竹は、雪が降っても葉を落とさない。
その代わりに、葉に積もった雪の重みで、細い竹から順に弓のようにしなってゆき、堪えきれなくなった所で、ばさりと雪を振り落として、また真っ直ぐに起き上がるのだ。
十二月の初めに降った初雪の朝は、竹林の縁のあちこちで、一日中その音がしていた。
十三夜から後の事は、どうにも、よく覚えていない。
九日毎に切り株の所へ行って、てゐの後について竹林の奥へ通っていた事は確かなのだが、その間の日々を思い出そうとすると、竹を割る音と朝の寒さくらいしか出てこないのだ。
十一月と言う一月は、暦の上では確かにあった筈なのに、俺の手元には殆ど何も残っていなかった。
眠った気がしないのも、近頃の事である。
日が暮れると早々に床に就くのだが、目を閉じたと思うと、もう障子の向こうが白んでいる。
夢を見た覚えも無い。
起き上がると、昨日の疲れがそっくりそのまま体の芯に残っていて、顔を洗う水の冷たさで、ようやく目が開く有様だった。
その所為だろう。
ある朝、割りかけの竹を押さえていた左の手が、ふっと緩んだ。
鉈で割り下ろした竹の、研いだ刃物のように鋭い割り口の縁が、掌を浅く走った。
竹を扱って暮らしていれば、この程度の傷は珍しくもないのだが、手元が狂って切ったのは、籠屋の爺さんに竹細工を習い始めた頃以来の事だった。
十二月の十三日は、里の煤払いである。
現代で例えるならば、大掃除の原型的な習慣だ。
どの家もその日は朝早くから戸を外し、畳を上げて、一年分の煤を払う。
天井の煤を払うのには、先の方に枝葉を残したままの竹を使うのだが、その竹を伐って家々に配って回るのが、ここ何年かの俺の暮れの仕事になっていた。
伐った竹の葉は一晩置くと丸まってしまうので、前の日の夕方に伐って、当日の朝に担いで回る。
使い終わった竹は小正月の火祭りで燃やしてしまうから、毎年、新しい物が要るのだ。
その十三日を、俺は、まだ何日か先の事だと思っていた。
朝、家の前で竹を割っていると、里の方から子供が一人駆けてきて、煤竹はまだかって母ちゃんが言ってる、と言った。
何の事か分からなくて、一度聞き返した。
それから、血の気が引いた。
慌てて竹林の縁で手当たり次第に竹を伐り、束にして担いでいった頃には、もう昼が近かった。
大抵の家は、物干し竿の先に箒を括り付けて、とうに天井を払い終えていた。
笑って受け取ってくれた家もあったし、もう済んだからと首を振った家もあった。
首を振った家の主人は怒ってはいなかったが、来年はよその誰かに頼むかもしれないね、とだけ言って、戸を閉めた。
上の空にも程がある。
自分を凡そ常識的で、分別のつく人間だと思っていただけ、堪えるものがあった。
恋をすると人は駄目になるとは聞いていたが、ここまでだとは知らなかったのだ。
疲れに効く薬でも無いか、永遠亭の医者に聞いてみようかと、一度だけ思った。
けれど、恋煩いで呆けているだけなのに、人でも妖怪でも治すと言う医者の手を煩わせるのは、気が引けた。
その晩から、なるべく早く寝るようにした。
早く寝ても、夜はやはり短かった。
***
人間は、一生の三分の一を眠って過ごすのだそうだ。
永琳の受け売りである。
三分の一と言えば随分な量だが、その間の事を、人間は殆ど何も覚えていないらしい。
覚えてもいない時間なら、少しくらい無くなった所で、本人は困らないだろう。
十二月に入ってから、輝夜は、○○の眠りからも須臾を拾うようになった。
眠っている時ほど、人が気づかない時は無い。
息を吸う間や籠の目を移す間とは比べ物にならない程、拾えるものが沢山ある。
その月の、二度目の訪いである。
座敷に上がった○○の手を取って、いつものように指を一本ずつ開かせると、左の掌に、新しい傷があった。
親指の付け根から斜めに、赤い線が一本走っている。
もう塞がりかけてはいるが、春に見た人差し指の傷より、少しだけ深い。
竹を割っていて手元が狂ったのだと、○○は照れくさそうに笑った。
狂った訳なら、輝夜は知っている。
目の下がうっすらと青く、笑う顔にも、いつもの張りが無い。
眠りを拾えば人間がこうなる事くらいは、輝夜にも分かっていた。
分かっていて、拾う手を止めなかったのは、私である。
これまでの傷は、どれも、輝夜の知らない所で付いた物だった。
いつの間にか付いていて、それを輝夜が見つけて、塞がってゆくのを見届けてきたのだ。
この傷だけは、違う。
これは、私が付けた傷だ。
そう思うと、塞がりかけた赤い線が、今までのどの傷よりも愛おしく見えた。
指の腹で、そっとなぞる。
○○の手が、ぴくりと跳ねた。
里の煤払いに竹を届け損ねた話も、聞いた。
○○は情けなさそうに頭を掻いていたが、輝夜には、そう悪い話には聞こえなかった。
その日の○○は、火鉢の傍で話している途中で、一度、こくりと舟を漕いだ。
首が前へ落ちて、瞼が閉じる。
輝夜は、声を掛けずにそれを眺めていた。
眠っている○○の顔を見るのは、初めてだった。
けれど、ほんの二つ三つ息をする間に、○○はびくりと目を開けて、慌てて座り直してしまった。
寝顔は、それきりだった。
もう少し見ていたかった、と思った。
それから○○は、竹細工を教わった年寄りの話をした。
近頃は年の所為で指が利かなくなってきて、細い竹ひごを編むのに、前の倍も手間が掛かるのだと言う。
話し終えてから、○○は少し考えるような顔をして、物語の翁と嫗はあれからどうしたのか、と聞いた。
「さあ。知らないわ」
本当に、知らなかった。
「昔の事は、振り返らない事にしているの」
○○は、暫く黙って輝夜の顔を見ていた。
それから、貴方らしい、と言うような事を言って、笑った。
笑った顔の奥に、何か片付かない物が一つ残ったような気がした。
その機微すら独占したいと思ったが、輝夜はそれを追わなかった。
帰り際に、次は冬至にいらっしゃい、と言った。
いつもの九日より、少しだけ早い。
○○は少し驚いた顔をしてから、頷いた。
訳は聞かれなかったし、輝夜も言わなかった。
疲れているのなら、ここで休めばいいのだ。
冬至は一年で一番夜の長い日であるのだから、これ以上の日は無い。
***
桃栗三年柿八年、と言う。
桃と栗は芽が出てから三年、柿は八年経たないと実を付けないと言う事で、何事も物になるまでには相応の年月が掛かる、と言う例えなのだそうだ。
爺さんに言わせると、それには続きがあって、柚子の大馬鹿十八年、と言うらしい。
爺さんの家の裏には、その大馬鹿が一本ある。
若い時分に種から植えて、本当に十八年待たされたのだそうで、初めて実が生った年の事は、今でも嬉しそうに話す。
仕上げた籠を届けに行くと、爺さんは、明日は冬至だろう、柚子を持っていけ、と言った。
明日、と聞き返した。
冬至は、まだ四、五日先の筈だった。
爺さんは呆れた顔で、明日だよ、と繰り返した。
柚子の木には、長い棘がある。
枝の間に手を差し入れて、黄色く熟れた実を一つずつ捥いでゆくと、棘が手の甲を何度も引っ掻いた。
爺さんは縁側からそれを眺めて、お前、顔色が悪いな、と言った。
寒いからだと笑って誤魔化すと、それならいいが、と言ったきり、それ以上は何も言わなかった。
冬至の日は、朝から細かい雪がちらついていた。
昼過ぎに切り株の所へ行くと、てゐが、雪の上に兎の足跡を散らかして待っていた。
てゐは籠の中の柚子を見て、鼻をひくつかせた。
「柚子じゃん、食べるの?」
湯に浮かべるのだと言うと、てゐは、はへぇ、と抜けた声を漏らす。
「人間ってのは変な事するよね」
そう言って、さっさと先に立って歩き出した。
門をくぐると、庭の奥の山桜が、満開のまま雪を被っていた。
花の上に雪が積もり、その雪の隙間から、また花が覗いている。
何処までが花で何処からが雪なのか、遠目にはまるで見分けがつかなかった。
その手前の縁側に、輝夜が座っていた。
白い庭の中で、膝の脇から板の上へ流れ落ちた黒髪だけが、墨を一筋引いたように黒い。
見惚れていたのは、てゐの投げた雪玉が背中に当たるまでの間である。
縁側で籠の柚子を見せて、里では冬至の日に柚子を浮かべた湯に入るのだと話した。
そうすると、冬の間、風邪を引かないのだと言う。
「聞いた事はあるわ。入った事は無いけれど」
輝夜は柚子を一つ手に取って、でこぼこした皮を、指の腹で確かめるように撫でた。
「お吸い物に浮いているのなら、知っているわ。
皮が一切れ、このくらい薄く」
輝夜は、親指と人差し指で、紙一枚程の隙間を作ってみせた。
「丸のまま出てきた事は、一度も無いのよ。
食べられるの?」
食べられなくはないが、ひどく酸っぱいのだと言うと、輝夜は、かえって興味を引かれたような顔をした。
仕方なく、懐の小刀で一つを半分に切ってやる。
切り口から汁が滲んで、柚子の匂いが、ぱっと強くなった。
輝夜は半分を受け取って、恐る恐る、切り口に唇を付けた。
途端に目をぎゅっと瞑って、眉間に皺を寄せ、肩まで竦めてしまった。
あのお姫様が、柚子一つでこんな顔をするのかと思ったら、堪えきれずに笑ってしまった。
輝夜は、涙の滲んだ目で俺を睨んだ。
「……こんな物を、お湯に入れるの?」
それから、もう一度柚子の切り口を眺めて、俺の顔に目を移した。
「風邪を引かない為のお湯なのでしょう。それなら、私には要らないわ。
貴方が入りなさい。笑っていたって、ひどい顔色なのだもの」
客の身で先に湯を貰うのは気が引けると言ったのだが、輝夜はもう、兎たちに湯を沸かすよう言い付けてしまっていた。
永遠亭の湯殿は、里の家の風呂桶なら三つは入りそうな、檜の湯船だった。
柚子を丸のまま幾つか浮かべると、湯気と一緒に、柚子の匂いが立ち上る。
肩まで浸かると、冷え切った手足の先から、じんと痺れるように温まってゆく。
掌の傷と、手の甲の引っ掻き傷に、湯が少しだけ染みた。
湯の中で、何度か瞼が落ちかけた。
その度に、柚子がぷかぷかと胸元へ流れてきて、こつんと当たっては、俺を起こした。
随分と長い間浸かっていた筈なのに、湯は、いつまで経っても冷めなかった。
流石はお屋敷の風呂だと感心しながら、また目を閉じかけた。
湯から上がると、座敷に火鉢が出してあって、その傍に輝夜が座っていた。
湯気の立つ俺を見て、満足そうに目を細める。
勧められるまま火鉢の傍に腰を下ろすと、体の芯まで温まった所為か、瞼がひどく重かった。
障子越しの雪明かりの中で、輝夜の黒髪が、畳の上に長く流れている。
それを眺めながら何か話していた筈なのだが、何を話していたのかは覚えていない。
最後に覚えているのは、何処か遠くで、てゐが何か言っている声と、それを、しっ、と止める輝夜の声だった。
***
日が、竹の向こうへ落ちた。
まだ夕方とも言えないような頃から、庭の雪が青く沈み始め、障子の白さが一枚ずつ灰色に変わってゆくのを、輝夜は火鉢の傍に座ったまま眺めていた。
○○は、その間、一度も目を覚まさなかった。
雪の竹林の夜道を、人間に歩かせる訳にはいかない。
そう言う事にして、兎たちに布団を運ばせた。
「え、泊めるの?」
「雪よ。仕方が無いでしょう」
てゐは何か言いたそうな顔で輝夜を見ていたが、結局、くふ、と喉の奥で笑っただけで出ていった。
兎たちが寄ってたかって布団の上へ転がしても、○○はまだ眠っていた。
夜が更けて、屋敷の明かりが一つずつ消えていった。
輝夜は、○○の枕元に座っていた。
火鉢の炭が、時々、小さく爆ぜる。
屋敷の外では、竹が思い出したように雪を振り落としている。
その音の合間に、寝息が聞こえた。
暗がりの中で、布団の端から出ていた○○の手を取った。
指先だけで掌を探ると、塞がりかけた傷の筋が、そこだけ少し硬く盛り上がっている。
目で見なくても、何処にあるのかはもう分かるのだ。
火鉢の熾の明かりで、寝顔が、ぼんやりと赤く浮かんでいる。
額に掛かっていた前髪を指先で除けてやり、そのまま眉の上を端から端まで辿って、その終わりから、こめかみへ下りる。
○○は、眠ったまま、小さく喉を鳴らした。
喉仏が一つ上がって、また下りた。
起きている時の○○なら、こんな所に触れられる前に、きっと逃げ出している。
暫くそうしていてから、輝夜は、○○の傍らにそっと横になって、布団の上から、胸に耳を当てた。
夏に一度、こうした事がある。
あの時の○○は耳まで赤くして天井を睨んでいて、胸の奥の音は、こちらが可笑しくなる程急いでいた。
今夜の○○は、何も知らない。
音は、ゆっくりと打っていた。
とくん、と一つ打って、間があって、また、とくん、と打つ。
夏のあの音の、半分程の速さしかない。
十五夜に唇の下で跳ねたあの音と、この音が、同じ一つの胸から出てくるのである。
この屋敷の宝物は、龍の頸の玉も、火鼠の皮衣も、何年眺めていた所で、一つの音も立てはしない。
一つ、二つ、と数えてみた。
数え始めると、止められなくなった。
この音の殆どを、輝夜は聞いた事が無いのだ。
輝夜の傍で打っていたのは、九日に一度、それも縁側で隣に座っている間の音だけである。
それ以外の日のこの音は、里の、輝夜の知らない家の、知らない布団の中で、竹を割る音や、里の誰かの話し声や、あの年寄りの咳払いなんかに紛れて、誰にも聞かれずに打っていたのだ。
春から今日まで、そうして誰の耳にも届かずに打っていった音が、一体どれ程あるのだろう。
それが、許せなかった。
眠りを拾い始めた本当の訳は、それである。
覚えてもいない時間なら無くなっても困らない、などと言うのは、後から付けた名目に過ぎない。
里の夜に、誰にも聞かれずに打つ音なら、みんな、こちらへ持ってきてしまえばいいのだ。
だから今夜は、拾い溜めた○○の眠りを、この夜に足してゆく事にした。
里の夜から一つずつ拾ってきた須臾を、一つずつ、この夜の中へ落としてゆく。
一つ落とす度に、耳の下の寝息が、一つ深くなる。
胸の上下がゆっくりになり、肩の強張りが解けて、握り込んでいた指が、布団の上で少しずつ開いてゆく。
長い夜が、もっと長くなる。
屋敷の外で竹が雪を振り落とす音が、少しずつ間遠になってゆく。
眠りは、返してやるのだ。
ただし、ここで。
この屋敷の中で、私の耳の下で。
永琳に知れたら、何と言われるか分からない。
が、そんなもの言わせておけばいいのだ。
私が○○を堪能する事よりも優先される事は無い。
布団越しにも、胸の温かさが伝わってくる。
襟元から、まだ微かに柚子の匂いがした。
息を吸うと、胸がゆっくりと持ち上がって、耳を当てている輝夜の頭まで、ほんの少し浮く。
吐くと、沈む。
布団の上に広がった黒髪の先が○○の口元の近くまで流れていて、寝息が当たる度に、細く揺れた。
眠っている顔は、起きている時より、少しだけ幼く見える。
百を数え、千を数えた。
数は、幾らでも続いた。
続く事が、ただ嬉しかった。
そのうちに、耳を当てているだけでは、物足りなくなった。
輝夜は布団の端を持ち上げて、その中へ身を滑り込ませた。
○○の首の下へ腕を差し入れて、眠っている体を、そっと胸の方へ抱き寄せる。
○○は少しだけ眉を寄せたが、目は覚まさずに、されるままにこちらへ寝返った。
着物越しに、胸と胸が重なった。
重ねた胸の向こうで、○○の音が打つ。
こちらの胸の内側でも、輝夜の音が打っている。
二つの音は、初めのうちこそ少しずれて打っていたが、そのうちに、どちらがどちらの音なのか分からなくなった。
○○の温かさが、着物を通して、こちらの肌へ染み込んでくる。
何処までが自分の体で、何処からが○○の体なのか、その境目が溶けてゆく。
輝夜は目を閉じて、その中へ沈んでいった。
どんな美酒にも、こんなに酔った事は無かった。
酔いの底で、ふと、魔が差した。
いっそ、この瞬間のまま、留めてしまおうか。
十五夜には思うだけでやめた事を、一瞬だけなら、と思った。
輝夜は、腕の中の○○を、その一瞬のまま留めた。
寝息が、途切れた。
胸が、上がりも下がりもしなくなった。
口元に掛かった黒髪の先が、揺れるのをやめた。
重ねた胸の向こうから、何も打ってこない。
○○の体は温かいままだったが、その温かさは、もう何一つ、こちらへ伝えてこなかった。
庭の山桜と、同じだった。
傷も付かず、老いもせず、何処へも行かない○○が、腕の中にいる。
重ねた胸には、輝夜の音だけが打っていた。
一つきりの音が、ひどく大きく聞こえた。
解いた。
途端に、重ねた胸を、向こう側から叩かれた。
一つ。
少し遅れて、もう一つ。
○○は、眠ったまま大きく一つ息を吸って、何事も無かったように、また寝息を立て始めた。
身が、震えた。
戻ってきたその一打ちは、どんな宝物を手に取った時よりも深く、輝夜の体の芯を揺さぶった。
止めてはいけないものを止めたのだと、分かってはいた。
それなのに、あの一打ちがもう一度戻ってくるのを、この胸で受けたくて堪らなかった。
輝夜は、○○の背に回した腕に力を込めて、それを堪えた。
堪えられたのは、さっきの、自分の音しかしなかった静けさが、まだ胸の内に残っていたからである。
いつか、留めなくても、○○の胸はああして黙る。
その時には、もう、何をしても戻ってこない。
輝夜は、自分の体の事を思った。
この体は、竹の葉で指を切っても、血が一滴落ちるより先に塞がってしまう。
月の都で罰として殺された時も、死にはしなかった。
幾つ年を重ねても、重ねた分だけ若さが戻ってきて、この顔は、都にいた頃のままである。
それでも、胸は打っている。
今も、○○の胸と重なって打っている。
あの薬の事を、思った。
遠い昔、月の都で、輝夜が永琳に作らせて飲んだ薬である。
あれを飲ませれば、○○の胸は、いつまでも打ち続ける。
傷は付いた端から塞がり、老いは来た端から戻って、何処へも行かずに、ずっとここで。
思っただけで、決めはしなかった。
輝夜は、重なった二つの音を、また一つ、二つと数え始めた。
冬至の夜は、まだ半分も過ぎていなかった。
***
目が覚めた。
障子が、白く光っている。
雪明かりだった。
見上げた天井はやけに高く、体に掛かっている布団は自分の家の物よりずっと柔らかくて、ずっと重くて、暫くの間、自分が何処にいるのか分からなかった。
体が、軽かった。
手足の先まで、何処にも疲れが残っていない。
こんなに眠ったと思える朝は、秋から、もしかするともっと前から、一度も無かったような気がする。
そこまで思ってから、跳ね起きた。
ここは、永遠亭である。
泊まってしまったのだ。
枕元に、輝夜が座っていた。
昨日と同じ着物のまま、膝の脇へ黒髪を流して、俺が眠り込む前に座っていたのと寸分違わぬ所に座っている。
「おはよう。よく眠れたでしょう」
慌てて詫びを言いかけると、輝夜は、雪の竹林を夜に歩いていたら今頃は竹の根元で凍えていたわよ、と言って、取り合ってくれなかった。
襖が開いて、永琳が入ってきた。
「お目覚めですか。日の暮れる前から、ずっとお休みでしたよ」
客の具合を見に来たのだと言う。
人でも妖怪でも治すと噂の医者に、寝坊の具合を見に来られたのでは、格好がつかない。
それでも、聞かれるままに、秋の終わり頃からどうにも疲れが抜けないのだと話すと、永琳は、手を、と言った。
永琳の指は乾いていて、少しひんやりとしていた。
輝夜に手首を取られた時とは、触れ方がまるで違う。
何かを確かめるのでも、味わうのでもない。
ただ、量っている指だった。
永琳は目を伏せて、ゆっくりと息を吸い、ゆっくりと吐いて、どうやらその息に合わせて、俺の脈を数えているらしかった。
一度数え終えると、首を僅かに傾げて、もう一度、同じようにして数え直した。
それから、俺の額に手の甲を当てた。
「熱は、ありませんね」
独り言のようにそう言ってから、永琳は俺の手首を放して、輝夜の方へ向き直った。
「姫。眠りからお取りになるのは、もうおやめください。
人の体は、そうはできておりませんので」
輝夜は、少しも悪びれずに答えた。
「返したわよ。ゆうべ、ここで」
永琳は小さく息をついて、それから俺の方を見ると、薬は要りませんよ、とだけ言って出ていった。
何の事なのかと、輝夜に聞いた。
「十五夜に、くれたでしょう。ここに居ない時の貴方を、全部」
だから少しずつ貰っていたのだと、輝夜は言った。
里にいる間の、俺が気づかない程の一瞬を拾って、ここにいる俺に足していたのだと。
近頃は、眠っている間のも。
そう言う間も、輝夜は、俺の顔から目を離さなかった。
怒るのかしら、とでも言いたげな、何処か面白がっているような目だった。
それで、全部が繋がった。
殆ど覚えていない十一月も、目を閉じたと思うと明けていた夜も、十三日の煤竹も、いつまでも冷めなかった柚子湯も。
十五夜の晩に、気持ちのつもりで言った言葉を、この人は、そのまま受け取っていたのだ。
里の人たちには、悪い事をしたと思った。
首を振った家の主人の顔も浮かんだ。
そう思ったのに、胸の底から先に湧いてきたのは、怖さでも腹立ちでもなかった。
この人は、俺の時間を、そこまで欲しがっていたのだ。
九日毎の半日では足りずに、眠っている間の一瞬まで、拾いに来る程に。
嬉しいなどと思ってはいけないのだろう。
それでも、どうしようもなく、嬉しかった。
嬉しくて、それから、少し怖くなった。
拾われた俺の時間は、ここでこの人と過ごす午後や夜に使われて、そうして過ぎてゆく。
過ぎた物を、この人は振り返らない。
翁と嫗の事でさえ、振り返らないと言った人である。
物語の姫は、去り際に、月の出た夜にはこちらを見てくれと言い残したのだったか。
あの話で、去ってゆくのは姫の方だった。
今度、先に去るのは俺の方だ。
俺はいずれ爺さんのように指が利かなくなって、そのうちに死ぬのだろうが、その時もこの人はきっと、今と同じ顔をしているのだ。
その時、この人の中に、俺は何か残っているのだろうか。
言いたい事は、一つだけ分かっていた。
けれどそれは、ずっと昔から振り返らずに生きてきた人に頼むには、余りに勝手な事に思えた。
今日は帰る、と言った。
里に戻って、片付けなければならない事が幾つもある。
それに、一人で考えたかった。
輝夜は、いつものように座ったまま、次の日を言った。
「次は、九日後ね」
俺は、頷けなかった。
少し考えたい、とだけ言った。
輝夜の顔は、見られなかった。
てゐが支度をする間、門を出て、竹林の際で待つ事にした。
門の敷居を跨ぐ時も、後ろは振り向かなかった。
振り向いたら、頼んでしまいそうだった。
***
座敷に、一人になった。
兎たちがまだ片付けていない布団が、一組、畳の上に残っている。
手を差し入れると、まだ微かに温かかった。
ゆうべ一晩、この胸に重ねていた音の温かさである。
この温かさは、放っておけば、じきに冷める。
○○は、頷かなかった。
次の日を言えば、春から一度も欠かさずに頷いて帰っていった人が。
考えたい、と言った。
考えて、それから、どうするのだろう。
須臾なら、幾らでも拾える。
里にいる○○の一瞬を、今日からでも明日からでも、好きなだけ拾ってこられる。
けれど、拾えるのは時間だけだった。
九日後の昼過ぎに、○○が切り株の所へ来るかどうかまでは、拾えない。
留めてしまえば、と思いかけて、ゆうべ腕の中にいた○○を思い出した。
温かいまま、何も打ってこなかった胸。
重ねた胸に、自分の音だけが響いていた、あの一打ちの間の静けさ。
○○が門の外へ行ったきり来なくなっても、いつかあの胸が本当に打たなくなっても、この屋敷に残るのは、きっとあの静けさなのだ。
ゆうべは思っただけの薬の事が、今は、縋り付きたい程近くにあった。
竹取の夜の事を、思い出した。
十五夜の晩には、思い出しかけて、やめた事である。
今度は、やめられなかった。
翁と嫗は、泣いていた。
翁の節くれ立った指が、輝夜の袖の端を掴んだまま、なかなか放れなかった事も、嫗が声も立てずに、顔ばかり歪めて泣いていた事も、振り返らないと決めたあの夜から、ずっと覚えていたのだと、今になって知った。
泣いている二人を残して、あの屋敷を出ていったのは、輝夜の方だった。
置いてゆかれる方が、どんな思いで門の内に立っていたのか、千年も経ってから、初めて知った。
気がつくと、立ち上がっていた。
廊下を走った。
裾が足に絡み、髪が後ろで床を擦ってゆく。
走った事など、何時以来か覚えていない。
すぐに息が上がって、胸の奥で、自分の音がうるさく打ち始めた。
玄関で、履物を探しもしなかった。
庭の雪を素足で踏んで、門まで走った。
門の敷居の前で、足が止まった。
門の柱に手を掛けたまま、輝夜は、足元の敷居を見下ろした。
雪に濡れて黒ずんだ、ただの一本の木である。
てゐを遣ればいい。
てゐに言って、呼び戻させればいい。
いつも、そうしてきたのだから。
素足で門の外まで男を追いかけてゆく姫など、遠い昔の都にだって、居はしなかった。
そう思ったのは、一瞬だけだった。
輝夜は、敷居を跨いだ。
敷居の外の雪は、内側の雪と、何も変わらなかった。
素足の裏で、雪が軋む。
冷たいと言うより、痛い。
雪の上に、○○の足跡が、竹林の方へ続いていた。
輝夜は、その一つ一つに自分の足を重ねるようにして、追った。
大きな足跡の中で、自分の足は、ひどく小さかった。
黒髪の先が、後ろで雪を引きずっている。
竹林の際に、○○の背中があった。
「○○」
呼んだつもりの声は、自分でも驚く程、細かった。
○○の背中が、止まった。
「待ちなさい。……待って」
命じた筈の声が、途中で崩れた。
拾った事も、留めた事も、悪かったとは今でも思っていない。
それなのに、口からは、言うつもりの無かった言葉ばかりが零れていった。
「ゆうべ、貴方を、一度だけ留めたの。
ほんの一瞬よ。すぐに解いたわ。
……音が、しなかったの。私の音しか、しなかったの」
○○が、ゆっくりとこちらを振り向きかけた。
その顔を見るのが怖くて、輝夜は先に言葉を継いだ。
「薬を、作らせるわ。昔、私が永琳に作らせて、飲んだ薬。
あれを飲めば、ずっと一緒よ。何処にも、行かなくて済むの。
だから、飲んで。
お願いだから、」
その先が、言葉にならなかった。
「……置いて、いかないで」
***
振り向くと、門の外に、輝夜が立っていた。
雪の上に、素足だった。
白い足の指が、冷たさで赤くなっている。
長い黒髪の先が雪の上に流れ落ちていて、その所だけ、雪が黒く濡れていた。
こんな時なのに、綺麗だと思ってしまった自分が、ひどく情けなかった。
ゆうべ、俺は一度、留められていたのだと言う。
眠っている間に、ほんの一瞬、胸が打つのをやめていたらしい。
俺という存在が、俺という名の物になったのだ。
怖いと思うべきなのだろう。
けれど、何も覚えていない俺には、その一瞬の間、この人がどんな顔で俺の胸の音を待っていたのかの方が、ずっと気になった。
門の、外である。
春に、俺が一歩だけ外へ出て、この人は一歩も出てこなかった、あの敷居の外だ。
雪を踏んで、戻った。
薬は飲まない、と言った。
飲んでしまったら、俺の時間は、もうこの人が欲しがった物ではなくなるような気がした。
代わりに、全部持っていっていい、と言った。
ここに居る時の俺も、居ない時の俺も、眠っている間の俺も。
貴方が望んでくれるのならば、ここから出なくたっていい。
ただ、一つだけ頼みたい事がある、と。
俺は、いつか居なくなる。
貴方より、ずっと先に。
その後で、時々でいいから、振り返ってほしい。
拾っていった俺の時間を、過ぎた事にして、置いていかないでほしい、と。
そう言うと、輝夜は暫く、俺の顔を見上げていた。
濃い茶色の目の縁が、赤い。
睫毛の先に、雪が一片、溶けずに載っていた。
それから輝夜は、冷えた指で俺の左手を取って掌を開かせ、塞がりかけた傷を見下ろした。
「……飲ませたら、これも、すぐに塞がってしまうのね」
指の腹が、傷の筋を一度だけなぞった。
「それじゃ、つまらないわ」
そう言う声は、まだ震えていた。
いかにもこの人らしい言い草だと思った。
「……振り返らない主義なのよ、私」
俺の掌を握ったまま、輝夜は、また少し黙った。
「でも……いいわ。受けてあげる」
泣き出しそうな顔のまま、輝夜は、少しだけ笑った。
受けてあげる、と言われて、俺の方が難題を出していたのだと、ようやく気がついた。
「その代わり、本当に全部貰うわよ。
里にいる間のも、ここにいる間のも。一つ残らず」
頷いた。
今度は、ちゃんと頷けた。
「貰ったものは、一つも捨てないわ。
千年経っても、思い出してあげる」
それだけで、残りの一生をそっくり渡しても、まだ釣りが来るような気がした。
雪の上の素足が、また目に入った。
爪先まで、真っ赤である。
考えるより先に、輝夜を抱え上げていた。
驚く程軽くて、驚く程冷たかった。
輝夜は小さく声を上げたが、降ろせとは言わなかった。
雪の上に垂れていた黒髪の先を、自分で胸元へ手繰り寄せて、それから、冷えた腕を、おずおずと俺の首に回した。
雪を吸った髪が、ずしりと重い。
首筋に触れた頬が、少しずつ温まってゆく。
門の敷居を、内側へ跨いだ。
腕の中で、輝夜が身じろぎをした。
見ると、俺の肩越しに、後ろを振り返っていた。
門の外の雪の上には、小さな素足の跡が、竹林の際まで点々と続いている。
帰りの足跡は、一つも無い。
輝夜は、玄関に入るまで、ずっとそれを振り返っていた。