山が色づき始めると、俺の籠の中身は薬草から茸に変わる。
シメジにマイタケ、ナメコ。
春の山菜と違って、茸は見つけるのに勘が要る。
同じ倒木の同じ根元に、去年は山ほど生えていたのに今年は一本も無い、と言う事が平気で起きるのだ。
外れた日は籠が軽いまま山を下りる事になるが、その分だけ、当たった日の嬉しさは山菜の比ではない。
白粉の一件の次に地底へ下りた日の事は、今でもよく覚えている。
正直に言うと、橋に着くまでずっと、また追い返されるのではないかと気が気ではなかった。
ところが、いつものように襟元を嗅いだパルスィは、何も言わずに俺の手を引いて、橋の袂の湧き水の所まで連れていった。
窪みの底に、あの小振りの西瓜が沈んでいたのだ。
私が貰っておく、と言っていたのに、食べずに取っておいてくれたのである。
十日も経っていたのに、西瓜はちゃんと冷えたまま、そこで待っていた。
二人で、黙ってそれを頬張った。
パルスィは最後まで一言も怒らなかったし、俺も何も聞かなかった。
その日から、パルスィの検分には、手順が一つ増えた。
襟元を嗅いだ後に、首筋の方まで、ゆっくりと確かめるのである。
余程あの白粉の匂いが嫌だったのだろう。
それからは俺も、里で人の多い所へ寄った日は、下りる前に山の沢で顔と首を洗うようにしている。
九月の初めには、稲の匂いがすると言われた。
里の外れの田圃で、稲穂が重たく垂れ始めた頃である。
十月に入ってすぐの頃には、焦げた砂糖みたいな匂いがすると言われた。
少し考えて、山道の途中で、黄色く色づいた桂の木の下を通ってきた事を思い出した。
桂の落ち葉は、秋になると甘く匂うのだ。
俺は言われるまで気づかなかったが、パルスィの鼻は、俺よりずっと正確に地上の季節を言い当てる。
十日に一度の訪問は、何事も無かったように続いた。
いや、何事も無かった、と言うのは少し違うかもしれない。
少なくとも、俺の方には何事かがあった。
季節を届けるのだと言いながら、俺はもう、自分が何の為に縦穴を下りているのか分かっていた。
桜も西瓜も、季節の物は皆、本当はただの口実である。
あの緑色の目に会いたいから、俺は十日に一度、山桜の根元の穴に向かって大声を出しているのだ。
その日の籠には、茸の上に柿が載っていた。
八百屋の婆さんの家の庭に、大きな甘柿の木がある。
毎年秋になると枝が折れそうな程に実を付けるのだが、婆さん一人では食べ切れないので、知り合いに配って回るのだそうだ。
今年はその中から、色の良いのを選って分けてくれた。
婆さんは柿を一つずつ俺の籠に入れながら、知り合いってのは西瓜の時と同じ子かい、と聞いてきた。
曖昧に頷くと、婆さんは、そうかい、そうかい、とやけに嬉しそうな顔をして、もう一つおまけに入れてくれた。
縦穴を下ろされる間、ヤマメは籠の中の柿を覗き込んで、美味しそうだねぇ、と三度言った。
子供のような言動に負けて、一つあげた。
柿を齧りながら、ヤマメは、そう言えばさ、と言った。
「パルスィってさ、あんたが来る前の日になると、橋の上を行ったり来たりしてるんだよ。
地底には日にちなんて無いのに、何で分かるんだろうねぇ」
本当かと聞くと、ヤマメは、さぁね、と言ってにやにや笑った。
それきり何も教えてくれなかったが、柿一つ分にしては、随分と大きな話を聞かされた気がした。
橋に着くと、パルスィはもう欄干から身を起こして、こちらへ歩いてきていた。
いつものように、襟元に顔を寄せる。
「土と、枯れ葉。それから、茸。……冷たい朝の匂いがする」
すん、と、もう一度鼻が鳴った。
襟元から首筋の方へ、確かめるように、ゆっくりと下りてゆく。
息が肌に掛かってくすぐったいのを、俺はじっと我慢した。
これにだけは、何度やられても慣れない。
「……今日も、余計な匂いはしないわね」
ようやく顔を離したパルスィは、ほんの少しだけ口元を緩めていた。
俺は籠の上の柿を一つ取って、パルスィの前に差し出した。
パルスィは、目を瞬かせた。
「……何、この色」
地底の灯りの中で、柿の実はぼんやりと橙色に光って見えた。
パルスィは受け取った柿を両手で包むようにして、鼻先に近づけたり、灯りに翳したりしながら、しげしげと眺めている。
柿だと言うと、名前くらい知ってるわよ、と返ってきた。
それから少し間を置いて、ぽつりと付け足した。
「でも、こんな色をしてるのは、知らなかった」
夕焼けの色だ、と俺は言った。
地上では、秋になると日が短くなって、夕方の西の空がこんな色に染まる。
柿の実が熟れる頃に山の向こうへ沈んでゆくお日様は、丁度この柿と同じ色をしているのだ。
パルスィは、柿を見つめたまま、暫く黙っていた。
「地底には、夕焼けなんて無いわ」
知っている。
だから、持ってきたのだ。
***
あの男は、パルスィの手から柿を受け取ると、西瓜を割ったのと同じ鉈を取り出して、刃の根元を短く握った。
「それで剥くの」
呆れて聞くと、あの男は、刃物はこれ一本きりなのだと言って、少し恥ずかしそうに笑った。
それから、柿の尻に刃を当てて、掌の上でくるくると回し始めた。
刃が、橙色の皮の下へ、薄く潜り込んでゆく。
皮は途切れずに一本の細い帯になって、あの男の手首の下へ、くるりくるりと垂れていった。
最後まで、一度も切れなかった。
剥き終わった柿は、皮の下まで同じ色をしていて、灯りの下で濡れたように光っていた。
「……多少はやるものね」
慣れだ、とあの男は言った。
子供の頃から、秋になると毎年やっていたのだそうだ。
外の世界にも柿があるのだと、パルスィはその時初めて知った。
貸して、と言って、鉈を取り上げた。
同じように刃の根元を握って、もう一つの柿に当てる。
皮は三回目で千切れた。
五回目で、皮と一緒に実まで削げた。
気がつくと、パルスィの手の中の柿は、一回り小さくなって、妙に角張っていた。
鉈が柿を剥く道具ではない事は、剥いてみてよく分かった。
あの男は、それを見て、声を殺して笑っていた。
睨んでやると、笑うのをやめて、パルスィの角張った柿と、自分の剥いた丸い柿とを、黙って取り替えた。
取り替える時に、あの男の指先が、柿の汁で濡れて光っているのが見えた。
パルスィは、柿を受け取るついでに、その手首を掴んで引き寄せた。
指先に、鼻を寄せる。
柿の甘い匂いと、鉈の鉄と、それから、あの男の指の匂いがした。
あの男は、何をされているのか分からないような顔で、されるがままになっていた。
笑われたのがまだ腹立たしいので、取り替えられた方の柿に、思い切り齧りついてやった。
さくり、と歯が入った。
甘かった。
西瓜のように、口の中で弾ける甘さではない。
噛む程に、奥の方からじわりと滲んでくる、重たい甘さだった。
飲み込んだ後も、舌の上に、まだ甘さが残っている。
パルスィは、二口目を齧る前に、手の中の柿をもう一度眺めた。
皮を剥かれても、やっぱり夕焼けの色をしていた。
八百屋のお婆さんの庭の木に生ったのだと、あの男は言った。
今年は枝が折れそうな程に生ったので、分けてもらったのだと。
「夕焼けって」
柿を半分まで食べた所で、パルスィは聞いた。
「空の全部が、この色になるの」
あの男は、少し考えてから、全部ではないと答えた。
西の方から、だんだんとこの色になってゆくのだと言う。
山の稜線が黒く沈んで、雲の縁だけが燃えるように光って、その上の空はまだ青いまま、少しずつ紫に変わってゆく。
里の家々から、夕餉の支度の煙が上る。
烏が、山の方へ鳴きながら帰ってゆく。
外で遊んでいた子供たちが、母親に名前を呼ばれて、一人、また一人と家へ駆けてゆく。
山から籠を背負って下りてくると、自分の影が、足元から道の先まで長く伸びている。
背中が温かいので振り返ると、そこに夕焼けがあるのだ、とあの男は言った。
パルスィは、黙って聞いていた。
「……それ、毎日見てるの」
晴れた日なら毎日、とあの男は答えた。
ただ、夕焼けは長くは続かないのだそうだ。
ほんの少しの間だけ空を染めて、すぐに暗くなってしまう。
綺麗だと思って足を止めても、見ているうちに消えてしまうのだと言う。
聞いているうちに、柿の甘さが舌の上で少しずつ苦くなっていったが、それは柿の所為ではなかった。
あの男の背中を、毎日夕焼けが温めている。
あの男の影を、夕焼けが道の先まで長く伸ばしている。
あの男は、それを当たり前のように背負って、里へ帰ってゆく。
里には、夕餉の煙を上げる家があって、名前を呼ばれて駆けてゆく子供がいて、柿を分けてくれるお婆さんがいて、白粉の女がいる。
来年の夏になれば、あの男はまた、あの女と踊るのだ。
踊りが下手だから練習しておくのだと、何の悪気も無く言っていた。
あの男がこの橋にいるのは、夕焼けと同じくらいの、ほんの少しの間だけだ。
残りの時間の全部を、あの男は地上で過ごしていて、パルスィはその全部を知らない。
知らない所で、あの男は、パルスィの知らない誰かと、パルスィの見た事も無い色の空の下を歩いている。
「妬ましいわ」
口から零れた声は、思っていたよりもずっと小さかった。
「あんたの背中を温める夕焼けが、妬ましい。
あんたが毎日歩く山道も、あんたの籠に入る茸も、あんたに柿をくれるお婆さんも。
あんたの襟に頬を押し付けた、あの娘も。
あんたが地上で見る物も、触る物も、あんたの傍にいる物も、全部妬ましい」
止めようと思ったが、止まらなかった。
柿を持つ手に、ぎゅっと力が入った。
「ヤマメなんて、あんたの名前を当たり前みたいに呼ぶのよ。
昔からの知り合いみたいに。
私は、一度も呼んだ事が無いのに」
あの男は、何も言わなかった。
ただ、パルスィの顔を見ていた。
嫌なほどに透き通った、真っ直ぐな目だった。
その目に見られていると、パルスィは自分の胸の中の物が、全部透けて見えてしまうような気がした。
それなら、もう、いい。
どうせ透けているのなら、自分の口で言ってやる。
「……○○」
口にしてみると、何でもない、短い名前だった。
こんな物を、ずっと言えずにいたのだ。
○○は、目を丸くしていた。
それから、口を開きかけて、閉じて、また開いた。
地上の夕焼けの話をしていた時とは違う、ひどく辿々しい喋り方だった。
季節を届けに来ていたのではないのだと、○○は言った。
桜の枝を抱えて下りてきたあの日から、本当はずっと、パルスィの顔を見に来ていたのだ、と。
妬ましい、と思った。
そんな事を、そんなに真っ直ぐ言えてしまう口が、妬ましかった。
妬ましくて、嬉しくて、どうしたらいいのか分からなかった。
「……もう一回言って」
○○は、耳まで赤くなりながら、もう一度言った。
さっきよりも、少しだけはっきりとした声で。
「もう一回」
三回目は、一回目よりもずっと短かった。
短い分だけ、真っ直ぐに胸の奥まで届いた。
「……もういいわ。覚えたから」
パルスィは、食べかけの柿を欄干の上に置くと、○○の胸に、額を押し付けた。
襟元に、鼻を埋める。
土と、枯れ葉と、茸。
その奥に、春から変わらない日向の匂い。
それから、柿の甘さ。
首筋は、温かかった。
地上の秋は、夏ほど熱くはないのだろう。
それでも、地底の何よりも温かかった。
この匂いが、この温かさが、全部、自分の物になればいいと思った。
背中に、おずおずと○○の腕が回された。
壊れ物でも抱えるような、ぎこちない腕だった。
袂の中で、小さな布袋が、かさりと鳴った。
***
どのくらいの間、そうしていたのか分からない。
パルスィの髪が、顎の下に当たって少しくすぐったかった。
髪からは、何と言えばいいのか分からない、ほんの少しだけ甘い匂いがした。
これが、この人なのだと思った。
いつも嗅がれてばかりで、こちらから確かめた事は一度も無かった。
嬉しかった。
俺は外の世界から来て、里の外れで一人で暮らしている。
里に縁の薄い外来人を待っていてくれる人など、これまで一人もいなかった。
それが、こんな地の底の橋の上にいたのだ。
嬉しくて、目の奥が熱くなってきたので、慌てて上を向いた。
地底の天井は、相変わらず真っ暗で、何処まで高いのか見えなかった。
やがてパルスィは、俺の胸から額を離した。
それから、こちらの顔を見ないまま、欄干に置いた食べかけの柿を取って、その場に腰を下ろすと、黙って続きを食べ始めた。
長く綺麗な耳が半分、真っ赤だった。
俺も隣に座って、黙って角張った方の柿を食べた。
甘かったのだと思うが、正直に言うと、味はよく覚えていない。
籠に残った柿は、全部パルスィに渡した。
柿は日が経つと柔らかくなって、もっと甘くなるのだと教えると、パルスィは、籠から出した柿を一つずつ膝の上に並べて、じっと見下ろしていた。
「……一つずつ、食べるわ。次にあんたが来るまでに」
それから、パルスィは膝の上の柿を見下ろしたまま、小さな声で聞いてきた。
「次は、いつ来るのよ」
春には来なくていいと言われ、夏には何を持ってくるのかと聞かれ、秋には、いつ来るのかと聞かれた。
いつも通り十日後だと答えると、パルスィは、長いわね、と呟いた。
俺もそう思ったが、ヤマメの事も考えると頻度を変えるのは忍びなかった。
帰り際、ヤマメを呼ぼうとした所で、袖を引かれた。
振り返ると、パルスィが、袂から何かを取り出していた。
掌に載る程の、小さな布の袋である。
くすんだ色の布を縫い合わせて、口を紐で縛ってある。
縫い目の一つ一つが、何度も縫い直したように少しずつ歪んでいた。
「お守りよ」
差し出された袋を受け取ろうとすると、パルスィはひょいと手を引っ込めた。
「地上には、悪い女がいっぱいいるんでしょう。
……寄り付かないように」
思わず笑ってしまった。
俺の周りに悪い女が寄ってくるような事は、多分、生まれてこの方一度も無い。
そう言うと、パルスィは、ちらりと俺の襟元に目をやった。
「あんたは、何にも分かってないのよ」
パルスィは、袋の紐を両手で広げて、背伸びをした。
俺が屈むのを待ってから、紐を頭の上から通して、首に掛ける。
冷たい指が、首筋に触れた。
夏に感じた彼女の指先と、変わらぬ冷たさだった。
パルスィは、俺の襟を指で少し広げると、袋をその内側へ滑り込ませた。
布の袋が、胸の上の素肌に、ひやりと当たった。
「外しちゃ駄目よ。寝る時も、湯に入る時も」
お守りを湯に浸けてもいいのかと聞くと、パルスィは、濡れた程度でどうにかなるものじゃないわ、と澄ました顔で言った。
お守りと言うのはそう言う物だっただろうかと思ったが、澄ました顔の割りに目があんまり真剣なので、黙って頷いた。
「それと、開けちゃ駄目。
開けたら、効かなくなるから」
襟の内側から、干した草のような、乾いた甘い香りがふわりと立ち上ってきた。
その奥に、ほんの微かな別の匂い。
さっき、胸元に顔を埋められた時に嗅いだ、パルスィの髪の匂いだった。
気持ちの悪い言い方だが、お守りと言う物を、生まれて初めて、本気でありがたいと思った。
ヤマメの糸に巻かれて、暗がりの中を上ってゆく。
見下ろすと、橋の灯りの傍に、金色の髪がぼんやりと光っていた。
春に初めて上った時と、同じ眺めだった。
ただあの時と違って、金色の髪の持ち主がずっとこちらを見上げている事を、今の俺はもう知っていた。
「ねぇ。何か、いい事あったでしょ」
上る途中で、ヤマメが、にやにやしながら顔を覗き込んできた。
「顔に書いてあるよ。……あれ、何か甘い匂いがする」
襟の内側の袋の事を言うと、ヤマメは目を丸くして、それから、へぇぇ、と、やけに長く感心した。
「あのパルスィがねぇ。
……なーんか、妬けちゃうなぁ」
からかわれているのだと思って、俺は黙って顔を赤くしていた。
ヤマメは、けらけらと笑いながら、糸を手繰る手を少しだけ速めた。
穴の口から這い出すと、山はもう夕方になっていた。
西の空が、柿の色に染まっていた。
山の稜線が黒く沈んで、雲の縁だけが、燃えるように光っている。
さっき、橋の上でパルスィに話した通りの夕焼けである。
話した時よりも、ずっと綺麗に見えた。
いつかこの空を、あの人に見せてやりたいと思った。
籠を背負って山道を下りると、自分の影が、足元から道の先まで長く伸びていた。
背中が温かかった。
胸の上の袋も、いつの間にか、俺の体温ですっかり温まっていた。
その晩、里の外れの家に帰り着いてから、襟の内側の袋を引っ張り出して、行灯の灯りで眺めてみた。
不揃いな縫い目を指でなぞると、一つだけ、糸の色の違う目があった。
縫い直した跡なのだろう。
開けちゃ駄目、と言われたのを思い出して、紐を解くのはやめた。
代わりに鼻を近づけると、干した草の甘さの奥で、彼女の匂いがした。
誰もいない家の中で、こんな真似をしている自分が可笑しくて、少し笑った。
それから、袋を襟の内側に戻して、そのまま眠った。
***
○○を乗せた糸が頭上の暗がりに吸い込まれてしまってから暫くして、鬼の二人連れが橋を渡っていった。
肩を寄せ合って、笑いながら。
パルスィは、それを黙って見送った。
見送ってから、妬むのを忘れていた事に気がついた。
橋の上で、こんな事は初めてだった。
パルスィは、庵に戻った。
膝の上に並べていた柿は、棚の上に一つずつ並べた。
全部で八つあった。
地底の薄暗い庵の中で、そこだけが、ぼんやりと夕焼けの色に光っていた。
それから、棚の小箱を下ろした。
干した山桜の花と、茶色く縮れた花びらと、西瓜の種。
パルスィは、袂から柿の種を一つ取り出して、西瓜の種の隣に並べた。
○○と並んで食べ終えた時に、こっそり袂に仕舞っておいた物である。
小箱の蓋を閉めると、パルスィは、空になった袂に手を入れてみた。
あの袋を縫い始めたのは、白粉の一件があってから、何度か眠った後の事だ。
旧都の外れの、灯りの届かない岩陰に、生白い葉の草が這うように生えている。
摘んだばかりの時は何の匂いもしないのに、干すと、不思議と甘く匂う草である。
その草を一抱え摘んで帰って、庵の梁に吊るして干した。
干している所を、通りがかったヤマメに見つかった。
何それ、と聞かれたので、虫除けだと答えた。
ヤマメは、あたしも除けられちゃうかなぁ、と笑っていたが、それ以上は聞いてこなかった。
袋の布は、古い着物の端を切って使った。
針仕事は、得意ではなかった。
縫っては解き、解いては縫い、指先を何度も突いた。
縫い目が歪む度に、最初からやり直した。
それでも、出来上がった袋の縫い目は、やっぱり不揃いだった。
干した草を袋に詰めて、それから、鋏で自分の髪を一房切って、草の間に押し込んだ。
最後に、袋の口を縛る前に、その中へ、ふう、と息を吹き込んだ。
パルスィの力は、熾火に風を送る物である。
吹き込んだ息は、袋の中で消えずに残る。
残った息は、袋を持つ者の傍にいる者の胸へ、ずっと、少しずつ、風を送り続ける。
○○本人の熾火は、どうせ燃え上がらない。
妬ましい事だが、そう言う体質の人間もいるのだ。
それはもう分かっている。
燃え上がるのは、○○の傍にいる者の方だ。
お守りである。
嘘は、少しも言っていない。
悪い女が寄り付かないように。
あの白粉の女のように、○○の襟に頬を押し付けるような女が、二度と寄ってこないように。
妬みを煽られた人間は、妬んだ相手の傍から、自分で離れてゆく物だ。
仲の良かった二人連れが、片方の妬みで、別々に橋を渡ってゆくのを、パルスィは嫌になる程見てきた。
だから、これは○○を守る為の物なのだ。
出来上がってからも、渡せるかどうかは分からなかった。
袂に入れたまま、何度も○○を帰した。
今日も、渡さずに帰すつもりでいたのだ。
○○が、あんな顔で、あんな事を言わなければ。
○○の傍から、人が一人ずつ離れてゆけばいい。
柿を分けてくれるお婆さんも、白粉の女も、夕餉の煙を上げる家の誰かも。
そうしたら、○○の襟元からは、誰の匂いもしなくなる。
日向と、土と、季節の匂いだけになる。
それから、パルスィの匂いと。
地上の居場所が少しくらい無くなっても、構わない。
無くなった分だけ、○○は、この橋に来ればいい。
これの、何が悪いと言うのだろう。
パルスィは、棚の上の柿を一つ取って、鼻先に近づけた。
柿の甘さの奥に、ほんの少しだけ、○○の指の匂いが残っていた。
「……○○」
誰もいない庵の中で、もう一度、名前を口にしてみた。
橋の上で言った時よりも、少しだけ上手く言えた。
次に会うまでに、もっと上手く言えるようになっておこうと思った。
十日と言うのが、眠って何度分なのかは、もう分かっている。
袋を襟の内側へ滑り込ませた時、指の背が、○○の胸の素肌に触れた。
温かかった。
その奥で、何かがとくとくと速く打っているのが、指の背越しに伝わってきた。
あの袋は、これからずっと、あそこにあるのだ。
○○が息をする度に、胸と一緒に上がったり下がったりして、○○の汗と肌の匂いを、少しずつ吸い込んでゆく。
次に○○が来た時、襟元に鼻を寄せれば、それが分かるだろう。
○○とパルスィが、一つの袋の中で混ざり合った匂いが。
今頃、あの袋は、○○の胸の上で、○○の体温に温められている。
パルスィの髪と、パルスィの息を詰め込んだまま。
「……私が縫ってやった袋の癖に」
それが、少しだけ妬ましかった。
***
里の様子が少しずつおかしくなったのは、その秋の終わり頃からだった。
最初は、小料理屋の娘さんだった。
いつものように茸を籠に入れて店先へ持ってゆくと、娘さんは籠を受け取ろうとして、ふと手を止めた。
それから、俺の胸元の辺りに顔を寄せて、すん、と小さく鼻を鳴らした。
「○○さん、何かいい匂いするね。……匂い袋?」
襟の内側の紐を見せて、知り合いに貰ったお守りなのだと言った。
娘さんは、暫くその紐を見つめていた。
「……その人、女の人でしょ」
嘘をつく理由も無いので、頷いた。
娘さんは、そっか、と言って笑った。
笑っていたが、籠を受け取る指先が、少しだけ冷たかった。
店を出てから振り返ると、暖簾の陰から、娘さんがこちらを見ていた。
目が合うと、すっと奥へ引っ込んでしまった。
次の日から、娘さんは店先に出てこなくなった。
茸を持ってゆくと、奥から旦那が出てきて、黙って籠を受け取った。
それが三日続いて、四日目に、旦那は籠の中を覗きもせずに、茸は今年はもう間に合っている、と言った。
盆踊りの晩に、西瓜を抱えた俺と娘さんとを見比べて、満足げに頷いていた旦那である。
その旦那が、話している間じゅう、一度も俺の顔を見なかった。
行き場を失った茸は、家に持ち帰って、軒先で干す事になった。
来年も、と言った時の娘さんの顔を、俺はその時になって、ようやく思い出した。
そう言う事じゃないんだけど、と娘さんは笑っていた。
失ってから気づくとはよく聞いたものだが、どう言う事だったのか、今なら少しだけ分かる。
分かった所で、もうどうしようもない事だった。
薬屋の親父さんまで、様子がおかしくなった。
秋の終わりに採れるセンブリは、干して煎じると胃の薬になる。
毎年この時期に持ってゆくと、親父さんは、今年も良い出来だと言って、少し色を付けて買ってくれていた。
ところがこの年は、籠の中を一目見るなり、今年のは質が落ちたな、と言って、去年の半分の値しか付けなかった。
質は、去年と何も変わっていない筈である。
銭を数えながら、親父さんは、こちらを見ずにぼそりと言った。
若いのはいいねぇ、山で草を摘んで、好きな時に好きな所へ行けて、と。
近頃腰を痛めているのだと、前に聞いた事があった。
きっと虫の居所が悪かったのだろう。
八百屋の婆さんだけは、変わらなかった。
少なくとも、変わらないように見えた。
大根を買いに寄ると、婆さんはいつものように、あの子とは上手くいってるのかい、と聞いてきた。
照れながら頷くと、婆さんは目を細めて、そうかい、と言った。
それから、少し長いこと俺の顔を見て、いいねぇ、若い人は、と、何処か遠くを見るような顔で言った。
その日の大根には、いつものおまけが付いていなかった。
どれもこれも、俺の所為なのだと思った。
近頃の俺は、自分でも呆れる程に上の空なのだ。
恋は盲目とは言えど、どうやら俺は、自分で思っている以上に周りが見えていなかったらしい。
茸を卸しに行っても、薬屋で銭を受け取っていても、俺の頭の半分は、いつもあの橋の上にある。
そんな有様では、周りの人間が呆れるのも当然だ。
俺は知らず知らずのうちに、あちこちで不義理を重ねていたのかもしれない。
初霜が降りた朝、家の裏の渋柿を捥いで、皮を剥いた。
この家に住み始めた時から、裏には一本、渋柿の木が立っている。
誰が植えたのかは知らない。
最初の秋に、それを知らずに一つ齧って、半日ほど口の中が言う事を聞かなくなった。
それ以来、この木の柿は生では食べずに、皮を剥いてへたに紐を括り、軒先に吊るす事にしている。
冷たい風に半月も晒しておけば、あれ程渋かった柿が、嘘のように甘くなるのだ。
軒先にずらりと並んだ橙色の実は、朝日が当たると、小さな夕焼けがいくつもぶら下がっているように見えた。
里にいると、何となく息が詰まった。
気がつくと、十日に一度だった地底行きは、五日に一度になっていた。
まだ暗いうちに家を出ると、霜の降りた畑が、月明かりに白く光っている。
軒先の干し柿が、冷たい風に吹かれて、紐の先でゆらゆらと揺れていた。
見送ってくれるのは、近頃はこの干し柿くらいの物である。
山に入ると、風穴の傍の山桜は、もう殆ど葉を落としていた。
春にはあれ程白く咲いていた枝が、今は黒く細く、冷たい空に張り付いている。
その根元の穴の口だけが、季節に関係無く、湿った温い息を吐き出していた。
穴の口から呼ぶと、ヤマメは前と変わらず、すぐに糸を下ろしてくれた。
五日に一度も呼びつけるのは流石に悪いと思っていたのだが、下ろされる途中で、ヤマメの方からその話を切り出してきた。
「近頃、よく来るようになったねぇ。……あ、謝らなくていいよ。あたし、糸を垂らすのは好きなんだ。
それにさ、あんたが来る日は、パルスィの機嫌がいいんだよ。橋を渡る連中まで、ほっとした顔してるもん」
礼を言うと、ヤマメは、いいって、いいって、とけらけら笑った。
その笑い声を聞いて、少しだけ気が楽になった。
干し柿の表が乾いて、皺が寄ってきた頃、それを三つ籠に入れて下りた。
橋に着くと、パルスィは欄干の傍ではなく、橋の袂まで出てきて待っていた。
襟元に、顔が寄ってくる。
すん、と鼻が鳴る。
「霜と、枯れ草。それから、干し柿」
鼻先が、首筋の方へゆっくりと下りてゆく。
いつもより、少しだけ長かった。
それから、パルスィは顔を上げた。
「……人の匂いが、しなくなったわね」
言われてみれば、その通りだった。
ここ暫く、里で誰かと肩が触れる程近くに立った覚えが無い。
パルスィは、俺の手を取った。
霜の降りた山道を歩いてきた手である。
指先はすっかりかじかんで、自分でも感覚が鈍くなっていた。
「あんたの手、冷たい。……私より冷たいの、初めてね」
パルスィは、俺の手を両手で包んで、自分の頬に押し当てた。
地底の冷たい頬が、冷え切った指先には、ほんの少しだけ温かく感じられた。
パルスィは、嬉しそうだった。
春に初めて会った時には想像も出来なかった程、柔らかい顔で笑っていた。
地上で少しくらい居心地が悪くなった事など、この顔に比べれば、大した事ではないように思えた。
籠から干し柿を出して渡すと、パルスィは一口齧って、目を丸くした。
「……甘い。生の柿より、ずっと美味しいじゃない」
本当は渋い柿なのだと教えた。
渋くて食べられない柿でも、皮を剥いて冷たい風に晒しておくと、こんなに甘くなる。
寒ければ寒い程、甘くなるのだ。
パルスィは、手の中の干し柿を見下ろした。
それから、俺の顔を見上げた。
「じゃあ、ここに吊るしておいたら、もっと甘くなるのかしら」
地底は湿っているから、きっと黴びてしまうと答えた。
パルスィは、そうね、と言って笑った。
笑いながら、干し柿ではなく、俺の顔をずっと見ていた。
緑色の目が、灯りを吸い込んで、底の方から光っていた。
「ねぇ、○○。次は、いつ来るの」
五日後には帰ってくると答えると、パルスィは、それでもまだ長いわね、と言った。
パルスィは干し柿をもう一口齧ると、俺の肩に頭を凭せ掛けた。
襟の内側では、匂い袋が、俺の体温でとっくに温まっている。
橋の灯りが、二人分の影を足元に短く落としていた。
いつからだろう。
俺は縦穴を下りる事を、帰る、と言うようになっていた。