※本作は独自設定・独自展開を含む二次創作です。原作の設定とは異なる部分や、ご都合主義な展開もありますが、物語上の演出として細かいことは気にせず……まぁ、自分用だしね。
第五十五層
血盟騎士団の本部にある執務室で、アスナは机に向かっていた。
目の前には、攻略会議の資料や団員たちの報告書が積み重なっている。
「……これで最後、かな」
最後の一枚に目を通し、確認を終えたアスナはペンを置いた。
副団長としての仕事は、今日も山積みだった。
攻略に関する情報の整理、次の作戦の確認、団員の装備や消耗品の管理。団長であるヒースクリフとの打ち合わせもある。
面倒だと思うことはあっても、投げ出すつもりはなかった。
自分は血盟騎士団の副団長なのだから。
多くのプレイヤーが命を懸けて攻略に挑んでいる。
その仲間たちを守り、少しでも安全に攻略を進めるためにも、自分の責任は果たさなければならない。
それは、今でも変わらないアスナの信念だった。
「……ふぅ」
一息ついたアスナは、椅子の背もたれに体を預けた。
そして、ふと机の上に視線を落とす。
そこには、先日処理した作戦関係の書類が置かれていた。
それを見た瞬間、アスナの表情がわずかに曇った。
――NPCを囮にする作戦
あの時のことが、今でも頭から離れない。
◇
あの作戦を立案した時、アスナは攻略を成功させることだけを考えていた。
犠牲を減らし、攻略組の仲間たちを守る。
そのためなら、NPCを囮に使うことも仕方がない。
そう考えていた。
もちろん、NPCを傷つけたいと思っていたわけではない。
彼らが人間と同じように笑い、怒り、悲しむことは知っていた。
それでも、ここはゲームの世界だ。
NPCはプログラムによって動く存在であり、プレイヤーとは違う。
無意識のうちに、そう割り切っていたのだ。
けれど、レイと再会し、彼の言葉を聞いた。
そして、第二十二層で出会った母娘が、借金取りに連れていかれそうになっている姿を目の当たりにした。
あの少女が怯えていた顔。
母親が必死に娘を守ろうとしていた姿。
あの光景を見た時、自分が何をしようとしていたのか、初めて本当の意味で理解した。
NPCだから犠牲にしてもいい。
そんな考えが、どれほど身勝手なものだったのか。
自分の作戦が実行されていたら、あの母娘のような存在が犠牲になっていたかもしれない。
そう思うと、今でも胸が痛んだ。
だからこそ、アスナは作戦を変更した。
NPCを犠牲にしない方法を考え直し、時間も手間もかけて、新たな作戦を組み立てた。
そして、攻略は成功した。
結果だけを見れば、問題はなかった。
けれど――
本当に引っかかっているのは、そこではなかった。
◇
どうして、誰も反対しなかったのだろう。
あの作戦を考えたのは、自分だ。
NPCを囮にするという案を提示したのも、自分だった。
それに対して、団員たちはどうしたか。
誰一人として、反対しなかった。
作戦の成功率や攻略組の被害について意見を述べる者はいた。
だが、NPCを囮にすること自体に疑問を呈した者はいなかった。
少なくとも、アスナが覚えている限りでは。
「……前は、こんなこと考えなかったのに」
思わず、そんな言葉が漏れた。
以前の自分なら、団員たちが作戦に賛同してくれたことを、心強いと感じていたはずだ。
同じ目的を持ち、互いに信頼し合い、協力して攻略を進める。
それが血盟騎士団なのだと信じていた。
実際、団員たちには何度も助けられてきた。
彼らの努力も知っている。
仲間を失った悲しみも、次の攻略に挑む恐怖も、決して他人事ではない。
だから、今も彼らを嫌いになったわけではなかった。
それでも、一度気づいてしまうと、以前と同じようには考えられなくなった。
自分が間違った作戦を提示した時、誰かが止めてくれていたら。
「それは違う」と、言ってくれる人がいたら。
自分は、あそこまで間違った考えを正しいものだと思い込まずに済んだのかもしれない。
もちろん、最初に間違えたのは自分だ。
他人に責任を押しつけるつもりはない。
けれど、誰も疑問を持たなかったという事実が、どうしても引っかかっていた。
「……私、何を期待していたんだろう」
アスナは、自嘲するように笑った。
団員たちは、攻略を成功させるために最善を尽くそうとしていたのかもしれない。
NPCを犠牲にすることに抵抗がなかったのかもしれない。
あるいは、副団長である自分の判断を信頼し、あえて異論を唱えなかっただけなのかもしれない。
本当のところはわからない。
彼らの考えを、勝手に決めつけることもできなかった。
それでも、胸の中に生まれた不信感は消えてくれない。
「……このままで、いいのかな」
血盟騎士団に残ること自体が間違っているとは思わない。
自分には副団長としての責任がある。
団員たちを守り、攻略を前に進めるために、やるべきこともたくさんある。
今さら、すべてを放り出すつもりもなかった。
だからこそ、悩んでいた。
このまま副団長として働き続けていいのだろうか。
今までどおり、団長や団員たちを信頼していいのだろうか。
自分が再び間違った判断をした時、今度こそ誰かが止めてくれるのだろうか。
考えれば考えるほど、答えは見つからなかった。
アスナは小さく息を吐いた。
「……仕事、しよう」
今考えても、答えは出ない。
少なくとも、今日やるべきことは残っている。
気持ちを切り替え、アスナは次の書類へ手を伸ばした。
不満があっても、疑問があっても、仕事は仕事だ。
副団長として引き受けた責任を、途中で投げ出すわけにはいかない。
アスナは再びペンを手に取り、報告書の確認を始めた。
◇
しばらくして。
ようやく必要な書類をすべて処理したアスナは、疲れたように肩を回した。
「……終わったぁ」
誰もいない執務室で、思わず声が漏れる。
窓の外を見ると、街は夕方の光に包まれ始めていた。
そろそろ帰ろう。
そう考えたところで、アスナはふと思い出した。
「あっ!」
慌ててメニュー画面を開く。
時刻を確認した瞬間、目を見開いた。
「もう、こんな時間!?」
今日は第二十二層の飲食店で、レイと待ち合わせをしている。
約束の時間まで、あとわずかだった。
「ど、どうしよう! 早く行かないと!」
アスナは慌てて立ち上がった。
つい先ほどまで、血盟騎士団の将来について真剣に悩んでいたというのに。
今では、レイとの待ち合わせのことで頭がいっぱいだった。
「装備は……大丈夫。持ち物も……うん!」
必要なものを確認し、執務室を飛び出す。
廊下を歩く足取りも、自然と速くなっていった。
――レイ君、もう来てるかな。
――待たせちゃったら、どうしよう。
――今日は何を話そう?
次々と考えが浮かんでくる。
そして、気づけば先ほどまでの暗い気持ちは、頭の片隅へと追いやられていた。
「……ふふっ」
歩きながら、アスナは小さく笑った。
少し前まで、あんなに気持ちが沈んでいたのに。
今は、レイに会えることが楽しみで仕方がない。
別に、レイが悩みを解決してくれたわけではない。
血盟騎士団への不信感だって、消えたわけではない。
それなのに、彼と会う時間が近づくだけで、こんなにも気持ちが軽くなる。
「……レイ君って、すごいな」
ぽつりと呟いた。
もちろん、本人には言わない。
言ったところで、きっと「そうか」と返されて終わるだろう。
それでも、アスナは思わずにはいられなかった。
レイ君は、そこにいるだけで私を元気にしてくれる名人なんだ。
「……って、何を考えてるの、私」
自分で考えて、自分で恥ずかしくなった。
誰かに聞かれていたら、顔から火が出ていたかもしれない。
けれど、口元に浮かんだ笑みは消えなかった。
「……馬鹿みたい」
そう呟きながらも、アスナの足取りは軽かった。
血盟騎士団への疑問は、まだ残っている。
いつか、きちんと向き合わなければならない問題だ。
それでも今は、少しだけ考えるのを休んでもいいだろう。
レイと話している間くらいは。
副団長でも、攻略組の一員でもなく、ただのアスナとして過ごしてもいいはずだ。
そう思いながら、アスナは第二十二層へ向かった。
◇
第二十二層
広場に面した小さな飲食店。
窓から夕方の光が差し込む店内で、レイは奥の席に座っていた。
待ち合わせの時間には、まだ少し余裕がある。
テーブルに肘をつくこともなく、背筋を伸ばしたまま、静かに店内を眺めていた。
その姿はいつもどおりだった。
少なくとも、表面上は。
「……」
レイは、ごくわずかに眉を寄せた。
だが、すぐに元の無表情に戻る。
今はまだ、問題ない。
そう判断し、彼は何事もなかったように視線を窓の外へ向けた。
その時、店の入り口から聞き慣れた声がした。
「レイ君!」
顔を上げると、アスナが小走りで近づいてきた。
「ごめんね、待たせちゃった?」
「……いや。今来たところだ」
「そっか。よかった!」
アスナはほっとしたように笑い、レイの向かい側に腰を下ろした。
「今日はここで待ち合わせだったよね。お店、先に決めてくれてありがとう」
「……別に。近かっただけだ」
「それでも、ありがとう」
にこりと笑うアスナに、レイは小さく頷いた。
彼女はメニューを開きながら、今日の仕事について話し始めた。
といっても、血盟騎士団の問題を詳しく語るつもりはなかった。
せっかくレイと会えたのだ。
仕事の話ばかりするのも、少し違う気がした。
「今日はね、書類がすごく多かったんだ。最後の一枚を確認した時には、もう夕方になってて」
「……大変だな」
「うん。でも、全部終わったから大丈夫!」
アスナはそう言って笑った。
レイは彼女の顔を見た。
どこか疲れは見えるが、表情は明るい。
「……無理はするなよ」
「えっ?」
思いがけない言葉に、アスナは目を丸くした。
「……仕事の話だ」
「あ、うん。ありがとう、レイ君」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
たった一言。
それだけなのに、レイが自分を気にかけてくれていることが嬉しかった。
「レイ君は、今日は何をしてたの?」
「……特に何も」
「えー? 本当に?」
「……ああ」
嘘ではない。
少なくとも、アスナに説明するほどのことはしていなかった。
「そっか。レイ君らしいね」
アスナは楽しそうに笑った。
レイは、なぜ彼女がそんなことで嬉しそうにしているのか、いまひとつ理解できなかった。
けれど、わざわざ尋ねることもしない。
二人は飲み物を注文し、しばらく他愛のない会話を続けた。
最近、第二十二層で見つけた店のこと。
街の近くにある森のこと。
攻略組の動きが、ここしばらく少し慌ただしいこと。
そんな話をしながら、時間は穏やかに過ぎていった。
ただし、アスナにはひとつ気になることがあった。
「……レイ君?」
「……何だ?」
「ううん。何でもない」
返事はいつもどおり。
表情も、いつもどおり。
けれど、時折ほんの少しだけ、動きが止まるように見える。
気のせいだろうか。
「……疲れてる?」
「……いや」
「本当に?」
「……問題ない」
そう言われると、それ以上は聞きづらい。
アスナは心配しながらも、無理に問い詰めることはしなかった。
レイにはレイの事情がある。
話したくないことを、無理に聞き出したいわけではなかった。
「そっか。何かあったら言ってね?」
「……ああ」
レイは短く答えた。
そして、心の中でひとつの決断を下した。
――今は、まだ耐えられる。
そう。
まだ、耐えられるはずだった。
◇
ここから先、レイの内心では、状況が大きく変わり始めていた。
先ほどから感じていた違和感は、決して気のせいではなかった。
じわりとした圧迫感が広がっている。
(……来たか)
レイは表情を変えなかった。
(落ち着け。まだ慌てる段階じゃない)
(まずは現状を把握する。今すぐ行動を起こすべきか。それとも、しばらく様子を見るべきか)
頭の中で、冷静に選択肢を並べていく。
ここで軽率な判断を下すのは得策ではない。
行動を起こすなら、周囲の状況を見極め、最も確実な選択肢を選ぶ必要がある。
判断を誤れば、後々取り返しのつかない事態に発展する可能性もある。
冷静さと迅速さ。
その両方が求められていた。
(……焦るな。感情に流されず、状況を正確に把握しろ)
そして、レイは結論にたどり着いた。
(そう、俺はう○こがしたいんだ)
――ただそれだけのことだった。
壮大な作戦会議のような思考の末に導き出された結論は、あまりにも単純だった。
しかし、本人にとっては深刻な問題である。
ここは仮想世界だが、身体の感覚まで完全に無視できるわけではない。
無理を続ければ、いずれ限界が来る。
ならば、早めに席を立ってトイレへ向かうべきだ。
それが最も合理的な判断だった。
(……よし)
レイは、さりげなく周囲を確認した。
店内に不審な気配はない。
通路も空いている。
出口までの距離も問題ない。
あとは、自然な流れで席を立つだけだ。
「レイ君?」
「……何だ?」
「さっきから、ちょっと考え込んでるみたいだけど……本当に大丈夫?」
アスナが心配そうに顔を覗き込んできた。
レイの思考が、一瞬止まった。
(……まずい)
彼女は、自分のわずかな変化に気づいている。
普段なら、少し考え事をしている程度で済ませられる。
しかし、今は違う。
下手に動けば、心配をかける。
理由を聞かれれば、説明に困る。
ここで席を立てば、不自然に思われるかもしれない。
(……いや、待て)
(そもそも、何を気にしている)
(トイレに行くこと自体は、何もおかしくない)
(問題は、それをどう説明するかだ)
そこまで考えたところで、レイは小さく息を吐いた。
「……少し、考え事をしていただけだ」
「そうなの?」
「ああ」
「……なら、いいけど」
アスナはまだ心配そうだったが、それ以上は追及しなかった。
レイは内心で安堵した。
第一波は、ひとまず収まった。
そう判断した、その直後だった。
腹部の違和感が、ゆっくりと強まっていく。
(……っ)
レイの思考が再び切り替わった。
(第二波だと……?)
第一波が収まったからといって、完全に危機が去ったわけではなかったらしい。
(……想定より早い)
(いや、焦るな。まだ選択肢はある)
だが、ここで動けばアスナに不審がられる可能性が高い。
彼女は、先ほどから自分の様子を気にしている。
今、席を立とうとすれば、きっと何かあったのかと尋ねてくるだろう。
その結果、説明に時間がかかる。
時間がかかれば、状況はさらに悪化する。
(……何という悪循環だ)
レイは表情を崩さないまま、飲み物に手を伸ばした。
一口飲む。
そして、静かにカップを戻した。
「レイ君……?」
アスナが不安そうに声をかけてくる。
「……何だ?」
「やっぱり、具合が悪いんじゃない?」
「……別に」
「でも……」
アスナは少し迷ったあと、そっと身を乗り出した。
「熱でもあるのかな。ちょっと、おでこに触ってもいい?」
そして、レイの額へ手を伸ばした。
――その瞬間。
レイは反射的に身を引いた。
「……っ」
伸ばされた手が、空を切る。
アスナは動きを止めた。
「……レイ君?」
「……」
しまった。
レイは内心で舌打ちした。
今の動きは、明らかに不自然だった。
だが、あのまま触れられていたら、意識がそちらに向いてしまう。
身体がびくりと反応すれば、余計なことになる。
今は、少しの刺激すら避けたい。
それなのに、アスナを傷つけてしまった。
彼女は伸ばした手をゆっくりと引っ込め、わずかに目を伏せた。
「……ごめんね。嫌だった?」
その声には、少しだけ寂しさが滲んでいた。
レイは、思わず視線を向けた。
「……違う」
「え?」
「……触られるのが嫌なわけじゃない」
アスナが顔を上げる。
レイは一瞬だけ言葉に詰まった。
どう説明すればいいのか。
彼女を傷つけず、なおかつ今の状況を悪化させない言葉。
そんな都合のいいものが、すぐに見つかるはずもなかった。
それでも、悲しそうな顔をさせたままにはしたくなかった。
「……お前に触れられたら、意識するだろ」
「……え?」
アスナの目が、ぱちりと瞬いた。
一瞬、時間が止まったように感じた。
今、レイ君は何と言ったのだろう。
触れられたら、意識する。
それは、つまり――。
(……私に触れられると、意識しちゃうってこと?)
頬が熱くなる。
ついさっきまで、避けられたことが少し悲しかった。
けれど、今は違う。
レイが自分を意識している。
その事実が、胸の奥をくすぐった。
「そ、そうなんだ……」
アスナは顔を赤くしながら、小さく笑った。
「……知らなかった」
「……そうか」
レイは、それ以上何も言わなかった。
自分の言葉が、アスナにどれほどの影響を与えたのか。
そして、その言葉が新たな問題を引き起こすことになるのか。
この時のレイは、まだ知らなかった。
◇
やがて、二人は飲食店を出た。
夕方の街には、穏やかな光が残っている。
「じゃあ、森のほうを歩こうか」
アスナが笑顔で言った。
「……ああ。構わない」
レイは頷いた。
店内での第二波は、どうにか収まった。
今は、比較的落ち着いている。
このまま歩きながら、自然なタイミングでトイレへ向かえばいい。
そう考えていた。
ところが、アスナの様子が少し変わっていた。
彼女は、先ほどよりもレイの近くを歩いている。
そして、時折、ちらりとこちらを見てくる。
「……何だ?」
「ううん。何でもないよ」
アスナは慌てて前を向いた。
けれど、口元には笑みが浮かんでいる。
(……レイ君、私に触れられると意識するんだ)
先ほどの言葉が、何度も頭の中で繰り返されていた。
(……だったら、少しくらい近づいてもいいよね?)
もちろん、レイを困らせるつもりはない。
ただ、普段はあまり見せてくれない彼の反応を、もう少し見てみたくなったのだ。
アスナは、さりげなく歩く位置を変えた。
その時、道が少し狭くなった。
肩が触れそうな距離。
アスナは、ほんの少しだけレイのほうへ寄った。
「あ、ごめんね、レイ君」
肩が、軽く触れた。
「……ああ」
レイは短く答えた。
表情は変わらない。
だが、内心では別の戦いが始まっていた。
(……まずい)
(予想外の接触だ)
(いや、落ち着け。今の程度なら問題ない)
(姿勢は維持できている。歩行にも支障はない)
(……まだ、対応可能だ)
レイは冷静に状況を分析した。
しかし、アスナはその反応を別の意味で受け取っていた。
(……あれ?)
(思ったより、普通……?)
(もしかして、意識してるのを隠してるのかな)
そう考えると、少しだけ試してみたくなった。
アスナは、今度は歩幅を合わせるように、もう少しだけ近づいた。
手が触れそうになる。
指先が、ほんの一瞬だけかすめた。
「……ごめんね?」
「……別に」
レイは、いつもどおりの声で答えた。
しかし、その内心は穏やかではなかった。
(……やめろ)
(いや、違う。やめてほしいと言いたいわけじゃない)
(今は、予想外の刺激を避けたいだけだ)
(そもそも、俺が意識すると言ったのが原因か)
(……いや、あれは事実だ。嘘をついたわけじゃない)
(だが、今はそういう問題ではない)
思考が堂々巡りを始める。
その時だった。
腹部に、再び強い違和感が走った。
(……っ!)
レイは一瞬、呼吸を止めた。
(第二波が収まったばかりだぞ……!)
(まさか、こんな短時間で……)
第一波。
第二波。
そして、再び訪れる危機。
レイは顔に出さないよう、必死に平静を保った。
「レイ君?」
アスナが不思議そうに覗き込む。
「……何だ?」
「今、少し立ち止まらなかった?」
「……気のせいだ」
「そうかな……?」
アスナは心配そうに顔を覗き込んだ。
レイは、静かに前を向く。
(……ここで立ち止まるのは得策ではない)
(だが、無理に動けば状況が悪化する可能性もある)
(移動を続けるべきか。休憩を提案するべきか)
(……いや、休憩などしている場合ではない)
(しかし、ここで急に離れれば、アスナに不審がられる)
(……どうする)
レイは真剣に考えた。
一方のアスナは、彼が何かを考え込んでいる姿を見て、少しだけ胸を高鳴らせていた。
(……レイ君、さっきから何を考えているんだろう)
(私のこと……だったりするのかな)
そう思うと、嬉しくなってしまう。
「ねえ、レイ君」
「……何だ?」
「少し休んでいかない? 疲れてるなら、無理しなくていいよ」
「……問題ない」
「でも……」
アスナは心配そうにレイを見つめた。
その優しさは、本物だった。
レイの様子がおかしいことに気づいているからこそ、無理をしてほしくなかった。
けれど、レイにとっては、その気遣いすら新たな難題になっていた。
(……休憩か)
(座れば、一時的に楽になる可能性はある)
(だが、その後に立ち上がる時の負担を考慮する必要がある)
(……いや、待て)
(そもそも、俺は何を真剣に検討しているんだ)
(トイレに行けば済む話だろう)
答えは、とうの昔に出ている。
それなのに、なぜか行動に移せない。
アスナを悲しませたくない。
不自然な行動を取って、余計な心配をかけたくない。
そして何より、彼女に自分の現状を知られたくない。
その三つが、レイの判断を鈍らせていた。
(……最悪だ)
レイは心の中で呟いた。
◇
しばらく歩いているうちに、腹部の違和感は少しずつ引いていった。
レイは、ようやく呼吸を整えた。
(……収まったか)
(今度こそ、危機は去った……はずだ)
第一波、第二波、第三波。
その三度を乗り越えたことで、少しだけ余裕が戻ってきた。
(……次こそは、確実に対処する)
(適切なタイミングを見極め、速やかに行動する)
(今なら、まだ間に合う)
そう考えたところで、アスナが嬉しそうに笑った。
「レイ君、今日も一緒に歩けて嬉しいな」
「……そうか」
「うん!」
その笑顔を見て、レイは一瞬だけ気を緩めた。
アスナが楽しそうにしている。
それだけで、彼女を待たせてまで席を立ったり、急に話を切り上げたりすることに、ためらいが生まれてしまう。
(……あと少しだけ)
(このまま、もう少しだけ様子を見よう)
その判断が、正しかったのかどうか。
答えは、すぐに出ることになる。
レイの腹部に、これまでとは明らかに違う感覚が走った。
(……待て)
一瞬、思考が停止する。
(……今のは)
(まさか……)
圧迫感が、先ほどまでの三度とは比べものにならない勢いで押し寄せてきた。
(……第四波だと……?)
レイは、内心で絶句した。
(いや、違う)
(これは、もはや単なる第四波ではない)
(第一波、第二波、第三波とは明らかに規模が違う……!)
(周囲の状況、移動経路、撤退の可能性……すべてを再評価しろ)
(このままでは、これまでの判断がすべて無駄になる)
(落ち着け。まだ打つ手はあるはずだ)
しかし、考えれば考えるほど、状況は悪化していくように感じられた。
そして、レイはひとつの結論にたどり着いた。
(……スタンピードか)
大量のモンスターが一斉に押し寄せ、周囲を蹂躙する現象。
それが今、己の腹部で起きているというのか。
(……最悪だ)
(第一波、第二波、第三波は前兆にすぎなかったというのか)
(この状況で第四波……いや、スタンピードが発生するとは、完全に想定外だ)
レイは、静かに立ち止まった。
アスナも足を止める。
「レイ君?」
「……」
レイは腕を組んだ。
そして、指先を顔の前で合わせる。
周囲から見れば、何か重大な決断を下そうとしているようにしか見えない。
その姿勢のまま、彼は心の中で呟いた。
(……今、サングラスをかけたら、レンズが光る自信がある)
だが、そんなことを考えている場合ではない。
(冷静になれ)
(状況を分析しろ)
(今、最優先すべきことは何だ)
答えは明白だった。
今すぐトイレへ向かうこと。
それ以外にない。
それなのに、隣にはアスナがいる。
しかも、彼女は心配そうに自分を見つめている。
「レイ君……本当に大丈夫?」
「……問題ない」
(問題しかない)
「顔色、悪いよ? やっぱり、どこか具合が悪いんじゃ……」
アスナが一歩近づく。
「少し休もう? ね?」
レイの内心に、再び緊張が走った。
(まずい)
(ここで休憩を提案されるのは想定していなかった)
(いや、想定できたはずだ。アスナは俺の様子を気にしている)
(ならば、もっと早い段階で対処すべきだった)
(……判断が遅れた)
レイは自分の判断ミスを認めざるを得なかった。
戦闘ならば、敵の動きに合わせて次の手を考えることができる。
危険が迫れば、撤退することもできる。
だが、今回は違う。
相手は目に見えない。
攻撃のタイミングも読めない。
しかも、隣にいる少女を悲しませたくないという感情が、判断に余計な影響を与えている。
(……何という難敵だ)
もちろん、敵などいない。
いるのは、心配してくれているアスナと、トイレに行きたい自分だけである。
それでも、レイにとっては、これまで経験したどんな戦闘よりも厄介な局面だった。
◇
「……レイ君」
アスナが、そっと彼の顔を覗き込んだ。
「無理してない? 私に気を遣わなくてもいいんだよ?」
「……別に、気を遣っているわけじゃない」
「でも、さっきからずっと変だよ」
アスナの声には、心配が滲んでいた。
「私、レイ君が具合悪いのに気づかないまま、一緒に歩いてたのかな……」
そう言って、少し悲しそうに目を伏せる。
レイは、思わず言葉に詰まった。
違う。
彼女が悪いわけではない。
何も知らず、ただ心配してくれているだけなのだ。
それなのに、自分が妙な態度を取るせいで、彼女を不安にさせている。
「……アスナ」
「……何?」
「……お前が気にすることじゃない」
「でも……」
「……お前は、何も悪くない」
アスナは顔を上げた。
レイは、彼女を安心させるように、いつもより少しだけはっきりと告げた。
「……ただ、少し考え事をしていただけだ」
もちろん、嘘である。
しかし、アスナを悲しませたくないという気持ちだけは本当だった。
アスナは、しばらくレイを見つめていた。
やがて、ふっと表情を和らげる。
「……そっか」
そして、少しだけ照れくさそうに笑った。
「でも、何かあったら、ちゃんと言ってね?」
「……ああ」
その言葉を聞いて、レイは心の中で静かに息を吐いた。
(……どうにか、誤魔化せたか)
だが、安心するには早かった。
アスナは先ほどのやり取りを思い出したのか、ほんの少しだけレイとの距離を縮めた。
「……ねえ、レイ君」
「……何だ?」
「さっき、私に触れられたら意識するって言ってたよね?」
「……」
レイは、動きを止めた。
(……なぜ今、その話を蒸し返す)
アスナは頬を赤くしながらも、嬉しそうに笑っていた。
「……本当に、そうなの?」
レイは答えに困った。
嘘をつくつもりはない。
けれど、ここで肯定すれば、彼女がさらに近づいてくる可能性がある。
否定すれば、先ほどの発言と矛盾する。
どちらを選んでも、今の状況が改善するとは思えなかった。
(……詰んだか)
レイは、内心でそう結論づけた。
それでも、アスナを悲しませたくはなかった。
「……ああ」
短く答える。
アスナの顔が、ぱっと明るくなった。
「……そっか」
彼女は嬉しそうに笑った。
そして、偶然を装うように、レイの手に自分の手を軽く触れさせた。
「……あ、ごめんね?」
「……別に」
レイは、表情を変えずに答えた。
だが、内心では別の問題が発生していた。
(……頼むから、今だけは大人しくしていてくれ)
(姿勢を崩すな。急な動きをするな)
(……この状況で余計な刺激を受けるわけにはいかない)
アスナは、そんなレイの内心など知る由もない。
彼が平静を装っているように見えることが、かえって嬉しかった。
(……やっぱり、意識してくれてるんだ)
その考えだけで、胸がいっぱいになる。
一方のレイは、第四波という名のスタンピードを前に、最後の理性を総動員していた。
(……落ち着け)
(まだ終わっていない)
(ここで判断を誤れば、取り返しがつかなくなる)
(今こそ、冷静さが必要だ)
腕を組み、指先を顔の前で合わせる。
その姿は、まるで世界の命運を左右する重大な決断を下そうとしている人物のようだった。
(……今、サングラスをかけたら、便座に乗れと言う自信がある)
だが、彼の頭の中にあるのは、壮大な計画でも、世界の未来でもない。
ただひとつ。
(……トイレに行きたい)
それだけだった。
◇
やがて、二人は歩く速度を少し落とした。
アスナは、レイの様子を気にしながらも、無理に問い詰めることはしなかった。
彼が何かを抱えているのなら、いつか話してくれるかもしれない。
そう思ったからだ。
そして、今はこうして一緒に歩けるだけでも嬉しかった。
「レイ君」
「……何だ?」
「今日は、ありがとう」
「……何がだ?」
「ううん。何となく」
アスナは微笑んだ。
「レイ君と話してると、少し元気になれるんだ」
その言葉に、レイはわずかに目を向けた。
「……そうか」
「うん」
アスナは、それ以上説明しなかった。
血盟騎士団への疑問が解決したわけではない。
副団長としての責任も、これから先の悩みも、きっと簡単にはなくならないだろう。
それでも、レイと過ごす時間は、彼女の心を少しだけ軽くしてくれる。
今は、それで十分だった。
「……レイ君、明日も会える?」
何気ない口調を装いながら、アスナは尋ねた。
レイは少しだけ彼女に目を向けた。
「ああ。予定は空いてる」
「……そっか!」
アスナの顔が、ぱっと明るくなった。
明日も会える。
その約束だけで、また少し元気になれた気がした。
レイは、そんな彼女の笑顔を見つめたあと、何も言わずに歩き続けた。
彼自身も、アスナとの時間を楽しんでいることを、まだ素直には認められずにいた。
ただし、ひとつだけ。
(……明日は、先に済ませておこう)
彼は、心の中で固く決意した。
何を、とは考えるまでもない。
二人は今日も、何でもない会話を交わしながら、穏やかな時間を過ごしていく。
アスナは、胸の奥に残る悩みを抱えたまま、それでも明日を楽しみに思うのだった。
そしてレイは、誰にも知られることなく、人生でも指折りの苦境を乗り越えたのだった。
最大の敵は自分自身とはこのことか…
そして立ったまま、あのポーズは…