デスゲーム開始から十日目
アインクラッド第一層のフィールドには、少しずつプレイヤーたちの姿が増え始めていた。
街の中で怯えているだけでは、生き残れない。
装備を整え、レベルを上げ、食料や回復アイテムを確保する。そうして一日でも長く生き延びるため、プレイヤーたちは必死に剣を振るっていた。
その中で、一人だけ異質な存在がいた。
プレイヤー名、レイ。
黒髪の少年は、今日も一人でフィールドを歩いていた。
パーティーは組まない。
誰かと協力するつもりもない。
ただ、目の前に現れたモンスターを倒し、経験値を獲得し、先へ進む。それだけだった。
「……この辺りも、もう狩り尽くしたか」
レイは周囲を見渡す。
十分に戦える相手はまだいるが、同じ場所に留まる意味はない。
少し奥へ進もうとした、そのときだった。
「――っ!」
遠くから、剣がぶつかり合う音が聞こえた。
続いて、モンスターの唸り声。
レイは音のした方向へ視線を向けた。
岩場の向こう。複数のモンスターが、一人のプレイヤーを取り囲んでいる。
その中心にいたのは、見覚えのある少女だった。
栗色の長い髪。
細身の剣を握り、必死に敵の攻撃をさばいている。
アスナだった。
「……またか」
レイは小さく呟いた。
以前にも、彼女が一人でモンスターと戦っているところを見かけたことがある。
腕は悪くない。
むしろ、初心者としては相当に優秀だ。
だが、複数の敵を相手にするとなれば話は別だった。
◇
アスナは一体の攻撃を回避し、素早く反撃する。
剣が閃き、モンスターのHPバーが減少した。
しかし、その隙を狙って別のモンスターが背後から迫る。
「くっ……!」
振り向く時間がない。
アスナは身をひねり、かろうじて攻撃を避けたものの、体勢を崩した。その瞬間、左右から二体のモンスターが同時に襲いかかる。
逃げ場はない。
HPバーも、決して余裕があるとは言えなかった。
(まずい……!)
アスナは歯を食いしばり、剣を構え直す。
ここで倒れるわけにはいかない。
何としてでも生き残る。
そう決意して、迫り来る敵を睨みつけた。
だが――。
キィンッ!
鋭い金属音が響いた。
アスナに迫っていたモンスターの攻撃が、横合いから弾き飛ばされたのだ。
「え……?」
続けて、もう一閃。
一体のモンスターが光の粒子となって砕け散る。
その背後にいた別の個体も、反撃する間もなく斬り伏せられた。
あまりにも速い。
アスナが状況を理解したときには、すでに三体目のモンスターが消滅していた。
そして、彼女の目の前に黒髪の少年が立っていた。
「……レイ君?」
「下がってろ」
短い言葉。
レイはアスナの返事を待たず、残ったモンスターへ向き直った。
敵が一斉に襲いかかる。
レイは最初の一撃を軽くかわし、剣を振るった。
一体目、消滅。
踏み込んできた二体目の攻撃を剣で受け流し、返す刃で斬り上げる。
二体目、消滅。
最後の一体が距離を取ろうとした瞬間、レイの身体が低く沈んだ。
次の瞬間には、敵の懐に入り込んでいる。
一閃
戦闘終了
あれほどアスナを追い詰めていたモンスターたちは、わずかな時間で全滅していた。
レイは剣を収めると、何事もなかったかのように周囲を見渡した。
「……終わったな」
「…………」
アスナは呆然と彼を見つめていた。
まただ。
また、あの人に助けられた。
しかも今回は、明らかに自分一人では危なかった。
その事実が、彼女の胸に複雑な感情を生んでいた。
そして、それ以上に――。
「……あなた」
「何だ?」
「私、前に言ったわよね」
アスナは剣を握り直し、彼を睨んだ。
「放っておいてって」
「言われたな」
レイはあっさりと答えた。
「だったら、なんで?」
思わず声が強くなる。
「どうして助けたのよ。私は一人でやるって言ったでしょ」
レイは少しだけ首を傾げた。
「モンスターを狩ってたら、たまたまお前がいた。それだけだ」
「……は?」
「邪魔だったから倒した。お前を助けるつもりだったわけじゃない」
あまりにも淡々とした説明だった。
アスナは彼の顔をじっと見つめる。
表情に変化はない。
あの日と同じ恩を売ろうとしている様子も、心配していたと訴える様子もなかった。
ただ、本当に偶然そこに居合わせたと言いたげだった。
(……嘘)
アスナは心の中で呟いた。
あれだけの数のモンスターが集まっている場所に、偶然通りかかった?
仮にそうだったとしても、わざわざ危険を冒してまで割って入る必要はない。
自分がどうなろうと関係ない。
以前、あの人はそう言われてもおかしくない態度を取っていた。
それなのに、あの人は助けに来た。
しかも、助けたあとも何も言わない。
(本当に、変な人……)
アスナは胸の奥が、ほんの少しだけくすぐったくなるのを感じた。
自分が危険だったから助けた。
そんな単純な理由ではないのかもしれない。
いや、そもそもあの人は、そんなことを深く考えていないのだろう。
目の前にいたから助けた。それだけ。
不器用で、そっけなくて、説明も足りない。
けれど――。
(……悪い人じゃ、ないのかな)
そこまで考えたところで、アスナは慌てて思考を打ち切った。
何を考えているのだろう。
相手は、たまたま何度か顔を合わせただけのプレイヤーだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
「……そう」
アスナは視線を逸らした。
「別に、助けてほしいなんて頼んでないけど」
「分かってる」
「……でも」
言葉が途切れる。
素直に礼を言えばいい。
それくらい、アスナにも分かっていた。助けてもらったのは事実なのだから。
それなのに、二度目もどうしてか素直になれなかった。
自分の未熟さを見られた恥ずかしさ。
何度も助けられている悔しさ。
そして、胸の奥に生まれた、ほんのわずかな温かさ。
そのすべてが混ざり合って、口から出てきたのは、前回と同じような言葉だった。
「……一応、ありがとう」
レイが彼女を見る。
アスナはすぐに顔を背けた。
「勘違いしないで。次からは自分で何とかするから」
「そうか」
「……本当に分かってるの?」
「何が?」
「もういい!」
アスナは頬をわずかに膨らませた。
レイは不思議そうに彼女を見ていたが、特に追及することもなく歩き始めた。
「じゃあな」
「……待って」
自分でも、なぜ呼び止めたのか分からなかった。
レイが足を止める。
「何だ?」
アスナは少しだけ迷ったあと、彼の背中に向かって尋ねた。
「……いつも、一人で狩りをしてるの?」
「ああ」
「怖くないの?」
レイはしばらく黙っていた。
そして、振り返らないまま答えた。
「何が?」
アスナは言葉を失った。
この世界では、誰もが死を恐れている。
モンスターとの戦闘に怯え、HPバーが減るたびに不安を覚え、いつか自分も消えてしまうのではないかと考えている。
なのに、あの人は。
「……あなた、本当に変わってるわね」
「よく言われる」
「誰に?」
「知らない」
「……はぁ」
アスナは深いため息をついた。
やっぱり、変な人だ。
会話をしているはずなのに、どうにも調子が狂う。
それでも、先ほどまで感じていた苛立ちは、ほんの少しだけ薄れていた。
「……ねえ」
「今度は何だ?」
「次に会っても、勝手に助けたりしないでよ」
レイは一瞬だけ考えるような間を置いた。
「努力する」
「努力じゃなくて、約束して!」
「……分かった」
その返事を聞いて、アスナはなぜか少しだけ不満を覚えた。
本当に助けてほしくないのなら、これでいいはずなのに。
(……何なのよ、もう)
自分でも理解できない感情に、アスナは小さく唇を尖らせた。
レイはそんな彼女の心境など知る由もなく、再び歩き始める。
「じゃあな、アスナ」
「……ええ」
アスナは、今度こそ彼を引き止めなかった。
黒い背中が遠ざかっていく。
その姿を見送りながら、彼女は先ほどの言葉を思い返していた。
――モンスターを狩ってたら、たまたまお前がいた。
本当に、それだけなのだろうか。
「……嘘つき」
誰にも聞こえないほど小さく呟く。
その声には、先ほどまでの刺々しさはなかった。
むしろ、ほんの少しだけ笑みが混じっていた。
すぐにアスナは表情を引き締める。
「……何笑ってるの、私」
頬に手を当て、首を振る。彼はただのソロプレイヤー。
偶然何度か会って、偶然助けられただけ。
そう自分に言い聞かせ、アスナも街へ向かって歩き始めた。
けれど、その日の夜。
宿屋のベッドに横になった彼女の頭には、戦闘中の恐怖よりも、あの人の言葉が何度も浮かんでいた。
そして翌日も、その次の日も。
フィールドで黒髪の少年を見かけるたび、アスナは無意識にその姿を目で追うようになる。
本人は、まだ気づいていなかった。
自分の心が、ほんのわずかに変わり始めていることに。
早く進展させたいからチョロイン気味のアスナ