約束の時間まで、あと三十分
アスナは、自分のログハウスにある鏡の前に立っていた。
「…………」
鏡に映る自分の顔を、じっと見つめる。
そして、ゆっくりと口元を緩めた。
「……うん。やっぱり、笑顔の確認は必要よね!」
誰もいない部屋に、妙に自信満々な声が響いた。
「だって、これからレイ君に会うんだもの。せっかくなら、笑顔で会いたいじゃない?」
うんうん、と自分で頷く。
「それに、レイ君だって、私が笑顔だったら……」
そこまで言って、アスナは動きを止めた。
「…………いやいやいや!」
突然、鏡に向かって首を横に振る。
「やっぱり要らないでしょ! 笑顔の確認って何なのよ!」
そう。
昨日も同じことを考えた。
装備を確認して、持ち物を確認して、最後に笑顔まで確認する。
自分でも、何をやっているのかわからない。
そもそも、レイは自分の笑顔を採点するわけではない。
笑顔が少し不自然だったからといって、待ち合わせを中止するような少年でもない。
それなのに、どうして自分はこんなことをしているのだろう。
「……普通でいいのよ、普通で」
アスナは鏡から離れた。
これで終わり。
もう確認しない。
そう決めて、玄関へ向かおうとした。
ところが
数秒後
「…………」
ぴたり。
アスナの足が止まった。
ゆっくりと、鏡のほうを振り返る。
「……でも、やっぱり必要じゃない?」
「…………」
「だって、笑顔で会うのって大事だと思うし……」
誰に言い訳しているのか、自分でもわからない。
アスナは再び鏡の前に立った。
そして、にこっと笑った。
「……うん!」
満足げに頷く。
しかし、すぐに眉を寄せた。
「……あれ? 今の、ちょっと変だったかな?」
もう一度。
にこっ
「……うーん」
もう一度。
にこっ
「……いや、これなら……」
そこで、はっと我に返る。
「だから、何をやってるのよ、私!!」
顔が熱くなった。
誰も見ていない。
誰にも見られていない。
それなのに、猛烈に恥ずかしい。
「……もう、本当にやめよう」
アスナは両手で頬を押さえた。
そして、深呼吸をする。
「よし。今度こそ終わり!」
力強く宣言した。
鏡から離れ、玄関へ向かう。
約束の時間までは、まだ余裕がある。
少し早めに出れば、待ち合わせ場所にも余裕を持って着けるだろう。
そう考えながら、アスナはメニューウィンドウを開いた。
「……ええと、今の時間は……」
時刻を確認する。
まだ時間はある。
ならば、もう少しくらい――
「…………」
アスナは、そっと鏡を見た。
「……最後に、もう一回だけ」
その瞬間、彼女の中で何かが決定的におかしくなった。
◇
それから、三十分が経過した。
「……うん。やっぱり、笑顔は大事よね」
アスナは、まだ鏡の前にいた。
「でも、別に確認する必要は……」
首を傾げる。
「……いや、待って。レイ君に会うんだから、やっぱり確認したほうが……」
にこっ
「…………」
「……違う違う! そうじゃなくて!」
再び首を横に振る。
「普通にしていればいいの! 普通に!」
そう言って鏡から離れる。
しかし、十秒も経たないうちに戻ってきた。
「……でも、さっきの笑顔、変じゃなかったかな?」
にこっ
「……うん?」
少し角度を変える。
にこっ
「……こっちのほうが自然?」
もう一度、正面を向く。
にこっ
「……いやいやいや!!」
アスナは頭を抱えた。
「私、何回同じことを繰り返せば気が済むの!?」
当然、誰も答えてくれない。
部屋にはアスナしかいないのだから。
「……もういい。出かけよう」
ようやく決心したアスナは、玄関へ向かった。
だが、扉の前でまた足を止めた。
「…………」
ゆっくりと振り返る。
鏡は、何も言わずにそこにある。
「……いや、さすがにもういいよね?」
自分に問いかける。
そして、数秒考えた。
「……うん。もういい!」
今度こそ玄関の扉に手をかけた。
ところが。
「あっ、待って!」
また戻った。
「……最後に、本当に最後の確認!」
鏡の前に立つ。
にこっ
「……よし!」
「…………」
「……いや、だから、何でよ!?」
アスナの叫びが、ログハウスの中に響き渡った。
◇
さらに、しばらく時間が過ぎた。
アスナは、ようやく鏡から離れたところだった。
「……もう絶対に確認しない」
疲れ切った声で呟く。
何をしているのだろう、自分は。
レイと待ち合わせをするだけなのに。
笑顔の確認を始めてから、どれだけ時間が経ったのか。
「……あれ?」
ふと、嫌な予感がした。
アスナは慌ててメニューウィンドウを開き、時刻を確認しようとした。
その時だった。
ピピピ
軽やかな通知音が響いた。
「えっ?」
メッセージが届いている。
送り主を確認する。
レイ
「レ、レイ君!?」
アスナは慌ててメッセージを開いた。
そこに書かれていたのは、短い文章だった。
『何かあったか?』
「…………」
アスナは固まった。
そして、恐る恐る時刻を確認する。
「…………え?」
もう一度、確認する。
「…………うそ」
約束の時間から、一時間以上が経過していた。
「…………」
数秒間、アスナは微動だにしなかった。
やがて
「――ええええええっ!?」
ログハウス中に悲鳴が響き渡った。
「うそ、うそ、うそ! 一時間!? もう一時間も過ぎてるの!?」
慌てて時刻を確認する。
間違いない。
約束の時間は、とっくに過ぎていた。
レイは、今頃どうしているだろう。
広場で待っているのだろうか。
それとも、何かあったのではないかと心配しているのだろうか。
「ど、どうしよう……!」
アスナの顔から血の気が引いていく。
今すぐ謝らなければならない。
けれど、何と言えばいいのだろう。
体調が悪かった?
いや、元気そのものだ。
急な仕事が入った?
今日は血盟騎士団の仕事もない。
道に迷った?
第22層の広場なら、何度も待ち合わせている。
どれも無理がある。
そもそも、どうして一時間以上も遅れたのか。
理由は、はっきりしている。
笑顔の確認をしていたから。
「…………」
アスナは両手で顔を覆った。
「……言えるわけないでしょう、そんなこと!」
笑顔の確認に夢中になって、待ち合わせの時間を忘れていた。
16歳にもなって。
血盟騎士団の副団長であり、攻略組でもある自分が。
こんな理由で、レイとの約束をすっぽかしてしまった。
「……私、何やってるのよ……」
恥ずかしい。
とにかく、恥ずかしい。
レイに知られたら、どんな顔をすればいいのだろう。
いや、そもそも正直に話したら、呆れられるのではないだろうか。
「……うぅ」
アスナは唸った。
しかし、レイからのメッセージを無視するわけにはいかない。
彼は、心配して連絡をくれたのだ。
ならば、きちんと返事をしなければ。
アスナは意を決して返信画面を開いた。
『ごめんなさい、レイ君!』
まずは謝罪。
そこまでは、すぐに書けた。
問題は、その先だった。
『ちょっと準備に時間がかかっちゃって……』
そこまで入力し、手が止まる。
「……いや、嘘じゃないけど」
笑顔の確認も、ある意味では準備だ。
しかし、それを説明しなければ、何があったのかわからないだろう。
『実は、急に用事ができて……』
入力して、消す。
『少し体調が悪くて……』
これも消す。
「……駄目。嘘はよくない」
アスナは、深く息を吐いた。
レイに対して、変な嘘はつきたくなかった。
※暴走は無効
それに、こんなところで嘘をついても、後から自分が苦しくなるだけだ。
ならば――
「……もう、正直に言うしかないわよね」
アスナは覚悟を決めた。
そして、震える指で文章を打ち込んでいく。
『本当にごめんなさい。実は……』
そこで、一度手が止まった。
「…………」
顔が熱い。
けれど、ここまで来たら引き返せない。
アスナは目をぎゅっと閉じて、続きを入力した。
『笑顔の確認をしていたら、時間が過ぎてしまいました……』
「…………」
送信ボタンを見つめる。
恥ずかしい。
あまりにも恥ずかしい。
できれば、このままメニューを閉じて、何もなかったことにしたい。
しかし、レイは待っているかもしれない。
アスナは震える指で、送信ボタンを押した。
送信完了
「…………」
そして、両手で顔を覆った。
「……もう、お嫁に行けない……」
誰に向かって言っているのか、自分でもわからなかった。
◇
メッセージを送ってから、数分後。
アスナのもとに返信が届いた。
ピピピ
「ひゃっ!?」
アスナは肩を跳ねさせた。
送り主は、もちろんレイだった。
恐る恐るメッセージを開く。
『……そうか。大丈夫ならいい』
「…………」
短い。
実にレイらしい返信だった。
怒っている様子はない。
少なくとも、文面からはそう感じられなかった。
アスナは、ほっと息を吐いた。
「……よかった」
けれど、安心したのも束の間。
すぐに、別の問題に気づいた。
今日は、もう待ち合わせの時間を大幅に過ぎている。
今から向かっても、レイを待たせることになる。
それに、彼にも予定があるかもしれない。
「……今日は、もう無理だよね」
アスナは、しょんぼりと肩を落とした。
せっかく、今日もレイに会えると思っていたのに。
自分のせいで、その約束を台無しにしてしまった。
「……ごめんね、レイ君」
小さく呟き、再びメニューを開く。
『今日は本当にごめんなさい。もしよかったら、明日、同じ時間に会えないかな?』
今度は迷わず送信した。
すると、すぐに返事が来た。
『ああ。明日でいい』
「……っ」
アスナの胸が、少しだけ温かくなった。
怒らずに、明日に変更してくれた。
それが嬉しかった。
けれど、同時に申し訳なさも込み上げてくる。
「……本当に、ごめんなさい」
今度こそ、絶対に遅れない。
明日は余裕を持って家を出よう。
笑顔の確認なんて、しない。
……いや、確認するとしても、ほんの一回だけ。
「…………」
アスナは、はっとした。
「だから! 笑顔の確認は要らないでしょう!?」
思わず叫んでしまった。
今日、何度目の突っ込みだろう。
自分でも、もうわからない。
◇
それから、少しして。
再びメッセージの通知音が鳴った。
「……え?」
アスナは顔を上げた。
レイからだった。
先ほどのやり取りで、明日の約束は決まったはずだ。
何か、伝え忘れたことでもあるのだろうか。
不思議に思いながら、メッセージを開く。
そこには、短い文章が書かれていた。
『笑顔の確認、可愛いな』
「…………」
アスナの思考が、完全に停止した。
「…………え?」
もう一度、読む。
『笑顔の確認、可愛いな』
「…………っ!?」
顔が、一気に熱くなった。
「な、な、な……!」
声にならない。
レイが。
あの、普段は必要以上に話さず、感情もほとんど表に出さないレイが。
自分の行動を、可愛いと言った。
「…………」
アスナは、メニューウィンドウを見つめたまま固まっていた。
心臓がうるさい。
顔が熱い。
さっきまでの恥ずかしさとは、まったく違う感情が込み上げてくる。
「……レイ君……」
思わず、名前を呼んだ。
誰もいない部屋に、甘い声が響いた。
恥ずかしいことをしてしまった。
約束に一時間以上も遅れてしまった。
結局、今日の待ち合わせは流れてしまった。
それなのに。
最後に届いた一通のメッセージが、すべてをひっくり返してしまった。
「……もう、本当に……」
アスナは頬を押さえた。
「……ずるいよ、レイ君……」
あんなことを言われたら、嬉しくなってしまうに決まっている。
自分の行動を知られて恥ずかしかったはずなのに。
呆れられるのではないかと、不安だったはずなのに。
今では、胸の奥が温かくて仕方がなかった。
「……可愛い、だって……」
もう一度、メッセージを読み返す。
そして
「……えへへ」
笑ってしまった。
今度は、鏡の前で練習した笑顔ではない。
誰かに見せるために作った笑顔でもない。
ただ、嬉しくて、自然にこぼれた笑顔だった。
「……明日は、絶対に遅れないからね」
アスナは、ウィンドウの向こうにいるレイへ語りかけるように呟いた。
「ちゃんと時間どおりに行くから……!」
そして、もう一度だけメッセージを読み返す。
『笑顔の確認、可愛いな』
「…………」
「……やっぱり、笑顔の確認って必要だったのかな?」
数秒後。
「……いやいやいや!! 何でそうなるのよ、私!!」
アスナの悲鳴が、再びログハウスに響き渡った。
結局、その日。
アスナは何度も恥ずかしくなり、何度も笑顔になり、何度も自分に突っ込みを入れることになった。
そして翌日の待ち合わせについて、最後まで一つの問題を解決できなかった。
明日も、笑顔の確認をするべきなのか。
――答えは、まだ出ていない。
気にしてるのは自分だけ