秋が来ると、竹林は一年で一番青くなる。
春に黄ばんで散った葉が夏の間にすっかり生え替わって、里の柿や欅が色づき始める頃になると、竹ばかりが、若葉の時分のような顔をして青々と立っているのだ。
竹の春、と呼ぶのだと、籠屋の爺さんが教えてくれた。
竹を伐るのにも、これからが良い時季である。
水気の引いてゆく秋から冬にかけて伐った竹は良い竹材になるのだそうで、俺の仕事も、ここからが忙しくなる。
夏の間も、九日毎に竹林の縁の切り株の所へ通った。
七夕の一日分を縮めると言ったきり、輝夜は、それを元の十日に戻さなかったのだ。
訳は聞いていない。
聞いて、それならやっぱり十日にしましょう、などと言われたら困るので、黙っている。
九日目の朝は決まって夜が明ける前に目が覚めてしまい、持っていく物を、籠の中で何度も並べ替えて過ごした。
座敷に上がると、輝夜はまず俺の手を取って、指を一本ずつ開かせる。
春からずっとそうなので、それにはもう、すっかり慣れてしまった。
慣れないのは、座敷の奥の棚の方である。
棚の上には、梅雨の晴れ間に持っていった、あの打ち身の付いた桃が、七夕の翌日に掌に載せた時と少しも変わらない姿で、まだ載っていた。
夏が過ぎても、である。
九月に入ると、里では月見の話が聞こえるようになった。
十五夜には、芒を飾り、団子と里芋を供えて、家の者が揃って縁側から月を眺めるのが、この辺りの習わしである。
煮売り屋の店先で、女将さんが客とそんな話をしているのを聞きながら、ふと、あの物語を思い出した。
物語の終わりで、かぐや姫は、月を見ては泣いてばかりいるようになる。
訳を問い詰められて、自分は月の都の者で、八月十五日には迎えが来るのだと打ち明けるのだ。
そうしてその夜、帝の兵が屋敷を囲み、翁と嫗が泣いて引き止めるのも何の役にも立たないまま、姫は天の羽衣を着せられて、月へ昇っていってしまう。
十五夜と言うのは、その八月十五日の事である。
輝夜があのかぐや姫なのかどうかは、結局まだ聞けずにいる。
けれど、聞かなくても、殆ど分かっているような物だった。
馬鹿げているとは思う。
思うのだが、あの屋敷の庭には、夏が過ぎても散らない桜が咲いているのである。
あれを九日毎に見上げていると、月から迎えなど来る筈が無い、とは、俺にはどうしても言い切れなかった。
十五夜の晩だけは、あの屋敷にいたかった。
何事も無く月が昇って、何事も無く夜が更けてゆくのを、この目で見届けたかったのである。
外の世界にいた頃ならば笑い飛ばすような懸念だが、幻想郷を知ってしまうと、あり得ない、なんて事はあり得ないと思ってしまうのだ。
十五夜より前の最後の訪いで、帰り際に、思い切って言ってみた。
十五夜の晩に、月見に来てもいいだろうか、と。
里では芒と団子を飾って月を見るのだが、一人で見るのも味気無いので、と付け足したのは、我ながら言い訳がましかった。
「いいわよ」
余りにすぐだったので、頼んだこちらの方が面食らった。
「満月の晩はね、いつも兎たちが庭で餅を搗くの。朝から騒がしいのよ。
私は、何もする事が無いのだけれど。
だから、暇潰しには丁度いいわ。夕方、てゐを迎えにやるから」
それだけ言うと、輝夜は庭の方へ向き直ってしまい、その拍子に、背中の黒髪が縁側の板の上を流れる。
少し遅れて、さらさらと小さな音を立てた。
その微かな音にまで聞き惚れていた自分に気がついて、俺は慌てて頭を下げた。
竹林の縁まで送ってくれる間、てゐは何度も、十五夜にねえ、と言っては、喉の奥で笑っていた。
***
蓬莱山輝夜は、月を見ない。
嫌いな訳ではない。
月の都に生まれて、月の都の鬱屈とした環境に嫌気がさして、自分から罪を犯してまで地上へ落ちてきた身である。
帰れなくなった事を、悔いてもいない。
満月の晩になると、兎たちが庭で餅を搗く。
例月祭と言って、月の都から逃げてきた者たちの、償いのような、まじないのような祭りである。
輝夜も最初は参加していたが、幾度も行っている分、飽きが来ている。
兎たちとは異なり、輝夜にとっては、十五夜も、月に一度の騒がしい晩の一つでしかなかった。
その十五夜に来たいと、○○が言った。
来る日を○○の方から言い出したのは、初めての事である。
あの態度から見て、嫌々来ている訳ではないのは分かるが、○○自身の口から言われると存外嬉しいものだった。
いいわよ、と、考えるより先に口の方が答えていた。
暇潰しに丁度いい、と付け足したのは、答えてしまってからである。
けれど、どうして十五夜なのだろう。
月見がしたいのだと○○は言ったし、里では芒と団子を飾って十五夜の月を眺めるらしいから、それならそう言う物なのだと、聞き流してしまえばいい。
聞き流せないのは、八月の十五夜と言うのが、輝夜にとっては、迎えの来た夜でもあるからだ。
何処ぞの寺子屋の教師と、稗田の娘は除いておいて、里の人間が千年も昔の事を知っている筈は無い。
けれど、思い当たる事が一つだけあった。
春に、焼き筍の灰の前で、火鼠の皮衣を持ってこさせようかと言った時の事である。
燃えないわよ、と言った輝夜に、○○は何か言いかけて口を開け、それから閉じて、首を横に振った。
あの時は、熱いのを我慢してみせたのだと思っていた。
けれど今思えば、あれは我慢した顔ではなく、言いたい事を喉の所で飲み込んだ顔だった……のかもしれない。
火鼠と言う存在を知っている人間ですらそうはいない筈だ。
好奇心が擽られる。
何を知っているのか、十五夜の晩に聞き出してやろうと思った。
どうせ兎たちが餅を搗いている間、私は暇なのだ。
七夕に付いた○○の親指の傷は、八月の初めの訪いで、とうとう見えなくなった。
赤い筋が細い線になり、その線が訪いの度に薄くなってゆくのを、輝夜は一度も欠かさずに見届けた。
これでまた、彼の一つを知った気になった。
今は綺麗な彼の皮下には、私だけが覚えている傷があったのだと。
その晩、輝夜は、桃を棚から下ろして寝間へ持っていった。
○○が棚を気にせずに済むように、と言う事にしておく。
枕元に置いて、肩の打ち身を、指の先でそっとなぞった。
来る途中でぶつけたのだと、○○は言っていた。
あの日の○○は首筋まで汗で光らせていたから、きっと、熟れた桃が温まってしまわないように急いできたのだろう。
親指の先程の、小さな凹みである。
ただそれだけなのに、輝夜には何か価値のあるように見えた。
***
十五夜の事を、里の年寄りたちは芋名月とも呼ぶ。
ちょうど里芋の掘れる頃なので、その年に採れた芋を、まず月に供えるのだそうだ。
家の裏の狭い畑にも、春に植えた里芋が、腰より高く葉を茂らせている。
本当なら、葉が黄ばんで枯れ始めるのを待ってから掘る物だが、十五夜の朝に、一株だけ早く掘ってしまう事にした。
傘のように大きな葉を掻き分けて、茎の根元の周りに鍬を入れ、ぐるりと土を起こしてゆく。
それから茎をまとめて掴んで引き抜くと、黒い土の塊が、ごそりと持ち上がった。
土を払うと、真ん中の大きな親芋の周りに子芋がぎっしりと付いていて、その子芋に、さらに小さな孫芋まで付いていた。
芋と言うのは、案外な大家族である。
親芋は自分で煮る事にして、小さな子芋ばかりを、籠に半分程選り分けた。
井戸端で、泥を洗い落とす。
泥の付いたままなら日持ちのする芋だが、今日のうちに食べてしまうのだから構わない。
小さい里芋は、皮ごと蒸して、熱いうちに指で皮を剥いて食べるのが一番美味く、里ではそれを衣かつぎと呼んでいる。
ただ、冷めると皮が実に貼り付いて途端に剥きにくくなるので、蒸すのは向こうに着いてからにした。
あれだけの屋敷なら、蒸籠の一つくらいは何処かにあるだろう。
胡麻塩を少し、竹の皮に包んで懐に入れた。
昼を過ぎてから、竹林の縁の日当たりの良い斜面で、芒を何本か刈った。
それから手頃な太さの竹を一本選んで、一節分を鋸で切り落とす。
節を底に残して切れば水を入れても漏らないし、切り口の角を小刀で落としてしまえば、それで芒を挿す花入れになる。
籠を編むのに比べれば子供の遊びのような物だが、竹の青い肌に、芒の白い穂はよく映えた。
日の傾く頃に切り株の所へ行くと、てゐがもう待っていた。
てゐは籠の芋を覗き込んで、蒸けたら一つ頂戴、と言った。
門をくぐる前から、塀の内側で、ぺったん、ぺったん、と言う音が聞こえていた。
庭では、兎たちが臼を囲んで、代わる代わる杵を振っている。
一匹が杵を振り下ろすと、横にしゃがんだ一匹が素早く手を水に浸けて餅を返し、その度に、歌とも掛け声ともつかない声が上がる。
縁側には三方が幾つも並べられて、白い団子が山のように積んであった。
団子の他にも、丸い物ばかりが載っている。
何に使うのか、つるりと丸い石まで、団子と並べて供えてあった。
臼の傍で、兎たちを叱っている娘がいた。
頭の上の耳が、てゐのよりもずっと長い。
その叱る声に、何処か聞き覚えがあるような気がした。
里へ薬を売りに来る笠の薬売りが、あんな声だったかもしれない。
けれど娘はすぐに臼の向こうへ回ってしまって、確かめる暇も無かった。
庭の奥の山桜は、暮れてゆく空の下で、相変わらず満開に咲いていた。
秋の夕空に満開の桜と言うのは、何度見ても、やはり妙な眺めである。
縁側に吊るした提灯に、兎が一つずつ火を入れて回っている。
その明かりの下に、輝夜が座っていた。
臼を囲む兎たちを、頬杖をついて眺めている。
長い黒髪が、膝の脇から縁側の板の上へ流れ落ちて、そのまま庭の方へ垂れかかっていた。
背にした山桜が白い分だけ、黒髪は、夜より一足先に暮れてしまったように見える。
気がつくと俺は、籠と竹筒を抱えたまま、枝折戸の所で突っ立っていた。
てゐに肘でつつかれて、ようやく足が動いた。
***
枝折戸の所で、○○がまた髪を見ていた事くらいは、縁側からでも分かった。
知らない顔をして兎たちの方を眺めていると、○○は、籠と芒を挿した竹筒を胸に抱えて、ようやく縁側までやってきた。
籠の中身は、小さな里芋であった。
衣被ね、と言うと、○○は少し意外そうな顔をした。
秋になれば永琳の膳にも載る物なのに、姫が芋を知っていて、何がおかしいのだろう。
冷めると皮が剥けなくなるので、ここで蒸したいのだと、○○は言う。
蒸籠なら、兎たちが餅米を蒸しているのが、庭の竈の上にある。
○○が、子芋の一つ一つに小刀で切れ目を入れてゆく。
こうしておくと、蒸した後で皮が剥きやすいのだそうだ。
てゐに言い付けると、てゐは切れ目の入った芋を籠ごと抱えて、竈の方へ跳んでいった。
蒸し上がった芋は、笊に盛られて湯気を立てていた。
○○が熱そうに一つ摘んで、皮の上から指で押す。
つるりと白い実が皮から滑り出て、指の間には、脱ぎ捨てた衣のような皮だけが残った。
成程、衣被である。
輝夜も真似をして、押してみた。
力を入れすぎたらしい。
芋は皮から勢いよく飛び出して、縁側を転がって庭へ落ち、近くにいた兎がそれを拾って、熱さに跳ね上がりながら何処かへ逃げていった。
二つ目は、そっと押した。
今度は白い実が皮の口から少しだけ顔を出したので、そこへ竹の皮の胡麻塩を付けて、歯で引き抜くように頬張った。
熱い。
ねっとりと柔らかくて、塩の味の奥から、ほのかな甘さが来る。
今朝、自分の畑から掘ってきた芋だと、○○は言った。
春に種芋を植えて、夏を越させて、今朝掘ったのだそうだ。
春なら、○○が初めてこの屋敷に迷い込んできた頃である。
あの頃に土に埋めた物が芋になる程の間、○○はこの屋敷に通ってきていたのだ。
火傷しそうなのを我慢して、三つ目に手を伸ばした。
○○は、熱い芋を平気な顔で摘んでは、次々に皮から押し出してくれる。
竹を割り、籠を編んで暮らしている指の皮は、熱さにも強くできているらしい。
物を食べていると、○○はいつも、嬉しそうな顔でこちらを見ている。
竹の上に、月が昇っていた。
兎たちの掛け声が、一際高くなった。
輝夜は、見なかった。
○○は、月を見ていた。
それから、輝夜の顔を見た。
また月を見上げて、また輝夜の顔に目を戻す。
三度目に、目が合った。
「さっきから、何を見比べているの」
○○は暫く、芋の皮を指で弄っていた。
それから頭を掻いて、話し始めた。
外の世界には、竹の中から見つかった姫の話があるのだと言う。
姫の名は、かぐや姫と言うのだそうだ。
寺子屋のような場所で、子供が皆それを習い、○○も子供の頃に、意味もよく分からないまま読み上げさせられたらしい。
物語の姫は、その美貌を求め言い寄ってくる男たちに難題を出して、帝の求めまで退けて、最後には八月十五日の夜に、月の都からの迎えと一緒に月へ帰ってしまう。
初めてこの屋敷で名前を聞いた時から、ずっとそれが頭にあったのだと、○○は言った。
輝夜は、芋を持ったまま、暫く黙っていた。
物語になっているとは、知らなかった。
千年も昔に置いてきた事を、地上の人間たちは、子供に教える程に覚えていたのである。
翁と嫗の顔を思い出しかけて、やめた。
それよりも、○○が最初からずっとそれを知っていて、何一つ聞かずにいた事の方が気になった。
知っていて、その時季の物を胸に抱えて、何度も竹林を通ってきたのだ。
「……当ててあげましょうか。その物語だと、火鼠の皮衣は、燃えてしまうのでしょう」
○○は目を丸くして、頷いた。
本物だと言って持ってこられた皮衣が、火にくべられて、あっさり燃えてしまう話なのだそうだ。
可笑しくなった。
春に、燃えないわよ、と言った私に、○○は、燃えますよ、と言いかけていたのである。
「それで、物語の中の私は、月へ帰ったのね」
○○は頷いた。
それで今夜、と言うと、○○はまた頭を掻いた。
十五夜の晩に迎えが来たらと思うと、家にいても落ち着かなかったのだそうだ。
馬鹿な事を考えたと自分でも思っているらしく、口元は笑っていたが、それ以上の羞恥が見て取れた。
「迎えなら、来たわよ。ずっと昔に」
芋の皮を笊に捨てて、輝夜は言った。
「帰らなかっただけ」
それから、縁側に並んだ団子の山を、顎で指した。
「あれもね、月を遠ざけるお祭りなの。
丸い物を並べて、月の代わりにしておくのよ。永琳の考えた事だけれど」
月を見ないのか、と○○が聞いた。
「月の顔を見るのは、忌む事なのよ。目を合わせると、気づかれてしまうから。
迷信でも、守っておかないとね」
○○の肩から、すっと力が抜けているのを、隣で感じ取った。
きっと○○は、私が月へ帰ってしまうのが怖くて、十五夜に来たのだ。
胸の奥で、何かが一つ、強く打った。
物語になっているのなら、難題の事も、ちゃんと残っているのだろう。
宝を持ってきた者の物になる、と言う、あの約束も。
知っているなら、話が早い。
輝夜は、○○の手首を取った。
***
手首を取られた。
初めてこの屋敷に来た日に、掴まれたのと同じ所である。
あの時は、傷を見られているのだと思っていた。
今は、傷の無い所に、白い指がそっと添えられているだけで、その指の下で、自分の脈が打っている。
それで、分かった。
脈を、取られているのだ。
あの時も、本当はそうだったのかもしれない。
「宝なら、五つとも、この屋敷にあるわ」
唐突な宣言だった。
座敷の奥の棚に並んでいた、古びた鉢や、色の深い玉を思い出す。
龍の頸の玉だってある、と輝夜は言っていた。
「だから私、お金で買えないものが欲しいの」
輝夜は、俺の手首に指を添えたまま、こちらを見上げた。
提灯の明かりが、濃い茶色の目の中で揺れていた。
「ねぇ。この屋敷に無いものを、私に頂戴」
これは、難題である。
『この屋敷に無い物を、何か一つ、私に見せてちょうだい』
忘れられない。
あの春の問いだ。
その答えなら、とうに出ている。
あの日、門の外に立った俺である。
見せて、が、頂戴、になっているだけなのだ。
物語の姫は、宝を持ってきた男のものになるのだったか、妻になると約束したのだったか。
その辺りは教科書で読んだきりで、うろ覚えである。
翁のつもりでいた訳ではないが、いつの間にか、求婚者の方に回されていたらしい。
手首の内側で、脈がとんでもない速さで打っているのが、自分でも分かった。
輝夜の指にも、筒抜けの筈である。
答えは分かっているのに、どうしてそれを口に出す勇気が出ないのだろう。
門の外の答えは、ただの屁理屈で良かったのだ。
今度のは、そうは行かない。
気がつくと、膝の脇の笊に残っていた芋を一つ、差し出していた。
「お芋なら、台所にあるわ」
春の握り飯の時と、同じ返し方だった。
輝夜は笑っていた。
俺も、笑ってしまった。
笑ったら、少しだけ息が楽になった。
それから、言った。
この屋敷に無い物なら、俺だ、と。
門の外で見せたのと同じ物を、今度は、あげる、と。
輝夜の指が、手首の上で、ほんの少しだけ動いた。
けれど返ってきたのは、意地の悪い笑みと声。
「駄目よ。今の貴方は、門の内側にいるでしょう。この屋敷にある物よ」
言い返せなかった。
誤った。
これも、揶揄いだったのか、などと思考するより早く輝夜が続ける。
「そして、残念だけれど、この問いに応えられるまでここから出す気はないわ」
それは、非常にまずい。
何しろ盛大なアプローチを躱された後である。
正直思考がまとまっていない。
思考を巡らせ何かないかと焦る。
混乱する。
冷静になる時間が欲しい。
──時間。
そこまで考えて、気がついた。
今度の難題は、頂戴、である。
献上できるのならば、見せる必要もなければ、そこにある必要もないのだ。
とは言っても、来る頻度を増やし、俺の時間を渡すだとか、また何か食べ物を一緒に食べる、俺との経験を渡すだとか、その程度しか俺が提供できるものがない。
あれだ、これだ、と考えて、俺はようやく口を開く。
ここに居ない時の俺を、全部あげる、と。
里へ帰って竹を割っている時も、籠を編んでいる時も、どうせ俺はこの人の事ばかり考えている。
ここに居ない間の俺なら、最初からこの屋敷に無いもので、俺の物なのだから、俺があげられる。
見せてと言われていないのだから、見えなくても構わない筈だ、と。
あの時と同じく、屁理屈なのは、自分でもよく分かっていた。
けれど、籠を編みながらこの人の事ばかり考えているのは、本当の事であった。
輝夜は、何も言わなかった。
何か言い返してくるのを待ったが、いつまで待っても、その唇は開かない。
ただ、ふっと口元を歪めた悪戯っぽい三日月が、宵闇のそこに浮かんでいるだけだった。
こちらの狼狽えを面白がるような、艶めかしくも冷めた綺麗な笑みだ。
俺の脈は、まだ馬鹿みたいに早いテンポで打ち続けていて、輝夜はその鼓動を、静かに品定めしているようだった。
随分と長い間、そうしていた。
それから輝夜は、俺の手首をそっと自分の顔の方へと引き寄せた。
ふわりと、流れる黒髪が垂れ込める。
夜の闇をすき取ったような黒髪が帳となって手元を覆い、輝夜の唇が何処へ触れようとしているのか、視界からは確かめようもなくなった。
遮られた暗がりの中で、微かに彼女の吐息だけが肌を撫でる。
手首の内側に、そっと唇が当たった。
冷たい唇だった。
正確には、輝夜の唇が冷たいのか、それとも俺の脈が熱すぎるのか、その境界さえ分からない。
その曖昧な冷たさへ、自分の暴れる脈が、どく、どく、と直接打ち当たってゆく。
触れられているその一点から熱を吸い上げられているような、逆に火を押し当てられているような錯覚に襲われる。
輝夜がその唇で、俺の昂ぶりを静かに味わい尽くしているのだと気づいた瞬間、手首から先どころか、身体の境界線まで溶けていくような気がした。
視界を髪で閉ざされているぶん、肌に伝わる感触だけが異常なほどに研ぎ澄まされていく。
ふと、湿った柔らかい塊が、跳ねる脈の真上を滑った。
小さな舌先が、俺の皮膚を割るようにゆっくりとなぞり上げる。
気品を感じる吐息と唾液の湿り気が合わさり、熱を持った手首が粟立った。
俺の拍動をひとつ残らず確かめ、味わうような、耽美で執拗な攻撃。
逃げ出そうにも手首は輝夜の指に囚われたままで、俺が小さく息を呑んだその瞬間──
脈打つ皮膚が、つ、と小さな圧力で挟み込まれた。
熱い皮膚に食い込む、鋭い歯の感触。
決して皮膚を噛みちぎるほどではない、けれど明確な痛みを伴う甘噛み。
ドクンと跳ねた脈が、彼女の歯裏に直接打ち当たるのが分かった。
俺の命の証そのものが、彼女の口内に取り込まれてしまったような錯覚に頭が痺れる。
「……ありがたく貰ったわ」
髪のカーテンの奥、隠された闇のなかで、唇が微かに動いて紡がれた。
「返してって言っても、もう、返さないわよ」
それきり輝夜は歯を離し、俺の袖に額を預けたまま、再び黙り込んでしまった。
痺れるような熱さが髪の帳の奥に残される。
嬉しくて、眩暈を起こしそうだった。
千年も前から語り継がれる物語の中の彼女が、竹を割って籠を編むしか能の無い俺の、ここに居ない間の時間すら残らず奪い去り、所有したいと言ったのだ。
その欲望の激しさと愛おしさに、心が奥底から揺さぶられる。
この人が好きだ、と思った。
あまりの愛おしさに胸が詰まり、目の奥が熱くなって弾けそうになった俺は、堪えきれずに仰向いた。
竹林の隙間から見上げる夜空には、十五夜の月が、ぞっとするほど大きく白く冴え渡っていた。
物語の姫を、人の世から奪い去ってしまったと言う、あの大いなる月。
その冷酷なまでに青白い月光は、俺の袖に顔を伏せた輝夜の、艶やかな黒髪の上にただ静かに降り注ぐばかりだった。
脈を奪い、俺のすべてを呑み込んだ輝夜は、とうとう最後まで、その美しい顔を月の方へ向けようとはしなかった。
帰り際に、十三夜にも来ていいかと聞いた。
十五夜だけ見て十三夜を見ないのは、片見月と言って、里では縁起が悪い事になっている。
「私は、見てないわよ」
顔を上げた輝夜の唇が、妙に艶やかに映って見える。
「でも、貴方が片見月になるのは、困るわね。
……いらっしゃい。十三夜も」
月明かりの竹林を、てゐの後について帰った。
竹の影が、地面に縞のように落ちている。
てゐは暫く黙って歩いていたが、竹林の縁が近づいた頃に、くふ、と笑った。
「お兄さん、さっきからずっと、手首押さえてるよ」
言われてみると、右の手で、左の手首を握りしめていた。
***
須臾と言うのは、誰にも気づかれない程の、短い時の事である。
瞬きよりも短く、息を一つ吸うよりも、ずっと短い。
あって無いような一瞬なので、一つ二つ無くなった所で、誰も気がつかない。
輝夜は、ずっと昔から、それを拾い集める事ができた。
集めた須臾は、輝夜だけの時間になる。
○○が帰ってしまうと、兎たちも臼を片付けて、庭は月明かりの下で静まり返った。
団子の山も、丸い石も、三方ごと仕舞われている。
寝間に戻ると、枕元の桃が、甘く匂っていた。
ここに居ない時の俺を全部あげる、と○○は言った。
私の想定以上の答えだった。
ひどく感情が高ぶって、少しはしたない真似をしたと反省している。
本当は、俺をあげる、と言われた時に、貰っておけば良かったのだ。
それで十分な筈だった。
十分な筈だったのに、退けたのは、この私である。
理由は単純。
好奇心と探求心。
彼が私を想い、何を差し出してくれるのか。
自分以上のものがあるのかが知りたかったのだ。
結果がどうであろうと最初の○○自身をもらい受けるつもりだったのだ。
しかしそれが、二度も続けて自分を貰ってくれと言い出すものだから、理性の弁が機能しなくなった。
だから、これは半分、○○も悪いのだ。
熱に浮かされたあの瞬間、いっそ留めてしまおうとも思った。
庭の山桜のように。
枕元の、この桃のように。
永遠を掛けてしまえば、○○は今夜の○○のまま、もう何処へも行かなくなる。
けれどその時は、手首の内側のあの音も、きっと打つのを止めてしまうのだろう。
春に、庭の筍の上で指を引っ込めた晩の事を思い出した。
留めてしまえば、筍は、もう筍ではなくなるのだ。
けれど、○○は、くれると言った。
ここに居ない時の自分を、全部。
だから、少しずつ頂く事にしたのだ。
ここにいない○○の須臾を。
○○が、里で竹を割る。
刃を当てて、振り下ろす前に、息を一つ吸う。
その吸い終わりから吐き始めるまでの、本人も気づかない程の間。
籠を編む指が、一つの目から次の目へ移るまでの間。
そう言う須臾を一つずつ拾って、この屋敷へ持ってくればいい。
拾った分は、○○がこの縁側にいる午後に足しておけば、ここでの午後が、少しずつ長くなる。
人間の時間は、短いのだ。
その短い時間を、○○は、竹を割る前に息を吸う間だの、籠の目を移す間だの、里の誰かと要りもしない世間話をする間だのに惜しげも無く使っているのだから、それを少しくらい貰ってこの縁側の午後に足してやった所で、誰も困りはしない。
退屈な時間など、無い方がいいに決まっている。
その分、楽しい時間を長くしてあげるのだから、むしろ親切と言う物である。
私は、貰えるものを、貰っただけである。
本当を言えば、春に筍を待っていた里の煮売り屋にも、籠を頼みに来る客にも、毎日○○の手に握られて、割られて、削られて、編まれてゆく竹にさえ、○○の一瞬を一つだって渡してやる気は無かった。
なよ竹のかぐや姫が、竹にまで嫉むのだから、我ながら呆れるものだ。
手首に当てた唇に、まだ、あの脈が残っていた。
この唇を内側から叩いてきた、あの急いだ音の一つ打つ毎に、○○の時間は一つずつ減ってゆくのだ。
その一つと次の一つの間には、誰も気づかない隙間がある。
輝夜は、目を閉じた。
今頃○○は、切り株の所でてゐと別れて、月明かりの中を、一人で家へ歩いている頃だろう。
拾うべき須臾は、いくらでもある。
枕元の桃の甘い匂いの中で、輝夜は、一つ二つと拾っていった。
***
十五夜が過ぎると、秋は急に足を速めた。
里の田圃の稲が刈られて、朝晩の風が、ひやりと冷たくなった。
竹を伐るにも良い時季で、俺は毎日のように竹林の縁で竹を伐っては、家の前で割っていた。
近頃、一日が早い。
朝、竹を割り始めたと思うと、気がつけばもう日が傾いていて、割った竹の束を前に、今日は一体何をしていたのだろうと首を捻る事が増えた。
あれ程長かった九日も、近頃は、あっと言う間に過ぎてゆく。
十五夜の晩も、切り株から家までの道が、いやに短く感じられた。
余程浮かれていたのだろう。
煮売り屋の女将さんが家まで笊を取りに来たのは、十五夜から半月程経った頃である。
芋を洗う大きな笊を二つ、月見の前に頼まれていたのを、すっかり忘れていた。
月の終わりまでに、と約束した筈が、その月は、とうに変わっていた。
そんな筈は無い、と思った。
頼まれたのは、ついこの間の事なのだ。
けれど、女将さんと二人で日を数え直してみると、確かに、間違っているのは俺の方であった。
「あんた、近頃とんと顔を見せないね。筍の頃は、毎朝来てたのにさ」
女将さんは、笊は急ぎじゃないからいいよ、と言ってくれた。
それよりも、と言って、俺の顔をしげしげと眺めた。
「顔色は悪くないけどさ。何だか、心ここに在らずって顔してるよ」
心、どころの話ではない。
十五夜の晩に、俺は、あそこに居ない時の自分を全部、あの人にやってしまったのだ。
それなら、里にいる間の俺が上の空なのも、無理はない。
本当に、時間ごと、意識ごと渡してしまったようだった。
女将さんの前で一人で笑い出しそうになるのを堪えて、三日のうちに届けると約束した。
永遠亭で過ごす午後だけは、近頃、妙に長かった。
縁側で他愛の無い話をして、手を取られて、桃を剥いた時のように黒髪を預けられて、それでもまだ、庭の山桜の影が殆ど伸びていないのだ。
日が暮れるまでが長い分だけ、あの人の顔を長く見ていられる。
有難い事だと思った。
十三夜は、思っていたよりもずっと早く来た。
その日は、昼過ぎに家を出るつもりで、朝から竹を割っていた。
ふと顔を上げると、もう日が傾いていた。
また上の空だったのだろう。
十三夜には栗を供えるのだと聞いていたので、里で分けてもらった栗を少し籠に入れて、慌てて竹林の縁へ向かった。
切り株の所で、てゐが待っていた。
竹の上には、十三夜の月が、もう白く昇っていた。
十五夜より少しだけ欠けた、栗名月である。
これで、片見月にはならずに済む。
十五夜から、もう一月近くが経っていた。
そんなに経った気は、まるでしなかった。