第22層
約束の時間まで、あと三十分。
アスナは自分のログハウスで、鏡の前に立っていた。
「……よし。装備は問題なし」
白と赤を基調とした愛用の装備を確認し、身につけているものに不備がないかを確かめる。
次に、メニュー画面を開いた。
「回復結晶……よし。ポーション……よし。必要なものは全部あるわね」
持ち物の確認も終わった。
これで準備は万全。
アスナは満足げに頷いた。
「うん。これなら大丈夫!」
そして、何気なく鏡を見た。
そこには、いつもと変わらない自分の顔が映っている。
「…………」
アスナは、じっと自分の顔を見つめた。
それから、口元を少しだけ緩めてみる。
「……うん」
今度は、もう少し自然な笑顔を作ってみた。
「…………」
数秒後
「……って、何やってるの、私!?」
アスナは、はっと我に返った。
「装備も持ち物も確認したけど、笑顔の確認って何!?」
誰もいない部屋に、恥ずかしさに満ちた声が響く。
そもそも、これから会うのはレイだ。
血盟騎士団の団員たちに会うわけでも、攻略会議に出席するわけでもない。
いつものように待ち合わせて、少し話をするだけ。
わざわざ笑顔の練習などする必要はない。
「……普通にしていればいいのよ、普通に」
自分に言い聞かせるように呟く。
ところが
「でも、せっかく会うんだから、機嫌がよさそうに見えたほうがいいわよね……?」
そこまで考えて、アスナは再び鏡を見た。
「……いやいやいや!」
ぶんぶんと首を横に振る。
「だから、笑顔の確認なんて要らないでしょ!」
自分で自分に突っ込みを入れてしまった。
最近、どうにもおかしい。
レイと待ち合わせる日になると、普段なら気にしないようなことまで気になってしまう。
装備に問題はないか。
持ち物は足りているか。
待ち合わせ場所に早く着きすぎないか。
そして、今度は笑顔まで確認していた。
「……はぁ」
アスナは両手で顔を覆った。
「私、何をやってるんだろう……」
けれど、指の隙間から覗く口元は、少しだけ緩んでいた。
レイに会える。
その事実が、どうしようもなく嬉しいのだ。
「……もう。レイ君のせいなんだから」
もちろん、レイには何の責任もない。
それでも、アスナはそう思わずにはいられなかった。
そして、そろそろ出発しようと玄関へ向かう。
扉を開ける直前、もう一度だけ鏡を振り返った。
「……笑顔の確認は、もうしない!」
そう宣言して、アスナは勢いよく外へ出た。
――数秒後
「……やっぱり、変な顔してなかったよね?」
そんな声が、誰もいないログハウスの前に小さく響いた。
◇
第22層・街の広場
レイは、待ち合わせ場所の近くに立っていた。
約束の時間までは、まだ少しある。
特にすることもなく、広場を行き交うプレイヤーたちを眺めていた。
「……」
ふと、メニュー画面を開く。
時刻を確認する。
まだ早い。
「……少し早く来すぎたか」
呟いて、メニューを閉じる。
別に、急いで来る必要はなかった。
待ち合わせの時間に間に合えば、それでいい。
それなのに、気づけば少し早く家を出ていた。
「……まあ、いいか」
レイは気にしないことにした。
そして、ふと思い出す。
――昨日の一件
あの、腹痛との壮絶な戦いを。
「…………」
レイは、わずかに眉を寄せた。
あんな苦境は、二度とごめんだ。
そもそも、待ち合わせの途中であんな事態に陥るなど、考えただけでも最悪である。
だからこそ、今日は万全の準備を整えてきた。
装備よし
持ち物よし
そして――
「……今日の俺に死角はない」
誰にも聞こえないほどの小さな声で、レイは呟いた。
そう
何故なら、トイレを済ませてきたからだ!
昨日と同じ轍は踏まない。
これで、今日の予定を脅かすものは何もない。
レイは小さく頷くと、何事もなかったかのように広場へ視線を戻した。
しばらくして。
「レイ君!」
聞き慣れた声が響いた。
振り返ると、栗色の髪を揺らしながら、アスナがこちらへ歩いてくる。
その表情は、いつもどおり明るかった。
「待たせちゃった?」
「いや。今来たところだ」
「そっか。よかった!」
アスナは安心したように微笑んだ。
レイは彼女の顔を見た。
装備に乱れはない。
特に変わった様子もない。
ただ、いつもより少しだけ嬉しそうに見えた。
「……行くか」
「うん!」
二人は並んで歩き始めた。
今日も、特別な予定があるわけではない。
攻略の話をするつもりもなければ、何か大きな用事があるわけでもない。
ただ、待ち合わせて、一緒に過ごす。
それだけだった。
「そういえば、今日の午前中、街で新しいお店を見つけたの」
「店?」
「うん。料理のお店なんだけど、結構評判がいいみたい」
「……そうか」
「今度、一緒に行ってみない?」
言ってから、アスナは一瞬だけ口を閉じた。
――一緒に行ってみない?
何気なく誘ったつもりだった。
けれど、口にしてみると、なんだか少し特別なことを言ったような気がした。
レイは特に気にした様子もなく答えた。
「ああ。構わない」
「……本当?」
「何で聞き返すんだ?」
「う、ううん! 何でもない!」
アスナは慌てて首を横に振った。
ただ、一緒に店へ行こうと誘っただけ。
レイが了承してくれただけ。
それなのに、どうしてこんなに嬉しくなってしまうのだろう。
アスナは自分でも不思議だった。
「……ふふっ」
「……何だ?」
「何でもないってば」
「そうか」
レイはそれ以上聞かなかった。
アスナは、そんな彼の隣を歩きながら、そっと笑みを浮かべた。
こういう時間が好きだった。
気を遣いすぎる必要もない。
無理に話題を探さなくてもいい。
沈黙が訪れても、不思議と気まずくならない。
以前のレイは、必要以上に他人と関わろうとしなかった。
今も基本的には変わらない。
それでも、アスナと一緒にいる時は、すぐに立ち去ろうとはしなくなった。
話しかければ返事をしてくれる。
誘えば、こうして付き合ってくれる。
そして、別れ際には、また明日と言ってくれる。
その小さな変化が、アスナには何よりも嬉しかった。
◇
しばらく歩いた二人は、街から少し離れた場所にある木陰で足を止めた。
近くにはベンチがあり、周囲には穏やかな風が吹いている。
「ここ、気持ちいいね」
アスナが木々を見上げながら言った。
「ああ。静かだな」
「22層って、こういう場所が多いでしょう? 私、ここに住むことにしてよかったと思ってるの」
「俺もだ」
「レイ君も?」
「ああ。余計な騒音が少ない」
「ふふっ。レイ君らしい理由ね」
アスナは楽しそうに笑った。
二人はベンチに腰を下ろした。
しばらくの間、他愛のない会話が続く。
最近の街の様子
攻略組の動向
アスナが仕事中に経験した、ちょっとした失敗。
レイがそれを聞いて、短く感想を返す。
本当に、何でもない話ばかりだった。
けれど、アスナは楽しかった。
血盟騎士団の副団長として過ごす時間は、気を張ることが多い。
判断を誤れば、仲間の命に関わる。
誰かの期待に応えなければならないこともある。
そんな日々の中で、何も考えずに笑える時間は、思っていた以上に貴重だった。
隣にいるのは、無愛想で、口数が少なくて、時々何を考えているのかわからない少年。
それでも、レイと一緒にいると、不思議と心が落ち着いた。
そして――
「……楽しいな」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
「…………あっ!」
アスナは、はっとした。
慌てて両手で口を押さえる。
――な、何を言ってるの、私!?
わざわざ口に出すつもりなんてなかった。
ただ、内心で思っていただけなのに。
それが、いつの間にか声になっていた。
「ち、違うの! 今のは、その……!」
何が違うのか、自分でもわからない。
楽しいと思ったのは本当だ。
けれど、それをレイに聞かれてしまったことが、急に恥ずかしくなった。
アスナは真っ赤になりながら、口元を押さえたまま俯いた。
レイは、そんな彼女を静かに見ていた。
そして
「……そうだな」
「…………え?」
アスナが顔を上げる。
レイはいつもと変わらない表情で、続けた。
「俺も、楽しい」
「…………っ!」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
今、何と言ったのだろう。
レイも楽しい、と。
自分と一緒に過ごす時間を、楽しいと思ってくれている。
そう言ってくれたのだ。
「……レイ君も?」
「さっきから、そう言ってるだろ」
「そ、そうだけど……!」
アスナの心臓が、急に速くなった。
どくん、どくん、と胸の奥で鼓動が響く。
嬉しかった。
自分だけが楽しいと思っていたわけではなかった。
レイも、同じように感じてくれていた。
たったそれだけのことが、胸いっぱいになるほど嬉しかった。
「…………」
何か言わなければ。
そう思うのに、うまく言葉が出てこない。
顔が熱い。
きっと今、自分はひどく赤くなっている。
「……アスナ?」
「ひゃっ!?」
名前を呼ばれ、アスナは肩を跳ねさせた。
「……どうした?」
「な、何でもない! 何でもないから!」
「……そうか」
レイは少し不思議そうにしながらも、それ以上は追及しなかった。
アスナは胸元に手を当てた。
――落ち着いて、私。
ただ、レイが楽しいと言ってくれただけ。
自分と一緒に過ごす時間を、楽しいと思ってくれていただけ。
それなのに
「……うれしい」
小さく、誰にも聞こえないように呟いた。
しかし、隣に座るレイには、どうやら聞こえていたらしい。
「……何か言ったか?」
「な、何でもない!」
アスナは勢いよく首を横に振った。
レイは少しだけ目を細めたものの、結局それ以上は何も聞かなかった。
そして、二人は再び会話を始めた。
先ほどのことがなかったかのように。
ただ、アスナの胸の鼓動は、しばらくの間、普段の速さには戻らなかった。
◇
やがて、空が少しずつ夕方の色に染まり始めた。
「……そろそろ帰るか」
レイが立ち上がった。
「あ、うん。そうだね」
アスナも立ち上がる。
今日も、楽しい時間はあっという間に過ぎてしまった。
けれど、以前のように、別れが寂しくて仕方がないという気持ちは少しだけ薄れていた。
また会えるからだ。
明日も、待ち合わせをすればいい。
その約束があるだけで、別れ際の気持ちはずいぶん違っていた。
「今日はありがとう、レイ君」
「……別に。俺も楽しかったからな」
「…………っ」
まただ。
また、そんなことを言う。
アスナは嬉しさを隠しきれず、笑顔になった。
「うん! 私も楽しかった!」
レイは、そんな彼女を見てから、いつものように言った。
「じゃあ、また明日な。アスナ」
「……うん! また明日、レイ君!」
二人は手を振り、別々の道へと歩き出した。
少し離れたところで、アスナは一度だけ振り返った。
レイの姿は、もう人混みに紛れかけている。
それでも、胸の中には温かな気持ちが残っていた。
――また明日な、アスナ
名前を呼ばれることは、もう当たり前になっている。
以前のように「副団長さん」と呼ばれることもない。
レイは、自然に自分の名前を呼んでくれるようになった。
それなのに。
「……えへへ」
アスナは、頬を緩めた。
何度聞いても、嬉しい。
何度呼ばれても、胸が温かくなる。
名前を呼ばれるだけで、こんなにも幸せな気持ちになるなんて、以前の自分は知らなかった。
「……本当に、どうしちゃったんだろう」
小さく呟きながらも、笑顔は消えなかった。
今の二人の関係に、まだ特別な名前はない。
けれど、二人で過ごす時間は、確かに増えている。
一緒にいることが、少しずつ自然になってきた。
別れ際には、明日も会う約束をする。
そして今日、レイは自分と過ごす時間を楽しいと言ってくれた。
それだけで、明日も頑張れる気がした。
「……明日も、笑顔で会おう」
そう呟いて、アスナは帰路についた。
◇
その夜
ログハウスに戻ったアスナは、装備を外してひと息ついていた。
今日も一日、いろいろなことがあった。
レイと一緒に街を歩いたこと。
新しい店に誘ったら、すんなり了承してくれたこと。
そして――
『俺も、楽しい』
昼間のレイの言葉が、また頭の中によみがえった。
「…………」
アスナの口元が、自然と緩んだ。
「……えへへ」
思い出すだけで、嬉しくなってしまう。
自分と一緒にいる時間を、レイも楽しいと思ってくれていた。
その事実が、何度考えても胸を温かくしてくれる。
「……もう。何回思い出してるのよ、私」
そう言いながらも、頬の緩みは止まらなかった。
そして、ふと顔を上げる。
目の前には、鏡があった。
「…………」
アスナは、ゆっくりと鏡に近づいた。
そこに映っているのは、いつもの自分。
けれど、今日はいつもより少しだけ表情が柔らかい気がした。
「……明日も会うんだし」
誰に言い訳をしているのか、自分でもわからない。
「変な顔をしてたら、困るものね……」
そう呟いて、口元を少しだけ緩めてみる。
「……うん」
次に、もう少し自然な笑顔を作ってみた。
「…………」
数秒後
「……って、またやってる!?」
アスナは、慌てて鏡から一歩離れた。
「朝、もう確認しないって決めたのに!」
しかも、今は夜だ。
明日の待ち合わせまで、まだ時間がある。
それなのに、わざわざ笑顔を確認してしまった。
「……はぁ。私、本当にどうしちゃったんだろう……」
両手で頬を押さえる。
けれど、鏡の中の自分は、やっぱり嬉しそうに笑っていた。
「……明日も、レイ君に会えるからかな」
小さく呟いた声は、誰もいない部屋に溶けていった。
明日も、きっと楽しい。
また一緒に歩いて、何でもない話をして。
もしかしたら、今日みたいに、嬉しい言葉を聞けるかもしれない。
そんなことを考えるだけで、自然と笑顔になってしまう。
「……もう、寝よう」
そう言って、アスナは鏡に背を向けた。
今度こそ、笑顔の確認は終わり。
……そう決めたはずだった。
けれど、ベッドへ向かう途中で、ふと足を止める。
「…………」
そして、そっと鏡を振り返った。
「……最後に、もう一回だけ」
小さな声が、夜のログハウスに響いた。
どうやら、明日の朝も同じことを繰り返すことになりそうだった。
今日アスナを一番みたのは自分自身