顕界の人間は、夏になると、わざわざ幽霊の話をして涼を取るのだそうだ。
怖い話を聞いて肝を冷やすのだと言うけれど、ただ涼しくなりたいだけなら、随分と回りくどい事をするものである。
冥界にも、夏はちゃんと暑い。
けれど幽々子には、涼を取る手間が要らない。
白玉楼の幽霊たちは、呼ばなくても主の行く所へふわふわと付いて回るので、幽々子の座る所は、夏の盛りでも、苔の生えた石のようにひんやりとしているのだ。
庭の桜はとうに花を落として、今は青い葉ばかりが重たく茂っていて、昼が近づくにつれ、白っぽい空の下で、その葉の一枚一枚がくたりと項垂れてゆく。
あれを見れば今日も暑いのだろうとは思うけれど、幽々子自身は、ちっとも暑くない。
亡霊の体も、暑ければ汗くらいはかく筈なのだが、幽々子は、自分が最後に汗をかいたのが何時だったか、もう思い出せない。
だから、夏に食が細ると言う話にも、幽々子には一向に覚えが無いのである。
近頃は、むしろ反対で、お腹の空くのがどうにも早い。
朝の膳を平らげて縁側に出ると、もう、お昼は何かしら、と考えているのだから、これには幽々子自身、少しばかり首を傾げている。
もっとも、その朝の膳に何が載っていたのかは、縁側に座る頃には、すっかり忘れてしまっているのだけれど。
縁側の前を、里へ買い出しに出ていた妖夢が、背負子を軋ませながら帰ってくる。
背負子には水を張った桶が括り付けてあって、中では白い豆腐が幾つも、角を寄せ合うようにして揺れていた。
桶の上には、竹の皮で包んだ鶏が二羽分と、葱が一抱え載っていて、脇に吊るした赤い唐辛子の束が、妖夢が一歩進む度に、かさかさと乾いた音を立てる。
あれだけの荷を背負って里から上がってきたのだから、ご苦労な事である。
幽々子の目は、豆腐よりも鶏よりも先に、その赤い唐辛子の束に留まった。
「あら、美味しそう」
「唐辛子は、辛いだけです」
妖夢はお決まりの困った顔をしてから、背負子を縁側の端に下ろして、袖で額の汗を拭った。
半分は幽霊でも、残りの半分は、ちゃんと汗をかくらしい。
傍らの半霊の方は涼しい顔で浮いているのだから、半分ずつと言うのも、妖夢にとってはなかなか不公平な分け方である。
「幽々子様。あの者が台所に立つようになってから、里へ下りる度に、荷が倍になりました」
「あら、そうなの」
「夏は豆腐が一日と保ちませんから、三日にあげず下りております。
今朝などは、豆腐屋の主人に、冥界ではそんなに豆腐を食べるのかと聞かれました」
「それで、何て答えたの?」
妖夢は少し口籠もってから、主が大層召し上がるので、と小さな声で答えた。
正直な子である。
「それに、今日もまた、お台所で召し上がるおつもりですか」
「だって、お座敷まで運ばせたら、冷めちゃうんだもの」
「いくら量があっても運ぶのなんてたかが数十秒です。
そもそも、春まではお座敷で、美味しい美味しいと召し上がっていらしたではありませんか」
「そうだったかしら。覚えていないわぁ」
妖夢は、聞こえよがしの溜め息を一つ吐くと、手に提げていた小さな甕を、両手で抱え直す。
「こちらは甘酒です。里の茶屋で、夏の間だけ売っている少し珍しいものだそうなので」
「まぁ、それも美味しそう」
「お昼の後で、ですよ」
ぴしゃりと言い置いて、妖夢は甕を胸に抱えたまま背負子を担ぎ直し、台所の方へ歩いていった。
主の為にわざわざ甘い物を買ってきて、その主から甘い物を遠ざけて歩いてゆくのだから、あの子も大概、忙しい。
幽々子は暫く、縁側から葉桜を眺めていた。
けれど、葉桜を幾ら眺めていても、お腹の方は少しも膨れてくれない。
豆腐と、鶏と、葱と、唐辛子。
あの料理人がそれを一体どんな皿にするのかと考え始めると、もう、此処に座っている方が難しいのである。
春までは、台所の土間など、覗いてみた事も無かった。
膳と言うのは、待っていれば座敷へ出てくる物で、それで何一つ不足は無かったのだ。
それが今では、昼が近づくと、足の方が先に台所へ向かってしまう。
上がり框に座って、鍋の中で物の形が変わってゆくのを眺めていると、出来上がった膳を座敷で待っていた頃より、ずっと早くお腹が空いてくるのだけれど、それがどう言う訳なのかは、幽々子にもよく分からない。
昼には、まだ大分早い。
幽々子は扇を開いて口元に当て、縁側から立ち上がった。
長い廊下を渡る間も、幽霊たちは、袖の後ろから幾つも付いてくる。
台所の戸口を潜ると、竈の熱気が、むっと顔に当たった。
幽々子がいつもの上がり框に腰を下ろせば、付いてきた幽霊たちがその周りにふわりと集まって、熱気を少しずつ押し返してゆく。
竈の前で、汗だくの料理人が振り返って、こんなに早く、とでも言いたげに目を丸くした。
***
白玉楼の中で一番暑いのは、言うまでもなく、台所の竈の前である。
薪の火は、日向で焼けた石を顔へ押し付けてくるような熱を、正面から絶えず寄越してくる。
額に巻いた手拭いは、朝のうちにもう絞れるほど湿っていて、それでも汗は手拭いの下を潜って眉を越え、目の端へ沁みてくるのだから堪らない。
コックコートは一枚きりなので、毎晩洗って竈の傍に干しておくと、夏の夜の事で、朝にはすっかり乾いている。
折角乾いた布が、昼前にはもう汗で背中に張り付いているのだから、洗い甲斐も何もあったものではない。
普段着の方は、妖夢が里で見繕ってきてくれた作務衣が二枚あって、これも律儀に、俺の肩幅を紐で測ってから買ってきてくれた物だ。
白玉楼の台所に立つようになって、三月余りが経つ。
初めの頃は、火を弱くしてくれと頼む度に、火の番の白い靄が薪を一本足してくれたものだが、近頃は、弱く、と言えば、ちゃんと一本抜いてくれる。
俺の方も、竈の火に合わせて鍋を上げ下ろしする呼吸を、すっかり腕が覚えてしまった。
外の世界に居れば、春から校内の食堂で、他学科の学生や先生たちに昼の定食を出していた筈である。
それも勿論経験したかったが、此処で行う一人の料理も、正直楽しいものだった。
幽々子は、今日は昼にはまだ大分早いうちから、もう上がり框に座っている。
扇で口元を隠し、周りに白い靄を幾つも侍らせて、のんびりとこちらを眺めているのである。
靄が集まっている所為で、上がり框の辺りだけは井戸の底のようにひんやりとしていて、竈の前から振り返ると、あそこだけ季節が違って見える。
「ねぇ。今日のお昼は、何?」
麻婆豆腐だと答えると、幽々子は扇の上で、目をぱちぱちと瞬かせた。
「まあぼお……? 何だか、可愛らしい名前ねぇ」
外の世界の、海を渡った先の国の料理を、此処の味噌で真似てみるのだと言うと、幽々子は、外国のお料理って良いわよねぇ、と楽しそうに扇を揺らす。
名前を聞いただけで、もう半分くらいは食べた気でいるような顔である。
妖夢が背負ってきた桶の豆腐は、夏の事なので今日のうちに使い切らなければならないし、鶏も二羽分を、昼と夜とで食べ切る段取りだ。
豆板醤も花椒も此処には無いから、味噌に刻んだ唐辛子を練り込んで代わりにし、痺れの方は、すり鉢で挽いた山椒に任せる他無い。
挽肉も売っていないので、鶏を出刃で捌いて腿を外し、骨は鍋に放り込んで煮出しておいて、腿の肉は、牛刀と出刃を両手に一本ずつ持って叩いてゆく。
たたた、たたた、と刃を交互に落とすうちに、まな板の上の肉は少しずつ細かくなって、やがて刃に粘り付いてくる。
その間も、顎の先に汗が溜まる度に、手を止めて袖で拭わなければならなかった。
叩き終えた肉を鉢に移し、羽釜の様子を見ようと竈の前に屈み込んだ時である。
右の袖口から、何かが、するりと入り込んできた。
冷たい、と思うより先に、体の方が跳ね上がっていた。
氷の欠片を背中に落とされた、などと言う生易しい物ではない。
その何かは、腕を伝って脇の下を潜り、背中へ回ると、背骨に沿ってゆっくりと下りてゆき、それが通った跡の肌が、上から順に、痺れるように冷えてゆくのである。
自分でも聞いた事の無いような声が出て、俺は竈の前で、届かない背中へ手を回しながら、二度、三度と足踏みをする羽目になる。
腰の辺りまで下りた所で、冷たいものはふっと離れて、コックコートの裾から、白い靄が一つ、何食わぬ様子で抜け出していった。
上がり框を振り返ると、幽々子が扇の陰で、肩を小刻みに揺らしている。
「暑そうだったから、涼ませてあげようと思ったのよ~?」
笑いを噛み殺しながら言われても、ちっとも有り難くない。
板の間で荷を解いていた妖夢が、手を止めて、主の代わりにきちんと頭を下げた。
顔はにこりともしていないので、俺に悪いと思っているのか、主の不始末を詫びるのが筋だと思っているだけなのかは分からない。
どちらにしても、こう言う後始末を、もう何度もしてきた人の下げ方だった。
背中には、靄の通った跡が、まだ一筋、冷たく残っている。
汗ばんだ肌に張り付いていたコックコートの、そこだけが、冷たい水に浸した布のようにひやりとしていた。
氷よりも冷たいのではないか、と思う。
思ってから、俺は、板の間に置かれた甘酒の甕に目をやっていた。
学校の製菓の実習で、氷に塩を混ぜて冷やした鉢の中で、果汁を掻き混ぜながらシャーベットを作った事がある。
氷に塩を混ぜてやれば、氷だけの時よりもずっと冷たくなるのだと、あの時の先生は言っていた。
あの靄が氷より冷たいのなら、塩も氷も要らない筈である。
甘酒を使ってもいいかと聞くと、妖夢は、甕と俺の顔とを見比べて、少し困った顔をした。
「それは、幽々子様の、お昼の後の分なのですが」
そのお昼の後に、冷たくして出すのだと言うと、妖夢は暫く考えてから、上がり框の主の方へ、ちらりと目をやる。
「……幽々子様のお口に入るのでしたら、私に否やはありません」
それから、さっき背中を通っていった靄に、器に巻き付いてはもらえないかと頼んでみた。
冷たいのを少し分けてほしいのだ、と頭を下げると、靄は迷うように揺れてから、伺いを立てるように、上がり框の方へ漂っていった。
幽々子が、扇をひらりと振る。
「いいわよ~。面白そうだもの」
棚の奥から口の広い銅の鍋を下ろして甕の甘酒を空けると、とろりとした白い甘酒が、ところどころに米粒を覗かせながら、鍋の底に広がる。
そこへ靄が、帯でも締めるように、ぐるりと鍋に巻き付いた。
銅の鍋肌は、見る見るうちに白く曇ってゆく。
竈の傍に置いたのでは、折角の冷たさを火に取られてしまうので、置き場所は、土間で一番涼しい所にする他無い。
つまり、幽々子の隣である。
鍋を上がり框に置いて竈へ戻り、唐辛子を味噌に練り込み、葱と生姜とにんにくを刻み、鶏の骨を煮出した鍋から灰汁を掬っているうちに、ちょうど良い頃合いになった。
上がり框まで行って縁に膝を突き、鍋を覗き込めば、甘酒は、鍋肌に触れている縁の方から、薄く凍り始めている。
菜箸を四、五本束ねて握り、凍った縁を掻き崩して真ん中へ寄せてゆくと、しゃり、しゃり、と小さな音が立つ。
こうして、凍りかけては崩し、凍りかけては崩しを繰り返すうちに、甘酒は、細かい氷の粒になってゆく筈なのだ。
鍋を掻いていると、濡れた額に、ふっと風が当たった。
顔を上げれば、幽々子が、扇をこちらへ向けている。
ゆっくりと扇が下りてくる度に、風が額の汗を撫でて、手拭いの下まで、すうっと冷たくなってゆく。
扇が下りれば、その陰に隠れていた口元がほんの一瞬だけ覗いて、扇が上がれば、また隠れてしまうのである。
覗いた口元は、笑っていた。
食べている時の他に、あの口元を見たのは初めての事で、俺は慌てて、鍋の中の甘酒に目を戻した。
目を戻しても、さっき一瞬だけ見えた唇の端の上がり具合が、瞼の裏から、なかなか退いてくれない。
扇の風は、俺が鍋を掻き終えて立ち上がるまで、止まずに額へ届いていた。
***
手拭いの結び目から垂れた端が、扇の風を受けて、ふわりと揺れる。
料理人が鍋を掻き混ぜに来る度に、幽々子は扇をそちらへ向けて、ゆっくりと扇いでやっている。
誰かの為に扇を動かすのは、初めての事だった。
扇はいつも口元にあって、自分を扇ぐ事さえ殆ど無い。
幽霊たちに囲まれていれば、暑いと思う暇も無いのだから。
汗だくの顔が、ちょうど目の下にあったから、と言う事にしておく。
扇いでやると、料理人はくすぐったそうに目を細めて、それからすぐに俯いてしまう。
その俯き方が可笑しくて、彼が鍋の傍へ膝を突く度に、扇はひとりでにそちらを向くのだった。
何度目かに来た時も、料理人は上がり框の縁に膝を突いて、束ねた箸で鍋の縁の氷を崩していた。
彼が傍へ来ると、幽霊たちの冷たさの中に、竈の熱が一塊、ふわりと持ち込まれてくる。
汗と、薪の煙と、唐辛子を練った味噌の匂いを纏った熱で、それが幽々子の膝の辺りまで、じんわりと届いてくるのだ。
冷たい所にばかり座ってきたので、人の体と言うのはこんなに熱いものだったかしら、と少し驚いてしまう。
上がり框に座る幽々子の目の下に、ちょうど彼の頭が来る。
額に巻いた手拭いの結び目は、汗を吸って色が濃くなっていて、その結び目の下から髪の生え際に沿って、汗の粒が幾つも並んで光っていた。
粒は膨らんでは隣の粒と一つになって、こめかみから頬へ、頬から顎の線へと、ゆっくり伝い下りてゆく。
扇の風が当たると、その筋が、ほんの少しだけ向きを変える。
しょっぱいのかしら、と、ふと思った。
鍋を掻き終えると、料理人は、白い靄が水瓶から汲んできた柄杓を受け取って、立ったまま水を飲む。
仰向いた顎の下で、喉が、一口ごとに上下する。
あれだけ汗をかけば喉も渇くのだろうが、それにしても、綺麗なほど喉を鳴らしてよく飲むものである。
柄杓の縁から零れた水が一筋、顎の先まで伝って、汗と一緒に土間へ落ちてゆく。
竈の前へ戻ると、彼は、鶏の骨を煮出している鍋の前に立つ。
刻んだ唐辛子の匂いがまだ土間に残っていて、それが上がり框まで漂ってくると、鼻の奥を、つんと刺した。
鍋の上へ屈み込む前に、料理人は必ず、袖でぐいと顎を拭った。
汗を鍋に落とさない為なのだろう、それだけは、どれ程手が忙しくても欠かさないのである。
それから、お玉の先から汁を一滴、手の甲に落として、舐める。
春からそれこそ毎日のように見てきた仕草なのに、幽々子の目は、その度に、彼の手の甲の上で止まってしまうのだ。
次に料理人が鍋を掻きに来た時、幽々子は、からかってやるつもりで口を開いた。
貴方、美味しそうねぇ、と。
庭の桜にも、唐辛子の束にも、そう言ってきたのと同じ調子で、軽く投げてやるつもりだった。
ところが、その言葉がうまく出てこない。
口の中までは来ているのに、いつもの冗談の声に乗せようとすると、どうしても乗らないのである。
言葉の代わりに、口の中が、じわりと潤んでくる。
冗談にして口にするには、あまりにも本気だったのである。
気が付くと、舌の先が、自分の唇の上を、ゆっくりと一巡りしていた。
幽々子は扇ぐ手を止めて、扇を口元へ戻した。
風が止んだので、料理人が、不思議そうに顔を上げる。
「……お腹が、空いたのよ~」
咄嗟に口から出たのは、それだった。
料理人は可笑しそうに小さく笑い、もうすぐできますから、と竈の方を目で示して、崩し終えた鍋を置いて戻ってゆく。
膝の辺りに残っていた彼の熱が、幽霊たちの冷たさに、少しずつ溶かされて消えてゆく。
お腹は、確かに空いているのだ。
けれど、扇の陰で唇を舐めたのは、土間に漂う唐辛子の匂いの所為ではなかった。
幽々子はいつも空腹である。
いくら食べても足りない。
いくらでも食べたい。
常にそうは思っているが、飢えを感じた事は、一度も無かったのだ。
何でも美味しいのだから、何か一つを、これでなければ嫌だと思う理由が無い。
無くなればまた次の膳が来るし、次の膳も、きっと美味しい。
だから、飢えを覚える前に何かを口にして、それで満足し続けていた。
ずっと続いてきたそれが今、少し崩れかかっている。
私は最近、竈の前で汗を拭っているあの料理人を、食べてしまいたいと思っている。
豆腐でも、鶏でも、焼き飯でもなく、あの料理人の方を。
そうと分かっても、幽々子は、少しも慌てなかった。
美味しそうな物を美味しそうだと思うのは、今に始まった事ではない。
今度のは、冗談で済ませられないと言う、それだけの事である。
それに、急ぐ事も無い。
熟れていない果実を慌てて収穫したところで、渋みが残るだけなのだし、あの料理人は、何処へも行かないのだから。
幽々子は、扇の陰で、もう一度、唇を舐めた。
今度は、自分でそうと分かって、ゆっくりと。
***
昼の膳ができたのは、甘酒の鍋を五度目に掻き混ぜた後だった。
熱した鍋に油を引いて、唐辛子を練り込んだ味噌を焦がさないように炒めると、油が見る見る赤く染まって、辛い風が目に沁みる。
そこへ叩いた鶏を入れてほぐし、骨から取った汁を張って、賽の目に切った豆腐を、崩さないように滑らせて落とした。
煮立ったところで葛を溶いた水を回し入れ、鍋を揺すってとろみを付けると、赤い餡が豆腐を包んで、つやつやと光り始める。
仕上げに刻んだ葱を散らし、すり鉢の山椒をたっぷりと振れば、出来上がりである。
鍋から立つ湯気を吸い込んだだけで、鼻の奥がむずむずと痒くなる程だ。
炊き立てのご飯と一緒に盆に載せて上がり框へ運び、どうぞ召し上がってください、と差し出すと、幽々子は扇を閉じて、膝の上に置いた。
「いただきます」
匙で掬った一口目を口に入れるなり、幽々子は、ふと動きを止める。
目を丸くして、それから、ゆっくりと一つ瞬きをした。
「……思ったより、唇がぴりぴりするわぁ」
山椒の痺れが、唇に来たらしい。
辛すぎただろうかと思う間も無く、幽々子はもう二口目を掬っていて、三口目の頃には、ご飯の茶碗も手に取っていた。
赤い餡を白いご飯に載せては、少しも休まずに口へ運んでゆく。
時々、痺れを確かめるように唇を軽く合わせては、また匙を伸ばすのである。
食べ進めるうちに、その唇は唐辛子の色が移ったように赤く色付いて、薄く油に濡れて光っている。
こめかみの生え際も、心なしか湿っているように見える。
死んだ俺がこうして毎日汗だくなのだから、この人が汗をかいても可笑しくはないのだが、汗ばんだ所を見るのは、これが初めてだった。
俺は竈の前で、二皿目の分を鍋に残したまま、それを眺めていた。
卒業も、いつか持つ筈だった店も無くなった俺が、まだ料理人のつもりでいられるのは、この人が毎日こうして平らげてくれるからだ。
食べる人の顔を見るのは好きだが、竈の前からでは、どうにも遠い。
かと言って、客の膳の傍へ料理人がのこのこ寄っていくのも、何だか不躾な気がして、足が前へ出ないのである。
「そんな所に立っていないで、此処へいらっしゃいな」
幽々子が、茶碗を持ったまま、匙の先で上がり框の縁を指す。
「冷たいのも、そろそろでしょう? 此処の方が、涼しいわよ~」
二皿目を盛って運んでから、俺は、そのまま上がり框の縁に腰を下ろす。
甘酒の鍋を間に挟んで、幽々子との間は、扇を一本伸ばせば届く程しか無い。
幽霊たちの冷たさが、汗ばんだ腕に、すうっと沁みてくる。
竈の前に立ち通しだった体が、此処へ座っただけで、水に浸けた野菜のように、少しずつ芯まで冷えてゆく。
成程、主が此処から動かない訳である。
鍋を覗くと、甘酒はすっかり、ざらりとした細かい氷の粒になっている。
束ねた箸で最後にもう一度崩してから、白い小鉢に盛って、木の匙を添えた。
幽々子は、麻婆豆腐の二皿目を平らげた所で、それを受け取る。
赤く色付いた唇に、冷たい匙が当たった。
幽々子の目が、きゅっと細くなる。
「冷たぁい……」
匙を口に含んだまま暫くじっとしていたかと思うと、それから、細く長く息を吐いた。
「ずいぶん丁寧にかき氷を作っていると思っていたのだけど、食感が全然違うのねぇ。
こんな風に、口の中でほどけてゆくのは、初めてだわぁ」
近い、と思った。
竈の前から見ていた時には分からなかった物が、此処からだと、全部見えてしまう。
唐辛子で赤くなった唇。
艶やかで肉厚なそこに冷たい匙が触れる度に、その赤みが、ほんの少しずつ引いてゆくのである。
匙が離れると、冷たさに驚いたように唇が小さく窄まって、それからまた、ゆっくりと綻ぶ。
辛さで火照った所へ冷たい甘さが来るのだから、さぞ気持ちが良いのだろう。
気付けば俺は、匙が唇へ運ばれてゆくのを、一口ずつ目で追っていた。
「さっきから、匙ばかり見ているのねぇ?」
幽々子が、匙を止めて、こちらを見ていた。
見ていたのが匙ではない事くらい、この人には、とうに分かっているに違いない。
扇は膝の上で閉じたままなので、幽々子の顔を隠す物は何も無く、俺の方にも、目を逸らす他には隠れる所が無かった。
俺は、鍋の中の氷を掻き混ぜる振りをして、俯いた。
「……ふふっ」
耳の先まで熱いのは、竈の前に長く立ちすぎた所為だと思いたい。
その時、板の間の向こうから、妖夢が顔を覗かせた。
空になった甘酒の甕と、上がり框の小鉢とを見比べて、一瞬だけ、何とも言えない顔をする。
取り分けておいた小鉢を差し出すと、妖夢は、両手を胸の前で振った。
「私は、結構です。幽々子様と同じ物を、私が頂く訳には」
「いいじゃない、妖夢。折角貴方の買ってきた甘酒なんだから」
主にまで言われては断りきれず、妖夢は渋い顔のまま小鉢を受け取ると、板の間の端にきちんと正座して、匙で一口、口へ運んだ。
「……みょん」
不思議な鳴き声のようなものを発したきり、妖夢は黙ってしまった。
何か言いかけた形のまま、口だけが次の一匙を迎えに行って、また黙る。
暫くして見ると、空になった小鉢が、匙を真っ直ぐに揃えて、板の間の端に置いてあった。
幽々子の方は、小鉢のおかわりを何度か重ねて、とうとう銅の鍋の底が見えると、名残惜しそうに小鉢の底を匙で一巡りさせてから、膝の上の扇を開いた。
「ねぇ。夜も、此処で食べたいわぁ」
扇の上の目は、竈ではなく、俺の方を見ている。
「焼いた物がいいわね。焼けたのを、すぐ此処で頂くの」
鶏は、腿を外した残りが、まだ二羽分ある。
夜は、串に打って焼く事にした。
***
冥界の夏には、蝉が居ない。
外の世界の夏の夕方なら、川沿いの並木で、蜩が鳴き交わしている頃である。
此処の夕方は、竈の火が爆ぜる音の他には何の音もしなくて、空だけが、白っぽい色のまま少しずつ暗くなってゆく。
暑さの方は、日が傾いても一向に引く気配が無く、土間には昼の熱気が、湿った布でも掛けたように籠もったままだ。
七輪は、台所の隅で埃を被っていた物を、妖夢に断ってから使わせてもらう事にした。
竈の熾火を火箸で移し、上から炭を足して、団扇で扇いで火を起こす。
据えたのは、上がり框のすぐ下の土間で、幽々子の膝の、斜め前の辺りである。
鶏は昼のうちに一口大に切り分けて、竹串に打っておいた。
胸と、手羽と、皮と、葱を間に挟んだ物と。
夏の事なので、打った串は鍋に並べて、夕方まで靄に冷やしておいてもらったのである。
塩を振って網に並べると、すぐに皮から脂が滲み出して、炭の上へ落ちてはじゅっと鳴り、白い煙が立ち上る。
その煙を団扇で横へ払いながら、串を一本ずつ返してゆく。
皮の串は、脂が落ちる度に炭がぱっと赤く燃え立つので、目を離すとすぐに焦げてしまうのだ。
焼き鳥には、串打ち三年、焼き一生、と言う言葉があるのだと、学校で誰かが言っていた。
三年どころか、串を打った事など数える程しか無い俺の串は、刺した所が一切れずつ真ん中から少しずつずれていて、火の通りも一本ずつ違ってしまう。
焼いている間は、網の上から一時も目を離せないのである。
七輪の火は、竈と違って、真下から顔に来る。
屈み込んでいるので熱をまともに浴びる事になり、手拭いの鉢巻きなどとうに役に立たなくなって、汗は額からもこめかみからも、好き勝手に流れ落ちてくる。
膝を突いた土間の土まで、七輪の熱で温まっているのではないかと思う程だ。
幽々子は、上がり框の上から、昼と同じように扇で俺を扇いでいる。
俺が団扇で炭を扇いで、その俺を、幽々子が扇で扇いでいるのだから、傍から見れば、随分と間の抜けた絵に違いない。
焼けた串を皿に取って渡すと、扇が閉じて、膝の上へ下りる。
串の先の一切れを、唇の間へそっと引き抜いて、熱そうに少しだけ口を開けたまま噛んで、飲み込んで、それから、もう次の一本へ手が伸びているのだ。
食べ終われば、また扇が開いて、俺の方を扇ぐ。
それを何度か繰り返すうちに、肉の無くなった串ばかりが、皿の端に見る見る溜まってゆく。
「皮のが、一番美味しいわぁ」
脂の滲んだ皮の串を三本続けて平らげてから、幽々子が、閉じた扇を膝の上で転がしながら言った。
焦げる手前まで焼いて、表がぱりっとしたのが良いのだそうで、言われてみれば、皮の串は、確かに皿へ載せた端から無くなってゆく。
もっとも、なにを皿に載せたところで、すぐに無くなってしまうのだが。
右手の菜箸で串を返し、左手の団扇で煙を払っている時だった。
こめかみから頬を伝ってきた汗が、顎の先に溜まって、重たくぶら下がるのが分かる。
下は、焼き網である。
焼いている物の上に汗を落とすなど、料理人のする事ではない。
いつもなら袖で拭う所なのだが、両手は塞がっていて、串はちょうど返し時で、団扇を置けば、煙が幽々子の方へ流れていってしまう。
顎の先で、雫が少しずつ膨らんでゆく。
流石にまずい。
肩口で拭おうと、顎を引きかけた時、顎の下に何かがすっと差し入れられた。
閉じた扇の先だった。
扇の先は、顎の先に一度だけ軽く触れて、膨らんだ雫を掬い取り、すぐに離れてゆく。
目で追うと、幽々子が上がり框から少し身を乗り出していて、その手の扇は、閉じたままだ。
皿の上の串には、もう手が伸びていない。
今は、何も食べていないのである。
「焼いている物に、汗を落としちゃいけないんでしょう? いつも、袖で拭っているものねぇ」
そう言いながら、幽々子は、俺の顔から目を離さずに、その扇の先を、自分の唇へ持っていった。
扇の先が、唇に、そっと触れる。
唇で触れただけなのか、その奥で舌まで触れたのかは、俺の所からは見えなかった。
唇は、扇の先を挟むように一度だけ小さく窄まって、それから、ゆっくりと離れてゆく。
その間、赤紫の目は、ずっと俺を見ていた。
七輪の熱も、団扇の重さも、その間だけは、何処か遠くへ行ってしまったようだった。
扇を閉じるのは、食べる時だけの筈である。
幽々子は何も言わずに扇を開いて、また口元を隠す。
扇の上の目だけが、ゆっくりと細くなった。
焼けた串を差し出す時、この人の目は、いつもこんな風に細くなる。
それが今は、皿ではなく、俺の方を向いている。
ありがとう、の気持ち以上に何かが混ざっている瞳が、少しだけ怖いと思う。
それなのに、怖いよりずっと嬉しいのだから、どうかしている。
俺は、串を返すのも忘れて、その目を見ていた。
顔が熱いのは、七輪の所為ばかりではない。
扇の陰の唇が、どんな形をしているのかを考えるだけで、喉の奥が、からからに乾いてゆく。
昼にあれだけ柄杓の水を飲んだのに、体にはもう一滴の水も残っていないような気すらする。
暑さの所為にも、扇の風の所為にも、もうできそうになかった。
俺はこの人に、どうしようもなく惹かれている。
網の上で、皮の串が一本、ちりちりと焦げる匂いを立てた。
慌てて返したが、端が少しばかり黒くなってしまっている。
白玉楼に来てから焼き物を焦がしたのは、これが初めての事である。
その一本を、自分で食べるつもりで脇へ除けると、扇の上の目が、目敏くそれを見咎める。
「それがいいわ」
少し迷ったが、結局、焦げた串を渋々皿に載せて差し出す。
幽々子は、もう一度、扇を閉じた。