第五十層
街の広場に、二人のプレイヤーがいた。
黒髪の少年、レイ。
そして、栗色の髪を揺らす少女、アスナ。
二人は広場の端にあるベンチに並んで座り、穏やかな時間を過ごしていた。
「それでね、団長がまた攻略会議の資料を増やしたの」
「……大変だな」
「本当に。確認するだけでも結構な時間がかかるんだから」
アスナは小さく息を吐いた。
血盟騎士団の副団長という立場上、攻略以外にもやるべきことは多い。
会議の準備に作戦の確認、団員たちの装備の管理。仕事を挙げればきりがなかった。
それに最近は、騎士団のことで考え込んでしまうことも増えていた。
自分の判断は、本当に正しかったのだろうか。
団員たちは、自分のやり方をどう思っているのだろう。
考え始めると、いくつもの疑問が頭をよぎる。
けれど、アスナはそれをレイに話そうとはしなかった。
せっかくレイと一緒にいるのだ。
今くらいは、仕事のことを忘れていたかった。
「レイ君は、普段何をしているの?」
「レベリングか、装備の手入れ。あとは攻略だな」
「……相変わらずね」
「他にやることもない」
「そんなことないと思うけど」
アスナは少しだけ頬を膨らませた。
「たまには街でゆっくりしたり、こうして誰かと話したりするのもいいでしょう?」
「……今、してるだろ」
「あ……」
アスナは言葉を止めた。
確かに、今はこうしてレイと話している。
それも、レイ自身がメッセージを送ってくれたおかげで。
「……そうだね」
嬉しさを隠すように、アスナは小さく笑った。
レイはそんな彼女を一瞥したが、特に何も言わなかった。
以前なら、会話の途中でレイが立ち去ってしまうこともあった。
けれど、今は違う。
アスナが何かを話せば、レイは短くても返事をする。
時にはレイのほうから質問することもあった。
そんな何気ないやり取りが、今では二人にとって当たり前になりつつあった。
アスナは、その変化を嬉しく思っていた。
告白を断られたときは、もう以前のように会うことすらできなくなるのではないかと思った。
それでも、レイは連絡をくれた。
こうして一緒に過ごす時間も作ってくれた。
だからこそ、焦ってはいけない。
レイの気持ちを優先して、少しずつ距離を縮めていこう。
それが、アスナ自身が決めたことだった。
<そう。彼女は確かに決めたのである。焦らず、急がず、レイの気持ちを第一に考えると>
<……さて、その決意がどこまで持つのか、見ものである>
◇
「そういえば、レイ君って今二十二層に住んでいるのよね?」
ふと思い出したように、アスナが尋ねた。
「ああ」
「レイ君は、どうして二十二層にしたの?」
「静かだからな」
「それだけ?」
「他に理由がいるのか?」
「ううん。レイ君らしいなって思っただけ」
「……そうか」
レイはそれ以上、特に説明するつもりもないらしい。
アスナは少し考え込んだ。
第二十二層。
静かな森。
街から離れた場所。
そして、そこに住むレイ。
ここで、彼女の頭に一つの考えが浮かんだ。
いや、正確には、考えというよりも願望に近いものだった。
――レイ君の近くに住めたら。
そうすれば、もっと気軽に会えるのではないだろうか。
待ち合わせをするにも便利だし、わざわざ遠くまで出向く必要もない。
何より、今よりもレイのそばにいられる。
<待て>
<つい先ほど、焦らず距離を縮めると決意したばかりではなかったか>
<決意から数分。
早くも雲行きが怪しくなってきた>
「……レイ君」
「何だ?」
「ログハウスに住んでいるの?」
「ああ。街から少し離れた場所にな」
「へえ……」
アスナは何気ない顔を装いながら、頭の中で考えを巡らせていた。
そして、ついに決断する。
「……実は、私も二十二層に住んでいるの」
<嘘である>
アスナは現在、第二十二層には住んでいない。
攻略組の副団長を務める彼女は、十分な資金も持っている。
攻略の利便性を考えれば、もっと上の階層に住んでいても何ら不思議ではない。
それなのに、なぜ第二十二層なのか。
答えは簡単。
目の前の少年が、そこに住んでいるからである。
<こんな嘘、誰が信じるというのか>
「そうなのか?」
<いた>
<信じる者が、ここにいたのである>
「うん!」
アスナは満面の笑みで頷いた。
レイは特に疑う様子もなく、あっさりと納得している。
……いいのだろうか。
攻略組の副団長が、わざわざ攻略の拠点から離れた第二十二層に住んでいるというのだ。
少しぐらい疑ってもよさそうなものである。
しかし、レイは他人の私生活にさほど興味がない。
アスナがそう言うのなら、そうなのだろう。
その程度の認識だった。
<レイ。お前はもう少し疑うということを覚えたほうがいい>
<そしてアスナ。君はもう少し罪悪感というものを覚えたほうがいい>
「レイ君もログハウスを買ったんだよね?」
「ああ」
「街から少し離れた場所なんでしょう?」
「そうだな」
「森の近く?」
「ああ」
「景色は綺麗?」
「悪くない」
「そっかぁ……」
アスナは頷きながら、頭の中で第二十二層の地図を思い浮かべた。
森の近く。
街から少し離れた場所。
ログハウス。
条件が揃っている。
これはもう、運命なのではないだろうか。
<違う>
<ただ同じ階層に住んでいるというだけである>
<そもそも、アスナはまだ住んでいない>
……そう。
アスナは、まだ第二十二層に住んでいないのだ。
だが、本人の中ではすでに話が進んでいた。
レイが第二十二層に住んでいる。
ならば、自分もそこに住めばいい。
静かな場所だし、自然も多い。
住環境としても申し分ない。
決して、レイに近づくためだけではない。
……ないったら、ない。
<言い訳が増えてきた>
「……ねえ、レイ君」
「何だ?」
「レイ君の家って、街から歩いてどれくらいなの?」
「しばらく歩くな」
「そっか。じゃあ、森のどの辺りなの?」
「……何でそんなことを聞くんだ?」
「えっ?」
アスナの笑顔が、一瞬だけ固まった。
しまった。
少し踏み込みすぎただろうか。
「え、えっと……参考にしたいなって」
「何の参考だ?」
「その……家を選ぶときの!」
「……そうか」
レイは、それ以上追及しなかった。
<助かった>
アスナは胸を撫で下ろした。
<だが、そもそも家を選ぶための参考など、最初から必要ないのである。彼女はもう、引っ越し先を決めているのだから>
「……アスナ?」
「な、何?」
「さっきから、ずいぶん嬉しそうだな」
「そ、そうかな?」
「ああ」
「えっと……その……」
アスナは慌てて視線を逸らした。
まさか、あなたの近くに引っ越そうと考えています、などと言えるはずもない。
そんなことを言えば、レイがどんな反応をするか分からない。
もしかしたら、迷惑に思われるかもしれない。
せっかく少しずつ距離が縮まっているのに、それでは意味がない。
……と、ここでアスナは一つの事実に気づいた。
自分は今、レイに迷惑をかけないように考えている。
その点は、以前と変わらない。
ただし、距離を縮めるために嘘をついているという点を除けば、である。
<誓いはどこへいったのか>
<レイの気持ちを優先し、急がず、少しずつ距離を縮める>
<あの慎ましい決意は、いったいどこへ消えてしまったのだろうか>
<答えは簡単。レイが第二十二層に住んでいると判明した瞬間、どこかへ吹き飛んだのである>
「……二十二層って、いいところだよね」
「まあな」
「自然も多いし、静かだし」
「ああ」
「それに、ログハウスも素敵だし……」
「……そうだな」
「私も、そういうところに住めて嬉しいな」
<住んでいない>
「……アスナ?」
「な、何?」
「本当に、変な奴だな」
「へ、変じゃないよ!」
「……そうか」
レイは不思議そうに彼女を見たが、それ以上追及することはなかった。
アスナは心の中で、そっと胸を撫で下ろした。
しかし、彼女の嘘はこれで終わりではない。
むしろ、ここからが本番だった。
<この少女、レイとの距離を縮めたい一心で、次々と嘘を積み重ねていくのである>
<もはや、恋する乙女というより、詐欺師の手口に近い>
<……いや、待て>
<他人を騙して不利益を与えるつもりはないのだから、オレンジプレイヤーと呼ぶのはさすがに失礼か>
<ただし、やっていることは、なかなかに大胆である>
◇
◇
「……じゃあ」
レイが、ふと思いついたように口を開いた。
「明日からは、二十二層で待ち合わせだな」
「……え?」
アスナは目を瞬かせた。
「今までは五十層で会っていたが、互いに住んでいる場所が二十二層なら、そのほうが楽だろ」
レイは何でもないことのように言った。
「街の広場でいいか?」
「……うん!」
アスナは、思わず声を弾ませた。
「もちろん! 私も、そのほうが嬉しい!」
<よかったな、アスナ>
<自分から嘘をついた結果、レイのほうから待ち合わせ場所まで提案してくれたのである>
<嘘も方便とは言うが、これは少々都合がよすぎないだろうか>
アスナは嬉しかった。
レイは、ごく自然に明日の話をしている。
明日も会うことを、当たり前のように考えているのだ。
告白を断られたときは、彼とはもう以前のように会えなくなるのではないかと思った。
それなのに今では、連絡を取り合い、待ち合わせをして、次に会う約束までしている。
そして、今日。
レイのほうから、明日も会うことを前提に話してくれた。
「……えへへ」
「……何だ?」
「ううん、何でもない」
アスナは慌てて首を横に振った。
けれど、笑みは隠しきれなかった。
「じゃあ、明日は午後二時でいいか?」
「うん! 大丈夫!」
「わかった」
それだけの会話だった。
けれど、アスナの胸は、どうしようもないほど温かくなっていた。
――明日も、レイ君に会える。
その約束ができたことが、何よりも嬉しかった。
そして、彼女は決意する。
第二十二層に引っ越そう。
できるだけ早く。
レイに怪しまれないように、自然な形で。
<いや、もう十分に怪しいのである>
<ただし、当のレイはまったく気づいていない>
<……この二人、大丈夫なのだろうか>
◇
その後も、二人はしばらく談笑を続けた。
話題は攻略のことから、最近街で見かけた店のことへと移り、気づけば思いのほか時間が過ぎていた。
「……もう、こんな時間か」
レイが空を見上げた。
「本当だ。時間が経つのって早いね」
「そうだな」
「……楽しかった」
アスナは、ぽつりと呟いた。
レイが視線を向ける。
アスナは少しだけ照れたように笑った。
「今日も、レイ君と話せて楽しかったってこと」
「……ああ」
レイは短く答えた。
それから、ゆっくりと立ち上がる。
「じゃあ、また明日な。アスナ」
「うん。また明日、レイ君!」
アスナも立ち上がり、笑顔で手を振った。
レイは軽く片手を上げて、その場を離れていく。
アスナは彼の背中を見送りながら、明日の待ち合わせを思い浮かべていた。
今度からは、第二十二層。
レイが住んでいる層で、彼と会える。
それが、まるで二人だけの秘密の場所を手に入れたように思えて、嬉しかった。
一方、レイもまた、歩きながら静かに考えていた。
明日からは、第二十二層で待ち合わせ。
わざわざ五十層まで出向く必要もなくなる。
合理的な判断だ。
……そういうことにしておこう。
「……」
レイは小さく息を吐いた。
本当は、明日もアスナと話せることが嬉しかった。
だが、それを認めてしまえば、自分がどれほど彼女との時間を楽しみにしているのかまで認めることになりそうだった。
だから、彼は何も言わなかった。
ただ、明日の約束を忘れないように、心の片隅に留めておいた。
◇
それから数日後
第二十二層の街の広場には、二人の姿があった。
「レイ君、お待たせ!」
「いや、今来たところだ」
「本当?」
「ああ」
アスナは安心したように微笑んだ。
「よかった。じゃあ、今日はどこに行こうか?」
「アスナが決めていい」
「えっ、私?」
「ああ」
少し考えたあと、アスナは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、今日は森のほうを散歩しない? この間、景色が綺麗な場所を見つけたの」
「わかった」
二人は並んで歩き出した。
第二十二層の穏やかな風が、木々の葉を揺らしている。
街の喧騒は遠く、聞こえるのは風の音と二人の会話だけだった。
そして、ここで一つ、重要な事実を確認しておこう。
アスナは、レイと同じ第二十二層に引っ越していた。
あの日の会話から、彼女は本当に引っ越しを実行したのである。
<嘘を現実にしてしまった>
<もはや、何も言うまい>
いつの間にか、二人にとって第二十二層の広場は特別な場所になっていた。
待ち合わせをして、顔を合わせる。
少し話してから、街を歩いたり、景色を眺めたりする。
そして、夕方になれば別れる。
それが、二人の日常になりつつあった。
アスナは、レイと過ごす時間を心待ちにしていた。
レイもまた、いつの間にか待ち合わせの時間を意識するようになっていた。
けれど、二人ともその気持ちを口にすることはない。
アスナは、レイに負担をかけたくないから。
レイは、自分の気持ちを認めることが怖いから。
ただし、アスナの場合は、少々事情が異なる。
レイに負担をかけたくない。
だから、焦らずに少しずつ距離を縮める。
その決意自体は、今も変わっていない。
……本人の中では。
<その一方で、彼の住む階層を知った途端、居住地を偽り、実際に引っ越しまで済ませたのである>
<どこが少しずつなのだろうか>
<アスナの恋心は、どうやら本人が思っている以上に強力らしい>
それでも、二人の距離は確かに縮まっていた。
以前より少しだけ自然に。
以前より少しだけ近い距離で。
そして、別れ際には、また明日の約束をするのだった。
恋は盲目?