雪が降ると、山は閉ざされる。
風穴へ続く山道は、十二月の半ばには雪に埋もれて、三月の半ばを過ぎるまで出てこない。
去年までの俺は、冬の間は山に入らずに、里の手伝い仕事で食い繋いでいた。
年の瀬の煤払いに、餅つき、屋根の雪下ろし。
声を掛けてくれるのは、大抵小料理屋の旦那だった。
その話をパルスィにしたのは、十二月に入ってすぐの訪問の時である。
雪が積もったら、春まで来られなくなる。
そう言うと、パルスィは襟元を嗅いでいた顔を上げて、俺をじっと見た。
「春までって、どのくらい」
三月程だと答えると、パルスィは指を折って何かを数え始めた。
多分、眠る回数を数えていたのだと思う。
途中で指が足りなくなったのか、数えるのをやめて、もう一度俺の顔を見た。
「なら、ここにいればいいじゃない」
冗談だと思って笑ったが、パルスィは笑わなかった。
緑色の目が、灯りを吸い込んだまま、じっとこちらを見ていた。
里に戻ってからも、その言葉が頭から離れなかった。
十二月に入っても、旦那から煤払いの声は掛からなかった。
餅つきの手伝いも、雪下ろしも、誰も頼みに来なかった。
秋からの事を思えば、無理もない。
囲炉裏の前に一人で座っていると、狭い筈の家の中が、やけに広く感じられた。
このまま春まで、ここで一人で雪が解けるのを待つのかと思うと、胸に穴が開いたような思いだった。
遠くの山の頂が白くなった朝、俺は決めた。
八百屋の婆さんの店先には、冬になると蜜柑の箱が並ぶ。
何処から仕入れてくるのかは知らないが、毎年、雪が降る頃になると、決まって山のように積まれているのだ。
蜜柑は、冷えた所に置いておけば一月近くはもつ。
湿気には弱いので、時々中を検めて、傷んだ物を除けてやらなければならない。
山の物を卸して暮らしていると、その手の事には嫌でも詳しくなる。
春まではとてももたないが、年を越すくらいまでなら、二人で食べるのに丁度いい。
籠に一杯、三十買う事にした。
近頃の稼ぎを思えば、安い買い物ではなかった。
一人でそんなに食べるのかい、と婆さんは目を丸くしたが、春まで留守にするのだと言うと、それ以上は何も聞かなかった。
皺だらけの手が、蜜柑を一つずつ籠に入れてゆく。
三十個目を入れると、婆さんは籠から手を離した。
それから黙って銭を受け取って、店の奥へ引っ込んでしまった。
帰りに、小料理屋の前を通った。
暖簾の向こうから、娘さんの笑い声が聞こえた。
客と話しているらしかった。
俺の足音に気づいたのか、笑い声はふっと止んだ。
立ち止まりかけて、やめた。
家を出る前に、軒先の干し柿を全部下ろした。
米と、干し茸と、干し柿と、丸めた布団。
一番上に、蜜柑の籠。
全部を背負子に括り付けると、俺の背丈より高い荷物になった。
半日の山道を背負って歩くには重すぎるが、雪が来てしまえば、もう何も運べない。
戸締まりをして振り返ると、里は、いつもよりずっと静かだった。
誰かに留守を頼もうかと考えて、頼める相手が一人も思い浮かばない事に気がついた。
山道には、まだ雪は無かった。
重たい荷物に何度も足を止めながら、風穴の傍の山桜まで辿り着いた時には、昼をとうに過ぎていた。
穴の口でヤマメを呼んでいると、とうとう空から白い物が落ちてきた。
すっかり葉を落とした山桜の黒い枝が、見る間にうっすらと白くなってゆく。
遠目に見ると、春に咲いていた花と、少しだけ似ていた。
穴の口に落ちた雪だけは、中から吹き上がってくる温い風に溶けて、すぐに消えた。
背負子の荷物の山と、籠一杯の蜜柑を見て、ヤマメは、引っ越しだねぇ、と笑った。
蜜柑の籠は西瓜の時のように別の糸で包んで、俺と並べて下ろしてくれた。
下ろされる途中で見上げると、穴の口の丸い明かりの中を、雪がちらちらと舞っていた。
それが、その冬に俺が見た、最初で最後の雪になった。
***
糸に巻かれて下りてきた○○は、布団や米を括り付けた背負子を背負っていた。
隣の糸には、橙色の実を山盛りにした籠が、網に包まれてぶら下がっている。
柿よりも小さくて、柿よりも明るい色をしていた。
襟元に、顔を寄せる。
雪と、凍えた風と、囲炉裏の煙。
それから、嗅いだ事の無い、甘酸っぱい匂い。
蜜柑だと、○○は言った。
冬の果物で、皮を手で剥いて食べるのだそうだ。
○○を庵に上げるのは、初めてだった。
戸を開けてから、棚の上に小箱を出しっぱなしにしていた事に気がついて、慌てて袂に押し込んだ。
○○は何も気づかずに、狭い板の間をぐるりと見回していた。
「狭いでしょう。文句は聞かないわよ」
○○は首を振って、それから、少し照れくさそうに、お邪魔しますと頭を下げた。
蜜柑の籠は、○○に言われて、庵の一番冷える隅に置いた。
湿気に当たると黴びるので、時々中を検めるのだと言う。
地上の植物は繊細だ。
パルスィは、籠の中を覗き込んで数えた。
三十あった。
それから○○は、庵の柱に小さな刻みを入れてもいいかと、遠慮がちに聞いてきた。
起きる度に一つずつ刻んで、春までの日を数えたいのだと言う。
地底には朝も夜も無いので、そうでもしないと、何日経ったのか分からなくなるのだそうだ。
紙も筆も、持って下りてこなかったらしい。
紙と筆なら、庵にもある。
桜を挟んで干した時の紙の残りが棚の奥にあるし、筆も一本くらいは何処かに転がっている。
けれど、パルスィはそれを言わなかった。
紙に書いた印は、丸めて捨ててしまえばそれきりだ。
柱に付いた傷は、そうはいかない。
「……仕方ないわね。好きにすれば」
○○はほっとしたように笑って、鉈の先で、柱にそっと一つ目の刻みを入れた。
黒ずんだ柱に、真新しい木の色が、小さく白く覗いた。
パルスィは、その刻みを指先でなぞってみた。
○○がこの庵で過ごした日が、これから眠る度に一つずつ、ここに刻み付けられてゆくのだ。
口では仕方ないと言ったが、少しも嫌ではなかった。
ただ、これが幾つ並んだら、春が来るのだろう。
春が来たら、○○は。
そこから先は、考えない事にした。
最初の一つは、○○が剥いた。
へたの反対側に親指を立てて、皮を花びらのように開いてゆく。
中から出てきた実を、○○は半分に割って、片方をパルスィの掌に載せた。
一房ちぎって口に入れると、薄い皮が歯の間でぷつりと破れて、冷たい汁が舌の上に溢れた。
「酸っぱい」
酸っぱいのに、甘かった。
柿の甘さとは違う。
舌の脇がきゅっと縮むような甘さだった。
文句を言いながら、パルスィは半分を全部食べてしまった。
次に起きた時は、パルスィが剥いた。
鉈が要らないのは、ありがたかった。
半分を○○に渡して、二人で食べ終えてから、パルスィは自分の指先を鼻に近づけた。
皮を剥いた指に、蜜柑の匂いが染み付いている。
○○の手を取って、その指先も嗅いでみた。
同じ匂いがした。
「あんたと、同じ匂い」
呟くと、○○は可笑しそうに笑った。
何が可笑しいのか、パルスィには分からなかった。
同じ匂いになっただけだ。
少し満たされる気はするけれど、笑う所など、何処にも無い。
○○は、庵の隅の竈で飯を炊いた。
パルスィが、殆ど使った事の無い竈である。
米の煮える匂いが、狭い庵の中に満ちた。
炊けた飯に干し茸の汁を掛けて、○○は美味そうに掻き込んでいる。
パルスィにも一杯よそってくれたが、パルスィは箸を持ったまま、○○の食べる所ばかり見ていた。
飯を噛む度に、顎が動く。
喉が、こくりと上下する。
まだ熱い飯を頬張って、はふはふと吐いた息が、白く立ち上ってゆく。
自分の分の飯がすっかり冷めてしまった事に気がついたのは、食べないのかと○○に聞かれてからだった。
それから、パルスィは起きる度に、○○の匂いを確かめるようになった。
庵は狭いので、布団は板の間の端と端に敷いた。
パルスィが先に目を覚ますと、まだ眠っている○○の傍まで這ってゆき、襟元にそっと鼻を寄せる。
最初の何度かは、まだ雪と囲炉裏の煙の匂いがした。
それが、眠る度に薄くなってゆく。
雪が消えて、煙が消えた。
日向の匂いが、一番しぶとかった。
それも、十回も眠る頃には、鼻を押し付けないと分からない程になった。
代わりに、庵の匂いと、地底の水の匂いと、それから、パルスィの匂いが、少しずつ○○に染みてゆく。
蜜柑の匂いだけは、剥く度に新しく付いた。
地上の匂いなのに、これだけは嫌ではなかった。
パルスィ自身にも、同じ匂いが付いているからだ。
眠っている○○の手首に、指を当ててみる。
温かい。
とくとくと、静かに脈を打っている。
次に起きた時は、掌を当てた。
その次は、頬を当てた。
○○は、一度も目を覚まさなかった。
布団は、眠る度に、指一本分ずつ○○の方へ寄せた。
地底は冷えるのだから、仕方が無い。
人間の傍が温かいのは、人間の所為である。
ただ一つだけ、思い通りにならない物があった。
橋を渡ってゆく二人連れを見ても、○○は相変わらず、仲が良さそうでいいな、と言うだけなのだ。
二人連れの方は、○○の傍を通った途端に、何やら言い争いを始めて、別々に旧都の方へ歩いていった。
喧嘩でもしたのかな、と○○は心配そうに見送っていたが、そうではない事を、パルスィは知っている。
袋は、ちゃんと効いている。
効いていないのは、○○の胸の熾火だけだった。
燃えない熾火の事は、もう諦めた筈だった。
諦めた筈なのに、二人連れが通る度に、パルスィは○○の胸の奥を覗いてしまう。
ヤマメが勇儀の宴会の話を持ってきたのは、○○が来てから、二十回ほど眠った頃だった。
「地上じゃ、もうすぐ年越しだってさ。今年も勇儀が、旧都で大宴会をやるって。
……どうせパルスィは、今年も行かないんでしょ」
いつもなら、行かないと答える所である。
勇儀は毎年律儀に誘いに来て、パルスィは毎年律儀に断ってきたのだ。
大勢の鬼が肩を組んで飲み騒いでいる所など、見ているだけで妬ましくて、酒が不味くなる。
その時、ふと思いついた。
盆踊りの晩に、○○の襟に付いてきた、あの白粉。
あれと同じような物を、今度はパルスィの方が付けて帰ってきたら、○○はどんな顔をするだろう。
とても良い考えだと思った。
「考えておくわ」
にっこり笑ってそう答えると、うへぇ、とヤマメは何故だか、少しだけ気味の悪そうな顔をした。
***
柱の刻みで数えると、その鬼が橋に来たのは、大晦日の事だった。
橋の向こうの闇の中から、大きな笑い声が近づいてきた。
現れたのは、背の高い女の鬼である。
長い金色の髪の間から、額に赤い角が一本、真っ直ぐに伸びていた。
角には、星の印が一つ付いている。
片手には、大きな盃を持っていた。
酒がなみなみと注がれているのに、大股でずんずん歩いてくる間、一滴も零れなかった。
鬼と言うのは、こう言う物なのか。
思わず見上げていると、隣のパルスィに、足の甲を踏まれた。
「よう、橋姫。今年こそは来てもらうよ。
……って言っても、どうせ今年も来ないんだろうけどさ」
星熊勇儀だと、パルスィが小声で教えてくれた。
旧都の顔役で、何かと言えば宴会を開く鬼なのだそうだ。
「行くわ」
勇儀の足が、ぴたりと止まった。
盃の酒が、そこで初めて揺れた。
「こりゃ驚いた。何年誘っても来なかった奴がねぇ」
それから勇儀は、パルスィの隣に立っている俺に、ようやく目を留めた。
赤い目が、上から下まで、じろりと俺を眺める。
「で、そっちが噂の人間かい。
ヤマメが言い触らしてるよ。橋姫の所に、地上の人間が住み着いたってね。
……あんたの何なんだい、こいつは」
「何でもないわよ。ただの」
「おっと。鬼の前で嘘はおよし。酒が不味くなる」
パルスィは、ぐっと言葉に詰まった。
暫く勇儀を睨んでいたが、やがて、ぷいと横を向いた。
「……私のよ」
聞いている俺の方が、嬉しいやら恥ずかしいやらで、顔を上げていられなくなった。
勇儀は、そりゃあいい、と言って、天井の闇まで届きそうな声で笑った。
それから、ついでのように俺の方を向いた。
「あんたも来るかい、人間。鬼の酒は、だいぶ強いけどね」
「駄目よ。鬼の酒なんか飲ませたら、死んじゃうでしょう」
俺が答えるより先に、パルスィが言った。
勇儀は、違いない、とまた笑った。
鬼の酒がどれ程強いのかは知らないが、二人とも、冗談を言っている顔ではなかった。
「庵で待ってて。……遅くなるから」
パルスィは俺にそれだけ言うと、勇儀の後に付いて、橋の向こうへ歩いていった。
欄干の灯りの届かない所まで行くと、金色の髪は、すぐに闇の中に溶けて見えなくなった。
パルスィは、一度も振り返らなかった。
***
旧都の年越しは、やかましい。
地底に季節は無いが、鬼たちは地上で暮らしていた頃の名残で、年が変わる晩だけは夜通し飲み明かす。
勇儀の宴会は、毎年、旧都の目抜き通りを丸ごと使って開かれる。
軒という軒に提灯が吊るされ、通りの真ん中に長い卓が何本も並び、その上を酒樽と大皿が埋め尽くしていた。
鬼が笑い、鬼が歌い、鬼が鬼の背中を叩いて、また笑う。
どこを見ても、楽しそうな顔しかない。
妬ましい事この上なかった。
パルスィは、一番端の卓の、一番端に座っていた。
隣に、若い男の鬼が腰を下ろした。
橋姫が宴会に来るなんて珍しい、と言いながら、勝手にパルスィの杯に酒を注いでくる。
いつもなら、睨んで追い払う所である。
今日は、追い払わなかった。
男の袖口から、酒と、煙管の煙と、汗の匂いがした。
嫌な匂いだった。
丁度いい、と思った。
注がれた酒を、一息に呷る。
喉の奥が、焼けるように熱くなった。
○○は、きっと庵では待っていない。
橋の真ん中に立って、旧都の方をずっと見ている。
○○は、そう言う男だ。
春に、パルスィは三度眠るまで○○を待った。
そこまで待たせるつもりは無い。
ほんの少しでいいのだ。
ほんの少し、パルスィが待ったのと同じ気持ちを、○○にも味わってほしいだけである。
男の鬼は、勝手に酒を注ぎ、勝手に喋り続けていた。
旧都で一番美味い酒を出すのは何処の店だとか、去年の力比べで誰の腕をへし折っただとか、そう言う話だったと思う。
何一つ、頭に入ってこなかった。
パルスィは、杯の数で時を数えていた。
三杯目で、○○は庵を出て、橋の上に立つ。
五杯目で、旧都の方から足音が聞こえる度に、顔を上げるようになる。
七杯目で、きっと、少しだけ不安になる。
そう思うと、鬼の酒が、ほんのりと甘くなった気がした。
頃合いを見計らって、パルスィは小さく肩を竦めた。
「寒いわ」
聞こえるように呟くと、男の鬼は、すぐに自分の羽織を脱いで、パルスィの肩に掛けてきた。
大きな羽織だった。
裾は地面に届き、袖は指の先まで隠れてしまう。
内側に籠もっていた男の体温が、背中にべったりと貼り付いてきた。
○○の体温とは、まるで違う。
重たくて、熱くて、少しも心地良くなかった。
パルスィは、羽織の襟を掴んで、自分の首筋にぐいと押し付けた。
一度、二度、三度。
白粉の代わりである。
上座の方から、勇儀がこちらを見ていた。
星の付いた盃を軽く掲げて、にやりと笑う。
「悪い女だねぇ。あの人間、今頃橋の上で待ってるんだろう」
「待たせてるのよ。橋姫だもの」
勇儀は、腹を抱えて笑った。
嘘ではないので、文句は無いらしかった。
旧都の太鼓がひとしきり鳴り響いて、誰かが、年が明けたぞ、と叫んだ。
通りじゅうの鬼が、杯を掲げて歓声を上げた。
パルスィは、それから更に二杯飲んで、ようやく腰を上げた。
羽織は、返さなかった。
返すのを忘れた振りをして、肩に掛けたまま、橋への道を歩き出した。
足取りが、自分でも可笑しい程に軽かった。
酒の所為だけではなかった。
***
結局、庵では待てなかった。
一人で庵の中に座っていると、却って落ち着かなかったのである。
籠の蜜柑を一つ取って、橋に出た。
年が明けたら、最初の一つを二人で食べようと思ったのだ。
橋の真ん中に立って、旧都の方を見る。
春に上ってゆく俺を、パルスィはこの橋から見上げていた。
今は、俺がこの橋から、パルスィの消えていった闇を見ている。
旧都の方から、太鼓の音と笑い声が、切れ切れに流れてきた。
里では今頃、寺の鐘が鳴っている頃だろう。
去年の大晦日は、旦那の店で年越し蕎麦を打つのを手伝って、余った蕎麦を貰って帰ったのだった。
娘さんが、伸びちゃう前に食べなよ、と言って、竹の皮に包んでくれた。
あの蕎麦は、美味かった。
時々、旧都の方から誰かが橋を渡ってきた。
肩を組んだ鬼の二人連れや、千鳥足の一人連れ。
足音が聞こえる度に顔を上げて、その度に違った。
酔った鬼に、おう、橋姫んとこの人間か、明けましておめでとう、と背中を叩かれて、年が明けた事を知った。
パルスィは、まだ帰ってこなかった。
鬼の宴会と言うのが、どんな物なのか、俺は知らない。
勇儀のような鬼が通りを埋める程いて、皆があの盃のような酒を呷っているのだろうか。
その中にパルスィが座っている所を思い浮かべようとして、上手く思い浮かべられなかった。
パルスィは、賑やかな所が嫌いなのだと思っていた。
勇儀も、何年誘っても来なかったと言っていた。
それなのに、今年は行くと言った。
何故なのかは、聞きそびれたままだった。
欄干の灯りの外の暗がりを、青白い靄が、ふらふらと漂っていた。
いつもなら、パルスィが一睨みで追い払ってくれる。
今日は、睨んでくれる人がいない。
欄干の内側に寄りなさい、と春に言われたのを思い出して、欄干の傍へ寄った。
靄は暫く俺の周りをうろうろしていたが、やがて興味を無くしたように、暗がりへ戻っていった。
手の中の蜜柑が、すっかり俺の体温になった。
待つと言うのは、こう言う物なのかと思った。
春に初めてここへ落ちてきた後、俺は三日目に、桜の枝を抱えてもう一度下りてきた。
待ってなんかいなかったと、あの時パルスィは言った。
今なら、あれが嘘だった事くらいは分かる。
足音が、また近づいてきた。
今度は、一人分だった。
闇の中から、金色の髪が浮かび上がった。
パルスィは、見た事の無い羽織を肩に掛けていた。
男物の、大きな羽織である。
裾を橋板に引きずり、袖は指の先まで隠れていて、歩く度に、ぶかぶかと揺れた。
頬が赤い。
足元も、どこか覚束ない。
それなのに、ひどく機嫌の良さそうな顔をしていた。
「庵で待っててって、言ったのに」
パルスィは、笑っていた。
気がつくと、俺はその襟元に顔を寄せていた。
いつもパルスィが俺にする事を、俺がパルスィにしたのは、それが初めてだった。
酒と煙草の匂いに混じって、知らない誰かの匂いがした。
胸の奥が、ちくりとした。
夏に、鬼の二人連れを見送った時と同じ痛みだった。
ただ、今度は消えなかった。
消えないどころか、ちくり、ちくりと、刺さる針の数が増えてゆく。
腹の底が、じりじりと熱くなった。
普通はね、妬ましくなるものなのよ、と夏にパルスィは言っていた。
これがそうなのだと、生まれて初めて分かった。
俺は、手の中の蜜柑を袂に落とすと、パルスィの肩から羽織を外した。
外した羽織を、気がつくと畳んでいた。
こんな時でも律儀に畳んでしまう自分が、我ながら情けない。
それから、自分の綿入れを脱いで、パルスィの肩に掛けた。
誰の羽織なのかと聞いた声は、自分でも驚く程に低かった。
「さぁ。名前も知らないわ。……寒いって言ったら、貸してくれたのよ」
パルスィは、綿入れの襟を両手で掻き合わせた。
それから、俺の顔を見上げて、また笑った。
緑色の目が、内側から燃えるように光っていた。
***
燃えていた。
○○の胸の奥で、熾火が赤々と燃えていた。
パルスィは、力を使っていない。
風など、一息も送っていない。
それなのに、○○の熾火は、勝手に、ひとりでに燃え上がっていた。
燃え移る先が無いのだと、夏には思った。
妬まない体質なのだと、秋には思った。
そのどちらでもなかったのだ。
○○の胸の火は、パルスィの為になら、ちゃんと燃える。
背筋を、ぞくりと何かが這い上がった。
酒の熱とは違う熱が、首筋から耳の先まで、じわじわと上ってくる。
肩に掛けられた綿入れは、○○の体温で、まだ温かかった。
襟に鼻を埋めると、○○の匂いがした。
さっきまで着ていた羽織の、知らない男の匂いとは、まるで違う。
嬉しかった。
妬むのは、もう数えるのも面倒な程長い間やってきた。
けれど、妬まれるのがこんなに気持ちの良い物だとは、知らなかった。
それも、○○に。
誰の事も妬まなかった、あの真っ直ぐな男に。
「ねぇ。妬ましい?」
○○は、答えなかった。
答える代わりに、目を逸らした。
逸らした横顔が、耳まで赤かった。
それで十分だった。
「あんたも、ちゃんと燃えるんじゃない」
橋から庵までの短い道を、○○の手を引いて歩いた。
○○の手は、冷たかった。
綿入れをパルスィに着せてしまったので、すっかり冷えてしまったのだ。
パルスィは、綿入れの袖の中に、○○の手を引っ張り込んだ。
パルスィの為に冷えた手である。
その冷たさが、愛おしかった。
綿入れの中で、パルスィはくすくすと笑った。
もっと見たい、と思った。
この火を、消さずにずっと燃やしておきたい。
次は、何を着て帰ってこようか。
***
明けた年の最初の朝は、パルスィの呻き声で始まった。
地底に朝は無いので、俺が起きた時が朝である。
パルスィは、俺の綿入れにくるまったまま、布団の上で丸くなっていた。
「頭が、割れそう。……あんたの所為よ」
何がどう俺の所為なのかは分からなかったが、言い返すのはやめておいた。
その時になって、パルスィの布団が、俺の布団にぴったりとくっついている事に気がついた。
最初の晩は、板の間の端と端に敷いた筈である。
地底は冷えるから、寝ている間に少しずつ寄ってきてしまうのだろう。
二日酔いには蜜柑が効くと、外の世界にいた頃に聞いた事がある。
本当に効くのかどうかは知らない。
袂に入れたままだった昨日の蜜柑を剥いて、半分を差し出すと、パルスィは寝転がったまま、黙って口を開けた。
仕方が無いので、一房ずつ口に入れてやった。
「……酸っぱい。でも、もう一房」
そう言って、パルスィは最後の一房まで食べて、それからまた眠ってしまった。
枕元には、昨夜橋の上で畳んだ羽織が置いてあった。
持ち主に返さなければならない。
けれど、旧都へは一人では行けないし、行けた所で、持ち主の顔を俺は知らない。
羽織を抱えて橋に出ると、天井の暗がりに向かって、ヤマメを呼んだ。
「明けましておめでとう。……って、何それ」
するすると下りてきたヤマメは、俺の抱えている羽織を見て、目を丸くした。
事情を話すと、ああ、と言って笑った。
「知ってる知ってる。旧都じゃ朝からその話で持ちきりだよ。
あの橋姫が勇儀の宴会に来て、男の羽織を着て帰ったって」
胸の奥が、またちくりとした。
羽織を返してほしいと頼むと、ヤマメは二つ返事で引き受けてくれた。
受け取りながら、ヤマメは俺の顔を、しげしげと覗き込んできた。
「あんたでも、そんな顔するんだねぇ」
それからヤマメは、羽織を抱えたまま、少しの間黙っていた。
ヤマメが黙っているのを見るのは、初めてのような気がした。
「丁度いいや。……一つ、言っとかなきゃいけない事があるんだ。
あんたさ、地上で、誰かと揉めたりしなかった?」
里の事を誰かに話すのは、それが初めてだった。
小料理屋の娘さんの事、旦那の事、薬屋の親父さんの事、八百屋の婆さんの事。
話している間、ヤマメは一度も口を挟まなかった。
話し終えると、やっぱりね、と言った。
「あたしね、あんたを糸で運んでる間、パルスィの事が妬ましくて仕方ないんだよ」
思わず、ヤマメの顔を見た。
ヤマメは、困ったように笑っていた。
「長い付き合いだけどさ、あたし、パルスィを妬んだ事なんか、一度も無かったんだよ。
それが秋からこっち、あんたを運ぶ時だけ、胸の奥がちりちりする。あんたを下ろして離れると、けろっと治るの。
それにね、この冬、橋を渡った後で喧嘩別れする連中が、やけに多いんだって。旧都で噂になってる。
流行り病と同じだよ。元を辿ってくと、いつもあんたの所に行き着くんだ」
ヤマメは、羽織を抱えていない方の手で、俺の胸元を指差した。
「その袋さ。夏の終わり頃にパルスィが、庵の梁に吊るして干してた草と、同じ匂いがする。
虫除けだって言ってたけど、虫除けなんかじゃないよ、それ。
持ってる奴の傍にいる連中の、妬みを煽るんだ。パルスィの力でね」
襟の上から、袋に触れた。
秋から一度も外した事の無い袋は、今日も肌と同じ温かさだった。
「告げ口しに来たんじゃないよ。
……あたしはさ、パルスィを妬みたくないんだ。
あんたが来る前の日に、あの子が橋の上を行ったり来たりしてるのを見てるの、好きだったからさ」
それだけ言うと、ヤマメは羽織を抱えて、糸を手繰って暗がりの上へ消えていった。
一人になった橋の上で、娘さんの顔を思い出した。
その人、女の人でしょ、と言った時の、冷たかった指先。
一度も俺の顔を見なかった旦那。
去年の半分の値しか付けなかった、薬屋の親父さん。
付かなくなった、婆さんのおまけ。
どれもこれも、俺が上の空だった所為だと思っていた。
そうではなかったのだ。
悪い女が寄り付かないように、とパルスィは言っていた。
あの人の言う悪い女と言うのは、俺の傍にいる、誰も彼もの事だったのだろう。
里の人たちに、何と言って謝ればいいのか分からなかった。
パルスィに、腹も立った。
腹を立てようとして、昨夜の事を思い出した。
橋の上で、旧都の方をずっと見ていた事。
知らない男の羽織を、パルスィの肩から外した時の、自分の手。
あの時、俺は確かに思ったのだ。
この人の傍から、誰も彼もいなくなってしまえばいいと。
たった一晩、待たされただけで、俺はそう思った。
秋に、柿を食べながらパルスィが言った事を思い出した。
あんたが地上で見る物も、触る物も、あんたの傍にいる物も、全部妬ましい。
あの時の俺は、それをただ嬉しいとしか思わなかった。
あの人は、あれを春からずっと、一人で抱えていたのだ。
分かってしまった。
襟の内側に指を入れて、紐を首から外した。
胸の上が、すうっと寒くなった。
掌の上の袋を握って、俺は庵へ戻った。
***
目を覚ますと、○○がいなかった。
隣の布団に手を伸ばすと、冷たかった。
○○が抜け出してから、随分と経っている冷たさだった。
頭の痛みが、一息に何処かへ引いていった。
戸が開いて、○○が入ってきた。
ほっとしたのは、一瞬だけだった。
○○の手から、何かがぶら下がっていた。
くすんだ色の、小さな布の袋。
不揃いな縫い目の、パルスィが縫った袋である。
○○の襟元に目をやると、いつもそこに覗いていた紐が無かった。
指の先から、血の気が引いてゆく。
「何で、外してるのよ」
声が、自分でも分かる程に震えていた。
ヤマメから聞いたのだと、○○は言った。
袋の事も、里の事も。
ヤマメ。
あのお喋り。
「お守りだって、言ったでしょう。悪い女が寄り付かないようにって。
嘘は、言ってないわ。一つも」
○○は、黙ってパルスィを見ていた。
怒っている顔ではなかった。
それが、余計に怖かった。
いつもの、嫌になる程透き通った目が、今は真っ直ぐパルスィに向いている。
その目に見られていると、言わなくていい事まで、口から勝手に零れていった。
「あの娘も、お婆さんも。
あんたの傍にいる物なんて、全部、要らなかったの。
あんたから、誰の匂いもしなくなればいいって。
私の匂いだけに、なればいいって」
言ってしまってから、口を押さえた。
押さえた指の隙間から、まだ言葉が漏れた。
「宴会のも、わざとよ。羽織も、遅く帰ったのも、全部。
あんたに、妬んでほしかったの。一度でいいから。
……私ばっかり妬ましいのは、狡いじゃない」
○○が、袋を握った手を、ゆっくりと下ろした。
その手が、遠くへ行ってしまうような気がした。
春になれば、雪が解ける。
山道が出てくる。
○○は山菜を採りに、地上へ上ってゆく。
桜の下へ。
日向の中へ。
あの白粉の女のいる里へ。
そうして、袋の無くなった○○の傍に、また人が集まってくる。
誰かの匂いを付けて、誰かの隣で笑って、それきり、もうこの橋には下りてこない。
「……か、帰るの」
喉が、上手く動かなかった。
「地上に、帰るんでしょう。春になったら。
……いいわよ、帰っても。帰って、それで、もう、」
来なくていい、と言おうとした。
春に、初めて会った日に言ったように。
言えなかった。
「……待つから」
声が、ひどく掠れた。
「待たないなんて、もう言わないから。
何回眠ったって、待つから。だから、だから、」
その先は、言葉にならなかった。
○○が、動いた。
袋の紐を両手で広げて、自分の頭の上から通す。
秋に、パルスィが○○にしてやったのと、同じ手つきだった。
それから、襟を指で少し広げて、袋をその内側へ滑り込ませた。
誰に言われた訳でもなく、○○が、自分の手で。
パルスィは、それをぽかんと見ていた。
何が起きているのか、分からなかった。
昨夜、橋の上でずっと待っていたのだと、○○は言った。
知らない男の羽織を見た時、それを引き剥がしてやりたくなった。
パルスィの傍から、誰も彼もいなくなってしまえばいいと思った。
だから、分かるのだ、と。
それから、少しだけ困ったような顔で、付け足した。
もう、他の男の羽織を着て帰ってこないでほしい、と。
縛られた、と思った。
生まれて初めて、誰かに束縛された。
縛られると言うのが、こんなに嬉しい物だとは知らなかった。
目の奥が熱くなって、○○の顔が、ぼやけて見えなくなった。
パルスィは、○○の襟を両手で掴んで、そこに顔を埋めた。
袋の匂いがした。
干した草と、パルスィの髪と、○○の肌の匂いが、一つの袋の中で混ざり合っていた。
「いいわ」
着ている綿入れの袖を、ぎゅっと握った。
「私も、あんたのものだもの。
だから、あんたも、私のもの」
○○が頷くのが、額越しに伝わってきた。
○○の胸の奥では、まだ熾火が、小さく赤く燃えていた。
パルスィは、そこに息を吹きかけたりはしなかった。
吹きかけなくても、もう消えないような気がしたからだ。
***
それから冬の残りを、俺たちは庵で過ごした。
二つの布団は、もう板の間の端と端には敷かなくなった。
パルスィは今でも、起きる度に俺の襟元を嗅ぐ。
その代わりに、橋の見回りから戻ってきたパルスィの襟元に、俺も顔を寄せるようになった。
知らない匂いはしないと言うと、パルスィは、当たり前でしょう、と言って満足そうに笑う。
ヤマメは、相変わらずよく橋に遊びに来た。
胸のちりちりは、まだ治らないらしい。
ヤマメが来ると、パルスィは籠から蜜柑を一つ取って、黙って放って寄越すようになった。
「何これ、お年玉?」
「違うわよ」
そっぽを向いたパルスィを見て、ヤマメは、けらけらと笑っていた。
溶けあうような日々を通じて、いつの間にか柱に刻みを付け忘れる事が多くなってしまった。
今日が地上の何日なのか、俺にももう分からない。
分からなくても、別に困らなかった。
最後の蜜柑を剥いた日は、ヤマメの話では、地上はまだ一月の半ばだったらしい。
半分に割って、片方をパルスィに渡す。
二人で、黙って食べた。
上はまだ雪が深いが、山桜の枝には硬い芽がびっしりと並んでいたと、その前の日にヤマメが教えてくれていた。
春になったら、一緒にあの山桜を見に行かないかと聞いた。
パルスィは、最後の一房を口に入れたまま、暫く黙っていた。
「地上なんて、妬ましい物だらけじゃない」
それから、俺の手を取って、指先を鼻に近づけた。
すん、と鼻が鳴る。
「でも……行くわ。あんたが、私以外の物ばっかり見ないように」
俺の指にも、パルスィの指にも、最後の蜜柑の匂いが、同じだけ残っていた。