第五十層
街の一角にある飲食店は、昼食を取るプレイヤーたちで賑わっていた。
その窓際の席に、一人の少年が座っている。
黒髪に、鋭い眼差し。
周囲の喧騒など気にも留めず、目の前に置かれた飲み物に口をつけていたのは、レイだった。
「……」
カップをテーブルに戻し、レイは窓の外へ視線を向けた。
昨日の出来事が、頭の片隅に残っていた。
アスナから告白された。
そして、自分はその気持ちを受け入れなかった。
それでも、別れ際には彼女の名前を呼び、フレンド登録まで提案してしまった。
「……我ながら、馬鹿らしいな」
レイは小さく呟いた。
告白を断った以上、これまでどおり距離を置いておく方がいい。
頭では分かっている。
だが、彼女との関係まで以前のように遠ざけたいとは思わなかった。
それに、もう一つ気になっていることがあった。
これまで、街を歩いているとアスナと顔を合わせることが何度もあった。
最初は、本当に偶然だと思っていた。
しかし、昨日の告白を受けてから、別の可能性が頭をよぎるようになった。
もしかすると、彼女は自分を探していたのではないか。
もちろん、確証はない。
ただ、そう考えると、これまでの出来事にも納得がいく。
「……そういうことか」
レイは小さく息を吐いた。
もし本当にアスナが自分を探していたのなら、これからも同じことを繰り返すのだろう。
街を歩き回り、偶然を装って自分を見つけ、声をかけてくる。
それ自体が嫌なわけではない。
むしろ、彼女と話す時間を嫌だと思ったことはなかった。
だからといって、告白を断った自分が、彼女の期待を必要以上に膨らませるようなことをしていいのか。
「……面倒だな」
レイはメニュー画面を開いた。
フレンドリストには、昨日登録したばかりの名前が表示されている。
アスナ
その文字をしばらく見つめたあと、レイはメッセージ画面を開いた。
宛先にアスナを指定する。
そして、文章を打ち込んでいった。
途中で指が止まった。
「…………」
少し考えたあと、レイは再び文章を打ち込む。
何度か読み返し、短く息を吐いた。
「……これでいいか」
送信ボタンを押す。
送信完了の表示を確認すると、レイはメニューを閉じた。
「…………」
レイは再び窓の外へ視線を向けた。
自分から連絡をしたのは、これが初めてだ。
アスナがどんな反応をするのか。
それを考えたところで、レイは小さく首を振った。
「……くだらない」
そう呟き、カップを手に取った。
◇
第五十五層・グランザム
別名「鉄の都」と呼ばれるこの街には、血盟騎士団の本部が置かれている。
その一室で、アスナはようやく今日の執務を終えたところだった。
「……ふぅ。やっと終わった」
書類を整理し、アスナは小さく息を吐いた。
今日は攻略の予定もなく、急ぎの仕事もひと通り片づいている。
これなら、しばらく自由に時間を使えそうだった。
「今日は、どこにいるのかな……」
ぽつりと呟き、アスナは髪を整えた。
昨日、レイと別れてから、彼のことが頭から離れなかった。
久しぶりに名前を呼んでもらえた。
それだけでも嬉しかったのに、彼の方からフレンド登録まで提案してくれたのだ。
思い出すだけで、頬が緩んでしまう。
「……だ、だめ。今日は普通に話すんだから」
自分に言い聞かせるように呟く。
告白を断られたことは、まだ胸の奥に残っている。
けれど、レイは自分との関係を完全に断ち切ろうとしているわけではない。
昨日の出来事を思い返すたび、そんな気がしていた。
だからこそ、焦らずに少しずつ話をしていきたい。
今は、それで十分だった。
そのときだった。
ピピピ
軽やかな通知音が響いた。
「えっ?」
アスナは反射的にメニューを開いた。
メッセージが届いている。
送り主を確認した瞬間、目を見開いた。
「レイ君……!」
思わず声が弾んだ。
フレンド登録をしたのは昨日だ。
だから、メッセージが届くこと自体は不思議ではない。
それでも、レイの方から連絡をくれた。
それが、たまらなく嬉しかった。
アスナは、期待に胸を膨らませながらメッセージを開いた。
そして、最初の一文を読んだ瞬間――
「…………え?」
笑顔が固まった。
そこに書かれていたのは、短い言葉だった。
『もう俺を探すな』
「…………」
アスナの胸が、きゅっと締めつけられた。
画面を見つめたまま、しばらく動けなくなる。
「……そっか」
小さく呟いた声が、かすかに震えた。
昨日、名前を呼んでくれた。
フレンド登録もしてくれた。
だから、もしかしたら。
少しずつ、以前のような関係に戻れるのかもしれない。
そんな期待を抱いていた。
けれど、やっぱり自分は迷惑だったのだろうか。
これまで、レイと会うたびに話しかけていた。
彼は、ずっと我慢していたのだろうか。
「……ごめんね、レイ君」
アスナは小さく呟いた。
けれど、ふと画面の下に、まだ文章が続いていることに気づいた。
「……あれ?」
慌てて続きを読み始める。
『フレンド登録したんだから、これから話したい時は時間を決めて、待ち合わせ場所を決めて合流すればいい』
「…………え?」
アスナは瞬きをした。
もう一度、文章を読み返す。
そして、さらに続きを確認した。
『今、俺は五十層の街にある飲食店にいる。詳しい場所は――』
そこには、店の名前と場所が記されていた。
「…………」
数秒間、アスナは画面を見つめていた。
やがて。
「……っ!」
顔が一気に明るくなった。
「そ、そういうこと……!」
つまり、レイは自分に探し回るなと言っているだけで、会いたくないと言っているわけではない。
これからは、待ち合わせをして会えばいい。
フレンド登録をしたのだから、わざわざ偶然を装う必要もない。
それは、レイ自身が提案してくれたことだった。
「レイ君から……私に……!」
胸の奥から、嬉しさが込み上げてくる。
告白を断られたことは、まだ忘れられない。
それでも、レイは自分とのつながりを断とうとしているわけではなかった。
むしろ、これからも話すために、こうして連絡してくれたのだ。
「……嬉しい」
アスナは頬を押さえながら微笑んだ。
そして、すぐに返信画面を開く。
『今から行くね、レイ君!』
送信
短い文章だったが、今の気持ちは十分に込められていた。
アスナはメニューを閉じると、すぐさま立ち上がった。
「待っててね、レイ君!」
誰もいない部屋でそう告げ、アスナは血盟騎士団の本部を後にした。
その足取りは、いつもよりずっと軽かった。
そして、彼女は気づいていなかった。
自分の顔に浮かんでいる笑みが、どうしても抑えられなくなっていることに。
◇
第五十層の街
レイが指定した飲食店に到着したアスナは、入り口で一度立ち止まった。
「……いた」
窓際の席に、黒髪の少年が座っている。
間違いなく、レイだった。
アスナは胸元にそっと手を当てた。
どきどきする。
最近は街中で偶然見つけたふりをして声をかけていた。
けれど、今日は違う。
レイが自分に連絡をくれて、自分がそこへ会いに来たのだ。
それだけのことなのに、まるで特別な約束を交わしたような気分だった。
「……よし」
小さく頷き、アスナは歩き出した。
「レイ君!」
声をかけると、レイが顔を上げた。
「ああ。来たか」
「うん!」
アスナは笑顔で頷いた。
その顔を見て、レイは一瞬だけ視線を止めた。
――嬉しそうだな。
当然といえば当然だった。
自分から連絡したのだから、来ることは予想していた。
だが、こうして本当に嬉しそうな顔をされると、妙に落ち着かない。
「……座ればいい」
「うん。ありがとう」
アスナはレイの向かい側に座った。
そして、改めて彼を見つめる。
「メッセージ、ありがとう。連絡してくれて嬉しかった」
「……そうか」
レイは短く答えた。
いつものような、素っ気ない返事。
けれど、アスナは気にしなかった。
むしろ、その変わらない態度に安心していた。
「それと……最初の文章、びっくりしたんだから」
「そうか」
「そうか、じゃないよ。『もう俺を探すな』なんて書いてあるんだもの。私、嫌われちゃったのかと思ったんだから……」
最後のほうは、少しだけ声が小さくなった。
レイは黙った。
そして、ほんのわずかに眉を寄せた。
「……あれは、そういう意味じゃない」
「うん。今はちゃんと分かってる」
アスナは微笑んだ。
「これからは、こうして待ち合わせをすればいいんだよね?」
「ああ」
「じゃあ、また誘ってもいい?」
「……話したいなら、連絡すればいい」
その言葉に、アスナの表情がぱっと明るくなった。
「本当?」
「ああ」
「じゃあ、また連絡するね!」
「……好きにしろ」
ぶっきらぼうな返事だった。
けれど、レイはアスナを拒絶していなかった。
それどころか、自分から連絡先を交換し、こうして会うための方法まで提案してくれたのだ。
アスナは、それだけで十分だった。
少なくとも今は、これ以上を望んで困らせたくない。
告白の返事は変わっていない。
レイは、まだ誰かと付き合うつもりはないと言った。
だから、焦らない。
少しずつ話して、少しずつ距離を縮めていけばいい。
「……レイ君」
「何だ?」
「今日は、ゆっくりお話ししようね」
レイは、ほんの少しだけ目を細めた。
「ああ」
その返事を聞いて、アスナは嬉しそうに微笑んだ。
二人はその後、攻略の話や街で見かけたプレイヤーの話など、他愛のない会話を続けた。
レイは相変わらず口数が少なかったが、席を立とうとはしなかった。
アスナも、無理に話題を作ろうとはしなかった。
ただ、同じ場所で向かい合い、言葉を交わす。
それだけで、二人にとっては心地よい時間だった。
やがて、別れの時間が訪れた。
「じゃあ、またな。アスナ」
「うん。またね、レイ君!」
アスナは笑顔で手を振った。
レイが店を出ていく。
その背中を見送りながら、アスナは胸の前で両手を握りしめた。
「……また、会えるんだ」
以前は、偶然出会わなければ話すことさえ難しかった。
けれど今は、連絡をすれば会える。
その変化が、何よりも嬉しかった。
一方、店を出たレイもまた、歩きながら小さく息を吐いていた。
「……悪くないな」
誰にも聞こえない声だった。
自分から連絡して、待ち合わせて、アスナと話す。
こんなことをするつもりはなかった。
それでも、実際に会ってみれば、思いのほか居心地がよかった。
それに、アスナが嬉しそうにしている姿を見ると、連絡してよかったと思ってしまう。
だからこそ、少し困る。
これでは、まるで――。
「……いや」
レイはそこで考えるのをやめた。
◇
それから、数日が過ぎた。
二人の間には、少しずつ新しい習慣が生まれていた。
アスナは以前のように街中を歩き回り、偶然を装ってレイを探すことをしなくなった。
代わりに、メニュー画面を開き、レイにメッセージを送るようになった。
『レイ君、明日の午後は時間ある?』
そんな内容のメールを送ると、しばらくして返信が届く。
『ある。何時だ?』
『午後二時くらいはどうかな?』
『わかった。五十層の広場でいいか』
『うん! 楽しみにしてるね』
『ああ』
短いやり取り。
それでも、アスナはメッセージを読み返しては、つい頬を緩めてしまうのだった。
そして約束の日。
待ち合わせ場所に着いたアスナは、少し離れた場所から歩いてくるレイを見つけると、すぐに笑顔になった。
「レイ君!」
「ああ。待たせたか?」
「ううん、私も今来たところ!」
実際には、アスナは約束の時間より十五分も早く来ていた。
けれど、それを伝えるつもりはない。
「今日はどうするんだ?」
「そうだね……。少し街を歩かない?」
「構わない」
二人は並んで歩き始めた。
以前と同じように、レイは自然とアスナの少し前を歩く。
人混みでは、彼女がぶつからないようにさりげなく位置を変える。
アスナは、その何気ない仕草に気づいていた。
かつて、一緒に街を歩いていた頃と変わらない。
そのことが、胸の奥を温かくした。
「ねえ、レイ君」
「何だ?」
「こうして待ち合わせて会うのって、なんだか新鮮だね」
「ああ。前は偶然会っていたからな」
「うん」
アスナは頷いた。
そして、少しだけ頬を赤くしながら付け加える。
「……私は、今のほうが嬉しいかも」
レイは一瞬、彼女を見た。
「……そうか」
それだけ答えて、視線を前に戻す。
だが、耳元がほんのわずかに熱くなったことには、自分でも気づいていた。
アスナは、そんなレイの横顔をちらりと見た。
何か言いたそうにしているようにも見える。
けれど、結局レイは何も言わなかった。
アスナも、それ以上は尋ねなかった。
二人は街を歩き、気になった店を覗き、時折立ち止まって会話を楽しんだ。
それは、普段の立場など関係なく、二人で過ごせる時間だった。
ただの少年と少女として、同じ時間を過ごす。
そして、別れ際。
「今日はありがとう、レイ君」
「ああ。またな、アスナ」
「うん。またね!」
笑顔で手を振るアスナ。
その姿を見届けてから、レイは静かに歩き出した。
アスナもまた、帰り道を歩きながら、何度も今日のことを思い返していた。
一緒に歩いたこと。
たくさん話せたこと。
レイが以前と変わらない気遣いを見せてくれたこと。
そして、次に会う約束ができること。
どれも、嬉しかった。
けれど、二人とも口にはしなかった。
一緒に街を歩く時間が楽しみだということも。
待ち合わせの時間を、少しだけ心待ちにしていることも。
相手と過ごす時間が、まるでデートのように感じられることも。
レイは、アスナへの想いを胸の奥にしまい込んだまま。
アスナは、レイの気持ちを急かさないようにしながら。
二人は、同じ気持ちを抱いていることを知らないまま、少しずつ距離を縮めていく。
まだ恋人ではない。
告白への返事も、変わってはいない。
それでも、二人にはもう、偶然の出会いを待つ必要はなかった。
会いたいと思った時に、連絡をする。
約束をして、会いに行く。
そして、隣を歩く。
そんな小さな積み重ねが、二人の関係を少しずつ変えていくのだった。
メッセージとメール間違える…