朝晩が冷えるようになって、白玉楼の土間は、竈に火を入れる前のひと時だけ、吐く息が白くなりそうな程に冷え込む。
夏の間はあれ程恨めしかった竈の前が、今では台所で一番居心地の良い所になっていて、熾したばかりの火に手を翳していると、冷えた指の先から、少しずつ温もりが戻ってくる。
上がり框の方は反対で、幽々子の周りに集まる白い靄たちの冷たさは、夏には有り難い涼しさだったのに、この頃は少しばかり肌寒いらしい。
それでも幽々子は、朝の膳が済むと相変わらずそこへ座りに来て、羽織の襟を掻き合わせながら、のんびりと俺の手元を眺めているのだった。
この日の朝、里から戻った妖夢の籠には、無花果がぎっしりと詰まっていた。
紫がかった赤い皮はどれも熟れて柔らかく、先の小さな口が、今にもほころびそうに膨らんでいる。
籠の脇に括り付けてあるのは、新米の袋である。
「無花果は、今年はこれで終わりだそうです。
八百屋の主人が、残りを全部持っていけと」
「あら、全部? 気前がいいのねぇ」
上がり框から身を乗り出した幽々子に、妖夢は、売れ残りです、とだけ答えて、籠を板の間に下ろす。
それから、念を押すように俺の方を見る。
「熟れすぎていますから、今日のうちにどうにかしてください」
指で軽く押してみると、皮の下で実がくにゃりと沈んで、確かに明日まではとても保ちそうにない。
生のまま全部出してしまうのも芸が無いので、半分は砂糖と生姜で煮て、蜜煮にする事にした。
学校の製菓の実習で習った果物のコンポートは、煮た後に冷ましながら、実に蜜を含ませるのだと教わったのである。
昼過ぎに煮ておけば、夕餉の後には、ちょうど食べ頃になっている筈だ。
夕餉の膳には、庭の楓を何枚か敷きたかった。
外の世界の料理屋では、季節の葉を器に敷く事を掻敷と言うのだと、一年目の授業で習っている。
葉が一枚敷いてあるだけで膳の上に季節が来るのだと、いつもは冷淡に点を付けるばかりの先生が、あの時だけは少し嬉しそうに話していた。
もっとも、庭の物に勝手に手を付ける訳にはいかないので、楓の葉を少し貰ってもいいかと妖夢に聞くと、妖夢は少し考えてから、西の端の木なら、と答えた。
「下の枝の、日の当たらない方の葉にしてください。
表の枝は、幽々子様が縁側から眺めていらっしゃいますので」
庭へ出ると、朝の空気は土間よりもさらに冷たく、玉砂利を踏む音が、やけに大きく耳に響く。
春に満開だった桜は、今は黄ばんだ葉を少しずつ落としていて、その間に混じる楓だけが、葉の縁から赤く色付き始めている。
あの朝、俺はこの庭の桜の下で目を覚ましたのである。
半年が経って、同じ庭を、膳に敷く葉を探して歩いているのだから、人の行き着く先と言うのは分からないものだ。
西の端の楓は、言われた通り表の枝を避けて、下の枝の陰になった葉を、一枚ずつ選んで摘んでゆく。
どの葉も縁の方からは紅が差し、真ん中には、まだ夏の青さを残していて、指で摘まむと、葉の付け根から、ぷつりと小さな手応えがあった。
摘んだ葉を手拭いに挟んで縁側の前まで戻ってくると、そこに幽々子が座っていた。
上がり框に居ない時の幽々子は、大抵此処で、扇を口元に当てて庭を眺めているのである。
「ちょっと、此方へいらっしゃいな」
扇の上の目に手招きされて、縁側の下に屈み込むと、幽々子は扇を持っていない方の手を伸ばしてくる。
白い指先が、俺の髪の間に、そっと差し入れられる。
冷たかった。
靄たちに囲まれて朝を過ごしてきた指は、朝露を置いた石のようにひんやりとしていて、その冷たさが髪の根元を掠めた所から、頭の天辺を通って背中まで、ぞくりと走り抜けてゆく。
扇越しでも、扇の風でもなく、この人の指が、初めて俺に触れたのだった。
息を詰めて、じっとしている他無い。
指先は髪の間を探るように二度、三度と動いて、それから、ゆっくりと離れてゆく。
離れた指には、楓の葉が一枚摘ままれていた。
摘んでいる間に、枝から髪へ落ちてきたらしい。
「まだ、半分青いのねぇ」
幽々子は葉を目の高さに持ち上げて、縁の赤と真ん中の青とを、扇の上の目でしげしげと見比べている。
楓の色付きの事を言っているのだろうが、扇の上の目は、葉ではなく、葉の向こうの俺の方を見ているようにも見えた。
「表の木も、まだこれくらいなのよ。
早く、真っ赤になればいいのにねぇ」
紅葉が見たいのかと聞くと、幽々子は、扇の陰で小さく笑っただけで、答えてはくれなかった。
俺はこの人に惹かれている事を、もう何の所為にもしていない。
それでも、扇一本分より内側へ、こちらから踏み込んでゆく度胸は、まだ持てずにいるのである。
髪に残った冷たさの在り処を手で確かめそうになって、俺は慌てて、手拭いに挟んだ葉を持ち直した。
台所へ戻りかけて振り返ると、幽々子は扇の陰で、摘まんだ楓の葉を、指先でくるくると回している。
儚く、奔放で、子供っぽい所さえあるのに、どこか妖艶。
そんなちぐはぐな彼女に、俺はより魅入ってしまっている。
***
彼の親指が、無花果の先の小さな口に掛かって、そのまま実を二つに割り開いた。
皮の下から現れたのは、思っていたよりずっと赤い中身で、蜜に濡れた細かな粒が、ぎっしりと身を寄せ合っている。
割れ目から零れて、料理人の指を伝う、透き通った蜜の一筋。
昼過ぎの台所は、竈の火も落ち着いて、甘い匂いばかりが土間に満ちている。
彼は板の間の端に笊を据えて、小さな包丁の刃先で無花果の皮を一つずつ剥いては、砂糖と生姜を入れた鍋へ並べてゆく。
皮は紙のように薄く、刃先を当てて引くだけで、するすると長く剥けてゆくのが見ていて面白い。
剥かれた実は、白っぽい肌の所々に赤い筋を透かせていて、指で押さえられる度に、柔らかく形を変える。
あんなに柔らかい物を潰しもせずに次々と剥いてゆくのだから、器用な指である。
今朝、あの髪の間に差し入れた指の先には、まだ温かさが残っているような気がした。
もう死んでしまっているけれど、髪の根元は驚く程温かかったのだ。
葉を摘まむだけなら、二度も三度も指を動かす必要は無かったのだけれど、それは彼には黙っておく。
「外の世界でも、無花果は食べるの?」
扇の上から聞いてみると、料理人は手を止めずに頷いた。
生のままでも食べるし、こうして甘く煮たり、煮詰めてパンに塗る物にしたりもするのだと言う。
あんぱんやサンドイッチは手軽に食べられて美味しいのでよく食べるものの、そこに無花果を塗る所は、幽々子には上手く思い浮かばない。
彼曰く、外の世界の人間は、何でも塗ったり挟んだりしたがるものらしい。
そう言えば昔、紫から似たような話を聞いた事があった。
外の世界には焼きそばやカレーを挟んだパンがあるのだと面白がっていたし、メロンパンなるものは名前に反してメロンが挟まっている訳ではないのだと、妙に感心したのを覚えている。
今度それも作ってと頼んでみると、彼はパンを焼いた経験はあまり無いと言いながらも、少し首を捻ってから、やってみますと頷いて、手元に視線を戻す。
とんとん、とまな板の上で、生姜を刻む包丁が軽やかに鳴る。
鮮やかに熟した割れ目から、甘い匂いがふわりと立ち上った。
彼は割った無花果の半分を生のまま小皿に載せて、上がり框の幽々子に差し出す。
扇を閉じて膝に置き、匙で掬って口に入れると、ねっとりとした実が舌の上で崩れて、粒が歯の間で、ぷちぷちと小さく弾けた。
甘い。
けれど、口の中に広がるのは、甘さばかりではない。
熟れた果物にしか無い、ほんの少し青い草のような香りが、甘さの後から鼻へ抜けてゆくのである。
「もう半分も、頂戴」
差し出された皿のもう半分も、あっと言う間に無くなった。
三つ目に手を伸ばしかけると、彼は笑いながら、残りは蜜煮の分だから、と籠を少しだけ自分の方へ引き寄せてしまう。
意地悪ねぇ、と言ってやると、困ったように眉を下げるのが可笑しい。
食べ終えて扇を開き直せば、彼は、指を伝った蜜を、何でもない事のように舐め取っていた。
料理人と言うのは、味を見るのにも指を拭うのにも、まず口を使うものらしい。
幽々子は、扇の陰で唇を舐めた。
夏の終わりから、これがすっかり癖になってしまっている。
彼の一挙手一投足が私を煽るのだ。
何度舐めたかは数えていないけれど、きっと、平らげた膳の数より多いのだろう。
熟れるまで待つと決めたのは、夏の事である。
秋になってからは、待つ目印も決めた。
縁側から見える、表の枝の楓だ。
あの楓の葉が、縁から真ん中まですっかり赤く染まったら、その時は、もう待たなくてもいい。
誰に約束した訳でもなく、幽々子が一人で決めた事だけれど、決めておけば、それまでは扇の陰で舐めておくだけで我慢ができる。
毎朝縁側に出る度に、幽々子は、あの枝の葉の赤みが昨日より少しでも増しているかどうかを、まず確かめるようになった。
今朝見た時は、まだ半分青かった。
袂の中には、料理人の髪から摘まんだ葉が一枚、同じように半分青いまま入っている。
剥き終えた実を鍋に並べると、料理人は竈に鍋を掛けて、火の番の靄に火を弱めてもらってから、上がり框の方を振り返った。
蜜煮は煮上がってから夕餉の後まで冷まして、実に蜜を含ませるのだと言う。
「夕餉の後まで、お預けなのねぇ」
冷めてゆく間に、蜜が実の芯まで染みてゆくのだそうで、煮上がったばかりの物は、まだ外側ばかりが甘いらしい。
「貴方は、待たせるのが上手ねぇ」
料理人は少し困ったように笑って、美味しく食べてもらう為ですから、と答えた。
そうね、と幽々子は頷いてやる。
待たされているのが蜜煮だけではない事は、まだ教えてあげない。
鍋の中で、甘い湯気が、ことことと蓋を揺らし始める。
無花果と砂糖と生姜の混じった匂いが、湯気と一緒に上がり框まで漂ってきて、吸い込む度に、お腹の底がきゅうと鳴りそうになる。
竈の前で鍋の蓋を少しずらして中を覗き込む料理人の頬が、湯気に当たって、うっすらと赤く染まっていた。
あの頬も、もう少しで熟れそうな色をしている。
幽々子は、袂の中の楓の葉を、指先でそっと確かめた。
お預けには、慣れている筈だった。
***
冥界の日暮れも、秋になると外の世界と同じように早くなって、夕餉の支度を始める頃には、土間の格子窓の外がもう薄暗い。
火の番の靄から火を分けてもらって行灯を灯し、羽釜を竈に掛ける。
妖夢が里から背負ってきた新米は、指で掬うと粒がつやつやと青白く透けていて、古い米よりも水気を多く含んでいるので、水加減はいつもより少しだけ控えておく。
冥界に来て、新米を炊くのはこれが最初だ。
外の世界では、新米の季節になると、母が一度だけ土鍋で炊いてくれるのが決まりだった。
南瓜は皮を所々剥いて面を取り、出汁と砂糖と醤油で、崩れないように静かに煮含める。
炊き上がった羽釜の蓋を取ると、白い湯気の下から、一粒一粒が立ったご飯が現れて、甘い匂いが土間いっぱいに広がってゆく。
南瓜の器に、朝に摘んだ楓の葉を一枚ずつ敷くのも忘れない。
縁の赤と真ん中の青とが、南瓜の黄色の下から少しだけ覗いて、これなら膳の上にも、ちゃんと秋が来る筈だ。
支度をしている間も、上がり框からの目が、背中に当たっているのが分かった。
あの夏の夕方から、扇の上の目に見られていると、背中の何処かがどうにも落ち着かない。
今朝、髪に触れたあの指の冷たさを思い出してしまうと、尚更である。
盆に載せて上がり框へ運び、どうぞ召し上がってください、と差し出すと、幽々子は扇を閉じて、膝の上に置いた。
「いただきます」
新米を一口食べた幽々子は、暫く黙ったまま、ゆっくりと噛んでいた。
いつもならすぐに二口目へ伸びる箸が、茶碗の上で止まっている。
「……甘いのねぇ。お砂糖なんて、入っていないのに」
新米は炊き立てが一番甘いのだと言うと、幽々子はもう一度茶碗を見下ろして、それから、もう一口、もう一口と、箸の運びを少しずつ早めてゆくのだから、気に入ってくれたらしい。
南瓜を半分程食べた所で、幽々子は箸を置き、器の下の楓の葉を、指先で摘まみ上げる。
行灯の明かりに透かすと、細かな葉脈が浮かび上がって、縁の赤が、火の色と混じり合って見えた。
「葉っぱまで、乗っているのねぇ」
料理屋では季節の葉を敷くのだと話すと、幽々子は、ふうん、と葉を表に返し、裏に返して、暫く眺めていた。
「これだけは、食べられないのが残念ねぇ」
それから、何も言わずに、葉を盆の端へそっと置く。
葉を摘まむ白い指先から、どうしてか目が離せなかった。
今朝、俺の髪に触れた、あのしなやかな指である。
あの冷たさが、まだ髪の根元に残っているような気さえする。
「もう一杯、頂戴?」
差し出された茶碗を受け取るのが、一拍遅れた。
指先ばかり見ていたのを、気付かれただろうか。
扇の上からでも、扇を閉じていても、この人の目はいつも俺の手元から離れないのだから、見られていない筈が無い。
羽釜からご飯をよそいながら、俺は、自分の顔が竈の火に当たり過ぎたような色をしていない事を祈る。
三杯目の茶碗を空にした幽々子が、膝の上の扇を開き直したのを見てから、俺は竈の脇へ戻って、蜜煮の鍋の蓋を取った。
昼過ぎに煮上げた無花果はすっかり冷めていて、白っぽかった実が、琥珀色に透けている。
蜜の中には薄く切った生姜が沈んでいて、その間を、とろりとした蜜が、行灯の明かりを受けて鈍く光るのが、いかにも甘そうである。
お玉の先で蜜を掬って、手の甲に一滴落とす。
冷めた蜜は、手の甲の上で丸く盛り上がったまま、なかなか流れていかない。
舐めてみると、まず砂糖の甘さが来て、その後から無花果の香りと生姜の辛みが、舌の奥にぴりりと残る。
悪くない。
もう少し生姜を効かせても良かったかもしれないが、幽々子の舌には、これくらいがちょうど良い筈である。
器を取ろうとして顔を上げると、上がり框の扇の上で、赤紫の目が、少しも動かずにこちらを見ていた。
***
料理人の唇の端に、蜜が一粒、残っている。
手の甲から舐め取った時に、付いたのだろう。
竈の脇の行灯の明かりが揺れる度に、その一粒が、小さく琥珀色に光る。
本人は少しも気付いていない様子で、蜜煮を器に取り分けようと、お玉を握り直している。
幽々子は、扇の上から、その一粒を見ていた。
目を逸らそうと思えば、逸らせた筈である。
庭の楓は、まだ半分青い。
熟れるまでは扇の陰で舐めておくだけにすると、自分で決めて、自分で守ってきた事なのだ。
それなのに、目の方が、少しも言う事を聞いてくれない。
扇の陰で、知らないうちに、唇がもう薄く開いている。
昔から、幽々子が誘えば、誘われた者は死んだ。
死に誘うと言うのは、そう言う事である。
遊びに誘うのでも、夕餉に誘うのでも、心から欲しいと思って誘ってしまえば、行き着く先は変わらない。
死んで川を渡り、裁きを受けて、此処へ来る頃には、誰も彼もが白い靄になって、もう話す事も、物を作る事もできなくなっている。
台所の幽霊たちが、黙って膳を作るように。
けれど、この料理人は、川も渡らずに、死んだ時の姿のまま、此処へ落ちてきた。
誘ったところで、これ以上何処へも行きようが無いし、明日になっても、きっと同じ手で鍋を振っている。
殺してしまいたい程、欲しい。
胸の奥から、その言葉が、何の前触れも無く浮かび上がってきた。
怖いとは、少しも思わない。
ただ、口の中がじわりと熱くなって、喉が小さく鳴っただけである。
楓は、まだ半分青い。
分かっているのに、幽々子の手は、もう扇を閉じていた。
閉じた扇を、膝の上ではなく、上がり框の板の上に置く。
ことり、と小さな音。
足袋の足を、上がり框の縁から土間へ下ろす。
一度も下りた事の無かった土間は、足袋の裏から、ひやりとした土の冷たさをじかに伝えてきて、幽々子は思わず、爪先を少しだけ縮めた。
付いてこようとした幽霊たちが、上がり框の縁で、戸惑ったように揺れている。
竈の脇までは、ほんの数歩である。
春から毎日、上がり框から眺めてきた隔たりなのに、自分の足で歩いてみると、拍子抜けする程に近い。
一歩ごとに、足袋の裏で、土間の細かな砂がざらりと鳴る。
料理人が、振り返った。
蜜煮の器とお玉を持ったまま目を丸くして、土間に立っている幽々子の足元と顔とを、何度も見比べている。
春から、幽々子が土間に下りた所など、一度も見た事が無いのだから、無理も無い。
何か言おうとして開きかけた唇の端に、蜜の一粒が、まだ光っている。
幽々子は、料理人のすぐ前に立った。
竈の残り火の熱と、彼の体の熱とが、一度に顔へ寄せてくる。
扇の無い顔を、こんなに近くで人に見せるのは、初めての事である。
見上げると、料理人の顔は、思っていたより少し高い所にある。
少しだけ背伸びをして、顔を寄せる。
舌の先で、唇の端の蜜を掬った。
甘い。
砂糖の甘さの後から、無花果の香りと生姜の辛みが、舌の上にぴりりと広がってゆく。
昼に生のまま食べた時より、ずっと深い甘さだった。
冷めてゆく間に、蜜が芯まで染みたのだろう。
待たされた分だけの事は、ちゃんとある。
けれど、一粒の蜜は、舌の上ですぐに溶けて、無くなってしまった。
それでも、幽々子は離れなかった。
蜜の消えた跡に、もう一度、舌の先を当ててみる。
今度は、何の味もしない。
いや、違う。
蜜よりもずっと薄い、けれど蜜には無い味が、そこにはあった。
温かくて、柔らかくて、竈の煙の匂いが微かに混じっていて、何度舌を当てても、少しも減ってゆかない味である。
舌の先で確かめる度に、その味は、少しずつ濃くなってゆくような気さえした。
唇の端から、唇の上へ、舌の先を少しだけ滑らせる。
彼の息が、止まった。
二人の間で、蜜煮の器が小さく揺れて、中の蜜がとろりと傾く。
幽々子は、その唇に、自分の唇を重ねた。
目は、閉じなかった。
間近にある彼の目が、驚いたように大きく見開かれて、それから、ゆっくりと伏せられてゆくのを、幽々子は一つも見逃さずに見届ける。
脳髄の奥から、熱いどろりとした感情が溢れる。
気持ち良い。
伏せられた睫毛の先が、行灯の明かりを受けて、頬に細い影を落としている。
重ねた唇は少しだけ乾いていて、熱かった。
足袋の裏には土間の冷たさがじかに沁みてくるのに、唇が、熱い。
その熱が、幽々子の唇から舌へ、舌から喉の奥へと、じわじわと沁み込んでくる。
少し遅れて、料理人の唇が、応えるように小さく動いた。
扇を持っていない手を、どうしていいのか分からない。
ずっと、扇ばかり持ってきた手である。
幽々子はその手で、料理人の白い上着の胸元を、そっと掴んだ。
布越しに、竈の前で一日立ち通した体の熱が、掌へじんわりと伝わってくる。
幽霊たちに囲まれて冷えきった掌には、それが、火傷しそうな程に熱い。
掴んだ布を、もう少しだけ、自分の方へ引き寄せる。
唇を、もう一度重ね直す。
蜜の甘さは、もう何処にも残っていない。
それなのに、離れる気には、少しもならなかった。
長い長い間、何を食べても次の膳が来れば忘れてきた舌が、この味だけは、少しも手放そうとしないのである。
私は、この人が欲しい。
扇の陰で何度唇を舐めても少しも足りなかった物が、此処にあった。
どれくらいそうしていたのかは、分からない。
唇を離すと、料理人は蜜煮の器を持ったまま、耳まで赤くなって固まっている。
唇の端の蜜は、もう跡形も無い。
幽々子の唇の方は、まだ、じんと熱を持ったままだ。
扇の無い口元を隠す事も、すっかり忘れていた。
「……蜜が、付いていたのよ~」
嘘ではない。
付いていたのは本当で、それを舐め取ったのも本当で、その後の事に、名目が何も付いていないと言うだけの事である。
料理人は、器を持ったまま、ただ幽々子の顔を見ている。
その目の中に、驚きの他に何があるのかは、扇の上から眺めていた時よりも、ずっとよく分かる。
それでいい。
私が貴方に飢えるのと同じくらい、いや、それ以上に私に飢えて、そして骨の髄まで私好みの味になってしまえばいい。
幽々子はくるりと背を向けて、土間を上がり框まで戻った。
足袋の裏に付いた土を払いもせずに框へ上がり、置いたままの扇を、指先でちょんと叩く。
「これ、今夜、私のお部屋まで届けて頂戴ね」
扇は、上がり框の板の上に置いたまま、手に取らなかった。
幽霊たちを引き連れて廊下へ出ると、扇の無い手が、袖の中で行き場を探して、何度も握ったり開いたりする。
擦れ違う幽霊たちが、扇の無い主の口元を、珍しそうに覗き込んでゆくので、幽々子は袖で口元を覆った。
袖の内側で、唇がまだ笑っている。
楓の色など、もうどうだって良かった。
***
上がり框に置き去りにされた扇を、そっと拾い上げる。
閉じた扇は思っていたよりずっと軽く、白い親骨が秋の夜の空気に冷えて、掌にひんやりと馴染む。
開いてみようとは思わなかった。
この扇が口元を隠している所しか、俺は知らないのである。
洗い物を済ませて土間の行灯を消しても、唇の端には、まだあの舌の感触が残っていた。
蜜を舐め取られた所が、そこだけ、冷たいような熱いような、妙な具合にじんとしている。
何度か手の甲で拭いかけては、その度に手が止まる。
拭ってしまったら、それきり消えてしまいそうな気がしたのである。
蜜煮の器は、結局、竈の脇に置いたまま、誰も手を付けていない。
あの人が、出された物に手を付けずに台所を出ていった事など、春からこの方、一度も無かった。
コックコートを脱いで作務衣に着替え、扇を手に土間を出る。
夜の廊下と言うのは、昼よりもずっと長く感じられるものだ。
雨戸の隙間から庭の冷気が忍び込んできて、作務衣の袖の中まで冷やしてゆく。
角を一つ曲がった所で、手燭を提げた妖夢と行き会った。
妖夢は、俺の手の扇を見て、それから俺の顔を見て、何も聞かなかった。
「……突き当たりの、右のお部屋です」
それだけ言うと、妖夢は律儀に一礼して、手燭の灯りごと廊下の向こうへ戻ってゆく。
すれ違いざまに見えた横顔は、相変わらずにこりともしていなかったが、止めようとする気配も、少しも無かった。
突き当たりの部屋の障子には、行灯の明かりが、ぼんやりと滲んでいる。
障子の前で、暫く立ち尽くした。
扇を届けに来ただけなのだと、自分に言い聞かせる程、手の中の扇が、どんどん重くなってゆく気がする。
意を決して声を掛けると、中から、間延びした声が返ってきた。
「お入りなさいな」
障子を開けると、広い座敷の真ん中の、行灯の傍に、幽々子が膝を崩して座っていた。
帽子は被ったままで、周りには、いつものように白い靄が幾つも漂っている。
扇の無い口元を、今は羽織の袖で隠していて、その袖の上から、赤紫の目がこちらを見上げている。
部屋の中の方が、廊下よりもさらに冷たいくらいである。
「遅かったのねぇ。
扇が無いと、口元が寂しくて仕方が無かったのよ~」
それから幽々子は、周りの靄たちを見回す。
「ねぇ、皆。少しの間、外へ出ていてくれる?
今夜は、冷えるのよ」
幽々子が言うと、靄たちは一つ、また一つと障子の隙間を擦り抜けて、廊下の方へ出ていった。
最後の一つが出てゆくと、部屋の冷たさが、すうっと引いてゆく。
障子の向こうには、靄たちのほの白い光が、幾つも滲んで浮かんでいる。
扇を差し出すと、幽々子は袖を下ろして、扇を両手で受け取った。
受け取る時に触れた指先は、やはり、朝と同じように冷たい。
受け取っても開かずに、自分の膝の傍の畳に置く。
それから、空いた手で、自分の隣の畳をぽんぽんと叩く。
「此処に、いらっしゃいな」
言われた所へ座ると、肩と肩の間は、もう扇一本分も無かった。
扇の無い幽々子の顔を、竈の熱も湯気も無い所で見るのは、初めての事だ。
行灯の明かりを受けた頬は思っていたよりずっと白く柔らかそうで、扇にも袖にも隠れていない唇が、今は少しだけ笑っている。
台所で、あの唇が俺の唇の端に触れたのだと思うと、それだけで、また顔が熱くなってくる。
綺麗だと思った。
思ったら、もう口から出ていた。
一度口から出てしまえば、後の言葉も、もう止まらない。
春に、桜の下で扇の上の目を見た時から、ずっと惹かれていたのだと、俺は言った。
この人が好きなのだと、何とか最後まで言葉にした。
言い終えてみると、膝の上の手を、知らないうちに固く握っている。
幽々子は、扇の無い口元で、ふふ、と笑った。
「知っていたわよ~。
夏の頃から、ずっと顔に書いてあったもの」
それから幽々子は、俺の右手を取った。
手首ではなく指の付け根の辺りを、冷たい指で掬うように持ち上げて、甲を上に向ける。
「春からねぇ、ずっと知りたかったのよ。
ここが、どんな味がするのか」
料理の味見をしていた所の事を言っているのだろうか。
本当ならスプーンなどでしなければならない事を、惰性でやってしまっていただけである。
見られていたと言う事だけでも、かなり恥ずかしい。
幽々子は、目を俺から離さないまま、手の甲に唇を寄せた。
柔らかい物が触れて、それから、濡れた温かい物が、ゆっくりと一度だけ肌の上を這う。
背中が、ぞくりと粟立った。
夏に袖口から靄を入れられた時とは、まるで違う震え方である。
手を引こうとは、少しも思わなかった。
「……しょっぱいのねぇ」
夕方に、ちゃんと洗った筈の手である。
料理ではなく、自分自身の味なのだろうかと思うと、耳の先までかっと熱くなる。
幽々子はと言えば、何か美味しい物でも見つけたような顔で、もう一度、手の甲に唇を当てている。
「私はねぇ、夏の頃から、ずっとお腹が空いて仕方が無かったの」
手の甲に頬を寄せたまま、幽々子はのんびりと言った。
その言葉の意味が分からない程、俺も鈍くはない。
好きだとは、言われなかった。
けれど、この人の口から出る言葉の中で、それはきっと、一番正直な言葉なのだと思う。
「秋の夜は、長いのよ~。
もう少し、此処に居なさいな」
肩に、幽々子の頭の重さが、そっと乗った。
帽子の縁から垂れたベールが、頬を掠めてくすぐったい。
握られたままの手の甲が、行灯の明かりの中で、まだ少しだけ濡れて光っている。
「……貴方の手、温かいわ」
幽々子は、握ったままの俺の手を、自分の頬へ持っていった。
靄たちに囲まれて冷えきっていた頬が、掌の中で、少しずつ俺の手の温度に馴染んでゆく。
柔らかかった。
指を動かせば、そのまま頬を撫でてしまいそうで、俺は掌を、そっと添えたままにしておく。
行灯の火が、小さく揺れる。
閉じた扇は、その夜、一度も開かれなかった。