山桜は、咲いてから散るまでが短い。
一週間もすれば花は散ってしまって、枝には赤茶けた若葉ばかりが残る。
見に行くなら、咲いたその日を逃さない事だ。
冬の残りは、思っていたよりも長かった。
持って下りた米は、二月のうちに底を突いた。
それからは、パルスィが旧都から食べる物を貰ってきてくれた。
勇儀が、宴会の残りを持たせてくれるのだそうだ。
橋姫が人間を一人養っている、と旧都ではすっかり評判になっているらしい。
正しくヒモである。
何一つ言い返せない。
ある時、パルスィが、いつもの包みと一緒に、勇儀からの言伝を持って帰ってきた。
「春になったら、地上の山菜を持ってこいって。
酒の肴にするから、持ってきた分だけ買ってやるって」
言い終えてから、パルスィは、鬼に気に入られるなんて妬ましいわね、と付け足して、ぷいと横を向いた。
春になったらどうするのか、俺はまだ決めかねていた。
里の外れには、冬の間ずっと放ってある俺の家がある。
屋根が雪の重みで傷んでいないかは、少し気掛かりだった。
春から秋は山で山菜や薬草を採って、里に卸して暮らす。
去年までは、それで何の不足も無かった。
けれど今の里に、俺の採った物を待っている人は、もう殆どいない。
それに正直に言えば、お日様も恋しかった。
冬の間ずっと橋の灯りの下で暮らしていると、日向の暖かさと言う物が、だんだん思い出せなくなってくる。
三月に入ってすぐ、ヤマメが、雪解けの斜面で摘んできたと言って、蕗の薹を一つパルスィに放って寄越した。
「はい、お年玉のお返し」
「だから、違うって言ってるでしょう」
文句を言いながらも、パルスィは蕗の薹を両手で受け取って、鼻先に近づけた。
すん、と鼻が鳴る。
途端に、ひどく苦い物でも嗅いだような顔になった。
春の最初のものはそんな匂いだと教えると、こんなに苦いの、と眉を寄せたが、それでも蕗の薹は手放さなかった。
上の山道の雪が解けたとヤマメが知らせてくれたのは、三月の半ばを過ぎた頃だった。
その話を聞いてから、パルスィは、橋から戻ってきても俺の襟元を嗅がなくなった。
庵の隅で、俺に背中を向けて座っている。
どうしたのかと声を掛けても、何でもないわよ、と言うばかりである。
三度目に声を掛けた時、ようやく、背中を向けたまま口を開いた。
「帰るんでしょう、もう」
声が、掠れていた。
まだ帰らない、と俺は答えた。
蕨もたらの芽も、芽を出すのはもう少し先である。
それに、最初に地上へ上る時は、パルスィと一緒にと決めていたのだ。
風穴の傍の山桜が咲いたら、二人で見に上がる。
それまでは、何処へも行かない。
パルスィは、暫く黙っていた。
「……ふぅん」
それから、ようやくこちらを振り向くと、膝で這ってきて、俺の襟元に顔を埋めた。
いつもより、ずっと長かった。
匂い袋は、今も俺の胸の上にある。
中に何が入っているのか、何の為の物なのかを、今の俺は知っている。
知った上で、毎朝、紐がちゃんと首に掛かっているかを確かめている。
山桜が咲いたらすぐに知らせてほしいと、ヤマメには頼んでおいた。
「咲いたよー。あの大きいの」
ヤマメが逆さまにぶら下がって知らせに来たのは、四月も半ばを過ぎた頃だった。
パルスィは、欄干に寄りかかったまま、すぐには何も言わなかった。
「……一緒に行くわ。約束だもの」
俺は、冬の初めに蜜柑を入れて下りたきり、庵の隅に置いてあった籠を引っ張り出した。
あの山桜の根元のたらの芽が、そろそろ食べ頃の筈だった。
***
ヤマメが知らせに来てから、パルスィは眠れなかった。
隣の布団で、○○が静かな寝息を立てている。
その襟元に、何度も鼻を寄せに行った。
庵の匂いと、地底の水の匂いと、パルスィの匂い。
冬の間に、すっかり染み付いた匂いである。
明日、日の下に出てしまったら。
この匂いはどうなるのだろう。
地上は、妬ましい物で一杯に決まっている。
○○の目は、きっとその一つ一つに向くのだろう。
橋の上では、○○の目に映るのは殆どパルスィだけだった。
そうなるようにしていた。
しかし、地上では、そうはいかない。
地上は、○○の生まれた所ではないにしても、○○が暮らしてきた所なのだ。
日の下に戻った○○が、そのまま光の中へ帰っていってしまうような気がして、パルスィは布団の中で身を縮めた。
眠っている○○の胸に、そっと掌を当てた。
着物の上から、匂い袋の小さな膨らみが分かる。
その下で、心臓がとくとくと、いつもの速さで打っていた。
行くと何度も言ったのだ。
それを今更反故にするほど、面倒な女にはなれなかった。
庵を出る前に、柱の刻みを指でなぞった。
一月の半ばの辺りで、ぷつりと途切れたままの刻みである。
春までの日を数える筈だった刻みは、春が来るより先に途切れていた。
その途切れた所を、パルスィは指先で何度も撫でた。
時を忘れるほど、というやつだ。
この中途半端な刻みは、○○が私で埋めつくされた証拠のような気がしてならない。
「……ふふ」
気分がいい。
だから、私はこの柱が好きになっていた。
ヤマメに地上の夜明けを知らせてもらってから、二人で庵を出た。
○○は、空の籠を背中に背負っていた。
地底から離れるのは、初めてだった。
欄干に手を置いたまま立ち止まっていると、頭の上からヤマメの呆れた声が降ってきた。
「一日くらい空けたって、誰も困らないってば。なにもないよう、あたしが目を光らせとくよ」
ヤマメの糸が○○を巻き取って、するすると上ってゆく。
パルスィは、その隣を飛んだ。
○○の手を、しっかりと握ったまま。
「変に手、離さないでよ。○○が落っこちても、あたし間に合わないからね」
「馬鹿ね。死んでも離さないわよ」
○○に視線を向けるとくすぐったいような反応をされた。
不用意に口から漏れてしまった『死んでも』が頭の中でリフレインする。
振り切るように視線をそらし、地底を見下ろすと、橋が、見る見る小さくなっていった。
欄干の灯りが、暗がりの底で、ぽつりぽつりと光っている。
上から橋を見下ろした事など、一度も無かった。
思っていたよりもずっと細くて、頼りない橋だった。
欄干の傍には、誰も立っていない。
待っている者のいない橋を、パルスィは灯りが暗がりに呑まれて見えなくなるまで、黙って見下ろしていた。
上るに連れて、暗がりの色が変わっていった。
黒が、灰色になる。
灰色が、少しずつ白っぽくなってゆく。
冷たかった風が、ぬるくなった。
辺りが明るくなるに連れて、○○の手を握る指に、知らず知らず力が籠もっていった。
気がつくと、掌がじっとりと汗ばんでいる。
地底で暮らしていて、汗をかいた事など殆ど無かった。
○○は何も言わずに、握り返してくれた。
ぬるくなった風に、匂いが混じり始めた。
湿った土。
芽吹いたばかりの草。
それから、春から何度も○○の襟元で嗅いできた、あの日向の匂い。
いつもは○○の体に少しずつ付いて下りてくる物が、ここでは上から溢れるように降ってくる。
息を吸う度に胸の奥まで春が流れ込んできて、パルスィは噎せそうになった。
見上げると、頭の上に、丸い光があった。
目が痛かった。
橋の灯りとは比べ物にならない、白くて強い光である。
その丸の縁を、白い物が、ひらひらと舞っていた。
花びらだった。
穴の口から出た途端、光がパルスィを丸ごと包んだ。
思わず目を閉じた。
穴の縁に降り立つと、足の下で、湿った土がふかりと沈んだ。
橋の板とも、地底の岩とも違う柔らかさだった。
頭の上で、何かがさわさわと鳴っている。
風が、枝を揺らしている音らしい。
地底の風は、こんな音を立てない。
閉じた瞼の裏まで、赤く透けて見えた。
頬が温かい。
額も、首筋も、○○の手を握っていない方の手の甲も、何もかもが温かい。
誰も触れていないのに、温かかった。
これが、本物の太陽なのだ。
恐る恐る、目を開けた。
桜があった。
見上げる程に大きな木だった。
いつか○○に聞いていた通り、パルスィが両腕を回しても、幹の半分にも届かないだろう。
張り出した枝の先まで、白い花がびっしりと付いていて、その花と一緒に、赤茶けた若葉が開いている。
小箱の中で干からびている花は、この木から来たのだ。
花びらの隙間から、青い物が透けて見えた。
空だった。
天井が、何処にも無かった。
何処まで見上げても、ただ青いのだ。
隣を見ると、○○も、桜を見上げていた。
見た事の無い顔だった。
目を細めて、口元を緩めて、懐かしい物にでも会ったような顔で、白い花を見上げている。
橋の上でパルスィを見るどの顔とも、違っていた。
胸の奥で、何かがちりちりと焦げた。
この木は、毎年ここで咲いていたのだ。
パルスィが橋の上で行き交う者を妬んでいた間も、ずっと。
○○は毎年、こう言う桜を見上げて春を過ごしてきたのだ。
パルスィの知らない春に、パルスィの知らない顔で。
「妬ましいわ」
繋いだ手に、ぎゅっと力を込めた。
○○は桜から目を離して、パルスィを見た。
それから、少し可笑しそうに笑って、同じだけの力で握り返してきた。
***
日の光の下でパルスィを見るのは、初めてだった。
金色の髪が、春の日を透かして、淡く光っていた。
橋の灯りの下では底の方から光っているように見えた緑色の目が、ここでは、芽吹いたばかりの草のように明るく澄んでいる。
長く綺麗な耳の先が、日に当たって、うっすらと桃色に透けていた。
綺麗だ、と思った。
橋の上で初めて会った時から、何度も思ってきた事を、もう一度思った。
「何見てるのよ。桜を見に来たんでしょう」
言われて桜を見上げると、今度は袖を引っ張られた。
「桜ばっかり見ないでよ」
仕方が無いので、桜とパルスィとを、代わる代わる見る事にした。
すると今度は、桜を見ている時の方が長い、と文句を言われた。
そんな面倒くささですら可愛らしい。
そう思ってしまう俺はやはり、盲目なのだろう。
山桜の根元の藪には、丁度食べ頃の太さのたらの芽が、ずらりと並んでいた。
一年前、手を伸ばした所で足元が抜けて、とうとう一つも摘めなかった芽である。
天ぷらにして旧都の鬼たちに出したら、さぞ喜ぶだろう。
そう思うと、自然と顔が綻んだ。
「何よ、その顔。私を見る時より嬉しそうじゃない」
パルスィが手を離してくれないので、たらの芽は片手で摘む事になった。
棘のある木から片手で芽をもぐのは骨が折れたが、離してくれとは言えなかったし、言うつもりも無かった。
パルスィも一つ摘んでみようとして、棘に指を刺した。
「……生意気ね」
刺した指を口に含んで、パルスィは、たらの芽を恨めしそうに睨んだ。
初めて会った日にも、この人は、蕨より美味しそうなたらの芽を見て嫌な顔をしていた。
一年経っても、相性は悪いままらしい。
籠が半分程埋まった所で、パルスィの手を引いて、斜面を少し下りた。
木立の切れた所に出ると、目の前に、谷を挟んだ向こうの山が開けた。
まだ芽吹ききらない灰色の斜面のあちこちに、山桜が、ぽつりぽつりと白く浮かんでいる。
「あんたの言ってた通りね。ぽつりぽつりと、白く浮かんでる」
驚いて顔を見ると、パルスィは、何よ、と言って目を逸らした。
初めて会った日に、橋の上で話して聞かせた景色である。
興味の無さそうな顔で聞いていた話を、この人はずっと覚えていたらしい。
胸が詰まって、すぐには言葉が出てこなかった。
引き返そうとした所で、下の山道から、人の話し声が上ってきた。
若い夫婦者だった。
二人とも背中に籠を背負っている。
里の外れで、何度か見掛けた事のある顔である。
里に近い山の芽は、もうすっかり摘まれてしまったのだろう。
二人は、俺の隣のパルスィに目を留めると、ぎょっとしたように足を止めた。
尖った耳と緑色の目を見れば、人間でない事は誰にでも分かる。
怖がらせないように頭を下げると、亭主の方が、強張った顔で会釈を返してきた。
細い山道を、肩が触れそうな程近くですれ違う。
亭主は、すれ違う間じゅう、パルスィの顔から目を離さなかった。
十歩も行かないうちに、後ろで声が上がった。
「今、見とれてたでしょう」
「見とれてなんか、ねぇよ」
「見とれてたわよ。あんな、妖怪なんかに」
振り返ると、女房の方が、亭主を置いて一人で山道を上ってゆく所だった。
亭主は、慌ててその後を追いかけていった。
胸の上の匂い袋を、着物の上から押さえた。
里で娘さんの指先が冷たくなったのも、きっと、こんな風だったのだろう。
パルスィは、遠ざかってゆく二人の背中を見ていた。
緑色の目が、日の光の中で、内側からぼうっと光っていた。
それから、俺の方へ向き直った。
「……あんたはああいう光景も、ああいう態度をされるのも、好まないでしょう」
声が、小さかった。
パルスィの目は、俺の胸元の、袋のある辺りを見ていた。
「外したくなった?」
俺は、首を振った。
「そう」
パルスィはそれだけ言って、前を向いた。
繋いだ手に、痛い程の力が籠もった。
外せば、あの夫婦は、今日のうちにでも仲直りするのかもしれない。
里の人たちも、また前のように声を掛けてくれるようになるのかもしれない。
それでも、外すつもりは無かった。
冬の橋の上で、俺はこの人の傍から誰も彼もいなくなってしまえばいいと思ったのだ。
あの時の気持ちを、俺はまだ少しも忘れていない。
ただ、袋を着けたまま里で暮らせば、今日のような事が、これからも毎日のように起きるのだろう。
娘さんや旦那や婆さんに起こったのと同じ事を、俺は里の誰かに、ずっとさせ続ける事になる。
それは、嫌だった。
冬の間ずっと決めかねていた事の答えが、その時、すとんと胸の底に落ちてきた。
言うなら、あの桜の下で言いたかった。
夕方まで、胸の中に仕舞っておく事にした。
***
地上は、疲れる。
眩しくて、温かくて、騒がしくて、何処を見ても妬ましい物しかない。
○○は、その全部に目を向ける。
パルスィは、その全部を妬んだ。
妬むのには慣れている筈なのに、日が高くなる頃には、すっかりくたびれてしまっていた。
それほどまでに地上のものは、活力に満ちていた。
山道ですれ違った夫婦の事を、パルスィはまだ考えていた。
すれ違ったあの時、女の胸の奥で、熾火がぱっと赤く燃え上がるのが見えた。
パルスィが風を送った訳ではない。
○○の胸の上の、袋の息である。
冬の間、橋の上で何度も見た事が、地上でもちゃんと起きている。
それを、○○も分かっている。
分かった顔で、袋を押さえていた。
外したくなったかと聞いた時、パルスィは、○○の顔を見られなかった。
頷かれても、私の心はそれを許さない。
どうすればいいのかわからなくなる。
しかし、○○は首を振った。
袋のある辺りを見ていたパルスィの目にも、それははっきりと分かった。
嬉しくて、堪らなかった。
あの夫婦には悪いが、彼らの犠牲の上に成り立つ幸福感に、まったく罪悪感が湧かないほど、私はその瞬間だけ満ちてしまうのだ。
山桜の所まで戻って、根元に○○と並んで腰を下ろした。
すぐ傍に、縦穴の口が黒く開いている。
この下に、パルスィの橋がある。
○○が、腰に下げていた包みを解いた。
パルスィが旧都から貰ってきた握り飯である。
地上では、桜の下で物を食べる事を花見と言うのだそうだ。
桜を見るのか物を食べるのか、はっきりしない遊びである。
○○は握り飯を頬張りながら、また桜を見上げていた。
パルスィは握り飯を齧りながら、○○を見ていた。
冬に庵で見ていたのと同じ、顎の動きと、喉の上下である。
ただ、その頬には太陽が当たっていて、髪の毛の一本一本が、細く光っていた。
見慣れた顔なのに、橋の灯りの下で見るのとは、どこか違って見えた。
地上の○○はこう言う顔をしているのだと、深く目に焼き付けた。
○○の家はどっちにあるのかと聞くと、○○は谷の向こうを指差した。
谷を下った、ずっと先らしい。
屋根が雪で潰れていないかが心配なのだと、○○は少し困ったように言った。
「潰れてたら、いい気味ね」
本気で言ったのに、○○は、何故だか少し嬉しそうにした。
確かにそうだ、と笑う○○。
まさか帰る場所を自ら潰されたがるとは。
何が嬉しいのか、パルスィには分からなかった。
パルスィは、○○の肩に凭れて、襟元に鼻を寄せた。
日向と、土と、草。
冬の間に、あれ程薄くなっていた匂いだった。
十数も眠って、ようやく抜けた匂いである。
それが、たった半日お日様の下にいただけで、すっかり元に戻ってしまっている。
地上と言うのは、図々しい。
けれど、その奥に、ちゃんとあった。
干した草の乾いた甘さと、パルスィの髪の匂い。
冬じゅう○○の胸の上で温められてきた匂いが、日向の匂いの下で、少しも消えずに残っていた。
○○が毎朝、紐がちゃんと首に掛かっているかを確かめているのを、パルスィは知っている。
起きた時の細かい仕草だが、それを見逃してなんてやらない。
「日向と、土と、草の匂い。……あんたの匂いね」
初めて会った時は嫌な匂いだと言っていたのに、と○○が笑った。
「嫌な匂いよ。今でも」
そう言いながら、パルスィは襟元から鼻を離さなかった。
鼻を寄せたまま、頬を襟元にぐいと擦り付けた。
日向の匂いの上から、もう一度、自分の匂いを塗り重ねるように。
○○は、くすぐったそうに首を竦めたが、逃げはしなかった。
桜の花びらが、二人の上に、ひらひらと降ってくる。
○○が、ふと思い出したように、外の世界で読んだと言う話を始めた。
桜の樹の下には、屍体が埋まっているのだそうだ。
桜があんなにも見事に咲くのは、根が屍体の血を吸っているからなのだと言う。
去年この木の根元で穴に落ちた時には、てっきり自分が埋まる番なのだと思った、と○○は笑った。
パルスィは、すぐ傍の穴の口を見た。
「屍体なんか、埋まってないわよ。
この桜の下にあるのは、私の橋と」
少しだけ、言葉が詰まった。
「……あんたの、帰る所よ」
言ってしまってから、急に怖くなった。
春は、もう来てしまったのだ。
山道の雪は解けて、たらの芽は籠に半分も溜まっている。
○○は、何も言わなかった。
ただ、繋いだ手を、ゆっくりと握り直した。
それが答えなのかどうか、パルスィには分からなかった。
頭の上で、桜がさわさわと鳴っている。
日光の温かさと、○○の肩の温かさとに挟まれて、瞼がだんだん重くなってきた。
地底では、こんなに温かい所で眠った事など一度も無い。
眠ってしまったら勿体無い、と思ったのが最後だった。
***
肩の上で、パルスィが眠ってしまった。
慣れないお日様の下で、半日も妬み通しだったのだ。
くたびれもするだろう。
繋いだ手は、眠っていても離れなかった。
寝顔なら、冬の間に何度か見た事がある。
けれど、日の光の下で見るのは初めてだった。
長い睫毛の先で、木漏れ日がちらちらと揺れている。
薄く開いた唇から、小さな寝息が漏れていた。
花びらが一枚、また一枚と、金色の髪の上に降ってくる。
払ってやろうかと思って、やめた。
起こしてしまうのが惜しかった。
今思えば、一年前から俺はパルスィの隣にいる事しか考えていないような気がする。
この人が好きだと、思った。
胸の中でそう言葉にしてみると、ひどく当たり前の事だった。
ずっと抱えていた恋慕だ。
勇儀は、持ってきた分だけ山菜を買ってくれると言っていた。
春は山菜、夏は薬草、秋は茸。
季節の無い旧都なら、地上の季節の物は、きっと珍しがられるだろう。
里の家は、引き払えばいい。
何年か暮らした家だが、思い残す物は、それ程無かった。
ただ、裏の渋柿の木だけは、少し惜しかった。
もっとも、山に入れば、誰の物でもない渋柿の木は、探せば幾らでもある。
秋になったら一本見つけて、干し柿を作って持って下りよう。
パルスィはきっと、良い反応をしてくれるだろう。
日が傾くと、山の風は急に冷たくなる。
冷たい風に首を竦めて、パルスィが目を覚ました。
寝ぼけた顔で俺を見上げた、その鼻の頭が、少し赤くなっていた。
慣れないお日様に、焼けてしまったらしい。
教えてやると、パルスィは慌てて鼻を押さえて、これもあんたの所為、と俺を睨んだ。
山桜の影が、斜面の下の方へ、長く長く伸びていった。
その隣に、俺たちの影が二つ、並んで伸びている。
「影って、こんなに伸びるのね」
橋の灯りの下では、影はいつも、足元に短く落ちているだけだった。
背中が、じんわりと温かくなってくる。
秋に、橋の上で話して聞かせた通りである。
俺は、パルスィに、振り返ってみるように言った。
パルスィは、ゆっくりと振り返った。
西の空が、燃えていた。
遠くの山の稜線が黒く沈んで、その上の雲の縁だけが、溶けた金のように光っている。
雲の間から覗く空は、上へゆく程に紫を帯びて、高い所はまだ、昼の青さを薄く残していた。
「……柿の色」
桜の白い花も、パルスィの頬も、西日を受けて同じ色に染まっていた。
緑色の目に夕焼けが映り込んで、瞬きをする度に、小さく揺れた。
いつかこの空を見せてやりたいと、秋の帰り道に思ったのだった。
それが叶ったのだと思うと、胸の奥が熱くなった。
嬉しかった。
「すぐに、消えてしまうのでしょう」
頷くと、パルスィは、瞬きもせずに西の空を見つめた。
夕焼けは、話した通りに長くは続かなかった。
雲の縁の金色が、少しずつ赤くなり、赤が紫に沈んで、やがて山の稜線と見分けが付かなくなった。
途中で一度、パルスィは、繋いでいない方の手を、西の空へ伸ばし掛けた。
それから、その手を下ろして、俺の手を両手で握り直した。
最後の一筋が消えるまで、パルスィは、ずっと見ていた。
「妬ましいわ。こんな物を、毎日見てたなんて」
それから、少しだけ得意そうに付け足した。
「でも……ふふ、私も知ったわ。少しだけ、あんたと一緒になれた」
***
夕焼けが消えると、地上は上の方から暗くなった。
地底の暗がりは、いつも同じ濃さでそこにある。
地上の暗がりは、空から少しずつ下りてくるのだ。
桜の白い花だけが、薄闇の中に、ぼんやりと浮かんでいた。
○○が、こちらに向き直った。
その指が、パルスィの髪から、花びらを一枚摘み取った。
通行料だ、とわざとらしく○○は言った。
あの桜の前を通る分の通行料なのだそうだ。
平坦な言い方で、誰の真似かは言うまでもない。
パルスィは、○○の指から花びらを奪い取った。
去年の春、○○の肩から奪い取った時と、同じように。
「ダメよ、私のものだもの。……全部、私のよ」
○○は、喉の奥で小さく笑った。
笑ったまま、その目が、ふっと谷の向こうへ流れた。
暗くなった谷の底から、細い煙が幾筋か、真っ直ぐに上っている。
あの煙の下に、○○の家がある。
全部、と言ったけれど、あそこだけは、パルスィの物ではない。
春が来たのだ。
屋根が潰れていようといまいと、○○はきっと、あそこへ帰ってゆく。
春は山菜を採り、夏は薬草を採り、秋には茸を採って、里の誰かに卸して暮らす。
橋へは、去年のように、五日か、十日に一度下りてくるのだろう。
下りてくる度に、パルスィは襟元に鼻を寄せて、知らない誰かの匂いを探すのだ。
日向と土と草の匂いの奥に、白粉や、知らない女の髪の匂いが混じっていないかを、一つずつ。
そうして、何も見つからなかった日でさえ、○○が地上で過ごした、パルスィの知らない数日分の全部を妬むのだ。
考えるだけで、胸の奥が焼け付くようだった。
掌の中で、花びらがくしゃりと潰れた。
「……桜が咲くまでは、何処へも行かないって、言ったわよね」
○○が、煙から目を離して、こちらを向いた。
見上げると、桜はまだ白く咲いていた。
○○の約束は、この花が咲くまでだった。
咲いた後の事を、○○は一言も言っていない。
冬の間ずっと、考えないようにしてきた事だった。
○○が、何か言おうとして口を開いた。
その先を聞くのが、怖かった。
花びらを握り込んだ手で、そのまま○○の襟を掴んだ。
もう片方の手でも、掴んだ。
襟を掴んだ指が、震えていた。
「帰らないでよ」
自分の声が、ひどく湿っていた。
「あんな家に、帰らないで。
地上に行くのは、いいわ。山で何を見たって、誰とすれ違ったって。……よくないけど、いいわ。
でも、眠る時は、私の隣で眠りなさいよ。
起きたら、一番に、私を見なさい」
言っているうちに、目の奥が熱くなった。
頬を、温かい物が伝ってゆく。
泣いたのがいつ以来なのか、パルスィには思い出せなかった。
○○は、少し困ったように笑って、パルスィの頬を指で拭った。
それから、ゆっくりと言った。
里の家は、引き払う。
帰りたい所は、もう里の家ではない。
この桜の下で、パルスィと一緒に暮らしたいのだ、と。
言われた事が、なかなか胸に入ってこなかった。
一つずつ、拾い直す。
里の家を、引き払う。
もう、あの煙の下へは帰らない。
この桜の下で。
パルスィと、一緒に。
拾い終えた途端に、胸の奥で、何かが溢れた。
嬉しいと思うより先に、体の方が熱くなった。
首筋から長い耳の先まで、かっと火が点いたようだった。
「……橋の傍で、暮らすなら」
声が、上手く出なかった。
「毎日、通行料を、払ってもらうわ」
襟を掴んだ手で、○○をぐいと引き寄せた。
唇を、重ねた。
○○の唇は、温かかった。
一日じゅう日の下にいた、日向の温かさだった。
心なしか塩の味と、春の風の匂いがした。
○○が息を呑むのが、唇越しに伝わってくる。
胸と胸の間で、匂い袋が小さく潰れた。
濡れた頬が○○の頬に触れて、どちらの物とも分からない温かさになった。
この唇に触れた物を、パルスィは一つ残らず妬んだ。
今日食べた握り飯も、吸い込んだ春の風も、さっきまでこの顔を照らしていた夕焼けも。
これから先、この唇に触れる物も、この目に映る物も、全部、妬んでやる。
長い間、貪って。
離れた唇が、冷たくなり始めた風に触れて、ひやりとした。
それでも、顔は離さなかった。
額と額が触れ合う近さで、パルスィは言った。
「毎日、払ってもらうから。
一日でも忘れたら、許さないから」
吐いた息が、○○の唇に掛かって、そのまま返ってくる。
「あんたが見る物も、触る物も、あんたの傍にいる物も、これから先ずっと、全部妬んでやるから。
……覚悟しなさいよ」
○○は、暗がりでも分かる程に真っ赤な顔で、それでも真っ直ぐにパルスィを見て、頷いた。
その顔が、妬ましくて、妬ましくて、どうしようもなく愛おしかった。
***
口元に、パルスィの熱が、まだ残っていた。
「○○。帰るわよ」
パルスィは、濡れた目のまま、当たり前のような顔で俺の名前を呼んだ。
秋に、橋の上で夕焼けの話をした時の事を思い出した。
外で遊んでいた子供たちが、母親に名前を呼ばれて、一人、また一人と家へ駆けてゆく。
幻想郷に来てから、夕暮れに俺の名前を呼んで、帰ろうと言ってくれる人は、一人もいなかった。
目の奥が熱くなって、俺は慌てて、暮れた空を見上げた。
穴の口でヤマメを呼ぼうとすると、パルスィに袖を引かれた。
これからは、上り下りは自分が運ぶのだと言う。
ヤマメの糸になんか、もう巻かれなくていいのだそうだ。
何か言い返す前に、俺の体はパルスィの両腕に抱え上げられて、ふわりと地面を離れていた。
細い腕に見合わず、思っていたよりもずっと力が強かった。
穴の口から、暗がりの中へ下りてゆく。
途中で、迎えの糸を垂らしかけていたヤマメとすれ違った。
ヤマメは、抱えられている俺を見て目を丸くすると、けらけらと笑いながら糸を引っ込めた。
見上げると、暮れた空の色をした穴の口の丸い明かりが、少しずつ小さくなってゆく。
その丸の縁を、山桜の白い花びらが、ひらひらと何枚か舞っていた。
一年前、同じ眺めを、俺は一人で落ちながら見上げていた。
今は、パルスィの腕の中にいる。
冷たい腕だった。
その腕の中で、パルスィは俺の襟元に顔を埋めて、すん、と鼻を鳴らした。
下りてゆく間じゅう、ずっとそうしていた。
鼻を鳴らす度に、妬ましい、と小さく零す声が聞こえた。
胸の上の匂い袋だけが、俺とパルスィの間で、二人分の体温に温まっていた。
ふいに、パルスィが襟元から顔を上げた。
「好きよ、○○。あんた以外見えなくなってしまうくらい」
可憐で、綺麗で、蠱惑的。
まさしく、
翡翠の瞳に射抜かれて、俺はきっと死んでしまったのだろう。
俺を抱きすくめる腕の冷たさと、耳元で囁かれる狂おしいほどの妬みが、何よりも心地良い。
互いに愛の言葉を擦り込んで、桜の樹の下へ、俺たちは帰っていった。