地上とは異なる景色が広がるフィールドを、一人の少年が歩いていた。
黒いロングコートの裾が、風に揺れる。
腰には、黒い刀身に銀色の紋様が刻まれた片手剣――黒暁剣リュクシオン。
その持ち主であるレイは、周囲を見渡しながら歩いていた。
「……やっぱり、違うな」
視線の先には、巨大な岩山がそびえ立っている。
地上の第五十六層にも似た地形は存在する。しかし、地下のフィールドには、地上では見られない植物や鉱石があり、出現するモンスターの種類も異なっていた。
それだけではない。
モンスターの行動パターンも、明らかに違っている。
地上のモンスターは、ある程度の距離まで近づけば敵対行動を取るものが多い。
一方、地下のモンスターには、複数で連携して獲物を追い込むものや、周囲の地形を利用して奇襲を仕掛けるものがいる。
中には、プレイヤーの行動を観察しているかのような動きをする個体まで存在した。
もちろん、すべてのモンスターがそうではない。
だが、地下では一体の敵を倒すだけでも、周囲の状況を把握しておく必要がある。
レイは、これまで地上と地下の両方で攻略とレベリングを繰り返してきた。
時折、地上に戻って同じような条件でモンスターと戦い、経験値の獲得量や攻撃の威力、行動パターンなどを比較する。
そうして得られた情報を整理すると、結論は一つだった。
「……地下の方が難易度は高い」
単純にモンスターの攻撃力が高いだけではない。
地形、索敵範囲、敵の連携、状態異常の種類。
それらを総合的に考えれば、地下の攻略は地上よりも難しい。
もっとも、レイにとっては、それほど大きな問題ではなかった。
どれほど強いモンスターが現れようと、彼の実力を脅かす存在にはならない。
しかし、ほかのプレイヤーならどうだろうか。
地上の攻略でさえ、常に死の危険が付きまとっている。
もし地下の存在が知られ、攻略組が大勢で押し寄せたとしても、地上と同じ感覚で進めば犠牲が出る可能性は高い。
「……知らせる理由もないか」
レイはそう呟き、歩き出した。
今のところ、地下の存在を知っているのは自分だけだ。
わざわざ秘密を明かす必要はない。
地上の攻略を進めながら、地下も進める。
それだけで十分だった。
◇
地上、第五十六層。
レイは地下での調査を終えた後、地上へ戻っていた。
今日は地上のフィールドを調べるついでに、レベリングをするつもりだった。
その作業も、すでに終わっている。
最後のモンスターがポリゴン片となって消えるのを確認すると、レイは剣を鞘に収めた。
「……こんなものか」
周囲を見回す。
危険なモンスターの反応はない。
レイはそのまま街へ向かうことにした。
特に急ぐ用事はない。
装備の耐久値も問題なく、回復アイテムも十分に残っている。
あとは、街で必要な消耗品を補充するくらいだ。
そんなことを考えながら歩いていたときだった。
「――レイ君?」
聞き覚えのある声がした。
レイは足を止め、声のした方へ視線を向ける。
そこに立っていたのは、白を基調とした装備を身につけた少女だった。
長い栗色の髪。
腰に佩いた細剣。
そして、周囲のプレイヤーたちから向けられる、尊敬と畏怖の入り混じった視線。
血盟騎士団の副団長、アスナ。
「……副団長さんか」
レイが答えると、アスナは少しだけ表情を明るくした。
「こんにちは。こんなところで会うなんて、奇遇ね」
「ああ」
「今日は攻略?」
「いや。少し調査をしていただけだ。レベリングも終わった」
「そうなんだ。お疲れさま」
「別に」
いつもと変わらない短いやり取り。
それでも、アスナは嬉しかった。
こうしてレイと会話をすることが、いつの間にか日常の一部になっていた。
もちろん、アスナがレイを探してしまうのは、単なる偶然ではなかった。
時間ができると、つい彼の姿を探してしまう。
そして、見つけると何でもない顔をして声をかける。
今日もそうだった。
街に向かう途中、見覚えのある黒い装備が視界に入った。
それだけで、胸が弾んだ。
話しかけてもいいだろうか。
迷惑ではないだろうか。
そんなことを一瞬だけ考えたものの、気づけば声をかけていた。
レイは立ち止まり、返事をしてくれた。
それが嬉しかった。
「そういえば、最近はどう? 攻略の方は」
「順調だ」
「第五十六層まで来たものね。ここから先も、気を抜けないけれど」
「ああ」
「……レイ君も、無理はしないでね」
何気なく口にした言葉だった。
しかし、言ってからアスナは少しだけ不安になった。
彼はソロプレイヤーだ。
誰にも頼らず、一人で攻略を続けている。
以前からそうだったし、今も変わっていない。
それでも、心配だった。
レイがどれほど強くても、この世界では何が起きるか分からない。
一瞬の判断ミスが、死につながることだってある。
「……分かってる」
レイは短く答えた。
「うん」
アスナは微笑んだ。
その後も、二人はしばらく話を続けた。
最近の攻略の様子。
街で見かけた新しい店。
装備の調整について。
内容は、どれも特別なものではない。
以前のように、二人で街を歩いていた頃なら、何度も交わしていたような会話だった。
けれど、今のアスナにとっては、それだけで十分だった。
レイと話せる。
彼の声を聞ける。
同じ時間を過ごせる。
その事実が、何よりも嬉しかった。
以前のように、自然に話せるようになりたい。
いつか、また名前で呼んでほしい。
そんな願いを抱きながら、アスナは彼との会話を楽しんでいた。
しかし――。
「……副団長さん?」
不意に、レイが声をかけた。
「えっ?」
「どうした?」
「ど、どうしたって?」
「……さっきから、様子がおかしい」
アスナは息を呑んだ。
「そ、そう?」
「ああ」
レイの赤い瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。
「何かあったのか?」
その問いかけは、いつもと変わらない落ち着いた声だった。
けれど、アスナには、それがひどく優しく聞こえた。
何かあったのか。
心配してくれているのだろうか。
それとも、単純に様子がおかしいから尋ねただけなのだろうか。
分からない。
分からないけれど。
胸の奥に押し込めていた感情が、急に大きくなった。
レイに会いたい。
話をしたい。
もっと一緒にいたい。
名前で呼んでほしい。
以前のように、隣を歩きたい。
そして――。
自分がどれほど彼を好きなのか、知ってほしい。
「……副団長さん?」
もう一度、名前ではない呼び方が耳に届いた。
その瞬間、アスナの胸が締めつけられた。
本当は、こんなところで伝えるつもりではなかった。
もう少し自然に話せるようになってから。
以前のように、気兼ねなく笑い合えるようになってから。
そう考えていた。
けれど、目の前にいるレイは、今も自分を気遣ってくれている。
その声を聞いているうちに、ずっと抑えていた想いが溢れそうになった。
もう、抑えられなかった。
「……好き」
「……何?」
「私……レイ君が好き」
言葉にした瞬間、周囲の音が遠のいた気がした。
アスナ自身が、一番驚いていた。
何を言っているのだろう。
どうして、こんなところで。
もっと落ち着いてから伝えるつもりだったのに。
なのに、気づけば口にしていた。
「……っ」
顔が熱い。
心臓が痛いくらいに速く鼓動している。
逃げ出したい。
今すぐ、何も言わなかったことにしたい。
けれど、一度口にしてしまった言葉は、もう取り消せなかった。
アスナは唇を噛み、うつむきかけた顔を、なんとか上げた。
「……ごめんなさい。突然、こんなこと言って」
声が震えていた。
「でも……ずっと、言いたかったの」
レイは黙っていた。
その沈黙が、アスナには怖かった。
おそらく、断られる。
そう思った。
NPCを犠牲にする作戦を立てた自分に、レイは失望した。
あのときの彼の言葉は、今も胸に残っている。
『変わっちまったな、副団長さん』
あれ以来、レイは自分を名前で呼ばなくなった。
以前のような関係に戻れていないことは、アスナ自身が一番よく分かっていた。
謝ったからといって、それですべてが元に戻るわけではない。
彼が以前のように自分を見てくれるとは限らない。
それなのに、好きだなんて。
勝手すぎる。
分かっていた。
分かっていたのに、言わずにはいられなかった。
「……レイ君が、私をどう思っているのかは分からない」
アスナは、必死に言葉を続けた。
「もしかしたら、迷惑かもしれない。私のことなんて、もう……」
そこまで言いかけて、言葉が止まった。
嫌われている。
そう決めつけるのも怖かった。
本当は、そうであってほしくなかったから。
「……ただ、知ってほしかったの」
最後に、アスナは小さくそう告げた。
レイは、しばらく彼女を見つめていた。
そして、心の中で静かに息を吐いた。
(……そうか)
驚きはあった。
まさか、今この場で告白されるとは思っていなかった。
だが、それ以上に。
嬉しかった。
自分と同じ気持ちだったのか、と。
レイは、アスナに惹かれていた。
初めて出会ったときから、少しずつ。
彼女の真面目なところも、強がるところも、不器用なところも。
時折見せる笑顔も。
一緒に過ごす時間を、悪くないと思っていた。
一年間、会わなかった時間にも、彼女のことを思い出すことはあった。
そして、再会した後。
彼女がNPCを犠牲にする作戦を口にしたとき、レイは失望した。
自分が知っていたアスナとは違う。
そう思った。
あのとき、彼女に向けていた信頼が揺らいだのは事実だった。
以前のように接することも、すぐにはできなくなった。
だから、距離を置いた。
名前で呼ぶのをやめた。
だが、それは彼女への想いが消えたからではない。
好きだったからこそ、失望も大きかった。
簡単に割り切ることができず、どう接すればいいのか分からなくなったのだ。
それでも、アスナへの気持ちがなくなったわけではなかった。
彼女と会えば、目で追ってしまう。
声をかけられれば、足を止めてしまう。
何気ない会話を交わす時間を、心地よいと感じてしまう。
そんな自分がいることを、レイ自身も分かっていた。
そして、今。
目の前の少女が、自分を好きだと言った。
その事実は、レイの心を確かに揺らしていた。
嬉しくないはずがない。
本当なら、自分も同じ気持ちだと伝えたかった。
彼女の想いを受け入れたい。
以前のように一緒に過ごしたい。
そう思う自分がいる。
だが――。
レイは、ゆっくりと視線を落とした。
この世界は、デスゲームだ。
第五十六層まで攻略が進んだ今も、脱出の見通しは立っていない。
地上の攻略ですら、常に死と隣り合わせだ。
そして、誰にも知られていない地下の攻略は、さらに危険が多い。
地上と地下。
その両方を攻略しなければならない可能性がある以上、レイはこれからも一人で進み続けるつもりだった。
地下の存在を明かす気もない。
誰かを巻き込むつもりもない。
自分のやるべきことを、最後まで一人でやり遂げる。
それが、これまでのレイの考えだった。
そもそも、レイは自分の死を恐れていなかった。
この世界で命を落とす可能性があることは、最初から理解していた。
けれど、それを理由に立ち止まるつもりはなかった。
死ぬときは死ぬ。
ただ、それだけのことだった。
少なくとも、以前はそう考えていた。
――アスナに出会うまでは。
彼女に惹かれ、気づけば目で追うようになった。
一緒に過ごす時間を、心地よいと感じるようになった。
そして、会えなくなった時間にも、彼女のことを思い出すようになった。
いつの間にか、また会いたいと思っていた。
これからも、彼女と話をしたいと思っていた。
そんな自分に気づいたとき、レイの中で何かが変わり始めていた。
もし、自分が死んだら。
もう、アスナには会えない。
声を聞くことも、顔を見ることも、何気ない会話を交わすこともできなくなる。
そう考えると、以前のように簡単に割り切ることができなかった。
それだけではない。
自分が死んだら、アスナはどう思うだろう。
彼女は、きっと悲しむ。
こんな自分のために、心を痛めるのだろう。
そう考えるだけで、胸の奥が重くなった。
自分が死ぬことよりも、自分がいなくなったことで彼女が悲しむことの方が、今は怖かった。
いつから、こんなふうに考えるようになったのだろう。
以前の自分なら、考えもしなかったことだ。
自分の命に、それほどの価値があるとは思っていなかった。
けれど、アスナに出会い、彼女を好きになったことで、死ぬことの意味が変わってしまった。
生きていたい。
彼女に会いたい。
彼女を悲しませたくない。
そんな気持ちが、自分の中に生まれていた。
だからこそ、怖かった。
もし、今ここで彼女の想いを受け入れたら。
以前のように一緒に過ごすようになったら。
自分は、彼女を今まで以上に大切に思うだろう。
危険な場所に行けば心配するだろうし、彼女が傷つけば、助けたいと思うだろう。
そして、自分が死ねば、彼女を悲しませる。
彼女を失うことも、自分が彼女を残していなくなることも、今のレイには以前よりずっと恐ろしいことだった。
だからこそ、これ以上、彼女への想いを深めることが怖かった。
好きだからこそ、受け入れられない。
そんな矛盾した気持ちを抱えながら、レイは目の前のアスナを見つめていた。
本当は、彼女の想いに応えたい。
けれど、今の自分には、それができなかった。
恋人になれば、彼女を今まで以上に大切に思うだろう。
失いたくないという気持ちも、きっと強くなる。
そして、自分が死ぬことへの恐怖も、今より大きくなるはずだった。
それでも、地下の攻略をやめるつもりはない。
誰かに秘密を打ち明け、共に進むつもりもなかった。
自分で決めたことを、最後までやり遂げる。
その覚悟は変わらない。
だが、アスナを好きなまま、彼女を受け入れてしまえば。
いつか自分が死んだとき、彼女にどれほどの悲しみを残すのか。
そのことを考えると、どうしても踏み出せなかった。
彼女を大切にしたい。
それなのに、彼女の想いを受け入れることができない。
矛盾していることは分かっていた。
それでも、今のレイには、これ以上の答えを出せなかった。
しばらくして、レイは口を開いた。
「……すまない」
その言葉を聞いた瞬間、アスナの表情がわずかに固まった。
レイは、続けた。
「今は、誰かと付き合うつもりはない」
淡々とした声だった。
けれど、突き放すような冷たさはなかった。
「……この世界じゃ、いつ死ぬか分からない」
アスナは、黙って聞いていた。
「地上の攻略だって危険だ。俺は、これからも自分のやるべきことを続ける」
その言葉の意味を、アスナは理解しようとした。
レイは、自分の生き方を変えるつもりがないのだ。
誰かと付き合うことで、その人を危険にさらしたくない。
あるいは、自分がいなくなった後に、その人を悲しませたくない。
彼の言葉には、そんな考えが含まれているように感じられた。
けれど、レイの本当の気持ちまでは分からなかった。
彼が自分をどう思っているのか。
少しでも、同じ気持ちを抱いてくれているのか。
聞きたいことはあった。
それでも、アスナは尋ねなかった。
「……だから、悪い」
レイは、もう一度謝った。
アスナは、すぐには返事ができなかった。
胸が痛い。
分かっていたはずだった。
断られるかもしれない。
そう思っていた。
それでも、実際に言葉を聞くと、想像していた以上に苦しかった。
それでも。
彼を困らせたくはなかった。
自分の気持ちを押しつけたくもなかった。
だから、アスナは顔を上げた。
「……ううん。いいの」
無理に笑おうとした。
「私、気持ちを知ってほしかっただけだから」
声が少し震えた。
それでも、笑顔を作った。
「突然、こんなこと言ってごめんね」
レイは何も答えなかった。
彼女の表情が、いつもと違うことには気づいていた。
無理をしている。
そう分かっていた。
けれど、今の自分に何を言えばいいのか、分からなかった。
本当は、謝る必要などないと言いたかった。
彼女の気持ちを迷惑だと思ったことなど、一度もない。
むしろ、嬉しかった。
自分も同じ気持ちなのだと、伝えてしまいたかった。
それでも、口にすることはできなかった。
今の自分がそんなことを言えば、彼女に余計な期待を抱かせてしまう。
中途半端な言葉で、彼女を縛りたくはなかった。
「……じゃあ、私、帰るね」
アスナは一歩下がった。
これ以上、ここにいたら。
きっと、泣いてしまう。
彼の前では、泣きたくなかった。
「……ああ」
レイは短く答えた。
アスナは背を向けた。
そして、歩き出す直前。
背中に、いつもの声が届いた。
「……気をつけて帰れ、副団長さん」
その言葉に、胸がまた痛んだ。
けれど、アスナは振り返らなかった。
「……うん。ありがとう、レイ君」
それだけ答えて、歩き出した。
一歩。
また一歩。
彼の姿が見えなくなるまで、決して振り返らなかった。
◇
街の喧騒が、少しずつ遠ざかっていく。
アスナは、人通りの少ない道を歩いていた。
さっきまで、あんなに嬉しかった。
レイと話せて。
自分の気持ちを伝えられて。
もしかしたら、ほんの少しだけでも、彼との距離が縮まるかもしれないと思っていた。
けれど、現実は違った。
「……っ」
視界が滲んだ。
慌てて目元を押さえる。
泣かない。
そう決めていた。
レイの前では、泣きたくなかった。
これ以上、彼を困らせたくなかったから。
それなのに。
「……うぅ……」
声が漏れた。
涙が、頬を伝って落ちていく。
アスナは足を止め、壁際に身を寄せた。
誰にも見られたくなかった。
攻略組の中心人物。
血盟騎士団の副団長。
《閃光》と呼ばれる少女。
そんな肩書きは、今の彼女には何の意味もなかった。
ただ、好きな人に告白して、断られた。
それだけだった。
「……分かってた、のに……」
小さく呟く。
レイが自分を受け入れてくれるとは限らない。
むしろ、断られる可能性の方が高いと思っていた。
それでも、どこかで期待していたのだ。
もしかしたら。
もしかしたら、彼も同じ気持ちなのではないかと。
けれど、その期待は叶わなかった。
「……レイ君……」
名前を呼ぶと、また涙が溢れた。
彼は、今も自分を「副団長さん」と呼ぶ。
告白した後も、その呼び方は変わらなかった。
それが、今の二人の距離なのだろう。
アスナは、涙を拭った。
少しずつ、呼吸を整える。
苦しい。
悲しい。
できることなら、今すぐ彼のところへ戻って、もう一度気持ちを伝えたい。
けれど、そんなことをしても、彼を困らせるだけだ。
レイは、きちんと答えてくれた。
曖昧な言葉で期待を持たせることもなく、自分の考えを伝えてくれた。
だからこそ、これ以上は求められない。
少なくとも、今は。
「……私、馬鹿ね」
アスナは、涙で濡れた頬を手の甲で拭った。
そして、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
目元は赤くなっていた。
それでも、その瞳には、まだ消えていないものがあった。
諦めたわけではない。
レイが自分を好きになってくれると、簡単に信じられるわけでもない。
彼の気持ちを無視して、無理に振り向かせようとも思わない。
ただ――。
それでも、自分は彼が好きなのだ。
その気持ちは、断られたからといって、簡単に消えるものではなかった。
「……明日も、会えたらいいな」
小さな声で呟く。
自分でも、少しおかしいと思った。
今日、告白して
断られて
こんなに泣いているのに
それでも、明日になれば、きっとまた彼の姿を探してしまう。
会えたら、声をかけるだろう。
そして、いつものように話をするのだろう。
「……ふふっ」
涙が残る顔で、アスナは小さく笑った。
「……ほんと、諦めが悪いんだから」
そう言って、もう一度目元を拭う。
今は、まだ何も変わっていない。
レイは自分を受け入れなかった。
二人の関係も、以前のようには戻っていない。
けれど、自分の気持ちを伝えられたことだけは、後悔していなかった。
いつか。
いつか、また名前で呼んでくれる日が来るだろうか。
以前のように、自然に話せる日が来るだろうか。
そして、いつか。
自分の気持ちが、彼に届く日が来るだろうか。
答えは分からない。
それでも、アスナは歩き出した。
涙を拭い、前を向いて。
明日もまた、レイに会えることを願いながら。
地に腰を下ろさないアスナ。その強さが欲しい