梅雨が明けると、山は一息に夏になる。
昨日まで降り続いていた雨が嘘のように上がって、朝から蝉がやかましく鳴き始め、山道の湿った土が昼前にはもう白く乾いている。
夏の間、俺は山菜の代わりに薬草を採って暮らしている。
ドクダミ、ゲンノショウコ、オオバコ。
地味な草ばかりだが、里の薬屋に持ってゆけば、それなりの値で引き取ってくれるのだ。
そして十日に一度くらい、俺は地底へ下りる。
あの山桜の根元の穴の口で、ヤマメの名前を呼ぶ。
暫くすると暗がりの奥から糸が上ってきて、俺の体をぐるぐると巻き取り、縦穴の底まで下ろしてくれる。
最初のうちは、下ろされる間ずっと生きた心地がしなかったが、それにも慣れた。
今では、下ろされる途中でヤマメと世間話をする余裕まである。
地底の誰それが喧嘩をしただの、旧都の酒が今年は出来が良いだの、ヤマメの話は大抵どうでもいい事で、その分だけ聞いていて楽しかった。
夏の地底は、ありがたかった。
地上がうだるように暑い日でも、縦穴を下りてゆくに連れて、空気がすうっと冷えてゆく。
春に来た時には震える程寒かったこの冷たさが、今は湯上がりの夜風みたいに心地良い。
橋に着く頃には、背中にびっしょりかいていた汗も、すっかり引いている。
そして橋に着くと、まず、匂いを嗅がれる。
これが、春から変わらない決まりになっていた。
俺が橋の袂に下ろされると、パルスィは欄干から身を起こして、何も言わずに俺の前まで歩いてくる。
それから俺の襟元に顔を寄せて、すん、と鼻を鳴らすのだ。
「雨上がりの土。青い葉っぱ。それから、汗」
まるで利き酒でもするように、目を閉じて、一つずつ言い当ててゆく。
最初にこれをやられた時は、心臓が口から飛び出すかと思った。
今でも、飛び出しそうにはなる。
ただ、飛び出しそうになりながらも、じっと立っていられるようにはなった。
「蝉の声みたいな匂いがする。……蝉の声に匂いなんか無いのに、何でかしらね」
目を閉じたまま、パルスィは小さく首を傾げた。
それから、もう一度、すん、と鼻を鳴らした。
「それと、何か、物凄く臭い草」
パルスィの鼻に皺が寄った。
ドクダミだ。
朝のうちに採って、腰の袋に突っ込んだまま下りてきたのである。
薬草で、煎じて飲むと腹の具合が良くなるのだと言うと、パルスィは疑わしそうな目で俺の腰の袋を覗き込んだ。
「薬になる草って、どうして皆こう臭いのかしら。……飲む人間が、可哀想ね」
そう言って、パルスィは、ふふ、と小さく笑った。
春から何度もこの橋に通ってきたが、皮肉でも嘲りでもない顔で笑うのを見たのは、それが初めてだった。
笑うと、思っていたよりもずっと幼い顔になる人なのだと知った。
ドクダミに、少しだけ感謝した。
笑いを引っ込めたパルスィは、地上はもう夏なのね、と、春の時と同じ事を言った。
言い方だけが、春の時より少しだけ柔らかかった。
一度だけ、春に持ってきた山桜の枝がどうなったのかを聞いてみた事がある。
捨てたわよ、とパルスィはそっぽを向いて答えた。
桜の枝なんて、水に挿しておいたって何日かで萎れるのだから、それは仕方の無い事だ。
仕方の無い事なのだが、そうか、捨てたのか、と思うと、少しだけ寂しかった。
その日、俺は背中に西瓜を一つ背負っていた。
里の八百屋の婆さんが、今年一番の出来だと言って、取っておいてくれた物である。
地底に持ってゆくのだとは言えないので、知り合いへの土産だと言ったら、婆さんは何故かにやにやしながら、一番大きいのを選んでくれた。
大きいのは、ありがたい。
ありがたいのだが、重い。
山道を背負って歩くだけで汗だくになったその西瓜を、穴の口で見せた時のヤマメの顔は、今でもちょっと忘れられない。
「ちょっと待って。それも下ろすの? あたしの糸で? ……あんたと一緒に?」
糸が切れるかもしれない、と半分本気で心配するヤマメに、俺は何度も頭を下げた。
結局ヤマメは、西瓜を俺とは別の糸で網のように包んで、二本の糸で並べて下ろしてくれる事になった。
下ろされる間、俺の隣で、網に包まれた西瓜がゆらゆらと揺れていた。
縦穴の暗がりの中を、俺と西瓜が並んで下りてゆく。
人に見られたら何と言われるか分からない光景だが、幸い、見ているのはヤマメだけであった。
***
「何よ、その大きいの」
匂いの検分を終えたパルスィは、俺の足元に下ろされた西瓜の網を見下ろして、露骨に眉を顰めた。
西瓜だと答えると、そのくらい見れば分かるわよ、と返ってきた。
分かるなら聞かないでほしい。
「地上の人間って、こんな物を背負って山を歩くの。馬鹿じゃないの」
馬鹿だと言われたが、パルスィの視線は、さっきから一度も西瓜から離れていなかった。
冷やしてから食べたいと言うと、パルスィは少し考えてから、橋の袂の岩壁の方へ顎をしゃくった。
付いてゆくと、岩の割れ目から細い水が湧き出していて、その下に、手桶を三つ四つ並べた程の窪みが出来ている。
指を浸けてみると、思わず引っ込める程に冷たかった。
地上の井戸水より、ずっと冷たい。
「地底の水よ。夏も冬も無いから、何時来てもこのくらい冷たいの」
西瓜を窪みに沈めると、透き通った水の底で、緑と黒の縞模様がゆらりと揺れた。
冷えるまでの間、俺たちは窪みの傍の岩に並んで腰を下ろして西瓜を眺めていたが、二人揃って黙って西瓜を眺めているのは、冷静に考えるとかなり間抜けな絵面だった。
「地上は、そんなに暑いの」
パルスィが、西瓜を見たまま聞いてきた。
朝から蝉が鳴いている事、山道の土が昼前には白く乾く事、背中の西瓜が汗で張り付いて、途中で何度も下ろしたくなった事を話した。
パルスィは、ふぅん、とだけ言って、膝を抱えた。
「暑いのって、どんな感じなのかしら。ここは、ずっとこうだから」
地底には夏が無い。
春が無いのと同じように、夏も無いのだ。
それなら、と思って、俺はパルスィの手を取り、自分の首筋に当ててみた。
下りてくる間に汗は引いていたが、首の後ろには、まだ地上の熱が少しだけ残っていた筈である。
パルスィは、びくりと肩を跳ねさせた。
「な、何させるのよ、いきなり」
地上の暑さの名残だと言うと、パルスィは文句を言いかけて、口を閉じた。
首筋に当てられた指先は、ひやりと冷たかった。
その冷たい指が、暫くの間、離れずにそこにあった。
「熱いわね。人間って、こんなに熱いの」
熱いのは地上の夏の所為だと言いたかったが、それが全部本当なのか、自分でもよく分からなくなっていた。
パルスィは手を引っ込めると、誤魔化すように、水の底の西瓜を指差した。
「これ、どうやって生るの。木に生るの」
蔓が地面を這って、その蔓の途中に、こう言う実がごろりと転がるように生るのだと教えた。
夏の間じゅう、お日様に照らされて、毎日少しずつ大きくなる。
大きく育てるには、何より日当たりが大事なのだそうだ。
八百屋の婆さんの受け売りである。
「お日様の下で、地面を這って、こんなに大きくなるの。
……じゃあ、地底じゃ、絶対に育たないわね」
パルスィは、水の底で揺れる縞模様を、何だか羨ましそうな目で見つめていた。
西瓜は、半刻ほどで引き上げた。
抱えると、表面がひんやりと冷たく、腕に心地良い。
橋の上に戻って、鉈を取り出すと、パルスィが胡散臭そうな目でそれを見た。
「それで切るの」
山の道具を一通り持ち歩いているのだと言って、刃を手拭いでよく拭ってから、西瓜に当てた。
ぐっと押し込むと、しゃく、と小気味の良い音を立てて、西瓜は真っ二つに割れた。
中身は、見事に赤かった。
薄暗い地底の灯りの中で、その赤だけが、やけに鮮やかに浮かび上がって見える。
地底で一番赤い物は、多分今、この橋の上にある。
食べ易い大きさに切り分けて、一切れをパルスィに差し出した。
パルスィは受け取りはしたものの、すぐには口を付けなかった。
俺が自分の分にかぶりつくのを、じっと見ている。
毒味でもさせられているような気分である。
しゃく、と音を立てて齧ると、冷たい汁が口いっぱいに広がった。
甘い。
婆さんが今年一番だと言っただけの事はある。
思わず目を細めて、息をついてしまう。
「……美味しそうに食べるのね」
パルスィは、何だか悔しそうに言うと、ようやく自分の西瓜に齧りついた。
一口食べて、パルスィの動きが止まった。
目を見開いたまま、もう一口。
それから黙々と、赤い所が無くなって白い皮が見えるまで、一心不乱に食べ続けた。
赤い汁が手首を伝って、肘の方へ流れてゆく。
それに気づいたパルスィは、手首に唇を寄せて、伝い落ちる汁を、ちろりと舐め取った。
見てはいけない物を見たような気がして、俺は慌てて自分の西瓜に目を戻した。
種を、橋の下の裂け目に向かって、ぷっと吹き出す。
黒い粒が、暗がりの中へ吸い込まれていった。
すると、パルスィにじろりと睨まれた。
「ちょっと。私の橋の下に、何を撒いてるのよ」
謝ろうとしたら、パルスィは自分の口の中の種を、ぷっ、と裂け目に向かって吹き出した。
俺のより、少しだけ遠くまで飛んだ。
パルスィは、ふん、と得意げに鼻を鳴らした。
撒くなと言ったのは、何処の誰だったろう。
それから暫く、二人で黙々と西瓜を食べ、黙々と種を飛ばした。
最後、パルスィが種を一粒だけ、口から出して指で摘み、こっそり袂に仕舞うのが見えた。
後で捨てるつもりなのだろう。
裂け目に吹くのは、流石に行儀が悪いと思い直したのかもしれない。
その時、橋の向こうの闇の中から、笑い声が近づいてきた。
現れたのは、二人連れの鬼だった。
一人は大柄な男の鬼で、もう一人は、その腕にしなだれかかるようにして歩く女の鬼である。
どちらも頬が赤く、酒の匂いがぷんぷんしている。
旧都で飲んだ帰りなのか、それともこれから飲みに行くのか、二人は互いの肩を叩き合い、顔を寄せては笑い合いながら、俺たちの前を通り過ぎていった。
その時、隣で、何かが光った。
パルスィの目であった。
緑色の目が、灯りを吸い込んで光っているのとは違う、もっと内側から燃えるような光り方で、ぼうっと光っていた。
同時に、胸の奥の方が、ちくりとした。
針の先で、ほんの少し突かれたような感じである。
何だろう、と思ったが、その感じは、すぐに消えてしまった。
鬼の二人連れが闇の向こうへ消えてゆくのを見送って、仲が良さそうでいいな、と何気なく言った。
パルスィが、ゆっくりとこちらを振り向いた。
目の光は、もう消えていた。
その代わりに、信じられない物を見るような顔をしていた。
「……あんた、何ともないの」
何の事か分からずに首を傾げると、パルスィは、苛立ったように前髪を掻き上げた。
「あんなのを目の前で見せつけられて、何とも思わないのかって聞いてるの。
普通はね、妬ましくなるものなのよ。
自分には無い物を、他人が持ってるのを見たら」
少し考えてみたが、やっぱり、仲が良さそうでいいな、としか思わなかった。
そう答えると、パルスィは暫く俺の顔をまじまじと見つめていた。
緑色の目の奥で、何かが目まぐるしく動いているように見えた。
それから、ぷいと横を向いた。
「……つまらない男」
面と向かってつまらない男だと言われたのは、生まれて初めてかもしれない。
ただ、横を向いたパルスィの耳の先が、何故か少しだけ赤かった。
帰り際、ヤマメの糸に巻かれている俺に、パルスィが声を掛けてきた。
「次は」
振り返ると、パルスィは欄干に寄りかかって、こちらを見ないまま言った。
「次は、何を持ってくるのよ」
来なくていい、と言われた春から、まだ三月ほどしか経っていないが、俺はもう、彼女にひどく惹かれてしまっていた。
***
嫉妬と言うのは、灰の下の熾火のような物である。
誰の胸の中にも、必ず埋まっている。
普段は灰を被って、すっかり消えたような顔をしているが、少し風を送ってやれば、すぐにまた赤く熾きてくる。
パルスィの力と言うのは、つまりその風の事だ。
人間でも妖怪でも、鬼でも怨霊でも、胸の中を覗けば必ず熾火はあって、パルスィはそこに、ふう、と息を吹きかけてやるだけでいい。
それで燃え上がらなかった者を、パルスィはこれまで一人も知らなかった。
あの男の胸にも、熾火は確かにあった。
あった筈である。
鬼の二人連れが通り過ぎた時、パルスィはちゃんと、あの男の胸に風を送ってやったのだ。
手応えは、一瞬だけあった。
小さな火の粉がぱちりと跳ねたような手応えである。
ところが、それがそのまま、すうっと消えてしまった。
燃え移る先が、何処にも無いみたいに。
仲が良さそうでいいな、とあの男は言った。
本気で、そう言っていた。
他人の幸せを見て、本気でいいなと思える人間。
自分には無い物を他人が持っているのを見て、ただ、いいなと笑っていられる人間。
そんな人間が、いるのだ。
妬ましかった。
妬ましくない事が、妬ましかった。
何を妬めばいいのか分からない程に、妬ましかった。
そして同時に、パルスィは、どうしてもあの男に妬んでほしかった。
誰の事でもいい。
何の事でもいい。
あの男の胸の熾火が、ぱっと赤く燃え上がる所を、一度でいいから見てみたかった。
何故そんな事を思うのかは、自分でもよく分からなかった。
庵に戻ると、パルスィは棚の上の小箱を下ろした。
漆の剥げかけた、掌に載る程の小さな箱である。
蓋を開けると、中には干からびた白い花が、何輪か重ねて仕舞ってあった。
春に、あの男が持ってきた山桜の花である。
枝は、水に挿しておいても、何日かで萎れてしまった。
萎れてゆくのを見ているのが嫌で、パルスィは散る前の花を一つずつ摘んで、紙に挟んで干したのだ。
捨てたわよ、と、あの男には言ってはいたが、そんなもの真っ赤な嘘である。
その隣に、茶色く縮れた花びらが一枚。
春に、通行料として取り上げた物だ。
そして今、パルスィはそこに、西瓜の種を一粒、そっと加えた。
種を摘んで、鼻先に近づけてみる。
西瓜の甘い匂いがした。
それから、ほんの少しだけ、あの男の指の匂いがした。
西瓜を切り分けて、パルスィに手渡した時の、あの指の匂いである。
パルスィは、自分の首筋に、そっと指を当ててみた。
冷たかった。
地底の夜気と同じくらい、ひんやりとしている。
あの男の首筋は、熱かった。
地上の夏をまだ少しだけ残していて、触れた指先が、暫く温かかった。
今はもう、その温かさも、すっかり消えてしまっている。
「……馬鹿みたい」
小箱の蓋を閉めて、棚に戻す。
眠って、起きて、また眠った。
ヤマメが糸に吊るされて通りかかった時に、地上の様子を聞いてみた。
別に、あの男の事を聞いた訳ではない。
地上の様子を聞いただけである。
ヤマメは、何故だかにやにやしながら教えてくれた。
「地上はね、そろそろお盆だってさ。人里じゃ、盆踊りってのをやるんだって。○○が、下りてくる途中で言ってたよ」
○○、と、ヤマメは当たり前のように、あの男の名前を口にした。
パルスィがまだ一度も呼んだ事の無い名前を、まるで昔からの知り合いみたいに。
喉の奥に、小骨が刺さったような感じがした。
盆踊り。
人間が、輪になって踊る祭りだ。
パルスィも、名前くらいは知っている。
大勢の人間が夜通し肩を寄せ合って踊るのだと、何時だったか、誰かに聞いた覚えがある。
誰と、踊るのだろう。
そう思った途端に、胸の奥で、何かがちりちりと焦げ付くような音がした。
自分の胸の熾火に、誰かが風を送ったような気がした。
誰も、送ってなどいないのに。
***
盆の三日目の晩に、人里の広場で盆踊りがある。
毎年、俺は遠くから太鼓の音を聞くだけで、踊りの輪に入った事は無かった。
里に縁の薄い外来人が一人でのこのこ出ていっても、どうにも身の置き所が無いのである。
ところがこの年は、小料理屋の旦那に捕まった。
店で屋台を出すので手が離せない、うちの娘が一人で行くと危なっかしいから、ちょっと付いていってやってくれ、と言うのだ。
断る理由も思いつかないまま、気がつくと俺は、日暮れの広場で娘さんの隣に立っていた。
娘さんは、藍色の浴衣を着ていた。
髪を上げて、うなじに薄く白粉をはたき、唇に小さく紅を差している。
普段の前掛け姿しか知らなかったので、一瞬、誰だか分からなかった。
そう言うと、娘さんは、ひどい、と言って笑いながら俺の腕を叩いた。
叩かれた所が少し痛かったが、悪い気はしなかった。
広場の真ん中には櫓が組まれ、その周りに提灯がぐるりと吊るされていた。
提灯の灯りが、夕闇の中で、ぼんやりと滲んで揺れている。
何処かで見たような灯りだと思って、すぐに思い当たった。
あの橋の、欄干の灯りに似ているのだ。
そう思った途端に、緑色の目が、ふと頭を過ぎった。
今頃、あの人はどうしているだろう。
地底には、盆も無いのだろうか。
「ほら、ぼうっとしてないで。輪に入るよ」
娘さんに手を引かれて、俺は踊りの輪に加わった。
盆踊りと言うのは、見ているよりも、やってみる方がずっと難しい物である。
前の人の手振りを真似しようとすると足が止まり、足を真似しようとすると手が止まる。
三周もしないうちに、俺はすっかり輪の流れから取り残されて、後ろの爺さんに何度も背中を押される羽目になった。
見かねた娘さんが、俺のすぐ前に入って、手振りを一つずつ教えてくれた。
ここで手を返して、ここで一歩下がって、ここで手を叩く。
娘さんの浴衣の袖が、手を返す度にひらりと舞った。
何周目だったか、娘さんが下駄の鼻緒に足を取られて、よろめいた。
咄嗟に手を伸ばすと、娘さんの体が、俺の胸にぽすんと倒れ込んできた。
頬が、俺の襟元に押し付けられる。
ふわりと、甘い白粉の匂いがした。
「ご、ごめん」
娘さんは慌てて身を起こすと、顔を真っ赤にして俯いた。
提灯の灯りの所為か、耳の先まで赤く見えた。
足を挫いていないかと聞くと、娘さんは首を振って、それから、何だか言いにくそうに、もじもじと浴衣の袖を弄った。
「来年も、さ。また一緒に踊ってくれる?」
来年は、もう少しましに踊れるように練習しておきます、と答えた。
娘さんは、一瞬だけきょとんとした顔をして、それから、何故か可笑しそうに、そう言う事じゃないんだけど、と笑った。
どう言う事なのかは、最後までよく分からなかった。
踊りの輪を抜けた後、屋台の並ぶ通りで、西瓜割りをやっていた。
目隠しをして棒を持ち、周りの声だけを頼りに、地面に置かれた西瓜を割る遊びである。
見事に割れたら、景品に小振りの西瓜を一つ貰えるのだと言う。
娘さんに背中を押されて、俺も棒を握る事になった。
目隠しをされると、当たり前だが提灯の灯りも、人の顔も、何も見えなくなった。
真っ暗な中で、太鼓の音と、人のざわめきと、娘さんの声だけが聞こえる。
右、もうちょっと右、行き過ぎ、そこ、そこで真っ直ぐ。
言われる通りに足を運んで、えいと棒を振り下ろすと、ぱかん、と気持ちの良い手応えがあった。
周りから、わっと歓声が上がった。
景品の小振りの西瓜を抱えて、俺は娘さんを店まで送り届けた。
旦那は屋台の片付けをしながら、西瓜を抱えた俺と、まだ頬の赤い娘さんとを見比べて、何やら満足げに頷いていた。
その晩、里の外れの家に戻って西瓜を土間に転がしながら、俺は明日の事を考えていた。
この西瓜を、明日、地底に持ってゆこう。
春の桜の時のように、何も言わずに枝を差し出すだけでは芸が無い。
今度は、目隠しをして棒で割る遊びの話をしてやろう。
あの人の事だから、きっと馬鹿じゃないのと言うだろう。
言いながら、きっと最後まで聞いてくれる。
着物を脱いで衣紋掛けに掛ける時、襟元に白い物が薄く付いているのに、俺は気づかなかった。
***
あの男が下りてきたのは、ヤマメから盆踊りの話を聞いて、二度眠った後の事だった。
糸に巻かれて橋の袂に下ろされたあの男は、小振りの西瓜を一つ、大事そうに抱えていた。
前のよりは随分小さいが、縞模様の色が濃くて、見るからに中身が詰まっていそうである。
あの男は西瓜を足元に置くと、何だか話したい事でもあるような顔で、パルスィの方を見た。
パルスィは、何時ものように欄干から身を起こして、あの男の前まで歩いていった。
襟元に、顔を寄せる。
西瓜の匂い。
汗の匂い。
夜の煙のような、油の焦げたような匂い。
それから。
パルスィは、目を見開いた。
甘い匂いがした。
花の匂いとは違う。
もっと粉っぽくて、もっと人の肌に近い、甘ったるい匂い。
白粉だった。
それも、ただ傍を通りすがっただけで付くような、薄い匂いではない。
誰かが、この襟元に、頬を押し付けでもしなければ付かない匂いであった。
襟の内側に、白い物がうっすらと擦れているのが見えた。
胸の奥で、何かが、ごう、と音を立てて燃え上がった。
熾火などと言う、生易しい物ではなかった。
誰かが風を送ったのでもない。
パルスィの胸の中で、パルスィの胸の物が、勝手に、一息に、燃え上がったのだ。
目の奥が熱くなる。
自分の目が、緑色に光っているのが分かる。
欄干の灯りが、怯えたように、ちらちらと揺れた。
橋の下の暗がりで、漂っていた怨霊どもが、蜘蛛の子を散らすように逃げてゆく気配がした。
「……誰」
自分の声が、自分の物とは思えないくらい低かった。
あの男は、何を聞かれたのか分からないような顔をした。
それから、パルスィの視線が自分の襟に向いている事に気づいて、襟を摘んで、白い物を見て、ああ、と言うような顔をした。
小料理屋の娘さんの物だ、とあの男は言った。
盆踊りで、下駄の鼻緒に足を取られて倒れそうになったのを、支えた時に付いたのだろう、と。
悪びれた様子は、少しも無かった。
悪びれる理由が、あの男には何処にも無いのだ。
それが、余計に腹立たしかった。
「小料理屋の、娘」
あの男は頷いて、それから、何でもない事のように付け足した。
来年も一緒に踊ってほしいと言われたのだけれど、自分は踊りが下手だから、来年までにもう少し練習しておかないといけない、と。
「ら、来年も!?」
声が、裏返った。
来年も。
あの男は、来年の夏も、その女と踊るつもりなのだ。
手を取り合って、肩を寄せ合って、夜通し。
その女の頬を、またこの襟元に押し付けさせて。
そう思った途端に、パルスィの手は、勝手に動いていた。
あの男の手首を、掴む。
驚いて引こうとするのを、離さなかった。
掴んだ手首を、ぐいと引き寄せて、自分の首筋に押し当てる。
この前、あの男が自分の首筋に、パルスィの指を当てさせたのと、丁度逆の格好である。
あの男の手首は熱かった。
脈が、どくどくと速く打っているのが、首筋の肌越しに伝わってくる。
パルスィは、その手首に、自分の首筋を擦り付けた。
一度、二度、三度。
それから、もう片方の手であの男の襟を掴み、白粉の擦れた所に、自分の頬を押し付けた。
上書きするように。
塗り潰すように。
「く、臭いのよ、それ。
地上の、安っぽい、甘ったるい匂いなんか付けて、私の橋に来ないで。
……私が、消してあげるから。
じっとしてなさいよ」
あの男は、石のように固まっていた。
ちらりと見上げると、耳まで真っ赤になっていた。
それでも、逃げようとはしなかった。
されるがままに、じっとしていた。
愉快だった。
暫くそうしてから、パルスィはようやく顔を離した。
襟元に、もう一度鼻を寄せる。
白粉の匂いは、まだ微かに残っていた。
けれど、その上に、別の匂いが重なっていた。
冷たい水と、湿った苔と、それから、パルスィには何と呼べばいいのか分からない匂い。
多分、自分の匂いなのだろう。
あの男が、恐る恐る、何か言った。
白粉の匂いが嫌だったのなら、次からは気を付ける、と言ったらしかった。
謝られた。
パルスィが腹を立てている訳を、まるで分かっていない謝り方だった。
「……今日は、もう帰って」
足元の西瓜を、パルスィは両腕で抱え上げた。
「これは、私が貰っておくから」
あの男は、何か言いたそうにしていたが、結局、黙って頷いた。
ヤマメを呼んで、糸に巻かれて、暗がりの上の方へ上っていった。
最後に一度だけ、こちらを振り返ったような気がした。
パルスィは、見送らなかった。
西瓜を抱えたまま、ずっと足元を見ていた。
「いやぁ、凄かったねぇ。さっきの」
頭の上から、間延びした声が降ってきた。
見上げると、ヤマメが糸にぶら下がって、逆さまのまま、にやにやとパルスィを見下ろしていた。
あの男を上まで送って、もう戻ってきたらしい。
「見てたの」
「見えちゃったの。あたしの糸の真下でやるんだもん」
ヤマメは、くるりと糸を一回転させて、パルスィの顔の前まで下りてきた。
「あたしさ、病気には詳しいんだよ。土蜘蛛だからね。色んな病気を、人間にも妖怪にも罹らせてきた。
……でもさぁ、パルスィのそれ。
それは、あたしにも治せないやつだね」
それだけ言うと、ヤマメはけらけらと笑いながら、糸を手繰って、旧都の方の暗がりへ消えていった。
病気。
治せない病気。
パルスィは、橋の上に一人で立ったまま、その言葉を口の中で転がした。
これは、嫉妬だ。
嫉妬なら、パルスィは誰よりもよく知っている。
嫉妬は、パルスィそのものなのだから。
けれど、今も残る胸の痛みは、パルスィの知っている嫉妬とは、どこか違っていた。
嫉妬は、燃えて、燃え尽きたら灰になって、それで終わりだ。
これは、燃え尽きない。
燃えた後に、灰の代わりに、何か柔らかくて、痛くて、温かい物が残っている。
パルスィは、自分の首筋にそっと触れてみた。
あの男の手首を擦り付けた所である。
指先を鼻に近づけると、微かに、あの男の匂いがした。
日向と、汗と、夏の夜の煙の匂い。
人間たちが、恋だの何だのと呼んで、勝手に浮かれたり、勝手に泣いたりしている、あれ。
橋の上から、何百、何千と妬んできた、あれ。
自分には関係の無い物だと思っていた、あれ。
パルスィは、西瓜を抱えたまま、その場にしゃがみ込んだ。
「……嘘でしょう」
答える者は、誰もいなかった。
暫くしてから、パルスィは立ち上がって、橋の袂の岩壁の方へ歩いていった。
岩の割れ目から湧き出す、冷たい水の窪みに、小振りの西瓜をそっと沈める。
透き通った水の底で、縞模様が、ゆらりと揺れた。
地底の水は、夏も冬も無いから、何時までもこのくらい冷たい。
次にあの男が来るまで、ここに入れておけば、きっと冷えたままでいてくれる。
次に、あの男が来るまで。
パルスィは窪みの縁にしゃがんだまま、水の底の西瓜を、長いこと見つめていた。