あの日、アスナと街中で別れてから、地下に長く籠るようになり、レイは彼女と会わなくなった。
最初の数日こそ、街を歩いているときに、見覚えのある白い服装を探すこともあった。
しかし、どれだけ人混みを眺めても、彼女の姿を見つけることはできなかった。
やがてレイは、そんなことを気にするのもやめた。
彼には彼のやるべきことがある。
この世界を攻略し、現実へ帰還する。
それだけだった。
そして――。
デスゲームが始まってから、一年四ヶ月が経過した。
◇
浮遊城アインクラッド。
地上では攻略が順調に進み、攻略済みの階層は第五十五層にまで達していた。
現在、攻略組は第五十六層の攻略を目前に控えている。
デスゲームが始まった当初、第一層の攻略に成功したときには、誰もがこの世界から脱出できる可能性に希望を抱いていた。
しかし、現実は甘くない。
攻略が進むほどモンスターは強くなり、迷宮区の構造も複雑になっていく。
戦闘で命を落とすプレイヤーも後を絶たず、攻略組には以前にも増して高い実力が求められていた。
そんな世界で、レイは相変わらず一人で戦い続けていた。
「……五十五層か」
街の外れにある森。
そこでモンスターを斬り伏せたレイは、メニュー画面を開き、現在の攻略状況を確認していた。
地上は第五十五層。
そして、誰も知らない地下もまた、第五十五層まで攻略が進んでいた。
レイが発見した地下迷宮は、地上とは異なる構造を持つ未知の領域だった。
地上の階層をつなぐ迷宮区とは違い、地下には独自の街やフィールド、そして地上では見たことのない強力なモンスターが存在していた。
攻略を進めるたびに、新しい仕掛けや隠し通路が見つかる。
それらを一つずつ突破していく作業は、レイにとって退屈しのぎとしては悪くなかった。
もちろん、誰かとパーティーを組むつもりはない。
地下の存在を誰かに教えるつもりもなかった。
今のところ、地下へ続く道を知っているのは自分だけ。
それで十分だった。
「そろそろ戻るか」
レイは剣を鞘に収めると、転移結晶を使うことなく歩き始めた。
以前は街の宿屋を拠点にしていたが、少し前にそれも変えている。
現在の拠点は、第22層に購入したログハウスだった。
◇
森に囲まれた静かな一角に、そのログハウスは建っていた。
木材をふんだんに使用した建物は、派手さこそないものの、落ち着いた雰囲気を持っている。
室内には必要最低限の家具しか置かれていない。
広めのリビングに、寝室、倉庫代わりの小部屋。
そして、リビングの隅には黒い魔石が一つ置かれていた。
「……ただいま」
もちろん、返事はない。
レイは誰に聞かせるでもなく呟き、装備を確認した。
新たな装備を手に入れたこともあったが、今でも愛用しているのは、地下第一層のフロアボスから獲得した黒暁剣リュクシオンと、夜渡りの外套だった。
一年四ヶ月にわたって戦い続けた結果、レイの戦闘能力はさらに磨かれていた。
もともと圧倒的だった剣技は、今では無駄な動きがほとんどない。
強敵との戦闘でも、必要以上に剣を振るうことはなかった。
ただ敵を斬り、次へ進む。
それだけだ。
そして、このログハウスを購入した最大の理由は、もう一つの魔石にあった。
対となる転移核・双環。
片方は地下迷宮の最奥部に、もう片方はこのログハウスに設置してある。
つまり、レイは自宅からいつでも地下へ移動できるのだ。
地上の迷宮区を通る必要もなければ、誰かに地下の入り口を見られる心配もない。
「明日は地下の続きをやるか」
そう呟き、レイはソファに腰を下ろした。
彼の頭の中にあるのは、明日の予定だけだった。
――少なくとも、本人はそう思っていた。
◇
アスナもまた、約一年で大きく変わっていた。
彼女は現在、攻略組の有力ギルドである血盟騎士団に所属し、その副団長を務めていた。
白を基調とした騎士団の制服
腰に携えた細剣
そして、誰よりも速いと評される剣技。
その姿は、攻略組の中でもひときわ目立つものとなっていた。
いつしか彼女は、二つの異名で呼ばれるようになっていた。
《閃光》
そして、《狂戦士》
敵を瞬く間に斬り伏せる速度と、攻略のためなら危険な状況にも躊躇なく飛び込む戦い方。
その苛烈さから、後者の異名も広まっていた。
だが、今のアスナを特徴づけているのは、その剣技だけではなかった。
血盟騎士団の副団長として、彼女は攻略を最優先に考えていた。
一刻も早く、このデスゲームを終わらせる。
現実世界へ帰還する。
その思いは、日を追うごとに強くなっていた。
この世界で過ごす時間が長くなるほど、現実へ戻れないという焦りが募っていく。
だからこそ、攻略の進行を妨げるものは、できる限り排除しなければならない。
無駄な行動はしない。
感情に流されない。
必要ならば、冷徹な判断も下す。
それが、今のアスナの考え方だった。
かつての彼女なら、目の前で困っている相手がいれば、手を差し伸べようとしただろう。
けれど、今は違う。
攻略に関係のない問題に時間を費やす余裕はない。
NPCの事情や感情についても、攻略の妨げになるのであれば、優先する必要はないと考えていた。
NPCは、この世界を構成する存在だ。
彼らの命や心を気にかけていても、現実世界に帰れるわけではない。
そう割り切ることで、彼女は自分の心を押し殺していた。
周囲から見れば、冷徹で、近寄りがたい少女。
血盟騎士団の副団長という立場にふさわしい、厳格な人物。
その姿は、いつしか《氷の令嬢》を思わせるものになっていた。
しかし――
そんな彼女の心の奥には、今も忘れられない少年がいた。
黒い髪
落ち着いた声
いつもどこか無愛想で、必要以上に話そうとはしない少年。
「……レイ君」
誰もいない部屋で、アスナは小さく呟いた。
あの日、街中で会ったのが最後だった。
レベリングに集中するから、しばらく会えないかもしれない。
そう言っていたレイの言葉は、結局その通りになった。
最初のうちは、いつかまた会えると思っていた。
攻略を続けていれば、そのうちどこかの街や迷宮区で顔を合わせるだろう、と。
しかし、何日経っても会えなかった。
何週間経っても。
何ヶ月経っても。
そして、気づけば約一年が過ぎていた。
アスナは、レイが今どこにいるのか知らない。
どれほど強くなったのかも。
どんな場所で、どんな生活をしているのかも。
「……元気にしてるのかな」
呟いた声は、部屋の静けさに消えた。
彼に会いたい。
その気持ちは、最後に会ったあの日よりもずっと強くなっていた。
けれど、会えない時間が長くなるにつれ、アスナは考えないようにすることを覚えてしまった。
攻略に集中していれば、余計なことを考えずに済む。
そうやって自分に言い聞かせ、今日も剣を握っていた。
レイに会えない寂しさも、彼が今どこで何をしているのか分からない不安も、すべて胸の奥へ押し込めた。
考えたところで、攻略が進むわけではない。
そう割り切ろうとするたび、胸の奥に小さな痛みが残った。
それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
副団長として、攻略を率いる立場にある。
彼女が迷えば、周囲にも影響が出る。
だからこそ、アスナは冷徹であろうとした。
誰よりも合理的に判断し、誰よりも速く敵を斬り伏せ、攻略を前へ進める。
そうすれば、いつかこの世界から脱出できる。
そう信じていた。
◇
そして、翌日
第20層の街
レイはログハウスを出て、街の中央へ向かって歩いていた。
特別な用事があるわけではない。
消耗品の補充と、武器の手入れに必要な素材を購入するつもりだった。
一年四ヶ月にわたり地下を中心に活動していたとはいえ、地上での買い物までやめたわけではない。
必要なものは必要なときに買う。
それだけのことだ。
「……」
人通りの多い通りを、レイはいつも通りの速度で歩いていた。
そのときだった。
「――レイ君?」
聞き覚えのある声が、背後から響いた。
レイの足が止まる。
ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、白い制服に身を包んだ少女だった。
長い栗色の髪
整った顔立ち
腰には細剣が携えられている。
約一年という時間が経っても、その姿を見間違えるはずがなかった。
「……アスナ?」
「……久しぶりね」
アスナは微笑んだ。
けれど、その笑顔はどこかぎこちなかった。
レイは彼女の姿を一度だけ見て、口を開いた。
「久しぶりだな。元気そうで何よりだ」
「ええ。レイ君も元気そうね」
「まあな」
そこで会話が途切れた。
以前なら、アスナはもう少し自然に話しかけてきたはずだった。
レイ君、と呼びながら、今日どこへ行くのか、何をしていたのかと尋ねてくることもあった。
時には、少し強い口調で文句を言ってくることもあった。
それでも、彼女の表情には柔らかさがあった。
しかし、今のアスナは違った。
言葉遣いは丁寧だが、そこには明確な距離があった。
笑顔も薄く、表情の変化は少ない。
まるで、必要以上に他人と関わることを避けているようだった。
(……何かあったのか?)
レイは内心で首を傾げた。
一年以上も経てば、人が変わることくらいあるだろう。
だが、目の前のアスナは、単に大人びただけとは思えなかった。
「……最近、見かけなかったわね」
アスナが先に口を開いた。
「そうだな」
「どこで何をしていたの?」
「レベリングだ」
「……そう」
アスナは、それ以上尋ねなかった。
本当は聞きたいことがたくさんあった。
どこにいたのか。
どうして一度も会えなかったのか。
私のことを覚えていたのか。
そして――
この約一年、私に会いたいと思ったことはあったのか。
けれど、どれも口にできなかった。
そんなことを尋ねるのは、副団長としての自分にふさわしくない。
そう考えてしまう自分がいた。
今の彼女にとって、感情に振り回されることは避けるべきものだった。
だから、目の前にいるレイに対しても、必要以上に踏み込まないようにした。
レイは、以前と変わらない。
少なくとも、アスナにはそう見えた。
無愛想で、必要以上に話さず、どこか他人に興味がなさそうな少年。
これほど長い間会わなかったのに、再会したことを特別な出来事だとは思っていないようだった。
それが、少しだけ寂しかった。
(……私ばっかり、会いたいと思っていたのかな)
アスナは胸の奥に生まれた感情を押し込める。
そして、わずかに表情を引き締めた。
「レイ君。ちょっとお願いがあるんだけど」
「何だ?」
「今度の攻略に、協力してほしいの」
レイは一瞬、彼女の顔を見つめた。
「攻略?」
「ええ。詳しい話は明日するわ。作戦の説明があるから、時間を空けておいてくれる?」
「……分かった」
レイは、特に迷うことなく了承した。
アスナがわざわざ自分を探して声をかけてきたのだ。
何か事情があるのだろう。
それに、地上の攻略に協力すること自体、断る理由はなかった。
もっとも、地下の攻略を優先するという基本方針を変えるつもりはないが。
「ありがとう。明日、指定した場所に来てくれる?」
「ああ」
「じゃあ、私はこれで」
そう言って、アスナは軽く頭を下げた。
「また明日、レイ君」
「……ああ。また明日」
アスナは踵を返し、人混みの中へと歩いていった。
レイは、その後ろ姿を少しだけ見送った。
「……」
やはり、何かがおかしい。
以前のアスナなら、再会しただけであんなふうに話を切り上げたりはしなかった。
少なくとも、レイの記憶にある彼女はそうだった。
(血盟騎士団の副団長か。……それも関係しているのか?)
彼女が身に着けていた制服から、所属はすぐに分かった。
血盟騎士団といえば、攻略組でも特に規律を重んじる大規模ギルドだ。
その副団長ともなれば、相応の責任もあるだろう。
この約一年の間に、彼女にもいろいろなことがあったのだろう。
レイはそれ以上考えるのをやめ、再び歩き始めた。
明日の作戦説明に出席すれば、事情も多少は分かるかもしれない。
それだけのことだった。
◇
一方、街の広場を離れたアスナは、人通りの少ない路地まで来てから足を止めた。
「……はぁ」
小さく息を吐く。
レイと話していた間、ずっと胸が落ち着かなかった。
約一年ぶりに会えた。
ずっと会いたかった人に、ようやく会えたのだ。
本当なら、もっと話したかった。
どこで何をしていたのか聞きたかったし、自分がこの一年以上、どんなふうに過ごしていたのかも話したかった。
一緒に街を歩きたかった。
以前のように、隣に並んで。
けれど、いざ本人を前にすると、言葉が出てこなかった。
長い間、会えなかったこと。
何度も彼を探してしまったこと。
会えない日々が寂しかったこと。
そんな自分の気持ちを、知られたくなかった。
だから、つい距離を置くような話し方をしてしまった。
「……何やってるんだろ、私」
アスナは額に手を当てた。
以前の自分なら、もっと自然に話せたはずなのに。
それなのに、再会した途端、どう接すればいいのか分からなくなってしまった。
副団長として振る舞うことには慣れたはずだった。
感情を表に出さず、必要なことだけを伝える。
余計な言葉を交わさず、目的を果たす。
そうした振る舞いなら、今では意識しなくてもできる。
けれど、レイを前にすると、それだけでは済まなかった。
本当は、もっと話したかった。
もっと近くにいたかった。
それなのに、普段の自分なら決して見せないような戸惑いを覚えてしまう。
(レイ君、変に思ったかな……)
彼の表情を思い出す。
相変わらずの無表情。
短い返事。
こちらの態度を不思議そうに見ていたような気もする。
けれど、彼は何も尋ねなかった。
それが少しだけ、寂しかった。
(……明日も会えるんだから)
アスナは自分に言い聞かせるように呟いた。
明日は攻略の作戦説明がある。
彼は来ると言ってくれた。
だから、また会える。
今度こそ、もう少し自然に話せるだろうか。
以前のように、隣を歩けるだろうか。
「……レイ君」
名前を口にすると、胸の奥が少しだけ温かくなった。
長い間、会えなかった。
それでも、彼への気持ちは消えていなかった。
むしろ、会えなかったからこそ、以前よりもはっきりと分かってしまったのかもしれない。
自分にとって、レイという少年がどれほど特別な存在なのか。
ただ――
その気持ちを、彼に伝える勇気はまだなかった。
そして、もう一つ。
アスナは、自分が変わってしまったことにも気づいていた。
以前なら、目の前の相手の気持ちを考え、できるだけ穏やかに接しようとしていた。
けれど今は、攻略を優先するあまり、相手の感情を切り捨てることにも慣れ始めていた。
NPCに対しても、攻略の妨げになると判断すれば、情を挟まずに対応する。
それが正しいのかどうか、考えないわけではない。
それでも、現実世界へ戻るためには、立ち止まっている余裕などない。
そう自分に言い聞かせてきた。
レイに会えない時間も、その焦りを強めていた。
会いたい人に会えない。
いつまた会えるかも分からない。
この世界から脱出できなければ、いつまでも大切な人に会えないままかもしれない。
そんな思いが、彼女をいっそう攻略へと駆り立てていた。
だからこそ、アスナは冷徹であろうとした。
感情に流されず、最速で攻略を進める。
そのためなら、周囲から冷たいと思われても構わない。
けれど、レイの前では、どうしても心が乱れてしまう。
彼に会いたいという気持ちだけは、どれほど押し殺そうとしても消えてくれなかった。
アスナはもう一度だけ息を吐くと、血盟騎士団の本部へ向かって歩き出した。
明日の攻略に向けて、準備をしなければならない。
そして何より。
明日は、もう少しだけ素直に話せるようになりたい。
そんなことを考えながら、彼女は静かに歩き続けた。
――約一年ぶりに再会した二人。
一方は、彼女の変化を不思議に思い。
もう一方は、会いたかった相手を前にして、素直になれなかった自分を悔やんでいた。
まだ、二人の間には知らないことが多すぎる。
けれど、止まっていた時間は、再び動き始めようとしていた。
レイの見た目はキリト、アスナに関してもキリトポジだけど、キリトはいます