夏の川は、底まで見える。
春には腰まで沈んでいた岸辺の浅瀬も、梅雨が明けて半月もすると脛の辺りまで引いてしまい、水は底の石の一つ一つまで透かして見せる、いつもの緑に戻っている。
雪解けの頃のあのよそよそしい青緑が嘘のように流れも大人しくなって、櫓を押せば押しただけ、舟は素直に前へ出てくれるのだ。
舟縁から覗き込めば、日の当たった石の上を、時々、鮎の影がすっと横切ってゆく。
もっとも、川が大人しくなった分だけ、空の方が容赦をしてくれない。
朝のうちこそ川面を渡る風に涼しさが残っているものの、日が高くなるにつれて、真上からの日差しと川面の照り返しとに挟まれて、舟の上はちょっとした蒸し器のような有様になる。
爺さんの置いていった古い菅笠が無かったら、昼を待たずに、頭の方から先に茹で上がっているに違いない。
夏の渡しは、朝が忙しい。
山の裏の方に死者が営む屋台の並ぶ賑やかな道がある、と言う話は、ずっと客の噂で聞いていたものだが、今年の夏になって、本当にそこまで遊びに出掛ける里の人が増えたのである。
暑くなる前に渡ってしまおうと言うので、夜が明けるか明けないかのうちから、小屋の前の縁台には、団扇を手にした客が並んで待っている。
死んだ人の店で飲み食いをして、日の傾く前にはちゃんと里へ帰ってくるのだから、里の人と言うのも中々どうして逞しいものだ。
渡し守さんも一度行ってみなよ、と誘ってくれる客も居るが、そう言う訳にもいかない。
渡し守が渡った先で遊び呆けていたのでは、行った人が誰一人帰ってこられなくなってしまう。
屋台の賑わいは、帰りの舟で客の聞かせてくれる土産話くらいが、丁度いいのだと思っている。
その朝も、日が高くなりきるまでの一刻ばかりの間に、七度か八度は往復しただろうか。
最後の客を向こう岸で降ろして戻ってくる頃には、日に焼けた櫓の柄が、握る掌にじりじりと熱かった。
縁台に戻って菅笠を脱ぐと、目は、ひとりでに川向こうの河原の方へ行く。
日差しが白く溜まっているばかりで、人影は無い。
声も、まだしない。
春のあの日、もう来る事もあるまいと思った客は、十日も経たないうちに、あっさりとまた来た。
昼前に、山の側の河原から、旗には指一本触れずに、春と同じ声で呼んだのである。
それからは、気まぐれである。
三日続けて来る事もあれば、半月の間、声一つ聞かない事もある。
声のしない日が続くと、山の側の河原の方へ目をやる回数がつい増えるが、それは客を見落とさない為で、渡し守としては当たり前の心掛けと言うものだろう。
他に、訳は無い。
来る時は決まって山の側からで、決まって声で呼ぶ。
あの旗が小町の手で振られた事は、今まで一度も無い。
里の客の方も、すっかり慣れたものである。
初めのうちこそ舟底の大鎌に一歩下がっていた人たちが、今では、姐さん、今日も来てたのかい、などと声を掛けながら、当たり前のような顔をして大鎌の柄を跨いでゆく。
春に柄の瘤を撫でていた女の子などは、渡し場で緋色の髪を見付けると、おかみさんの手を振りほどいて土手を駆け下りてくる程だ。
小町の方は、今でも渡る度に一枚ずつ、あの擦り減った古い銭を放ってよこす。
里の店で出せば通るのかもしれないが、三途の川の渡し賃かもしれない銭で米を買う気には、どうにもなれない。
仕方が無いので、小屋の棚に置いた蓋付きの空き箱へ放り込んでいたら、その箱が、近頃は片手で持ち上げるのに少し骨が折れる重さになってきた。
箱の重さは、そのまま小町がこの舟に乗った数で、それだけ乗っていれば、人の口にも上る。
死神が渡し舟に入り浸っていると言う話は、里の方にも回っていたのだ。
先だって米を買いに里へ出た時に、杖をついた爺さんと道で行き合った。
爺さんの口から出たのは、いつもの口癖より先に、死神も銭を払うのか、と言う一言であった。
払う、それも片道ごとに律儀に払う、と答えると、爺さんは白い眉を少し持ち上げて、そうか、と頷いた。
「なら、客だ。
岸の傍は棹で突け。深くなったら櫓に持ち替えろ」
結局いつもの口癖まで付け足して、爺さんは杖をつきつき、娘さんの家の方へ帰っていった。
死神を乗せている事について、爺さんが何か言ったのは、後にも先にもそれきりである。
「おーい! 渡し守さーん! 今日も一人、乗せとくれー!」
山の側の河原から、あの声がする。
菅笠を被り直し、縁台から腰を上げて、棹を掴むまでの手際が、我ながら少し良すぎたような気がしないでもない。
夏の日の下で見る小町は、春に見た時より、ずっと目に強い。
濃い緑に茂った山を背にして立っていると、緋色の髪が、そこだけ火を点けたように浮き上がって見えるのである。
舟に乗り込んで大鎌を胴の間に横たえ、舳先の板に後ろ向きに腰を下ろすと、小町は、暑いねぇ、と言いながら、着崩した胸元を掌でぱたぱたと扇ぎ始めた。
川の半ばで、棹を櫓に持ち替える。
押しながら、目の方は、どうしても前へ行く。
真正面に座っている人を見るなと言う方が無理な相談で、おまけにその人が胸元を扇いでいるのだから、なおの事だ。
扇ぐ度に寛いだ襟元がふわりと浮いて、真上から降ってくる夏の日を、その奥の白い肌が、遮る物も無くそのまま受け止めている。
櫓を押す手が、一つ遅れた。
遅れた分だけ水を掻き損ねて、舳先が、すうっと下手の方へ首を振る。
「おや」
小町は扇ぐ手を止めもせずに、にんまりと目を細めた。
「舳先が流されてるよ、船頭さん」
何に気を取られたのかは、言える筈も無い。
俺は黙って櫓を押し直し、下手を向いた舳先を、元の向きへ引き戻した。
今日は涼みに来たのだ、と小町は言う。
向こうの河には風が吹かないので、夏になると河原じゅうの空気が淀んで、蒸して堪らないのだそうだ。
その点、この川には川風があるからねぇ、と気持ち良さそうに目を細めるのだが、そう言う当人は、菅笠も被らずに、真上から日の当たる舳先に陣取ったまま、少しも動こうとしないのである。
話は、そこから山の裏の屋台の方へ転がっていった。
今朝も通り抜けてきたら、田楽屋の親父が、また客の釣り銭をごまかしていたのだそうだ。
あの屋台と言うのは、地獄で真面目に勤めた罪人が、試しに店を出させてもらう所なのだと言う。
「なのに大抵、ああやって売り上げをちょろまかしてさ、また地獄へ逆戻りなんだよ。
あたいが運んだ客も、何人か居るんだけどねぇ」
馬鹿は死んでも治らない、なんてよく言うものだ。
可笑しいやら呆れるやらで、俺はまた櫓を押しながら笑ってしまった。
昼までに、小町を乗せたまま何度か川を行き来した。
山の側の畑へ向かう女の人は、籠を背負ったまま大鎌を跨いで乗り込み、向こう岸に着くまで、今年の胡瓜は曲がってばかりだと、小町を相手にこぼしている。
曲がってたって齧れば同じ味さ、と小町が言えば、女の人は、そりゃそうだ、と上品に笑った。
昼を過ぎると、客はぱったりと途切れた。
屋台へ遊びに行った人たちが戻ってくるのは日の傾く前の事で、畑に出ている人たちも、この暑い盛りには木陰で昼寝を決め込んでいる頃である。
里の側の杭に舟を舫って、俺は縁台へ上がった。
三本の桜は、春の花がすっかり濃い葉に入れ替わっていて、縁台の上に、丁度いい影を落としてくれている。
小町は、舟から降りなかった。
舳先に腰掛けたまま、舟縁に片肘を掛けて、さっきから岸辺の浅瀬の方をじっと見ている。
何をそんなに見ているのかと、俺も縁台から、小町の目の先を追ってみた。
浅瀬の水は、底の石の上に、日の光を細かな網の目のように揺らしている。
見ているだけで、首筋の汗が引いてゆくような水である。
小町が下駄を脱いだのは、それから間も無くの事だった。
黒塗りの厚底の下駄を、舟底の大鎌の横にきちんと揃えて置くと、舟縁に腰を掛けて裾を膝の上までからげ、素足を二本、舟縁の外へひょいと投げ出す。
舟は、相変わらず少しも揺れない。
「ひゃっ」
素足が水に浸かった途端、小町は肩をすくめて、短い声を上げた。
「いやぁ、涼味満点!夏はやっぱり水辺に限るねぇ」
それも足を引っ込めるどころか、そのまま舟縁から浅瀬へ、すとんと降りてしまうのだから恐れ入る。
水は、小町の脛の半ばまでしかない。
小町は、底の石を確かめるように二、三歩歩いてから、くるりと縁台の方を振り返り、からげた裾を片手で押さえたまま、大きく手招きをする。
「ほら、あんたもおいでよ。気持ちいいよ」
仕事中だから、と首を振った。
客を放って渡し守が川遊びをしていたのでは、示しが付かない。
「客なんか、何処に居るのさ」
両岸を見回してみる。
里の側の土手にも、山の側の河原にも、人っ子一人見当たらない。
向こう岸の旗は、風の止んだ昼下がりの中で、杭に縛られたまま、だらりと垂れ下がっているばかりである。
それでも川には入らないと言い張って、俺は手拭いを濡らしに、水際まで下りてゆく。
これが、いけなかった。
水際にしゃがみ込んで、手拭いを流れに浸した途端、小町が浅瀬の水を、素足で思い切り蹴り上げたのである。
冷たい、と思った時には、顔から胴まで、すっかり水を被っていた。
前髪から雫を垂らしながら見上げると、小町は、からげた裾を押さえて片足を蹴り上げた格好のまま、けらけらと笑っている。
「ほら、もう濡れちまった。
これで、仕事中も何も無いだろ?」
濡れてしまったものは、仕方が無い。
俺は草履を脱ぎ、着物の裾を端折って帯に挟んで、浅瀬に足を入れた。
山の水らしく、夏の盛りとは思えない冷たさで、足の裏に当たる丸い石の感触と一緒に、その冷たさが、脛の方までじんわりと這い上がってくる。
朝から日に炙られ通しだった体には、それが堪らなく気持ち良かった。
「おや」
小町が、俺の足元を見て、目を丸くする。
「あんた、腕は適度に焼けてるのに、脛は真っ白じゃないか。
普段は膝掛けでもしてんのかい?」
見下ろしてみると、袖を捲って日に晒し通しの腕は、もうすっかり渋紙のような色をしているのに、端折った裾から出た脛の方は、いつも着物の裾の中に仕舞われているものだから、自分でも情けなくなる程白い。上等な煽りだった。
笑われっぱなしなのも癪なので、俺はその白い脛で、浅瀬の水を小町の方へ蹴り返してやる。
「やってくれたねぇ……?」
後はもう、子供の水遊びと変わらない。
小町が蹴り上げれば、俺が掬って掛け返す。
俺が掬えば、小町は笑いながら跳び退いて、跳び退いた先から、また蹴り上げてくるのだ。
跳ね上がった飛沫は、一粒一粒が日を透かして光りながら、二人の間にばらばらと降ってくる。
肩と背中は日に焼かれて熱いのに、膝から下は山の水に冷やされ通しで、体が上と下とで別々の季節に居るような、妙な心地である。
からげた筈の小町の裾も、何時の間にか水を吸って重たくなり、濡れた布が脛にぴたりと張り付いている。
蹴り上げる度に、水の中から白い素足が飛び出してきて、濡れた指の先までが、夏の日を受けて光る。
水に戻れば戻ったで、底の石の上で揺らぐ脛が、水の外で見るより少し短く見えて、それがまた、妙に目を引くのである。
気が付けば、俺は掛け返すのも忘れて、それに見惚れていた。
その顔に、まともに水を浴びた。
「あっははは! 何処見てたんだい、あんた!」
小町は、三間ばかり先で、体を二つに折って笑っている。
俺は顔の水を手で拭い、仕返しに、両手で水をたっぷりと掬い上げた。
掬った水を零さないように、そっと顔を上げる。
間の三間が、無くなっていた。
「ばぁ!」
胸の辺りから、弾けるような声が跳ね上がってきた。
三間先で笑っていた筈の小町が、目の前に居る。
目の前どころか、両腕を俺の背中に回して、胸に、ぴたりと抱き着いているのだ。
声だけ聞けば、物陰から飛び出して人を驚かす子供の悪戯そのものである。
しかし、押し当てられた体は、何処を取っても大人の女のそれだった。
背中に回された腕は、水に浸かっていた所為で、濡れた着物越しにもひやりと冷たい。
それなのに、胸から腹にかけて押し当てられた体の方は、互いの着物を隔てていても温かくて、何処も彼処も、驚く程柔らかかった。
顎のすぐ下には緋色の頭があって、昼の間ずっと日向に出しっぱなしだった髪が、日の温もりをそのまま溜め込んでいる。
結び目の硝子玉が、顎の先に、こつんと当たった。
目を落とせば、開いた襟元の肌がすぐそこにあり、跳ねた水の粒が幾つも乗って、鎖骨の窪みに溜まった一粒が、日を受けて小さく光っている。
春の河原で、見てはいけないと慌てて目を逸らした所である。
それが今は、逸らす先も無い程近い。
掬った水は、指の間から一滴残らず零れてしまっていた。
空になった両手を中途半端に持ち上げたまま、その手を何処へやればいいのかも分からずに、俺は浅瀬の真ん中で、棒のように突っ立っているより他無い。
小町は、一息の間、何も言わなかった。
あれだけ喋る口が、俺の胸に頬を押し当てたまま、ほんの一息だけ、黙っていたのである。
その一息が、濡れた着物を通して、胴の真ん中に温かく掛かった。
それが何の間だったのか、俺には分からない。
それから小町は、弾けるように笑い出した。
笑い声は、耳より先に、胸に来た。
押し当てられた体の奥から、笑いがくっくっと揺すり上げてきて、濡れた着物越しに、俺の真ん中へ、そのまま伝わってくるのだ。
ひとしきり笑ってから、小町は抱き着いたまま、顔だけを仰向けて俺を見上げた。
近い。
濡れて額に張り付いた重たい前髪の下で、睫毛の先に水の粒が一つ引っ掛かっていて、その奥の緋色の目が、まだ笑いの残りに細められている。
息の掛かる近さでこんな顔を見せられて、平気で居られる程、俺は出来た人間ではなかった。
「なんて顔してんのさ。
浅瀬の真ん中で突っ立っちまって、舟を舫う杭が一本増えたかと思ったよ」
腕を解いた小町が、ぱしゃりと水を鳴らして一歩下がり、間はようやく、ちゃんと一歩分に戻る。
どうやって、と聞くのが精一杯だった。
「距離をね、ちょいと縮めたのさ。
あたいは、距離を操れるんだよ。
あんたとあたいの間にあった三間を、無かった事にしただけさ」
何でもない事のように言って、小町はまた笑う。
春のあの夕方、土手の上を三歩目で遠ざかり、瞬き一つの後には向こう岸の道の上に居た背中も、これだったのだ。
もっとも、種が分かった所で、胸にまだ残っている柔らかさの方は、無かった事になってくれない。
俺は掬い直した水を、小町にではなく、自分の顔に、ばしゃりと掛けた。
二度、三度と浴びても、顔の熱は一向に引いてくれない。
小町は、それを見て、また腹を抱えて笑っていた。
***
距離を操る力と言うのは、本来、上役から逃げる為にある。
流石に大嘘であるが、少なくとも小町は、長い事、そう言う使い方ばかりしてきた。
三間の隔たりを縮めて、人の胸に飛び込むなんてことに使ったのは、今日が初めてだ。
腕の中の○○は、濡れた着物越しに、硬くて、温かかった。
舳先から何度も眺めてきた、櫓を押す度に張る胸や背中が、いざ腕を回してみると、見ていた以上にしっかりと厚い。
それが、川の水で冷えていた小町の腕の中で、少しずつ熱を返してきたのである。
また抱き着いて揶揄ってやろう、と小町は決めた。
あの硬さと温かさを、一度きりで済ませておく手は無い。
下駄は舟に置いたままなので、浅瀬を出ると、小町は素足のまま土手の草を踏んで上がる。
日に炙られた草が、濡れた足の裏に、ちくちくと温い。
渡し守と並んで葉桜の影の縁台に腰を下ろし、膝から下だけを日向へ投げ出しておけば、濡れた裾も足も、勝手に乾いてくれると言う訳だ。
冷たい川に足を浸して、葉桜の陰で川風に吹かれて、隣には話し相手まで居る。
これ程上等なサボりは、三途の河の土手では、逆立ちしたって味わえない。
隣の彼も、端折った裾から出た脛を、同じように日向へ投げ出している。
足の裏の砂を払おうと前屈みになったその背中に、小町の腕の回っていた所だけが、二本の帯のように濡れて、ぴたりと張り付いている。
小町はそれを見て、少し笑った。
○○の方は、自分の背中の事など知らない顔で、菅笠で顔を扇いでいる。
「その櫓、誰に習ったんだい?」
春に初めて乗った日から、ずっと聞いてみたかった事である。
癖の無い、体ごと預けるような押し方は、誰かがちゃんと手を取って教えなければ、ああはならない。
船頭の目で見れば、それくらいの事は分かるのだ。
○○は扇ぐ手を止めて、少し考えるような顔をしてから、自分は外の世界から来たのだ、と話し始めた。
四、五年前の夏に、気が付いたら、この岸の草の中に倒れていたのだと言う。
そう言って渡し守が顎で示したのは、縁台から少し川下の、夏草が膝の高さまで伸びている辺りだった。
「外来人で、しかも行き倒れかい。よく生きてたねぇ」
○○は苦笑いをして、目が覚めたのは、舟で通りかかった爺さんに、棹の先で突つかれたからだと言った。
その爺さんが、当時の此処の渡し守で、岸の傍は棹で突け、と言うのが口癖なのだそうである。
「そりゃあ、人だったもの、に見られるだろうさ。突かれもするね」
小町が笑うと、渡し守も釣られて、くくく、と肩を揺らした。
それから話は、その後の事へ移った。
行く当ても無いまま小屋に置いてもらっているうちに、櫓まで握らされるようになったのだそうだ。
一番初めに叩き込まれたのは、櫓の握り方より先に、日が落ちたら舟を出すなと言う決まりで、客が岸に上がるのを見届けるまでが一回の渡しだ、と言うのも、同じ爺さんの決まりなのだと言う。
春の晩に舟の上で小町が説かれた決まりは、元を辿れば、その爺さんの物だったらしい。
話しながら、膝の上に置いた渡し守の手が、時々、櫓を握る形にゆるく丸まっては、また開く。
爺さんに教わった時の手付きを、話している口より先に、手の方が思い出しているのだろう。
手が丸まる度に、小町の目も、ついそこへ行く。
小町は、夏草の茂る辺りを眺めた。
その老人はきっと、後継者になってくれる存在を欲していたのだろう。
四、五年前に行き倒れた青年に、渡し守の技術が綺麗に受け継がれているのを見れば、老人の想いも推し量れる。
自分の持つ何かを誰かに渡し、後世に残してやると言うのも、得難い経験であった筈だ。
一方、三途の河の客が小町の手に残してゆくのは、銭の重みばかりである。
掌の上の銭は、重いか軽いかの他に、何も言わない。
気が付くと、小町の口は、さっきから閉じたままだった。
相槌の一つも打たずに、○○の話の続きを待っていたのである。
話は、膝を悪くして里へ隠居した爺さんが、死神の噂を聞き付けた所まで来ている。
銭は払うのかと聞かれて、払うと答えたら、なら客だ、と言われたのだと、彼は少し可笑しそうに話した。
「そいつは、話の分かる爺さんだねぇ」
小町は口端を上げて笑った。
そうとも。あたいは、ちゃんと銭を払っている、立派なこの舟の客なのだ。
それで、そっちは誰に習ったのかと、今度は○○の方が聞き返してくる。
「あたいかい? さぁてねぇ、三途の河にでも聞いとくれ」
誤魔化した訳ではない。
誰の手から櫓を握らされたのか、小町はもう、本当に覚えていないのである。
○○は、それ以上は聞かずに、そうか、と優しく笑っただけだった。
日が、少しずつ山の方へ傾いてゆく。
縁台の影が伸びて、日向に投げ出していた足の先まで届く頃には、裾はすっかり乾いていて、彼の背中の二本の濡れ跡も、何時の間にか消えている。
山の側の河原で、白い旗が大きく振られた。
屋台へ遊びに行っていた客が、戻ってきたのである。
○○は菅笠を被って立ち上がり、それから小町の方を振り返って、もう戻らなくていいのか、と聞いた。
日が傾くと、彼は毎度それを聞く。
小町の返事も、毎度同じである。
「そうさね。 帰りは、向こうまで送っておくれよ」
縮めてしまえば、此処から三途の河の河原まで、瞬き一つで帰れる。
それでも小町は、二度目に来た日からずっと、日の傾くまでこの舟に乗っていて、最後は山の側まで送らせ、客として岸に降りる事にしている。
どうせ帰るのなら、最後の最後まで、この舟の客で居たいのである。
土手を下りてゆく渡し守の背中を、小町は縁台から眺めた。
乾いた着物の下に、さっき腕を回した背中の厚みが、そのまま透けて見えるような気がする。
小町は素足のまま土手を下りて、下駄の待っている舟に、ひょいと乗り込んだ。
***
屋台帰りの客は、行きの客より、ずっと賑やかである。
山の側の河原で待っていたのは、顔を赤くした男が二人で、二人とも、竹の皮に包んだ土産を、大事そうに胸に抱えている。
小町は、胴の間に寝かせていた大鎌を起こして柄を肩に凭せ掛け、二人の座る場所を空けてやった。
乗り込むなり、一人が、姐さん、あそこの屋台の親父は本当に死人なのかい、と小町に聞く。
「そうさ。だから勘定は、ちゃんと払っときなよ。
死人に借りを作ると、後が怖いからねぇ」
男たちは、そいつは怖い、と薄く笑い、それから、そう言う姐さんなら何の店を出すのかと、酒の回った声で絡み始めた。
酔った人間と言うのは何を話しても面白いものだ。
小町が、向こうとの渡し舟さ、と即座に返して、また男たちを沸かせる。
機嫌を良くした一人が、包みの中から田楽の串を一本抜いて差し出すと、小町は遠慮もせずに受け取って、舳先で美味そうに齧り始める。
死人の店の田楽を死神が食ってらぁ、と男たちは囃し立て、舟の上は、向こう岸に着くまで笑い声の絶える間が無かった。
その一組を里の側で降ろし、また山の側へ戻って、団扇を帯に差した若い夫婦を乗せる。
屋台帰りの客は、それで終いだった。
日は、山の端まで、あと指二本ばかりの所まで下りてきている。
夫婦を降ろした里の側の渡し場で、空いた舟には、舳先の小町だけが残っている。
今日の最後の一回は、小町を山の側まで送る渡しである。
棹で岸を突き放す時、小町は、ちらりと川下の方へ目をやった。
何を見ているのかと思えば、昼間、俺が顎で示した辺りの夏草だった。
夕方の川は、昼の照り返しが信じられない程、柔らかい色をしている。
山の影が川面を半分ほどまで覆っていて、影の外の水だけが、傾いた日を受けて橙色に細かく光っていた。
櫓を押すと、ぎい、と軋む。
いつもなら、その軋みは小町の声に掻き消されて、殆ど耳に入ってこないのだ。
それが今日は、よく聞こえた。
軋みの合間に、山の方から、ひぐらしの声が、かなかなと降ってくる。
小町は舳先に後ろ向きに座ったまま、舟縁に両手を突いて、さっきから殆ど口を開いていない。
緋色の目は櫓を押す俺の方を向いているのに、口の方は、昼間あれだけ笑っていたのとは別人のように、閉じたままなのである。
何故なのかは、分からない。
分からないが、聞くような事でもない気がして、俺も黙って櫓を押した。
ぎい、と櫓が軋む度に、俺の息が、ふっと短く漏れる。
黙った二人を乗せた舟の上で、聞こえるのはそればかりだった。
山の側の岸が近付くと、小町は首を捩って、向こうの河原の方を振り返った。
その拍子に、二つに結んだ髪の間から、項が覗く。
昼前からずっと日向に居たからか、そこだけが薄っすらと赤くなっている。
死神も日に焼けるのだと、俺は初めて知った。
膝の上では、浅瀬で濡れた裾が、濡れた時の形のまま乾いて、細かな皺を幾筋も残している。
櫓を押しながら、俺はそんな物を、一つ一つ拾い上げるように見ていた。
棹に持ち替えて、舳先を岸へ寄せる。
小町は大鎌を肩に担ぎ直すと、古い銭を一枚、ひょいと放ってよこした。
今日の最後の一枚である。
受け止めた俺の顔を見て、小町は一度、何か言いかけたように口を開く。
けれど、出てきたのは、いつもの調子の挨拶だった。
「今日もありがとさん。じゃあね」
それだけ言って、小町は舳先から岸へ、軽く跳んだ。
かたん、と下駄の音が一つ。
舟は、揺れない。
小町は河原の石を鳴らして土手を上がると、上で一度だけ振り返って、大鎌を担いでいない方の手を、ひらひらと振った。
それから、山の裾へ回り込んでゆく道の方へ、のんびりと歩き出す。
三歩目で背中が遠くなり、その次に瞬きをした時には、もう何処にも居なかった。
俺はそれを、棹を握ったまま、最後まで見届けた。
日が山の端に掛かる前に、舟を返す。
山の影の中を、里の側へ向かって、空の舟を漕いでゆく。
櫓を押す俺の正面には、誰も居ない。
舳先の板の、小町がいつも後ろ向きに座っている辺りが、やけに広く見えた。
大鎌の横たわっていない胴の間も、妙にがらんとしている。
近頃は、朝一番に夜露で濡れた胴の間の板を手拭いで拭う時、舳先の板まで念入りに拭くようになった。
舳先に後ろ向きに座る客など、一人しか居ないと言うのに、それが何時からだったのか、自分でもよく覚えていない。
里の側の杭に舟を舫い、舟底の水を掻き出して、櫓を外し、小屋の軒下へ運ぶ。
いつも通りの仕舞いの段取りを、いつも通りにこなしている間じゅう、耳の方は、川向こうの山の側の河原に、ずっと向いている。
もう誰も呼ぶ筈の無い刻なのに、である。
明日か、三日後か、半月先か。
次に向こう岸から声がするのを、俺はもう待っているのだ。
浅瀬で濡れた着物は、とうに乾いている。
それなのに、胸の真ん中には、小町の笑い声が揺すり上げてきた時の揺れが、まだ残っているような気がした。
特に訳は無い、とは、もう言えそうにない。
俺は、あの死神に惹かれている。
***
閻魔と言うのは、白と黒の間に、何も置かない人である。
少なくとも小町の上役は、そう言う人なのだ。
裁きの場で灰色の判決が出たと言う話を、小町は一度も聞いた事が無いし、一度下された判決は、誰がどう泣き付こうと、決して覆らない。
白黒はっきりつける程度の能力、と言うやつである。
山の側の土手から距離を縮めて、三途の河の河原まで戻ってきたのは、日の沈み切る少し前の事だった。
現世ではひぐらしが夕暮れを惜しむように鳴いていたが、三途の河の河原には、その声は届かない。
風に揺れる草の音も、虫の鳴き声も無い。
ただ、河の流れる音だけが、何処までも静かに続いている。
今日も、ここまでは誰にも見つからずに済んだ。
後は繋いである自分の舟を一度出して、夕方の分くらいは働いていたような顔をしておけばいい。
そんな事を考えながら舟へ向かうと、その傍らに、小さな人影が一つ、ぽつんと立っていた。
上役の、四季映姫・ヤマザナドゥである。
小町よりもずっと小柄なその体には、何度見ても少し大きめの服が何処か不釣り合いに見える。
袖口から覗く手には、閻魔の持つ悔悟棒が握られていた。
罪を記せば記すだけ重くなってゆくと言われる、裁きを下す為の閻魔の笏である。
「お帰りなさい、小町」
映姫は、にこりともせずに言った。
怒鳴られるよりも、こうして表情一つ変えずに声を掛けられる方が、余程背筋に堪える。
「今日は中有の道にある屋台へ、様子を見に行ってきました。
あそこの主たちが、また詐欺まがいの商売をしていないか確かめる為に。
そうしたらですね、少々面白い噂を耳にしまして」
映姫はそこで一度言葉を切り、小町を見上げた。
「死神が一人、生者の渡し舟に入り浸っている、と」
小町は、頭の後ろを掻いた。
屋台へ遊びに来る里の客の口に、戸は立てられない。
「いやぁ、それがですね、四季様。
ここのところ、暑くって。ちょいと涼みに行ってただけで……」
「桜の頃から通っておいて、暑いから、は通りません」
「じゃ、じゃあ、昼寝です。
四季様の目の届かない所で、こう、隠れて、ゆっくりと」
「噂では、貴方は朝から日暮れまで舳先に座って、喋り通しだそうですね。
それの何処が昼寝なのでしょうか。
第一、距離を操れるような者が本気で隠れていたのなら、人の噂になる訳が無いでしょう」
「た、たまの息抜きくらい、四季様だって、なさるでしょうに」
「私の息抜きは、貴方への説教です」
小町は口を開けて、何も言わずに閉じた。
次の言い訳を探してはみたものの、手持ちの物は、もう品切れである。
映姫は、手にした悔悟棒を、小町の目の前に持ち上げてみせた。
「春からこの方、貴方が持ち場に居なかった日は、全部此処に書いてあります」
「……道理で、今日は一段と重たそうだと思いましたよ」
「ええ。今しがたの言い訳も、三つ書き足しておきましたから」
にこりと笑う映姫と、ぎこちなく笑う小町。
「それから、もう一つ。
貴方が戻ってくるのは、何時も日暮れ。
向こうの渡しが仕舞う刻と、ちょうど重なっていますね?」
小町は、答えなかった。
映姫は、そこで一つ、息を吸った。
悔悟棒の先が、小町の鼻先で、ぴたりと止まる。
「乳母心です。一つ言っておいてあげましょう。
小野塚小町。貴方のそれは、ただのサボりではありません」
小町は、目を瞬かせた。
叱られる覚悟なら、映姫の顔を見た所で決めてあったが、擁護の様なことをされるとは、夢にも思ってなかった。
「……へ? サボりじゃない?
え、それじゃあ、今日のところは、お咎め無しって事で──」
「持ち場を空けた事は、空けた事。
怠慢に変わりは無いのですから、そちらのお説教は別です。明日の朝、一番に来なさい」
駄目だった。
ぴしり、と悔悟棒が額を打つ。
「きゃんっ」
額を押さえて涙目になっている小町を置いて、映姫はもう、河原の奥の方へ歩き出している。
「四季様。サボりじゃないなら、何だって言うんです?」
映姫は足を止めずに、肩越しに、ちらりとだけ振り返った。
「白黒は、もう付けました。
その先は、私の管轄ではないと判断しています」
その時、悔悟棒の陰で、映姫の口の端がほんの少し緩んだように見えたのは、暮れかけた河原の見せた気の迷いだったのかもしれない。
一人になった。
小町は、繋いだままの自分の舟に乗り込んで、舟縁に腰を下ろした。
打たれた額が、まだ少しひりひりする。
涼みに行っていたのでもなければ、昼寝をしに行っていたのでもなく、隠れに行っていたのでもない。
四季様の判決は、何時だって正しいのだから、そこは疑いようが無い。
それなら、あたいは一体、何をしに、毎度毎度あの渡しまで出掛けていたのだろう。
考えようとすると、頭に浮かんでくるのは、舟の事でも、川の事でもなかった。
浅瀬で腕を回した時の、濡れた着物越しに硬くて温かかった体。
縁台で夏草の辺りを顎で示しながら、師の事を話していた横顔も、話の合間に膝の上で櫓を握る形に丸まっていた手も、なら客だと言われたのだと可笑しそうに話した時の笑い顔も、呼びもしないのに、次から次へと出てくる。
どれもこれも、あの渡し守の事ばかりなのである。
ああ、そうか、と思った。
あたいは、あの舟に乗りに行っていたんじゃない。
あの渡し守に、会いに行っていたのだ。
分かってしまえば、何の事は無い話であった。
何の事は無い筈なのに、どう言う訳か、頬の辺りがじわじわと熱くなってくる。
それが何だか無性に可笑しくて、小町は誰も居ない河原で、一人、声を潜めて笑い出した。
「……おっとと」
笑うと、肩が揺れて、舟縁に突いた手が揺れて、繋いだままの舟が、ゆらりと揺れる。
風の無い河の上で、自分の笑い声で舟を揺らしたのなど、船頭になってこの方、初めての事かもしれない。
どうやら、あの渡し守の笑い方が、移ってしまったらしい。