筍の季節は、始まる時と同じように、いつの間にか終わってゆく物である。
竹の落ち葉が降りきってしまう頃になると、足の裏に当たる盛り上がりはめっきり減って、たまに見つけても、細くて短い物ばかりになる。
里の者たちも、そろそろ掘り納めだと言って、竹林の縁へ来なくなった。
その日も夜明けから縁を歩き回ったが、籠の底には、指程の太さの筍が三本、ころりと転がっているだけであった。
女将さんの所へ持っていっても、今年はもう仕舞いだね、と言われるに決まっている。
あの屋敷の事は、何度も思い出した。
竹を割っている時も、籠を編んでいる時も、気がつくと、畳に流れていた長い黒髪や、焼けた筍を頬張っていた顔の事を考えている。
けれど、一人で竹林の奥へ入れば、また同じ所をぐるぐる回るのが落ちである。
縁で筍を掘っていると、竹の陰に兎の耳がひょこりと覗く事は、時々あった。
覗くだけで、てゐが顔を出す事は、一度も無かった。
「お兄さん、今日はこんな縁っこで掘ってるの?」
振り返らなくても、誰の声なのかは分かった。
竹の根元にてゐがしゃがみ込んで、籠の中の細い筍を覗き込んでいる。
少しして、てゐはひょいと立ち上がって、竹林の奥の方へ顎をしゃくった。
「姫様がお呼びだよ。ほら、行くよ」
明日には顔も覚えていないと言ったじゃないか、と言うと、てゐは、くふ、と笑った。
「言ったよ。嘘だもん」
余りにあっけらかんと言うので、怒る気にもなれなかった。
今度は、遠回りをさせられなかったらしい。
半刻程歩いたかと思う頃には、竹の間に、あの白い塀が見えていた。
塀の上には、山桜の枝が、十日前と少しも変わらない満開の姿で覗いている。
里の桜は、もうすっかり葉ばかりになっていた。
門をくぐると、てゐは玄関へは向かわずに、植え込みの間の枝折戸を抜けて、庭の方へ俺を連れていった。
庭の奥、山桜の枝が竹藪の方へ張り出した下に、輝夜が立っていた。
その隣に、焦げ茶色の皮を着た筍が一本、にょっきりと突っ立っている。
筍と言っていいのかどうか、分からない。
先の方は細く尖って、背丈は、もう俺と同じくらいあるのだ。
「あら。来たの」
呼んだのは自分の筈なのに、輝夜は、まるで俺が勝手に訪ねてきたような顔をした。
それから、隣の筍を、自慢の宝物でも見せるように指差した。
「見て。十日前の晩は、指の先くらいしか出てなかったのよ。
足の裏で見つけたの。貴方が言った通りに」
十日で、ここまで伸びたのである。
こうなってしまうと、もう焼いても茹でても食べられない。
俺がてゐの言葉を真に受けて、家で籠を編んでいた間に、この筍は、俺の背丈まで伸びて、竹になってしまっていたのだ。
輝夜は、筍の事はもう気が済んだのか、今度は俺の手を取った。
何をするのかと思えば、指を一本ずつ開かせて、人差し指の付け根の辺りを覗き込んでいる。
十日前に、輝夜が手首を掴んで覗き込んでいた、あの傷のあった所である。
かさぶたはとうに取れて、薄い桃色の線が、細く残っているだけだった。
「もう、塞がったのね」
輝夜は、少しだけつまらなそうに言って、それでも暫くの間、その線を眺めていた。
何がそんなに面白いのかは、分からなかった。
縁側の方から、背の高い女の人が下りてきたのは、その時である。
長い銀色の髪を一本に編んで、背中に垂らしている。
女の人は、輝夜に握られたままの俺の手を見て、ほんの少しだけ眉を上げた。
「姫。そちらが、筍の方ですか」
「そうよ」
「八意永琳と申します。この屋敷で、薬師をしております。
……姫が、焼いた筍の話を、それはもう何度も」
「永琳」
輝夜が遮ると、永琳と名乗った人は、口元だけで笑って、それ以上は言わなかった。
人でも妖怪でも、どんな病も治してしまうと噂の医者が、こんなに若い女の人だとは思っていなかった。
その日は、日が傾く前に帰された。
座敷で見送る輝夜は、最後に、何でもない事のように言った。
「十日毎に、いらっしゃい。てゐに迎えに行かせるから。
来る時は、何か持ってくること」
帰り道で、ふと気がついた。
あの日から今日で、ちょうど十日である。
庭の筍が竹になるのを、待っていたのかもしれない。
***
桃と言うのは、指で押した所から傷んでゆく果物である。
里の外れに桃を作っている家があって、この春、そこの主人に、もいだ桃を入れる籠を頼まれた。
背負い籠のような深い籠ではなく、底が広くて縁の低い、盆のような籠である。
桃は重ねて入れると、下の物が上の物の重みで傷んでしまうので、一段にだけ並べて運ぶのだと言う。
もぐ時も、指先で摘まずに、掌で包むようにして持たなければならない。
熟れた物は日陰に置いても二、三日しか保たないし、何処かにぶつけて打ち身を作れば、そこから茶色く柔らかくなってゆく。
籠を編みながら、そう言う事を一通り聞かされた。
春の終わりから、十日毎に竹林の縁の切り株の所へ行くと、てゐが待っているようになった。
来る時は何か持ってくるように、と言われていたので、行く度に、その時季の物を一つ持っていった。
姫様は飽きっぽい、とてゐは言っていたが、その割に十日毎の迎えは春から一度も途切れていない。
顔を忘れると言うのが嘘だったように、あれも嘘だったのかもしれない。
それでも、次は何を持っていくべきかと、毎度、少しだけ真剣に考えた。
十日は、俺には長かった。
けれど、日を決めたのは輝夜で、俺は招かれて行く客である。
もっと呼んでほしいなどと、客の方から言い出せる物ではなかった。
籠が仕上がったのは、梅雨に入って、最初の桃がもげる頃である。
届けに行くと、主人は籠の出来を喜んで、代金の他に、その朝もいだばかりの熟れた桃を五つ持たせてくれた。
一番の食べ頃だから、今日のうちに食べろと言う。
ちょうど、竹林の奥へ行く日であった。
見本に編んだ浅い籠が一つ手元に残っていたので、三つをそれに並べて持っていく事にした。
輝夜と、てゐと、俺の分である。
残りの二つは、家の日陰に置いた。
その日は、梅雨の晴れ間であった。
切り株の所で、てゐは籠を覗き込むなり、桃と俺の顔とを見比べた。
一つはてゐの分だと言って渡すと、頭の上の耳が、ぴんと立った。
「お兄さん、話が分かるじゃん」
てゐはその場で皮ごと齧りついて、汁を垂らしながら歩き出した。
竹林の中には風が通らず、雨を吸った土から湿気が立ち上ってきて、歩いているだけで汗が噴き出してくる。
こんな日に熟れた桃をのんびり運んでいたら、着く頃には温まって、柔らかくなってしまう。
桃を並べた浅い籠を胸の前に抱えて、俺は、何度もてゐを急かしながら歩いた。
そうして急いだのが、いけなかった。
竹の根に草鞋を取られて、よろけた拍子に、籠の縁を竹の幹にぶつけてしまったのである。
慌てて覗き込むと、片方の桃の肩の所に、親指の先程の、薄く凹んだ跡が付いていた。
「あーあ」
てゐが、桃の汁で口の周りを光らせたまま、他人事のように言った。
実際、他人事である。
永遠亭の玄関で足を濯いで、首の汗を手ぬぐいで拭った。
上がり框の脇の柱に、使い込んだ菅笠が一つ掛けてある。
里へ時々薬を売りに来る笠の薬売りも、こんな笠を被っていたような気がした。
輝夜は、座敷の縁側に出て、庭を眺めていた。
庭の奥では、春に俺の背丈程だったあの筍が、とうに皮を脱ぎ捨てて、細い枝の先に青い葉を広げ、塀より高く伸びている。
その隣で、山桜は、やはり満開のままだった。
夏の青葉の中で一本だけ咲き続けている桜にも、俺はもう驚かなくなっていた。
この蒸し暑さの中で、輝夜だけは汗一つかいていないように見えた。
あの長い黒髪も、首筋に貼り付きもせずに、さらりと背中を流れて、縁側の板の上に広がっている。
輝夜は俺を見ると、まず手を取って、指を一本ずつ開かせた。
新しい傷は無いかと、確かめているらしい。
春からずっと、会う度にこれをやられているが、何を確かめたいのかは、未だによく分からない。
手を返してもらってから、籠の桃を見せた。
「桃ね。いい色」
輝夜は、二つ並んだ桃に顔を寄せて、目を細めた。
打ち身の付いた方を指して、こちらは来る途中でぶつけてしまったので、先に食べた方がいいと言った。
熟れた桃は二、三日しか保たない事、打ち身を作った所から傷んでゆく事を話すと、輝夜は、ふうん、と言って、打ち身の方の桃を手に取った。
指で摘まずに、掌に載せるようにして持ったのは、俺の話を聞いていたからだろう。
「じゃあ、こっちは取っておくわ」
話を聞いていたのなら、どうしてそうなるのか。
二、三日で傷むのだともう一度言うと、輝夜は、分かってるわ、と頷いた。
「だから取っておくの。傷んでいくところが、見てみたいのよ」
変わった事を言う人である。
桃が傷んでゆくところなど、見て何が面白いのだろう。
けれど輝夜は、もうその桃を膝の脇に置いて、残った方の桃を早く剥けと言うように、俺の方へ押しやっていた。
熟れた桃は、皮の端を指先で摘んで引くと、するすると剥ける。
懐から、竹を削るのに使う小刀を出して、よく拭ってから、兎が持ってきた皿の上で、剥いた桃を切り分けた。
切る傍から、甘い汁が皿に溜まってゆく。
輝夜は、縁側の端に膝をついて、皿の上に身を乗り出すようにして、一切れを指で摘んだ。
汁が着物に垂れないようにしているらしい。
その拍子に、肩から長い黒髪がさらさらと滑り落ちて、皿の方へ垂れかかった。
このままでは、髪の先が汁に浸かってしまう。
髪を押さえていてもいいかと聞くと、輝夜は、桃を口に入れたまま、こくりと頷いた。
両手で掬うようにして、髪を持ち上げた。
思っていたよりも、ずっと重かった。
それに、ひんやりと冷たい。
蒸し暑い竹林を抜けてきた掌には、その冷たさが、ぞくりとする程心地良かった。
指の間を、するりと逃げてゆこうとするのを、零さないように束ねて持っていると、何だか、大変な物を預けられているような気がしてくる。
気がつくと俺は、桃を食べる輝夜よりも、手の中の黒髪ばかりを見ていた。
見ていた事に気づいて、慌てて輝夜の横顔の方へ目を移した。
輝夜は、一切れ目を飲み込むと、何も言わずに二切れ目を摘んだ。
それから三切れ目。
頬を膨らませて、濃い茶色の目を丸くして、皿の上の桃が見る見るうちに減ってゆく。
春に焚き火の前で、焼けた筍を頬張っていた、あの顔であった。
あの顔を、もう一度見られたのだ。
汗だくになって竹林を急いできた甲斐があったと、俺は黒髪を捧げ持ったまま、一人で嬉しくなっていた。
「もう無いの?」
皿の上には、汁が溜まっているだけだった。
もう一つあるではないかと、膝の脇の、打ち身の付いた桃を目で示すと、輝夜はそれを庇うように、袖の陰へ引き寄せた。
「これは駄目。観察用だもの」
***
蓬莱山輝夜は、恋と言う物を、とうに見限っている。
恋だの愛だの、その末路はよく知っているのだ。
遠い昔、言い寄ってくる男たちは、揃いも揃って同じ目で私を求めた。
ルッキズムを否定はしないが、私の髪に惹かれる様はまるで灯蛾のようだったと、今でも鮮明に思い出せる。
あの人間も、髪を見る。
今日も、桃を食べる輝夜の髪を、断ってから両手で持ち上げて、その間じゅう、桃よりも髪の方ばかり見ていた。
輝夜が気づいていないと思っているらしいが、目の端に、ちゃんと映っている。
あれも、昔の男たちと同じような目なのだろう。
それなのに、少しも煩わしくない。
煩わしくないどころか──
そこまで考えて、輝夜は、考えるのをやめた。
桃を食べ終えて、手を洗ってしまっても、人間の首筋は、まだ汗で光っていた。
その首筋の、顎の下の辺りが、とく、とく、と小さく動いている。
春に掴んだ手首の内側で、せわしなく打っていたのと、同じ物である。
輝夜は、膝で人間の傍へにじり寄ると、その胸に、耳を押し当てた。
人間の体が、石のように固まった。
着物越しに、湿った熱が頬に伝わってくる。
男の胸と言うのは、思っていたより固くて、熱い物だった。
その奥で、どくどくと、何かが急いでいる。
手首で触れた時よりも、ずっと大きくて、ずっと速い。
こんなに急いで、一体何処へ行くつもりなのだろう。
「速いのね」
頭の上から、上擦った声が降ってきた。
暑い中を急いできたからだ、と人間は言った。
意地悪をしてやろう、と思った。
人間の言い分を聞くのなら、こうしてじっとしていれば、そのうち静まる筈である。
輝夜は耳を当てたまま、待ってみた。
ところが、音は静まるどころか、聞いているうちに、却って速くなってゆく。
どく、どく、どく、と、まるで何かに追い立てられているように。
「また速くなったわ。じっとしてるのに」
人間は、何も答えなかった。
目だけ上げて見ると、耳まで赤くして、天井の方を睨んでいる。
余程暑いのだろう。
人間の体と言うのは、本当に、一時もじっとしていない物である。
面白い、と思った。
しかし、それだけの事である。
女ばかりの永遠亭で、男のこう言う顔は、そうそう見られる物ではない。
珍しい物を見たがるのは、輝夜の性分なのだ。
恋などとは、何の関わりも無い。
帰り際に、人間が言った。
次の十日目は、里の七夕に当たる。
七夕の朝には、里の家々に笹を伐って届けなければならないので、一日遅らせてもらえないだろうか、と。
好きになさい、と輝夜はすぐに答えた。
すぐに答えたのは、考えている顔を見られたくなかったからである。
十日を縮めようとすれば、てゐが喜んで言いふらすに決まっている。
七夕など、輝夜にとっては、千度も通り過ぎてきた、ただの一日である。
遠い昔の都では、七夕の晩になると、庭に桃や瓜を供えて、女たちが二つの星に、針仕事や機織りが上手くなるようにと願ったものだった。
里の七夕が、それとどれ程似ているのかは知らない。
知らないが、そのただの一日の所為で、あの人間の来る日が一日遠のくのは確かであった。
人間が帰った後、輝夜は、打ち身の付いた桃を、座敷の奥の棚に置いた。
古びた鉢と、色の深い玉の間である。
兎たちには、食べたら承知しないと言っておいた。
棚の辺りに、熟れた桃の甘い匂いが漂った。
あの人間の指の傷は、輝夜の知らない所でほぼ塞がってしまった。
春に会った時には、もう薄い線しか残っていなかったのだ。
だから今度は、見ていたい。
あの人間が胸に抱えて運んできた物が、どんな風に変わってゆくのかを、一日ずつ。
その夜、床の中で、自分の胸に掌を当ててみた。
掌の下で、何かが、ゆっくりと打っていた。
前からこうだったのかどうかは、分からない。
今まで一度も、聞いてみようと思った事が無かったのだ。
なにしろ輝夜は、蓬莱人である。
心臓がどうなろうと、死にはしない。
永琳と違って臓器なぞに興味は無いし、健康を気にする必要も無い。
次の朝、桃は昨日のままだった。
その次の朝も、変わらなかった。
三つ目の朝になっても、打ち身は親指の先程の薄い凹みのままで、少しも茶色くなっていない。
まるで永遠を掛けた物のように、あの日のままの桃である。
二、三日で傷むと、あの人間は言っていた。
それが本当なら、これは余程いい桃なのだろう。
人間の言う二、三日など、そもそも当てにならないのかもしれない。
……甘美な味を思い出す。
あの日、一緒に食べてしまえば良かっただろうか。
朝、目を覚ましたら、まず棚の前に座って桃を眺めるのが、いつの間にか決まり事になっていた。
四つ目の朝。
五つ目の朝。
輝夜は、桃を見ているつもりだった。
***
七夕の朝は、雨であった。
これは織姫と彦星の嬉し涙であってほしいものだ。
里では、七夕の朝に、家々の軒先へ笹竹を立てる。
笹竹は伐ってから時が経つと、葉が乾いて丸まってしまうので、前の日のうちには伐っておけない。
だから毎年、七夕の朝になると、竹林の縁に住む俺の所へ、里の人たちが笹を頼みにやってくるのだ。
夜明け前から鉈を振るって、枝振りの良い物を選んで伐り、頼まれた家の数だけ、里まで担いで運んでゆく。
蓑を着ていても、何往復かするうちに、着物は肩までぐっしょりと濡れてしまった。
雨の中でも、子供たちは軒下で短冊を握りしめて待っていた。
笹を立ててやると、我も我もと袖を引っ張られる。
「お兄ちゃん、もっと上! 一番上に結んで!」
高い所に吊るした願い事程、空に届きやすいと思っているらしい。
こう言う時ばかりは、背が高い事が重宝される。
桃を作っている家では、主人がこの前の籠の礼が足りなかったと言って、笹の代金の代わりに、また熟れた桃を幾つも持たせてくれた。
最後の家に笹を届けて、ようやく一息ついた時、左手の親指の腹に、細い引っ掻き傷ができているのに気がついた。
笹の枝を束ねている時に、折れた小枝の先にでも引っ掛けたのだろう。
家に戻って、軒先から竹林の方を眺めた。
雨に煙って、竹の奥は何も見えない。
今日が、十日目である。
一日遅らせてほしいと頼んだのは俺の方なのに、笹を担いで里を往復する間も、気がつくと竹林の方ばかり振り返っていた。
本当なら今頃は、あの縁側に座っている筈だった。
取っておくと輝夜が言った、あの打ち身の付いた桃は、もうとっくに傷んでしまっただろう。
傷んでゆくところを、あの人は、本当に毎日眺めていたのだろうか。
会いたかった。
十日に一度では、とても足りない程に、俺はもう、あの人に会いたくなっていた。
***
十日目の朝も、棚の上の桃は、少しも変わっていなかった。
打ち身は親指の先程の薄い凹みのまま、産毛の一本一本まで、あの人間が持ってきた日のままである。
外は、夜明け前から雨だった。
今日は、あの人間は来ない。
一日遅らせてくれと言われて、好きになさいと答えたのは、輝夜自身である。
だから、何と言う事も無い一日の筈だった。
暇を潰す物なら、この屋敷には幾らでもある。
盆栽の枝振りを眺め、棚の宝物を並べ替え、兎たちを集めて昔話をしてやった。
いつもなら、それで一日などすぐに過ぎてしまう。
ところがその日は、昔話を一つ語り終えて庭を見ても、雨の色が少しも変わっていなかった。
兎たちは、二つ目の話の途中で、何匹も居眠りを始めた。
本当なら今頃は、雨に濡れた裾を拭きながら、あの人間があの縁側に座っていた筈である。
今日は、籠の中から何が出てきただろう。
その一日が、何もしないうちに、雨の音と一緒に過ぎてゆく。
気に入った物は、取っておけばいい。
輝夜は、ずっとそうしてきた。
庭の山桜も、そうして取っておいた。
けれど、取っておけるのは、そこにある物だけである。
来なかった日には、永遠の掛けようが無い。
あの人間のいない今日は、このまま過ぎて、それきりになるのだ。
惜しい、と思った。
時を惜しいと思った事など、無かった筈である。
惜しむと言うのは、いずれ無くなる物を持っている者のする事だと、ずっと思ってきた。
輝夜の時間は、無くならない。
明日になれば、あの人間も来る。
それなのに、今日のこの一日が、惜しくてならなかった。
耳の奥に、まだあの音が残っていた。
胸に耳を当てた時の、急き立てられるように打っていた音である。
あの音は今頃、雨の里の何処かで打っているのだろう。
笹を担いで雨の中を歩き回って、また、あんな風に急いで打っているのだろうか。
竹林の縁までなら、飛んでゆけば幾らも掛からない。
里まで下りなくても、竹の陰から、雨の中を歩くあの人間の姿くらいは見られるかもしれない。
縁側の端まで出て、雨の向こうの竹林を眺めて、輝夜は、そこで足を止めた。
私が、人間一人の顔を見る為に、雨の中を竹林の外れまで飛んでゆくなど、考えるだけで馬鹿馬鹿しい。
まるで生娘である。
そんな真似は、他の誰より、輝夜自身が許せなかった。
縁側から一歩も下りずに、輝夜は座敷へ戻った。
夕方、棚の前に座って桃を眺めていると、永琳が行灯を提げて入ってきた。
「その桃、今日で何日目?」
「十日目よ」
答えてから、答えるのが早すぎたと思った。
永琳は行灯を置いて、可笑しそうに輝夜を見た。
「輝夜が律儀に日を数えているところなんて、初めて見たわ。
月にいた頃から、暦なんて一度も見ようとしなかったのに」
「何をしていた訳でもないわ。桃を見ていただけよ」
「へぇ、毎朝?」
少し考えてから、輝夜は、つんと顎を上げた。
「……毎朝よ。いけないかしら」
負けたと、自分でも分かっていた。
永琳は何も言わずに、輝夜の顔を眺めている。
昔、物を教わっていた頃、輝夜が答えを間違えた時にしていたのと、よく似た目であった。
「言っておくけれど、そう言うのじゃないわよ。
色恋なんて、とうの昔に飽き飽きしてるんだから」
言ってしまってから、気がついた。
永琳は、何も言っていない。
早とちり。
墓穴である。
永琳は、そう、とだけ言った。
それから立ち上がって、出てゆく前に、棚の上の桃に一度だけ目をやった。
何か言いそうな顔をして、何も言わなかった。
雨は、夜になっても止まなかった。
明日になれば、あの人間は来る。
それなのに、床に入っても、今日はなかなか終わらなかった。
***
七夕の翌日は、からりと晴れた。
雨に洗われた竹林は、葉の一枚一枚が濡れて青く光っていた。
切り株の所では、てゐが足をぶらぶらさせて待っていた。
「遅いよ、お兄さん」
気が逸って、いつもより早く来た筈である。
自分が遅れた時は笑って流すてゐに、言われる筋合いは無い。
それなのに、何故だか謝ってしまう。
謝りついでに籠の桃を一つ渡すと、てゐはそれで帳消しにしてくれたらしく、跳ねるように先に立った。
座敷に通されると、輝夜は、いつものように縁側の近くに座っていた。
俺の顔を見るなり、輝夜は言った。
「遅かったわね」
一日遅らせてほしいと頼んだ時、好きになさいと言ったのは、輝夜の筈だ。
そう言うと、輝夜は、分かってるわよ、と言って、ぷいと庭の方を向いてしまった。
それでも、手を取るのは忘れなかった。
指を一本ずつ開かせてゆくうちに、左手の親指の所で、輝夜の指が止まった。
昨日、笹の小枝に引っ掛けた傷である。
一晩経って、細い線の上に、赤い筋がうっすらと浮いていた。
「これ、どうしたの」
七夕の笹を伐っていて引っ掛けたのだと言うと、輝夜は、ふうん、と言ったきり、その傷を眺めていた。
春に、塞がってしまった傷を見た時よりも、ずっと長い間だった。
手を返してもらってから、籠から、昨日貰った桃の残りを二つ出した。
輝夜は、少しだけ機嫌を直したような顔をした。
それで思い出して、この前の桃は、やはり傷んでしまったかと聞いた。
十日も置けば、熟れた桃はどうしたって傷む。
打ち身から茶色くなって、柔らかく崩れて、きっとひどい事になっている筈である。
傷んだ物をいつまでも置いておくのは良くないと言うと、輝夜は、黙って立ち上がった。
座敷の奥の棚の前まで行って、何かを両手で包むようにして戻ってくる。
それを、俺の前の畳に、そっと置いた。
あの桃であった。
初めは、別の桃かと思った。
けれど、肩の所に、親指の先程の、薄く凹んだ跡がある。
竹の幹にぶつけた時の、あの打ち身である。
指で摘まずに、掌に載せてみた。
産毛は、もいだばかりのように柔らかく立っていて、皮には皺一つ無い。
掌に吸い付くような、熟れた桃の重さも、甘い匂いも、あの日のままだった。
打ち身の跡は、茶色くもなっていなければ、柔らかくもなっていない。
親指の先程の大きさのまま、少しも広がっていなかった。
有り得ない、と思った。
あの日から、十一日である。
経験則だが、熟れた桃は、日陰に置いても二、三日しか保たない。
井戸の傍の涼しい所に置いたとしても、そこまで保つ物ではない。
まして、ここは夏の座敷の、棚の上なのだ。
桃を少しでも扱った事のある者なら、誰だって、こんな事は有り得ないと言うだろう。
気がつくと俺は、その通りの事を、そのまま口に出していた。
顔を上げると、輝夜が、俺の掌の上の桃を見ていた。
その顔から、すうっと表情が抜け落ちていた。
膝の上に置いた手が、何かを掴みかけたような形のまま、止まっている。
初めて見る顔だった。
けれど、それはほんの一瞬の事で、輝夜はすぐに、いつもの何でもない顔に戻った。
「いい桃だったのね。きっと」
いくらいい桃でも、こうはならない。
そう言うと、輝夜は俺の掌から桃を取り上げて、棚の方へ歩きながら、振り返りもせずに言った。
「この屋敷じゃ、そう言う事もあるのよ」
それきり輝夜は、桃を元の棚に戻して、何事も無かったように俺の前に座り直した。
そう言う事で済む話ではないと思ったが、それ以上は聞けなかった。
庭の方へ目をやると、夏の青葉の中で、山桜が今日も満開に咲いていた。
風が吹いても、花びらを一枚も落とさない桜である。
あんな桜の咲く屋敷なのだから、傷まない桃があっても、おかしくはないのかもしれない。
そう思おうとしてはみたが、どうにも腑に落ちなかった。
俺は、首を傾げたまま、新しい桃の皮を剥いた。
今度は、何も言わないうちに、輝夜の方から長い髪を一束にまとめて、俺の手に預けてきた。
髪は、やはりひんやりと冷たかった。
輝夜は、この前と同じように皿の上へ身を乗り出して、新しい桃を食べた。
けれど、この前のように、次から次へと頬張りはしなかった。
一切れを、ゆっくりと噛んで飲み込んでは、時々、座敷の奥の棚の方へ目をやる。
何を考えているのか、俺には見当も付かなかった。
***
有り得ない、とあの人間は言った。
桃の事なら、あの人間は、輝夜よりずっとよく知っている。
熟れた桃は二、三日しか保たないと教えたのも、打ち身から傷んでゆくと教えたのも、あの人間である。
あの人間が念を押して有り得ないと言うのなら、それは本当に、有り得ない事なのだろう。
人間の言う二、三日は当てにならない、と思っていた。
余程いい桃なのだ、とも思っていた。
本当は、そうではない事くらい、三つ目の朝には分かっていたのかもしれない。
この屋敷で時を止められる者は、輝夜の他にいないのだから。
けれど、力を使った覚えは無い。
山桜の時は、余りに見事に咲いたので、散らないようにしてやろうと、自分で決めた。
庭の筍の時は、割れ目の上で指を止めて、掛けずにおこうと、自分で決めた。
掛けるのも掛けないのも、いつも輝夜が決めてきたのだ。
あの桃の時は、決めるどころか、何も考えてさえいなかった。
傷んでゆくところが見たいと、むしろ、掛けない方を望んでいた筈である。
それなのにあの桃は、輝夜が決めるより先に、輝夜の永遠の中に仕舞われていた。
あの人間が胸に抱えて、汗だくで運んできた、あの日から。
気に入った物は、取っておく。
輝夜が思うより先に、輝夜の永遠の方が、それをやってのけたのである。
桃なら、永琳に言えば幾らでも手に入る。
気に入ったのは、桃ではなかった。
そう言うものは、とうの昔に見限った物である。
ずっと、そう思ってきた。
昨日も永琳に向かって、自分から言ってのけたばかりだ。
けれど、そう言っている口より先に、この体の方が、あの人間の持ってきた物を手放せなくなっていたのだ。
毎朝棚の前に座って桃を眺めていたのも、昨日一日が雨の音と一緒に過ぎてゆくのを惜しいと思ったのも、耳の奥にあの音がいつまでも残っていたのも、桃が珍しかったからでも、人間の体が珍しかったからでもない。
全部、一つの名前で呼べる物だった。
恋なのだ、と思った。
見限った筈の物が、いつの間にか、輝夜の中に居座っていた。
人間は、新しい桃を食べ終えても、まだ時々、首を傾げて棚の方を見ていた。
輝夜はその度に、知らん顔をして庭の方を向いた。
それから、親指の傷の事を思った。
昨日付いたばかりの、赤い筋である。
あれは、これから少しずつ塞がってゆく。
春の傷は、見逃した。
今度のは、まだ始まったばかりなのだ。
日が傾いて、人間が帰ると言った。
いつもなら、座敷から見送るだけである。
その日、輝夜は自分も立ち上がって、てゐの後から玄関へ、玄関から門へと付いていった。
てゐが、何度も振り返っては、珍しい物でも見るような顔をした。
門の前で、人間は敷居を跨いで外へ出ると、こちらを向いて頭を下げた。
春に、この屋敷に無い物だと言って、あの人間が立った所である。
輝夜は、敷居の内側で足を止めた。
一歩出れば、手が届く。
出はしなかった。
顔を上げた人間が、背を向けかけた時、輝夜は呼んだ。
「○○」
○○が、振り返った。
目を丸くして、輝夜の顔を見ている。
その胸の奥で、あの音がまた急いでいるのだろうか、と思った。
春に一度聞いたきりで、一度も口にした事の無い名前であった。
覚えているとさえ、言った事が無かった。
口に出してしまえば、何と言う事も無い、短い名前である。
「次は、九日後にいらっしゃい」
○○は、訳を聞くように首を傾げた。
「七夕の一日分、今度は縮めてほしいわ。
……寂しかったの。健気でしょう?」
○○は、暫くぽかんとしていたが、やがて可笑しそうに笑って、頷いた。
ただの茶目っ気だと思ったのだろうか。
その後ろで、てゐが、くふ、と喉の奥で笑った。
明日には、兎たちの間に、何もかも言いふらされているに違いない。
構わない、と思った。
○○の背中が竹の間に見えなくなるまで、輝夜は、敷居の内側に立っていた。
座敷に戻ると、棚の上の桃が、日の名残りの中で、あの日と少しも変わらずに甘く匂っていた。
輝夜はその前に座って、九日先の事を考えた。
もう、桃を見ているつもりにはならなかった。