デスゲームが始まってから、一年と四ヶ月。
地上では第五十六層の攻略が進められていた。
攻略組のプレイヤーたちは、一日でも早くこの世界から脱出するため、日々危険な戦いに身を投じている。
そんな中、第五十六層の攻略に向けた作戦会議が開かれていた。
会議の中心に立つのは、血盟騎士団の副団長、アスナ。
白を基調とした装備に身を包んだ彼女は、集まった攻略組のプレイヤーたちを見渡していた。
「今回の攻略では、NPCを囮に使う方法は採用しません」
アスナの言葉に、会議室がざわめいた。
「……囮を使わない? それじゃあ、攻略に時間がかかるんじゃないか?」
一人のプレイヤーが疑問を口にする。
「確かに、これまでの作戦より時間がかかる可能性はあります。でも、NPCを犠牲にしなくても攻略できる方法はあるはずです」
アスナは落ち着いた声で答えた。
「危険な場所を事前に調査して、モンスターの配置や行動パターンを把握する。索敵を担当する人員も増やして、状況に応じて部隊を分けます。時間がかかるからといって、誰かを犠牲にする必要はありません」
言葉を続けながら、アスナは資料に視線を落とした。
以前の自分なら、効率を優先していただろう。
攻略に必要な犠牲なら仕方がない。
そう考え、迷わず決断していたかもしれない。
けれど、今は違う。
あの母娘の姿が、脳裏に浮かぶ。
自分たちと同じように、この世界で暮らしているNPCたち。
彼らにも日常があり、守りたいものがある。
たとえゲームのシステムによって存在しているとしても、目の前で助けを求める人を、最初から犠牲にしていいはずがなかった。
そして、そのことを自分に気づかせてくれた少年がいる。
「……時間がかかるのは構わないわ」
アスナは顔を上げた。
「少しでも危険を減らして、全員が無事に帰還できる作戦にしたいの。私は、そのために副団長を務めているんだから」
会議室に静寂が訪れる。
やがて、別のプレイヤーが口を開いた。
「……分かった。そこまで考えているなら、その方針で進めよう」
「俺も異論はない」
一人、また一人と賛同する声が上がっていく。
最後には、集まったプレイヤーたちの大半がアスナの提案に同意した。
「ありがとう。それじゃあ、具体的な役割分担を決めましょう」
アスナは資料を手に取り、会議を進めていった。
◇
攻略は、決して楽なものではなかった。
慎重に進める分、普段よりも時間がかかる。
予想外の場所からモンスターが現れ、部隊の進行が止まることもあった。
それでも、事前の調査と連携によって、大きな混乱を招くことなく対処していく。
そして、長い戦いの末。
攻略組は無事に目的を達成した。
負傷者は出たものの、誰一人として命を落とすことなく、全員が帰還することができたのだ。
「……よかった」
街に戻ったアスナは、安堵の息を吐いた。
仲間たちの無事を確認し、ようやく肩の力が抜ける。
今回の作戦は、決して完璧なものではなかった。
改善すべき点もある。
けれど、誰かを犠牲にすることなく攻略を終えられた。
それだけで、今は十分だった。
ふと、アスナの脳裏に黒髪の少年が浮かぶ。
「……レイ君」
思わず、小さく呟いていた。
もし、彼が今回の攻略を見ていたら、何と言うだろう。
いつものように、興味がなさそうな顔で「……そうか」と返すのだろうか。
それとも、ほんの少しくらいは認めてくれるだろうか。
そんなことを考え、アスナは小さく首を振った。
違う。
彼に認めてもらうために、今回の作戦を考えたわけではない。
自分が間違っていたと気づいたから、考えを改めたのだ。
レイに言われたから仕方なく変えたのではない。
自分自身が納得できるやり方を選びたかった。
それでも。
「……少しくらい、褒めてくれてもいいのに」
誰にも聞こえない声で呟き、アスナは苦笑した。
彼がこの場にいないことを、少しだけ残念に思ってしまったのだった。
◇
第三十五層の街を、アスナは一人で歩いていた。
白い装備に身を包み、栗色の髪を揺らしながら、人通りの多い通りを進んでいく。
表向きの目的は、攻略に必要な道具の確認と買い出し。
けれど、本当の目的は別にあった。
「……いないわね」
アスナは周囲を見渡した。
探しているのは、黒い装備に身を包んだ少年。
黒髪に、落ち着いた赤い瞳。
いつも一人で行動している、あのソロプレイヤーだ。
もちろん、彼がこの街にいるという確かな情報があるわけではない。
ただ、もしかしたら会えるかもしれない。
そんな期待を抱いて、足を運んでしまったのだ。
「……別に、会いに来たわけじゃないんだから」
誰に言い訳するでもなく、アスナは小さく呟いた。
自分でも、少し苦しい言い訳だと思う。
けれど、そうでもしなければ落ち着かなかった。
彼のことを考える時間が、以前よりも増えている。
何をしているのだろう。
どこを攻略しているのだろう。
元気にしているのだろうか。
考え始めると、次々に疑問が浮かんでくる。
それなのに、いざ会えたとしても、何を話せばいいのか分からない。
以前のように自然に話したい。
ただ、それだけなのに。
「……あ」
不意に、視界の端に黒い人影が映った。
アスナは足を止めた。
少し先にある道具屋の前。
黒い装備に身を包んだ少年が、店先に並ぶ商品を眺めている。
見間違えるはずがなかった。
「……レイ君」
気づけば、声をかけていた。
少年は手を止め、ゆっくりと振り返る。
赤い瞳が、アスナを捉えた。
「……アスナか」
名前を呼ばれた。
それだけで、胸の奥がほんの少し温かくなる。
けれど、次の瞬間。
「……何か用か、副団長さん」
その呼び方に、アスナの胸が小さく痛んだ。
「ううん。たまたま見かけたから、声をかけただけよ」
できるだけ自然に答える。
嘘ではない。
見かけたから声をかけた。
ただし、彼を探していたことは口にしなかった。
「……そうか」
レイはそれ以上、何も尋ねなかった。
会話が途切れる。
以前なら、もう少し気軽に話せていた気がする。
少なくとも、こんなふうに言葉を探して立ち尽くすことはなかった。
アスナは、何とか話題を見つけようと口を開いた。
「そういえば、先日の第五十六層の攻略は無事に終わったの」
「……そうか」
「え?」
「……攻略が終わったんだろう」
「あ、うん。そうなの。今回は、NPCを犠牲にすることなく攻略できたわ」
本当は、もっと詳しく話したかった。
どんな作戦を立てたのか。
途中でどんな問題が起きたのか。
それでも、どうにか全員が無事に帰ってこられたこと。
話したいことはたくさんあった。
けれど、レイの表情は変わらない。
「……そうか」
返ってきたのは、やはり短い言葉だった。
「……それだけ?」
思わず、そんな言葉が口から出かける。
けれど、アスナは寸前で飲み込んだ。
彼に何を期待しているのだろう。
自分は、彼から褒められたくて話しかけたのだろうか。
違う。
ただ、話がしたかった。
それだけなのに。
「……うん。そうなの」
アスナは小さく頷いた。
レイは彼女を一度見てから、店先の商品へと視線を戻す。
会話を続けるつもりはないらしい。
けれど、露骨に追い払われているわけでもなかった。
彼は立ち去れとは言わない。
アスナが話しかければ、短くても返事をしてくれる。
そのことが嬉しいと思ってしまう自分がいた。
「……じゃあ、私はそろそろ行くわね」
これ以上、ここにいても困らせるだけだろう。
そう考えて、アスナは一歩下がった。
「……ああ」
レイは短く答えた。
アスナは背を向け、歩き出そうとする。
そのときだった。
「……じゃあな、副団長さん」
足が止まりそうになった。
けれど、アスナは振り返らなかった。
「……ええ。またね、レイ君」
声が震えないように気をつけながら、そう返す。
そして、今度こそ歩き出した。
数歩進んだところで、アスナはそっと胸元に手を当てた。
痛い。
ほんの少しのことなのに、どうしてこんなに胸が痛むのだろう。
彼は、以前と同じように自分を副団長さんと呼んだだけだ。
何もおかしなことはない。
そう呼ばれても仕方がない理由が、自分にはある。
それでも。
「……レイ君」
アスナは小さく呟いた。
もう一度、名前を呼んでほしかった。
副団長ではなく、一人の女の子として。
以前のように、何でもない話をして、少しだけ笑い合いたかった。
そんな願いが、自分の中にあることに気づいてしまった。
◇
それからも、アスナは何度かレイを見かけた。
第二十二層から離れた街。
攻略組がよく利用する商店街。
あるいは、フィールドへと続く転移門の近く。
どれも、偶然と言えば偶然だった。
けれど、アスナ自身は分かっていた。
自分が、彼の姿を探していることを。
黒い装備を見かけるたびに、つい目で追ってしまう。
人混みの中に黒髪が見えれば、もしかしたらと思ってしまう。
そして、本当にレイを見つけると、胸が弾んだ。
「……レイ君!」
声をかければ、彼は足を止めて振り返る。
「……アスナか」
その声を聞くだけで、嬉しくなる。
「こんなところで会うなんて、奇遇ね」
何度も使った言葉だった。
そのたびに、アスナは心の中で苦笑する。
本当は、会いたくて探していたくせに。
それでも、素直にそう言う勇気はなかった。
レイとの会話は、いつも短かった。
アスナが何か話せば、レイは必要なことだけを返す。
彼から積極的に話題を振ってくることは、ほとんどない。
それでも、彼は足を止めてくれた。
忙しそうにしていても、露骨に無視することはなかった。
アスナにとっては、それだけでも十分に嬉しかった。
けれど、別れ際になると、決まって同じ言葉が返ってくる。
「……じゃあな、副団長さん」
そのたびに、胸がちくりと痛んだ。
最初は、仕方がないと思っていた。
自分が彼を傷つけたのだから。
簡単に元どおりになれるはずがない。
以前のように名前で呼んでほしいなどと、わがままを言える立場ではなかった。
それでも、何度も聞かされるうちに、少しずつ寂しさが募っていった。
どうすれば、また以前のように話せるのだろう。
どうすれば、彼との距離を縮められるのだろう。
考えても、答えは出なかった。
ただ、今の自分にできることを続けるしかない。
もう一度、彼に信頼してもらえるように。
口先だけではなく、行動で示していくしかないのだ。
だから、アスナは無理に距離を縮めようとはしなかった。
会えたときには、少しだけ話す。
彼が答えてくれたら、それを嬉しいと思う。
そして、別れたあとは、次に会える日を楽しみにする。
そんな日々を繰り返していた。
◇
その日の夜
自室に戻ったアスナは、装備を外してベッドの端に腰を下ろしていた。
窓の外には、穏やかな夜の街並みが広がっている。
本来なら、明日の攻略に備えて休むべき時間だった。
けれど、アスナの頭の中は、別のことでいっぱいだった。
今日も、レイに会えた。
ほんの少し話しただけ。
特別なことなど、何もなかった。
それなのに、思い出すと自然に頬が緩んでしまう。
「……私、何をやっているんだろう」
アスナは両手で頬を押さえた。
誰かに見られているわけでもないのに、妙に恥ずかしかった。
レイに会いたい。
話がしたい。
できることなら、もう少し長く一緒にいたい。
そんな気持ちが、いつの間にか自分の中で大きくなっていた。
最初は、彼に認めてもらいたかっただけなのかもしれない。
自分が間違っていたことを認めて、変わろうとしている。
その姿を見てもらいたかった。
けれど、それだけなら、会えたときに少し話せれば十分なはずだった。
どうして、別れたあとまで彼のことを考えてしまうのだろう。
どうして、彼の短い返事だけで嬉しくなったり、寂しくなったりするのだろう。
「……まさか」
ふと、ある考えが頭をよぎった。
アスナは目を見開いた。
そんなはずはない。
そう思おうとした。
けれど、胸の奥から湧き上がる気持ちは、否定しようとするほど鮮明になっていく。
会いたい。
声が聞きたい。
自分のことを、もっと知ってほしい。
そして、彼のことを、もっと知りたい。
ソロプレイヤーとしての強さだけではない。
普段、どんなことを考えているのか。
何を好み、何を嫌うのか。
一人でいるとき、どんな表情をしているのか。
自分の知らないレイの姿を、もっと見てみたい。
そう思っている。
「……ああ、そっか」
アスナはゆっくりと顔を伏せた。
胸が、どきどきしていた。
頬が熱い。
けれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
むしろ、自分の気持ちに気づいたことで、今まで感じていたものの正体が分かった気がした。
彼に会えると嬉しい。
彼と話せると幸せだ。
彼に名前を呼んでもらえないと、寂しい。
そして、別れたあとも、また会いたいと思ってしまう。
それは、ただの友人に向ける気持ちとは違う。
「……私、レイ君が好きなんだ」
口にした途端、心臓が大きく跳ねた。
自分で言った言葉なのに、信じられないほど恥ずかしい。
けれど、もう誤魔化すことはできなかった。
アスナは、レイに恋をしている。
うすうす気づいていた自分の気持ちを、アスナはようやくはっきりと自覚したのだった。
「……どうしよう」
小さく呟き、枕を抱きしめる。
好きだと気づいたからといって、何かが変わるわけではない。
レイとの距離は、まだ遠いままだ。
彼は今も、自分を「副団長さん」と呼んでいる。
その呼び方に込められた距離を、すぐに埋めることはできないだろう。
それでも。
「……いつか、また普通に話せるようになりたいな」
今度は、ただ以前の関係に戻りたいだけではなかった。
レイの隣で、自然に笑えるようになりたい。
彼が自分の名前を呼んでくれたら、きっと今よりも嬉しい。
そんな未来を想像すると、胸が温かくなった。
アスナは顔を上げ、窓の外を見つめた。
明日も、彼に会えるだろうか。
もし会えたら、今度はもう少しだけ、自分から話しかけてみよう。
焦る必要はない。
少しずつでいい。
今の自分にできることを、一つずつ積み重ねていこう。
「……おやすみ、レイ君」
誰もいない部屋で、アスナはそっと呟いた。
その頬には、自然と笑みが浮かんでいた。
フィールドボスを倒しからの階層攻略