで行ってきました、とは、流石に言えなかった。
言った所で、頭でも打ったのかと、余計に心配されるだけだろう。
その日は一日、里で過ごした。
擦り傷の掌で籠を編み直し、零れた山菜の分を取り戻すにはどうしたものかと考え、それから、気がつくと、あの橋の事を考えていた。
薄暗がりの中で、底の方から光っているように見えた、緑色の目。
蕨を突き返した時の、心底嫌そうな顔。
怨霊を睨んで追い払った後の、妬ましいんでしょうね、生きてるのが、と言った、あの声。
それから、白い花びらを掌に載せて、長いこと、黙って匂いを嗅いでいた横顔。
待たないから、とあの人は言っていた。
多分、本当に待ってはいないのだろう。
あの人にとっては、穴に落ちてきた人間が一人、通りすがっただけの事なのだ。
それでも俺は、あの花びら一枚を、あんなにも長く嗅いでいた人に、枝ごとの桜を見せたら、どんな顔をするのか、見てみたかった。
それだけである。
理由としては、多分、それで十分だった。
三日目の朝、俺はもう一度、あの山へ入った。
あの大きな山桜は、まだ咲いていた。
三日前よりも、少しだけ散って、その分だけ若葉の赤が濃くなっている。
根元の藪の辺りには、俺が落ちた時に踏み抜いた跡が、黒い口を開けて残っていた。
覗き込むと、穴の奥から、冷えた湿っぽい風が、ゆっくりと吹き上がってくる。
三日前に、あの中へ落ちていったのだ。
そう思うと、膝の裏の辺りが、何だかむずむずとした。
山桜の枝を、一本だけ、貰う事にした。
花の一番よく付いている、腕で一抱えもある枝を選ぶ。
桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿、と言う言葉を、何処かで聞いた事がある。
桜は枝を切ると、その切り口から腐ってしまうのだそうだ。
大事な木を傷つけるのだから、せめて断りくらいは入れておこうと、幹に向かって手を合わせてから、なるべく細い所を選んで、鉈でそっと切り落とした。
ごめんなさい、一本だけ、地底まで持っていきます、と心の中で謝る。
山桜は、返事の代わりに、花びらを何枚か、俺の頭の上に降らせた。
それから、穴の口に膝をついた。
下に向かって、大声で呼べばいい、とヤマメは言っていた。
とは言え、真っ暗な穴に向かって、一人で大声を出すと言うのは、思っていたよりもずっと気恥ずかしい物である。
誰も見ていない事は分かっているのに、何となく辺りを見回してから、俺は一度、咳払いをした。
それから、穴に向かって、ヤマメの名前を呼んだ。
声は、穴の奥へ吸い込まれて、すぐに聞こえなくなった。
返事は無い。
風の音だけが、ひゅう、と鳴っている。
もう一度、呼んだ。
今度は、もう少し大きな声で。
暫くして、穴の奥の暗がりから、しゅるしゅると、白い糸が一本、上ってきた。
「はいはーい、聞こえてるよ。……って、本当に来たんだ。しかも、何それ、でっかい枝!」
糸の先に、逆さまのヤマメが、楽しそうにぶら下がっていた。
***
三度目の眠りから覚めて、袂の花びらを出そうとした時の事であった。
縦穴の方から、しゅるしゅると、糸の擦れる音がした。
ヤマメの糸の音である。
それだけなら、別に珍しくもない。
けれど、その音に混じって、何か、がさがさと、葉の擦れ合うような音が聞こえてきた。
地底では、聞く筈の無い音であった。
パルスィは、顔を上げた。
暗がりの中から、白い物が、ゆっくりと下りてくる。
最初は、それが何なのか分からなかった。
ぼんやりと白く、ふわふわと揺れていて、まるで縦穴の暗がりに、雲の切れ端が迷い込んできたように見えた。
それが、近づいてくるに連れて、形になってゆく。
赤茶けた若葉と、白い花とが、一緒くたになって枝いっぱいに咲いている。
桜であった。
大人の腕で一抱えもある、山桜の枝であった。
そして、その枝を、両腕で大事そうに抱えて、ヤマメの糸に吊るされているのは。
「お届け物だよー」
ヤマメの声が、やけに楽しそうに響いた。
男が、橋の袂に下ろされた。
下ろされた拍子に、枝が揺れて、白い花びらが、ひらひらと何枚も舞い落ちた。
花の咲かない地底の、薄暗い橋の上に、桜の花びらが降っていた。
男は、少し照れくさそうに笑いながら、枝をパルスィの方へ差し出した。
約束、と言ったのかもしれない。
パルスィには、何も聞こえていなかった。
枝を受け取る。
受け取る時に、男の指に、少しだけ触れた。
温かかった。
地底の冷たい空気の中を下りてきた筈なのに、その指は、お日様に当たっていた物みたいに温かかった。
パルスィは、枝に顔を埋めた。
桜の匂いが、ふわりと立ち上った。
花びら一枚の時とは比べ物にならない、甘くて、淡くて、春そのものの匂い。
そして、その奥に、あの匂いがした。
日向と、土と、草と、少しだけ汗の混じった、あの男の匂い。
袂の中の花びらから、とうに消えてしまった匂いであった。
「……待ってなんか、いなかったわよ」
枝に顔を埋めたまま、パルスィは言った。
男が、何か言いたげに首を傾げるのが、花の隙間から見えた。
袂の中で、茶色く縮れた花びらが、かさりと小さな音を立てた。
薄暗い橋の上にだけ、白い花びらが、まだ、ひらひらと降り続いていた。