第五十六層
街の中心部から少し離れた場所に建物があった。
今日の作戦会議の待ち合わせの場所で、次の攻略に向けた説明が予定されていた。
レイは指定された時刻に建物を訪れ、扉を開けた。
「……」
室内を見渡す。
長いテーブルと、壁際に並べられた椅子。
そして、その部屋にいたのは一人だけだった。
「レイ君!」
彼の姿を見つけたアスナが、椅子から立ち上がった。
「来てくれたのね」
「ああ。ここで作戦の説明をするんだろ?」
「ええ。血盟騎士団の団員たちには、もう説明を終えているわ。今日はレイ君に、個別に協力をお願いしたくて」
「そうか」
レイは特に気にした様子もなく、空いている椅子に腰を下ろした。
アスナも向かい側に座る。
一年以上の時を経て再会した二人。
まだ二日目だというのに、こうして落ち着いて話をするのは久しぶりだった。
以前なら、二人きりになっても、アスナは自然に話しかけることができた。
短い会話を交わしたり、一緒に街を歩いたり。
そんな何気ない時間が、彼女にとっては楽しかった。
けれど、今は違う。
目の前にいるレイは、以前と変わらないように見える。
それなのに、自分との間には、かつてなかった距離があるように感じられた。
(……ちゃんと話さなきゃ)
アスナは小さく息を吸い、表情を引き締めた。
「それじゃあ、作戦の説明を始めるわね」
「ああ」
◇
アスナはメニュー画面を操作し、作戦に関する資料を表示させた。
今回の目的は、第五十六層の迷宮区へ向かうことだった。
しかし、その道中には大きな問題があった。
迷宮区へ続く道は、両側を絶壁に囲まれた非常に狭い一本道の谷になっている。
そして、その谷を塞ぐように、一体のフィールドボスが陣取っていた。
先へ進むためには、どうしてもそのボスを突破しなければならない。
だが、狭い谷の中では、十分な人数で取り囲むことも、攻撃を避けながら戦うことも難しい。
正面からまともに戦えば、攻略組にも大きな被害が出る可能性があった。
「この先の谷にいるフィールドボスなんだけど、正面から戦うのはかなり厳しいの」
アスナは資料を拡大し、谷の地形を表示させた。
「見てのとおり、両側は絶壁で、道幅も狭いわ。ボスを相手にできる人数が限られるし、後退するにも場所がない。無理に突破しようとすれば、攻略組にも犠牲が出る可能性が高いの」
「……それで?」
「一度、ボスを谷から引っ張り出すのよ」
アスナは地図の別の場所を指し示した。
そこには、谷から少し離れた場所にあるNPCの村が表示されていた。
「谷の近くに、NPCが暮らす村があるの。そこまでボスを誘い込めば、攻略組が谷の中で戦う必要はなくなるわ」
レイは黙って資料を見つめていた。
「……NPCの村まで誘い込むのか?」
「ええ。NPCの衛兵にボスの注意を引きつけてもらうの。その間に、私たちが後方から攻撃する。衛兵が全滅する前に、ボスを倒す作戦よ」
「……NPCを使うのか?」
「そうよ」
アスナは迷いなく頷いた。
「NPCは死亡してもリスポーンするから。プレイヤーと違って、本当の意味で命を失うわけじゃないわ」
その言葉を聞いた瞬間、レイの目がわずかに細くなった。
「……それが、お前の考えか?」
「え?」
「NPCは死んでも戻ってくる。だから囮にしても構わない。お前はそう考えているのか?」
アスナは少しだけ眉を寄せた。
「レイ君、気持ちは分かるけれど、攻略には犠牲を最小限にするための判断も必要なの。攻略組のメンバーが命を落とすくらいなら、NPCに囮になってもらった方が――」
「断る」
短い言葉だった。
アスナは一瞬、何を言われたのか分からないような顔をした。
「……え?」
「その作戦には参加しない」
「ちょっと待って。まだ説明は終わっていないわ」
「聞く必要がない」
レイは資料から視線を外し、アスナを見た。
「NPCが何度でも戻ってくるから、死なせてもいい。お前はそう考えているんだろ?」
「そういう意味じゃないわ!」
アスナの声が強くなった。
「私だって、好きでこんな作戦を考えたわけじゃない! でも、攻略組のメンバーを危険にさらすわけにはいかないでしょう? プレイヤーが死ねば、本当に終わりなのよ!」
「だからNPCを犠牲にするのか?」
「NPCはリスポーンするのよ!」
「それがどうした?」
レイの声は冷たかった。
「お前がNPCをどう考えているかは分かった。だが、俺はそんな作戦に協力するつもりはない」
「どうして? NPCはシステム上の存在なのよ。プレイヤーとは違う。攻略のために利用することが、そんなに間違っているの?」
「……本気で言っているのか?」
レイの問いに、アスナは言葉を詰まらせた。
彼は怒鳴っているわけではなかった。
感情を露わにしているわけでもない。
ただ、アスナの考えを理解できないというように、静かに見つめていた。
その目が、アスナにはひどく冷たく感じられた。
「私たちは、ここから脱出しなければならないの。攻略を進めなければ、いつまで経っても現実には帰れない。だったら、使えるものは使うべきでしょう?」
「使えるもの、か」
レイは小さく繰り返した。
「……お前は、そんなふうに考えるようになったんだな」
「レイ君?」
「NPCにも、そこで暮らしている連中にも、それぞれの生活がある。お前たちがシステムの一部だと決めつけているだけでな」
「でも、彼らはプログラムで――」
「なら、何をしてもいいのか?」
アスナは答えられなかった。
「そいつらが何を感じているか、本当に分かっているのか? ただのプログラムだから苦しんでも構わない。死んでも戻るから、囮にして構わない。そういうことだろ?」
「……っ」
「攻略のためなら、何を犠牲にしてもいい。お前は、そういう考え方をする人間じゃなかったと思っていたがな」
その言葉に、アスナの胸が痛んだ。
レイは、以前の自分を知っている。
だからこそ、今の自分の考え方に失望しているのだろう。
そう感じた。
けれど、アスナにも譲れないものがあった。
「レイ君には分からないのよ!」
気づけば、声が大きくなっていた。
「攻略組がどれだけの責任を背負っているか! 一人の判断が、どれだけ多くの命を左右するか! 私たちは、一刻も早くこの世界から脱出するために戦っているの!」
「……」
「犠牲を出さないために、最善の方法を考えているのよ! そのために必要な判断まで否定されたくないわ!」
アスナは息を整えた。
血盟騎士団の副団長として、彼女には守るべき仲間がいる。
自分の判断一つで、誰かが命を落とすかもしれない。
だからこそ、迷っている時間はなかった。
たとえ冷酷だと思われても、必要な判断を下さなければならない。
それが、今のアスナの考えだった。
しかし――。
レイはしばらく黙っていたあと、ゆっくりと立ち上がった。
「……分かった」
「レイ君、待って。まだ話は――」
「お前の考えはよく分かった」
レイは扉へ向かって歩き始めた。
アスナも慌てて立ち上がる。
「今回の作戦に反対なら、別の方法を考えればいいでしょう? だから、もう少し話を――」
「俺は帰る」
「どうして、そんなに頑ななのよ……!」
思わず口にした言葉に、レイの足が止まった。
彼は振り返らなかった。
ただ、少しだけ顔を横に向けた。
「……変わったな」
「え……?」
「副団長さんは」
その呼び方に、アスナは目を見開いた。
レイはそれ以上何も言わず、扉を開けて部屋を出ていった。
バタン、と扉が閉まる。
残されたアスナは、しばらくその場から動けなかった。
「……レイ君」
いつものように名前を呼ぶ。
けれど、返事はない。
彼はもう、いなかった。
◇
街の外へ向かう道を、レイは一人で歩いていた。
「……」
別に、腹を立てているわけではない。
アスナがどんな人間になろうと、それは彼女自身が決めることだ。
自分が口を出す問題ではない。
ただ、あの作戦に協力するつもりはなかった。
NPCだから犠牲にしても構わない。
リスポーンするから、死んでも問題ない。
そんな考え方を、レイは受け入れられなかった。
そして何より、以前のアスナなら、あんな言葉を口にしなかったのではないか。
そう思ってしまったことが、レイ自身にも意外だった。
「……くだらない」
レイは小さく呟き、頭の中から彼女のことを追い出した。
もう関係のないことだ。
自分は自分のやり方で攻略を進める。
地上も、地下も。
それだけだった。
◇
話し合いのあと、レイはアスナの前から立ち去った。
残されたアスナは、その背中を見つめながら、唇を噛み締める。
「……レイ君」
もう一度、ちゃんと話がしたい。
そう思っても、彼がどこへ帰るのかさえ、今のアスナは知らなかった。
約一年ぶりに再会した彼と話せたのは、偶然出会ったときと、今日の話し合いだけ。
それなのに、レイとの距離は以前よりも遠くなってしまったように感じられた。
それでも、諦めることはできなかった。
アスナは翌日、レイの居場所について情報を集め始めた。
彼は以前からソロプレイヤーとして行動していた。攻略組の仲間たちと行動を共にすることも少なく、普段どこで生活しているのか、知る者は限られている。
それでも、わずかな情報を頼りに調べていくうちに、彼が第二十二層にいるらしいということが分かった。
アスナはすぐに第二十二層へ向かった。
転移門から離れ、森の中を進んでいく。
やがて、その先に一軒のログハウスが見えてきた。
周囲にはほかの建物もなく、静かな森の中にぽつんと建っている。
アスナは足を止めた。
ここに、レイ君がいる。
そう思うと、胸が少しだけ高鳴った。
けれど、同時に不安も込み上げてくる。
また、冷たい言葉を向けられるかもしれない。
それでも、もう一度話がしたかった。
アスナは小さく息を吸い、ログハウスの扉の前まで歩み寄る。
そして、意を決して扉を叩いた。
コン、コン。
「……レイ君? 私よ、アスナ」
「……誰だ?」
返事をしながら扉を開ける。
そこに立っていたのは、白い制服を着たアスナだった。
「レイ君。少し話をさせてほしいの」
「……何の用だ?」
「昨日の作戦についてよ。もう一度、話し合いたいの」
「断る」
レイは即答した。
「待って。昨日は少し感情的になってしまったと思うの。だから、もう一度ちゃんと話を――」
「俺の答えは変わらない」
「でも、別の方法がないか一緒に考えることくらいはできるでしょう?」
「お前たちで考えろ」
レイは扉の取っ手に手をかけた。
「じゃあな、副団長さん」
「……っ」
扉が閉じられた。
アスナは、その場に立ち尽くした。
副団長さん。
昨日から、レイは自分をそう呼ぶようになった。
以前は、ただ名前で呼んでくれた。
「アスナ」と。
その短い呼び方が、彼女は好きだった。
レイが自分の名前を口にするたび、胸の奥が少しだけ温かくなった。
それなのに、今は違う。
まるで自分が、彼にとってただの血盟騎士団の副団長になってしまったかのようだった。
「……」
アスナは唇を結び、俯いた。
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
けれど、その気持ちを声に出すことはなかった。
◇
翌々日。
アスナは再びログハウスを訪れた。
「レイ君、お願い。もう一度だけ話を聞いてほしいの」
「断る」
「昨日、団員たちとも話し合ったの。NPCを囮にする以外の方法も検討しているわ」
レイは一瞬だけ、彼女を見た。
「なら、それでいいだろ」
「だから、レイ君にも協力してほしいのよ。あなたの実力なら、今回の攻略でも大きな力になるはずだから」
「他を当たれ」
「……どうして?」
アスナの声が、わずかに震えた。
「どうして、そこまで私を拒絶するの?」
レイは黙っていた。
アスナは続けた。
「昨日のことなら謝るわ。私の言い方が悪かったのなら、それも謝る。でも、だからって、話すことまで拒まなくてもいいでしょう?」
「……」
「私たち、以前は普通に話していたじゃない」
その言葉に、レイは彼女を見つめた。
確かに、以前はそうだった。
街で偶然会えば、短い会話を交わした。
一緒に歩くこともあった。
ただ、それだけの関係だった。
けれど、アスナにとっては違ったのだろう。
「……今は違う」
レイは静かに言った。
「え……?」
「お前は血盟騎士団の副団長だ。俺はソロプレイヤー。それだけだろ」
「そんな……」
アスナは何か言おうとした。
けれど、言葉が出てこなかった。
自分は、彼にとってその程度の存在だったのだろうか。
この一年間、何度も会いたいと思っていた。
会えたら、以前のように話したいと思っていた。
けれど、再会してからの自分は、ずっと彼に距離を置かれている。
それは、自分が変わってしまったからなのだろうか。
それとも、彼にとって自分は、もともとその程度の存在だったのだろうか。
「……分かったわ」
アスナは、なんとか笑顔を作った。
「また、来るから」
「来なくていい」
「……それでも、来るわ」
彼女は小さく頭を下げた。
「じゃあね、レイ君」
レイは答えなかった。
アスナが背を向けて歩き出したところで、彼が口を開いた。
「じゃあな、副団長さん」
アスナの足が止まる。
胸の奥が、また痛んだ。
けれど、振り返らなかった。
「……さようなら」
それだけ言い残し、彼女は歩き続けた。
◇
それからも、アスナは毎日のようにレイのもとを訪れた。
作戦の進捗を伝えるため。
新しい攻略案について相談するため。
あるいは、単に話をするため。
理由はいくつもあった。
けれど、レイの答えはいつも同じだった。
「断る」
「俺は参加しない」
「他を当たれ」
そして、別れ際には決まってこう言う。
「じゃあな、副団長さん」
何度も。
何度も。
アスナはその言葉を聞くたび、胸が痛んだ。
名前で呼んでほしい。
以前のように、ただアスナと呼んでほしい。
そう言いたかった。
けれど、口に出せなかった。
自分が何を望んでいるのか、彼に知られるのが怖かった。
彼が自分をどう思っているのか、知るのが怖かった。
だから、今日も彼女は何も言わずに帰っていく。
◇
その夜。
血盟騎士団の本部にある自室で、アスナは一人、窓の外を眺めていた。
今日もレイに会いに行った。
そして、今日も断られた。
「……レイ君」
小さく名前を呼ぶ。
彼の声が思い浮かぶ。
無愛想で、短くて、ぶっきらぼうな声。
けれど、以前はその声で自分の名前を呼んでくれた。
それが、今はない。
「……私、どうしたらいいんだろう」
答えてくれる人はいない。
副団長としてなら、判断できることはたくさんある。
攻略の作戦を立てることも、団員たちを指揮することもできる。
けれど、レイとのことだけは、どうすればいいのか分からなかった。
彼に協力してほしい。
そう思っているのは本当だ。
けれど、それだけではない。
また話したい。
一緒に歩きたい。
以前のように、彼の隣にいたい。
そんな気持ちが、心の奥にある。
けれど、今の自分には、それを伝える勇気がなかった。
アスナは胸元に手を当てた。
「……もう一度だけ」
明日も、彼のもとへ行こう。
今度こそ、ちゃんと話そう。
そう決めたはずなのに、心のどこかでは分かっていた。
レイが自分を「副団長さん」と呼ぶたび、二人の距離は遠くなっていく。
それでも、アスナは彼のもとへ通うことをやめられなかった。
――彼のことを、諦められなかったから
ゲームなら余裕で犠牲にするけど、それがフルダイブだと抵抗あるな