夜のうちに降り積もった雪は、白玉楼から音と言う音をすっかり吸い取ってしまったらしい。
夜明け前に部屋を出て台所へ向かうと、雨戸の隙間から覗く庭はまだ暗いのに、地面だけがぼんやりと白く浮かんでいて、玉砂利も植え込みも、春に俺が目を覚ましたあの桜の根元も、同じ厚みの白にすっぽりと覆われている。
冥界で迎える、初めての冬である。
外の世界なら、今季一番の冷え込みだとでも天気予報が言い出しそうな朝で、廊下の板を踏む足の裏から、冷たさが脛の骨まで這い上がってくる。
土間に下りると、中は外と殆ど変わらない程に冷え切っていて、吐いた息が目の前で白く濁っては、ほどけてゆく。
水瓶には薄い氷が張っていて、柄杓の底で軽く叩くと、ぴしりと小さな音を立てて幾つかに割れた。
竈の灰を火箸で崩してみれば、ゆうべ火の番の靄が埋めておいてくれた熾火が、灰の下で、まだ赤く息をしている。
焚き付けを足して細い薪を組み、火吹き竹で何度か吹いてやると、ようやく炎が立って、竈の口から、冷えた顔へ熱が押し寄せてきた。
かじかんでいた指の先に、じんと血が戻ってくる。
年の暮れからこっち、この竈の火を落とした日は、一日も無い。
二十八日からおせちに取り掛かって、煮しめを炊き、一晩水に浸けた黒豆を半日かけて煮含め、昆布を巻いて、三段の重箱を、大晦日の夜にどうにか詰め終えたのである。
おせちと言うのは、三が日のあいだ台所の火を休ませる為に、日持ちのする物を暮れのうちに作っておくものなのだと、行事食の授業で聞いた覚えがある。
諸説あるらしいが、もしその説の通りなら、白玉楼の台所の火は少しも休めていない。
三段の重箱は、元日の昼には、もう底が見えていたのだ。
勝手口の外の雪に埋めておいた控えの分も、二日のうちに掘り出す端から無くなって、三が日は結局、毎朝雑煮の餅を焼き、昼と夜にはいつものように鍋を振った。
いくらでも食べる主の正月と言うのは、こう言うものらしい。
その代わり、と言うのも変な話だが、俺の方は、年の暮れから一度も座って食べていない。
いつもなら、幽々子が台所を出ていった後に、残った物を立ったまま掻き込むのだが、この暮れからは、その残りと言う物が出ないのである。
腹に入れた物と言えば、味見の分と、力不足にも見栄えをよくできなかった多少の食材たち、そして羽釜の底のお焦げを一摘まみするくらいのものだろうか。
死んでも腹は減るのだと、春に知った。
冬になっても、それは少しも変わらない。
今日は、一月七日である。
松の内の最後の朝で、膳は七草粥と決めていた。
七草は、昨日の昼過ぎに、妖夢が庭の雪を掻き分けて摘んできてくれた物だ。
二百由旬もあると言う庭の、何処の雪の下に何が生えているのか、庭師と言うのは、ちゃんと分かっているものなのだろう。
もっとも、雪の下から見つかったのは、ナズナ、ハコベラ、ゴギョウの三つだけで、セリ、ホトケノザは、どうしても見つからなかったのだと、妖夢は申し訳なさそうに言っていた。
スズナとスズシロは、蕪と大根の事なので、台所にある物で足りる。
七草粥と言うには二つ足りないが、雪の中から摘んできてもらった物に、文句を言う筋なんて全く無い。
むしろ有難い気持ちしかなかった。
桶に汲んだ水は、手を入れた途端に指の骨まで沁みる程冷たくて、ナズナの細かい葉の間に挟まった土を洗い流しているうちに、両手の甲が見る見る真っ赤になってゆく。
地面に張り付くように広がっていたと言う葉はどれも小さく、指で摘まむと、雪の冷たさがまだ葉の奥に残っているような気がした。
洗った葉を俎板に並べて、細かく刻む。
包丁が俎板を叩く音だけが、雪に音を吸われた土間に、やけに大きく響いている。
一番大きな鍋で炊いている粥は、米がほどよく割れて、とろりとした白い湯気を立て始めていた。
刻んだ蕪と大根を鍋に入れた頃、廊下の方から、ひやりとした気配が先に土間へ流れ込んできた。
夏も秋も、朝の膳を座敷で済ませてから台所へ来ていた幽々子が、冬になってからは、朝の膳から此処で食べるようになった。
屋敷の中で、朝一番に火の入る所が、此処だからだろう。
上がり框には、冬になってすぐに火鉢を一つ置いてもらっていて、靄たちは主の言い付けで、その火鉢から少し離れた板の間の隅に、寄り集まるようにして浮かんでいる。
冬の靄の冷たさは、夏の涼しさとは訳が違うのである。
「おはよう。今朝は、随分積もったわね~」
羽織の上から綿入れを重ねた幽々子は、火鉢の傍に膝を崩して座り、白い指を炭の上に翳す。
扇は、帯に差したままである。
秋のあの夜から、二人きりの時、幽々子は滅多に扇を開かなくなった。
扇の陰にずっと隠されていた口元を、今では毎朝、こうして竈の前から盗み見る事ができるのだ。
寒さの所為か、唇の色はいつもより少し淡くて、火鉢の熱に当たっているうちに、ゆっくりと赤みが戻ってゆく。
炭火に透けるような指先と、その向こうの、もう隠されていない口元とを、俺は鍋を掻き混ぜる手を止めずに、何度も見てしまう。
見られている事くらい分かっている筈なのに、幽々子は何も言わずに、小さな欠伸を一つ、隠しもせずにしてみせた。
そこへ勝手口の戸が開いて、冷たい風と一緒に、妖夢が入ってきた。
肩にも髪にも雪を載せたまま、頬を真っ赤にしている。
その顔が見えた途端、幽々子の手が帯の扇を抜いて、すっと口元に開いた。
どうやら扇は、今では、俺以外の誰かの為の物になったらしい。
「西の渡り廊下と、縁側の前までは雪を掻いておきました。
幽々子様、縁側の先はまだ凍っておりますので、お出になる時は、足元にお気を付けください」
「あら、ありがとう。後で、雪を見に行こうかしら」
妖夢は頷いてから竈の前へ来て、俺の手元を覗き込み、鍋の中に散った青い物に目を留める。
「……セリは池の端に毎年出るのですが、すみません。
やはり、今年は氷の下でした」
池の氷を割ってまで摘んでもらう物でもないので、改めて礼を言うと、出会った頃より幾分も柔らかな笑顔が返ってきた事にほっとした。
粥が炊き上がるにはもう少し掛かると言うと、幽々子は扇の陰で、それなら雪を見てくるわ、と腰を上げた。
妖夢がその後ろに付き、靄たちもぞろぞろと、主を追って廊下へ出てゆく。
一人になった土間で、刻んだ青菜を鍋に散らし、塩を一つまみ落とす。
お玉の先で掬った粥を手の甲に一滴落として舐めると、米の甘さの奥から、青菜の苦みが、微かに後を追いかけてきた。
途端に、腹がきゅうと縮む。
一滴舐めたくらいでは、空いた腹の事を、余計に思い出させるだけなのだ。
それでも、鍋を前にして、自分が食べたいと思う事は、不思議と殆ど無かった。
暮れからこっち、重箱が空になる度に、雑煮の椀が空になって戻ってくる度に、俺は腹の代わりに、胸の何処かが膨れてゆくような心持ちがしていたのである。
あの人が平らげてくれさえすれば、それで十分だった。
食べさせる側に立っているのが、俺には一番落ち着くのだ。
鍋の中で、粥が、ふつふつと小さな音を立て始めている。
***
西行寺幽々子は、自分が冥界で幾つの冬を越してきたのか、一つも覚えていない。
雪が降れば、毎年こうして縁側から庭を眺めてきた筈なのだけれど、どの冬の雪も、朝に食べた物と同じで、次の冬が来る頃にはすっかり忘れてしまっている。
だから幽々子にとって、庭に積もる雪は、いつだって初めて見る雪のように白いのだ。
妖夢が掻いてくれた縁側の前の雪は、道の両脇に高く積み上げられていて、その上に、また新しい雪が、音も無く降り積もってゆく。
灰色の空からは、ちぎった真綿のような雪が、後から後から落ちてくる。
ふっくらとしていて、いかにも柔らかそうで、搗き立てのお餅を細かくちぎって空から撒いたら、きっとこんな風に見えるのだろう。
美味しそう、と思う。
思った時にはもう、幽々子は空を仰いで、舌の先を少しだけ覗かせていた。
一片が、舌の上に落ちる。
冷たい、と感じる暇も無かった。
雪は舌に触れた途端に、形も、冷たさも、味さえも残さずに消えてしまって、後には、ほんの少し湿った舌の先があるだけである。
美味しいとも、不味いとも思えない。
食べた、と言う気さえしなかった。
もう一片、と口を開けたまま待っていると、後ろで雪掻きの手を止めた妖夢が、深々と溜め息をつく。
「幽々子様、はしたないです」
「だって、美味しそうだったのよ~」
「雪など、いくら召し上がっても、お腹の足しにはなりません。
三が日だけで、お雑煮のお餅を六十と七つも召し上がった方が、何を仰るのですか」
どうやら、ずっと数えていたらしい。
幽々子は舌を引っ込めて、扇の陰で、ふふ、と笑ってやる。
廊下の奥からは、青い草の煮える匂いが、冷たい空気に混じって、微かに流れてくる。
美味しかったのだから、仕方ない。
彼が作ってくれるのだから、食べてしまうのである。
上がり框に戻ると、火鉢の傍に、もう膳の支度ができていた。
湯気を立てる七草粥の椀に、梅干しの小皿が一つと、木の匙。
椀の脇の箸袋には、綺麗な字で、幽々子様、と書いてある。
大晦日の夜に、彼が書いた物だ。
思っていたよりも角張った、一画ずつ丁寧に止めた字で、元日から毎朝、幽々子はこの箸袋から箸を抜いては、食べ終えると洗わせて、また袋に戻させてきた。
両端の細い、柳の祝い箸である。
片方の端は神様の為の物で、人が使うのは、もう片方の端だけ。
板の間の端には、妖夢の膳がもう一つ据えてあって、そちらの箸袋にも、妖夢、としっかり書かれている。
「いただきます」
扇を閉じて膝に置き、匙で掬った粥を口に運ぶ。
米の甘さの後から、青菜の微かな苦みが舌の奥に残って、蕪と大根は、噛む前に舌の上で崩れる程に柔らかい。
三が日のあいだ、お重とお雑煮ばかり詰め込んできたお腹に、この淡い味が、すうっと沁み通ってゆく。
妖夢は自分の一杯を手早く平らげると、まだ雪の残っている所がありますので、と言って、また雪の中へ出ていった。
一杯目は、あっと言う間に空になる。
二杯目をよそいに来た料理人は、椀を置くと、すぐに竈の前へ戻ってゆく。
三杯目に、匙を入れた時だった。
竈の前から、くう、と細く長い音が聞こえてきた。
料理人の、鍋を掻き混ぜる手が、ぴたりと止まる。
それから何事も無かったように、また掻き混ぜ始めるのだけれど、白い上着の背中が、心なしか小さく縮こまって見えた。
幽々子は、匙を口元で止めたまま、その背中を眺める。
今のが何の音かは、誰よりもよく知っているのだ。
何しろ、自分のお腹から、毎日のように聞こえてくる音なのだから。
けれど、彼のお腹からその音を聞いたのは、春からこの方、これが初めてだったものだから。
親近感のような、可愛げのようなものを覚えて構いたくなってしまう。
膳の箸袋に、もう一度目を落とす。
幽々子の分と、妖夢の分。
元日の朝から、この台所に並ぶ祝い箸は、ずっとこの二膳きりである。
料理人の為の箸袋は、何処にも無い。
そう言えば、と幽々子は思う。
春から、この台所で数えきれない程の膳を平らげてきたけれど、彼が座って何かを食べている所を、一度も見た事が無いのだ。
私を焦がす、あの手の甲を使った味見なら毎日のように見ている。
指を伝った蜜を舐め取る所も、秋に見た。
けれど、一口を口に入れて、噛んで、飲み込む所は、何も知らない。
夏に一本だけ焦がした皮の串も、彼は自分で食べるつもりで脇へ除けていたのに、結局、幽々子が貰ってしまった。
彼の作った物は、いつだって、一つ残らず幽々子のお腹に収まってきたのである。
夏の暑い盛りに、柄杓の水を飲む彼の喉を、上がり框から見ていた事がある。
水を一口飲み込む度に、喉の骨が、大きく上下していた。
あの喉が、物を飲み込む所を見てみたい。
いや、と幽々子は思い直す。
私は、あの喉が、私の差し出した物を飲み込む所が見たいのだ。
食べてしまいたいと思っている相手に、食べさせる。
良く考えてみれば、人類が遥か太古から行っている事である。
御伽噺ですら、肥やしてから食べるのが定石なのだ。
妙な話だけれど、一度思い付いてしまうと、これ程当たり前の事も無いような気がしてくる。
沢山食べて、私の為に備えてもらおう。
長い目で見るのならば、彼が物を食べるのと、私が食べたのとは、そう変わらないのかもしれない。
三杯目の粥を、幽々子はゆっくりと平らげた。
最後の一匙を飲み込んでから、匙を椀に戻し、空になった椀を、竈の前の背中に向かって差し出す。
「ねぇ。お粥、まだ残っているかしらぁ?」
***
鍋の底に残っていたのは、ちょうど椀に一杯分だった。
お玉で底をこそげるようにして、鍋肌に張り付いた所まで残らず浚い、椀に移す。
さっきの腹の音は、きっと上がり框まで聞こえていただろう。
幽々子が何も言わないのが、かえって居た堪れない。
椀を持って上がり框へ行くと、幽々子は火鉢の傍で、閉じた扇を膝に置いたまま待っていた。
椀を膳の上に据えると、幽々子は添えてあった木の匙を手に取る。
夏に、甘酒のシャーベットを掬っていたのと、同じ匙である。
幽々子はその匙で粥を掬い上げると、自分の口へは運ばずに、匙の上へ、ふう、と息を吹きかけた。
息が、白かった。
冷え切った土間の空気の中で、幽々子の吐いた息は、匙から立ち昇る湯気と混じり合って、白く広がってはほどけてゆく。
そう言えば、俺の息も、朝からずっと白い。
死んでいる人間の息でも、冬になれば、ちゃんと白く見えるものらしい。
竈の前から毎朝見ていた筈のその白さを、こんなに近くで見るのは、初めてだった。
窄めた唇から、ふう、ともう一度、細く長い息が吹きかけられる。
吸い寄せられてしまうようなあの唇が、今は寒さに少しだけ色を淡くして、匙の先に向かって、小さく尖っている。
此処での生活で何度も見ている仕草だと言うのに、俺は毎度、その唇から、目が離せなくなってしまう。
ぼーっとしている間に、幽々子は冷ました匙を、俺の口の前へ差し出してきていた。
「召し上がれ~?」
一瞬、何をされているのか分からなかった。
匙の上では、白い粥の中で、刻んだナズナの青が、細い湯気を立てている。
その匙が、俺の唇の、ほんの少し手前で止まっているのである。
主の膳の物を、料理人が頂く訳にはいきません、と言うと、幽々子は匙を引っ込めもせずに、小さく首を傾げた。
「えぇ、貴方がよそってくれた、とっても美味しい私のお粥よ~。
だから、私の物。
私がどうしようと、勝手ではないかしらぁ」
この白玉楼では、彼女がルールである。
理屈としては、通っているような気もするし、暴論のような気もするが、そんな事は意味を成さない。
無駄だと分かっているが、後で自分で頂きますから、ともう一度断ると、幽々子は、匙をそこから少しも動かさずに言った。
「あら、私のふーふーは嫌だったかしら~?」
少しでも油断をすれば、こちらの理性ごと溶かしてしまうような声だ。
全て分かっていて、そのうえでこちらを弄ぶ悪い笑みをしている。
言い返す言葉を探しているうちに、腹が、鳴った。
さっきよりも、ずっと大きな音だった。
匙の真下で、静まり返った土間いっぱいに響き渡ったものだから、聞こえなかった振りなど、どう頑張ってもできそうにない。
幽々子は、ふふ、と目を細めただけで、何も言わなかった。
匙は相変わらず、俺の口の少し手前で、じっと待っている。
頭で並べた断りの文句を、腹の方があっさりと裏切ってしまったのだから、もう俺に言える事は、何一つ残っていない。
観念して、口を開ける。
匙が、そっと舌の上に入ってくる。
唇を閉じると、匙がゆっくりと引き抜かれてゆき、口の中には、温かい粥だけが残った。
熱すぎず、かと言って、温くもない。
米の甘さがじんわりと舌に広がって、その後から、雪の下から摘んできたナズナの苦みが、微かに鼻へ抜けてゆく。
さっき、手の甲で一滴舐めた時と、同じ粥の筈である。
それなのに、まるで別の物を口にしているような気がする。
噛んで、飲み込む。
その間、幽々子の目は、俺の口元から少しも離れなかった。
飲み込む時には、その目が、すっと俺の喉の方へ落ちてゆくのが分かる。
喉を見られていると思うと、たった一口の粥を飲み込むのが、妙に難しい。
匙を差し出す時、幽々子の唇も、つられたように小さく開いていた。
人に物を食べさせる時、人は自分の口まで開けてしまうものらしい。
二匙目が掬われて、白い息を吹きかけられ、また差し出される。
もう、断る気にはならなかった。
中学の時、熱を出した母に雑炊を運んだ冬の晩、お椀に息を吹きかけていたのは、母の方だった。
あの時の俺は、枕元に座って、それを見ていただけである。
吹いてもらう側に回るのは、物心が付いてから、きっとこれが初めての事なのだ。
そう思うと、鼻の奥が、少しだけつんとした。
幽々子は飽きもせずに、一匙ずつ粥を掬っては、吹いて、俺の口へ運んでゆく。
匙が椀の底を掻く音がする度に、残りが少なくなる。
空っぽだった腹の底に、温かい物が、少しずつ溜まってゆくのが分かった。
年の暮れから、ずっと忘れていた感覚である。
竈の前に一日中立ち通していても、腹の中にまで火が入る事は無かったのだと、今になって思い知らされる。
最後の一匙を飲み込むと、幽々子は空になった椀に匙を戻して、満足そうに息をついた。
「ごちそうさまでした」
食べたのは、俺の方である。
そう言いかけて、やめた。
扇を閉じたままの幽々子の口元が、一番の好物でも平らげた後のように、すっかり満ち足りた形にほころんでいたからだ。
腹の底が、温かい。
嬉しかった。
***
夜になっても、雪は一向に止む気配が無い。
昼も夕餉も、幽々子は自分の膳を平らげてしまうと、鍋に残った最後の一杯を、当たり前のような顔をして俺の方へ押しやった。
流石にもう匙で運ばれる事は無かったものの、俺が上がり框の縁に腰掛けて食べ終えるまで、扇を閉じたまま、じっとこちらを見ているのだから堪らない。
人に見られながら物を食べると言うのは、思っていたよりずっと落ち着かないものである。
あの人は春からずっと、こんな風に俺に見られていたのだ。
邪な自分を恥じた。
夕餉の片付けを済ませると、竈の後を火の番の靄に頼んで、土間の行灯を消す。
秋のあの夜から、夕餉の後は幽々子の部屋で過ごすのが、日々の決まりのようになっている。
火鉢を挟んで、取り留めの無い話をするのだ。
外の世界の料理の話をする夜もあれば、幽々子がその日に食べた物を一つずつ挙げていって、半分も思い出せずに笑い出す夜もある。
そうして夜が更けると、俺は自分の部屋へ戻って眠る。
台所の竈に火を入れるのは、夜明け前の、まだ真っ暗なうちだからだ。
幽々子の部屋の前の廊下には、靄たちが幾つも、障子の外に寄り集まって浮かんでいる。
あの夜から、靄たちは夜になると、主の部屋の中までは入ってこない。
障子を開けると、部屋の中は火鉢の炭火がほんのりと赤いばかりで、その傍に、寝間着の上に羽織を掛けた幽々子が座っていた。
奥には、もう布団が一組延べてある。
帽子だけは、昼間と同じように被ったままだった。
「いらっしゃい。外は、まだ降っているの?」
まだ降っていると答えて、火鉢の向かいに座る。
雨戸を閉て切った部屋の中は、炭の爆ぜる小さな音の他には、何も聞こえない。
雪が積もると、外の音は殆ど届かなくなるのだと、何処かで聞いた事がある。
屋敷中の物音を雪がすっかり吸い取ってしまって、この部屋の中にだけ、二人分の息遣いが残っているような気がした。
「ねぇ。今朝のお粥、美味しかった?」
自分の炊いた粥の味を、人に尋ねられるのは初めてである。
少し答えに詰まってから、今まで食べた粥の中で、一番美味しかったと答えた。
自分で炊いた物を一番と言うのも可笑しな話だが、本当なのだから仕方が無い。
「ふふっ、そうなのね」
幽々子は火鉢の向こうで、満足そうに目を細めた。
朝の粥の礼を言わなければと思うのに、何と言えばいいのか分からずに、火鉢の炭ばかり眺めていると、幽々子が、ふと両手を自分の頭へ持っていった。
帽子の縁に、白い指が掛かる。
幽々子は、帽子を外した。
両手でそっと持ち上げると、淡い薄紅色の髪が、押さえを解かれたように、ふわりと肩の方へ広がる。
帽子の形に押さえられていた所だけ、髪が少し平たくなっていて、幽々子は指を何度か髪の間に通して、それを梳き直した。
それから、外した帽子を両脇のベールごと丁寧に畳むようにして、枕元に置く。
春、桜の下で初めてこの人を見た時、俺が真っ先に思い出したのは、祖父の棺に納められていた、白い三角の布だった。
この人も死んでいるのだと、あの帽子で分かったのである。
それからずっと、帽子はこの人の体の一部のような物で、外した所など、考えてみた事も無かった。
今、目の前にあるのは、ふんわりと柔らかそうな髪と、炭火の赤い明かりを受けた、白く滑らかな額だけである。
綺麗だ、なんて陳腐な感想すらでないほどに目が離せなくなっていた。
髪の生え際の、産毛のような細い髪の一本一本まで、炭火に透けて見えるのだ。
帽子の跡が残る髪に、気付けば手が伸びかけていて、触れる寸前で、慌てて膝の上に引き戻す。
幽々子は、行き場を失った俺の手を、上機嫌に眺めている。
それから幽々子は、火鉢の傍を離れて布団に入ると、自分の隣の、掛け布団の端を、少しだけ持ち上げた。
何も言わない。
ただ、いつもより熱のある瞳で、俺の方を見ている。
誘われているのだと、少し遅れて分かった。
分かったのに、膝がすぐには動いてくれない。
夜明け前には、竈に火を入れなければならないのだ。
此処で眠ってしまえば、明日の朝の膳は、きっと遅れてしまう。
そう言うと、幽々子は布団の端を持ち上げたまま、小さく笑った。
「明日の朝は、遅くていいわ」
耳を疑った。
この人の口から、朝餉は遅くていいなどと言う言葉を聞く日が来るとは、思ってもみなかった。
それでも、主の寝床にのこのこと入ってゆく訳にもいかない。
膝の上で拳を握ったまま、もう一度口を開きかけた時、布団の中から白い手がするりと伸びてきて、作務衣の袖口を、指の先で摘まんだ。
引かれた力は、ほんの僅かである。
「ねぇ。待たせるのは、お料理だけにして頂戴」
それだけで、俺の膝は、呆気無い程あっさりと畳の上を滑ってゆく。
摘ままれた袖に導かれるまま、持ち上げられた掛け布団の内側へ、体を滑り込ませた。
敷布が、ひやりと肌に触れる。
火鉢の熱も届かない部屋の奥で、夜具はすっかり冷え切っているのだ。
けれど、すぐ傍から身を寄せてきた幽々子の体は、少しも冷たくなかった。
寝間着の布越しに、しっとりと湿り気を帯びた熱が、じわりと肌へ移ってくる。
帽子の無い額が、俺の顎の下に、こつりと押し当てられた。
額は、うっすらと汗ばむ程に熱い。
「……冬なのに、汗をかいてしまいそうね?」
囁かれた言葉と一緒に、湿った吐息が、俺の喉元に零れてゆく。
冷えていた敷布が、二人分の熱で、少しずつ温まってゆく。
すぐ目の前にあるのは、帽子の無い、柔らかな髪である。
この人の匂いが、髪の間から、ほのかに立ち昇ってくる。
雨戸の向こうで、雪は、まだ降り続いているのだろう。
炭火が一つ、小さく爆ぜた。
***
彼の吐く息が、幽々子の額に当たっている。
帽子を外した額は、何だか自分の物ではないように心許なくて、そこに温かい息が掛かる度に、くすぐったいような、むず痒いような心地がした。
布団の中は暗い。
火鉢の炭はもう灰を被って、微かに赤い色を覗かせているだけである。
顔は見えないけれど、額に掛かる息の近さで、彼の唇がすぐそこにある事は分かる。
帽子を外したのは、何時以来だろう。
一人で眠る時には外していた筈だけれど、誰かの前で外した事があったかどうかは、思い出せない。
彼は、随分と長い間、幽々子の額を見ていた。
彼の視線をあんなに簡単に、ずっと奪えてしまえるのなら、もっと早くに外してやれば良かったなと後悔する。
今日、彼は、三度も物を食べた。
一度目は、幽々子の匙から。
二度目と三度目は、幽々子が押しやった椀から。
上がり框の縁に腰掛けて、少し居心地悪そうに背中を丸めながら、それでも一粒残さず平らげて、小さく手を合わせていた。
その温かさが、今、寝間着の布越しに、じんわりと幽々子へ伝わってくる。
私が食べさせた物が、この人を、内側から温めているのだ。
私のお腹は、いつものように、まだ何か欲しがっている。
夕餉も、たっぷり食べた筈なのに。
夏の頃から、私はこの人に飢えている。
飢えている間は、満ちる事など無いのだと思っていた。
それなのに今、胸の何処かが、ひたひたと満ちている。
飢えたまま、満ちている。
そんな未知に、幽々子はひどく、心を揺さぶられていた。
布団の中で、彼の手が、幽々子の手を探し当てて、そっと握った。
指が、温かい。
朝、匙を差し出す度に、この人の喉は、小さく上下していた。
私の差し出した物を、あの喉が、一匙ずつ飲み込んでいった。
思い出すと、口の中に、じわりと唾が湧いてくる。
幽々子は、握られた手をそのままに、少しだけ顔を上げて、彼の唇を探した。
唇が、触れる。
秋の台所では少し遅れて応えた唇が、今夜は、幽々子が触れてくるのを待っていたように、すぐに応えてくれるのだ。
重ねた唇の間から、彼の吐く息が、幽々子の口の中へ流れ込んでくる。
温かかった。
甘くて、美味しかった。
冷えた冬の夜の部屋で、それだけが、竈の前の空気のように温かい。
その息を、幽々子は胸の奥まで吸い込んだ。
彼の胸の奥を通ってきた温かさが、幽々子の喉を下りて、自分の胸の底へ、とろりと落ちてゆく。
吸い込んでも、吸い込んでも、彼は次の息を吐いて、また新しい温かさを寄越してくる。
もっと欲しい、と思った。
この息も、この温かさも、私の手を握る指も、粥を飲み込んでいった喉も、全部。
唇だけでは、とても足りない。
扇の陰で何度唇を舐めても足りなかった物が、今は扇も帽子も無く、何の隔たりも無いまま、すぐ傍に横たわっている。
食べてしまいたい。
この人を、一口も残さずに。
その時、何故か、朝の舌の上の雪を思い出した。
空から落ちてきた一片は、舌に触れた途端に、形も冷たさも残さずに消えてしまったのだ。
美味しいとも不味いとも思う間も無く、後には、何も残らなかった。
食べた物は、無くなる。
そんな事は、ずっと前から知っている。
お櫃の焼き飯も、重箱のおせちも、鍋の粥も、幽々子の食べた物は、一つ残らず無くなってしまう。
何を食べたのかさえ、次の膳が来る頃にはもう覚えていない。
心から欲しいと思って冥界に誘った者は、皆、消えていった。
それでも、この人だけは大丈夫なのだと思っていた。
もう死んでいる者は、これ以上死なないのだから、どれ程欲しがっても、障りは無い。
ずっとそう思って、急がずに、ゆっくりと味わってきたのだ。
けれど、本当にそうだろうか。
もしも、このまま飢えに任せて、この人を全部食べてしまったら。
舌の上の雪のように、この温かい息も、指も、喉も、あっと言う間に消えてしまって、後には何も残らないのではないだろうか。
怖い、と思った。
唇を離す。
何かを怖いと思ったのは、覚えている限り、これが初めての事だった。
脳みそを駆け巡っていた快楽物質が、霧散していく。
扇が欲しい、と思った。
顔を隠してしまいたいのに、扇は、帯と一緒に衣桁に掛けたまま、部屋の向こうの暗がりにある。
幽々子は、掛け布団を頭の上まで引き上げて、その中に顔を埋めた。
暗がりの中で、彼が、少し身じろぎをする。
何か聞かれたらどうしようと思ったけれど、彼は何も聞かなかった。
代わりに、掛け布団の端から温かい手が差し入れられて、帽子の無い髪に、そっと触れた。
いつもは帽子に覆われている所に、彼の掌の温かさが、じかに沁みてくる。
その手は、ゆっくりと幽々子の髪を撫でて、幽々子が身じろぎを止めるまで、ずっと止まらなかった。
雨戸の向こうでは、雪がまだ、音も無く降り積もっているのだろう。
撫でられている間も、お腹の底の飢えは、少しも治まってはくれない。
食べてしまったら、無くなってしまうのに。